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転載記事***** 「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第319号は、稲村公望先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~第四章 憲法改正敗戦後の日本政府の至上命令は、皇室の存続であった。ポツダム宣言についての日本政府の解釈にしがみついて,それを米国政府に要求することであった。これ以外は大幅に譲歩して,それと引き替えに維持する戦術であった。憲法改正は天皇の大権に変更を加えるもんであるが、マッカーサーは、米国本国から特別指令が届く前に、改憲を促している。9月15日には、東久邇首相に最初の提案があり、10月4日には、近衛文麿に話している。近衛文麿は、内大臣府御用掛に任命され、改憲に着手している。近衛は、陸軍省と国務省の軋轢の犠牲となった。幣原首相は、マッカーサーの提案をけしからんことだとひょうしたが、いやいやながら、内閣に憲法問題調査委員会を設置して松本蒸治を委員長に任命している。幣原内閣で一番強行に反対したのは吉田茂外務大臣であったが、後に、新憲法擁護に回ったので、反対した当時の記録がほとんどなく、いかなる理由で吉田が立場を変えたのかは、戦後史の中での重要な問題点として残っている。憲法改正をせよとの指令であるスウィンク228がワシントンから到着したのは、1946年の1月11日である。マッカーサーは、憲法に反対する「階級」を追放で取り払い、中道政党を創り上げて、自主的に憲法を採択させることを考えていた。戦後最初の総選挙は、憲法改正への人民投票となった。追放は、1946年1月4日のポツダム指令によって行われた。追放は、150万人に書類提出を命じて、21万人を公職から追放したとするが、正確な数字もない杜撰なものである。1月24日、幣原首相は、マッカーサーを訪問した。マッカーサーは、天皇制は日本国民の統一の象徴として維持すること、憲法に戦争を放棄する条項を加えることについて決定している。幣原は、ケロッグ・ブリアン不戦条約のようなものを国際公約として宣言することを話して、マッカーサーは涙を流して賛成したという。翌日、マッカーサーは統合参謀本部に長文の電信を送っている。「天皇に対する犯罪追求の可能性に関して・・調査が行われた。明確で実質的な証拠は全く見いだすことができなかった・・。もし、彼を裁判にかけるとすれば、占領計画に大きな変更が必要になる。したがって、裁判を実施する前に周到な準備を完了すべきである。彼を起訴すれば日本人の間で巨大な動揺が起き、その結果はいかに過大評価してもしきれない。彼は日本国民を統合する象徴である。彼を処刑すれば民族が分解するであろう。殆ど全部の日本人が彼を社会的な元首として尊敬し、その正否はともかく、ポツダム合意は彼を天皇として維持する意図であったと信じている。(これに反する)連合国の合意を彼等は裏切りと解釈するであろう・・・最小限百万の軍隊を無期限に駐留することが必要になるかもしれない。」と書いている。ところが、幣原は、閣内の意見統一ができず、2月1日に松本草案が新聞にすっぱ抜かれ、日本人のだらだらはこれ以上許せないとしたマッカーサーは、2月3日に民政局に草案の起草を命令している。その際の三原則は、国民統一の象徴として維持すること、戦争を放棄すること、華族制度を廃止すること、であった。草案は12日に完成して、13日には、ホイットニー准将(民政局長)、ケージス大佐他二人が吉田外務大臣、松本大臣、白州次郎に草案の受諾を迫っている。4月10日に新憲法に対する人民投票になる総選挙が行われ鳩山一郎の自由党が第1党になるが、直後に追放され、第一次吉田内閣が始まる。帝国議会の最後の第九十議会が6月20日に始まったが、国体明徴運動で追放された美濃部達吉博士は、国体の擁護のために徒手空拳で立ち上がっている。吉田総理は、マッカーサーを代弁して、日本国民の意志にもとずいたものであるとして、第九条については自衛権をも放棄したと述べている。貴族院は10月6日に、衆議院は七日に新憲法を採択している。忠実なる日本人は、天皇陛下を救うために憲法改正を受け入れたのである。第五章戦後の政治運動は、旧政友会の代議士の間で新党運動としてはじまり、その中心人物が鳩山一郎であった。11月には自由党が創設された。軍部の宣伝機関だった民政党は壊滅的だった。戦後初の総選挙で,左旋回をさせるために、徹底的に追放が行われた。共産党と左派社会党だけが日本のリベラルと考えるほどのGHQの過激さであった。1947年の2月1日のゼネストが転回点となり、GHQは共産党を利用していただけであることが明らかになる。マッカーサーは、芦田均を追放せずに、民主党の総裁に据えている。第二回総選挙では社会党が第1党となり、片山哲が首相になる。世はマルクス主義一辺倒で,丸山真男の全盛時代となる。かろうじての自主性は文化と経済だけである。雑誌心がそのひとつであった。1947年3月にトルーマンドクトリンが出され、米国では戦後政策の見直しが始まっていた。ジョージ・マーシャルが国務長官となり、ジョージ・ケナンを初代の国務省政策企画部長に据えた。ケナンが、Xのペンネームで、封じ込め政策についてフォーリンアフェアズ誌に寄稿した記事は有名であるが、力の均衡による政策である。ケナンのいう力とは政治的な力であって、イデオロギーの正反対であった。ケナンは、ルーズベルトと、ニューディーラーのイデオロギーとの決定的な批判者であった。ケナンほど、スウィンク150の4を批判した者はいない。リアリズムの中核にあるものは、主権国家とその背後に或る特殊な歴史に対する厳粛な態度である。ルーズベルトの唱えた最終の平和など求めてはならないとケナンは主張する。マッカーサーと国務省の立場が、ケナンの登場によって逆転した。ケナンは、48年4月に訪日しているが、占領行政の過激さに驚いている。パージを全体主義的と批判している。日本の工場施設が,中国共産党のために、船積みされている実態をこきおろし、日本語と華族制度の無意味な維持繰り回しも批判している。東京裁判についても,続けていることにいらだった反応をしている。東京に着いたケナンと陸軍次官は、マッカーサーと会見して再軍備の話を持ち出したが、マッカーサーは怒りを隠さずに、再軍備反対を主張した。再軍備に反対しながら、日本の早期講和と独立が緊急の課題だと主張した。ケナンは、ソ連が日本を採らなければ済む話で、米国が占領を継続する必要はなかった。例外は沖縄だけだった。ケナンは後に、アメリカはその逆をやったのではないか、アメリカが先に日本をとり、ソ連が朝鮮半島を採ろうとして、朝鮮戦争が始まったと推測している。第六章マッカーサーは逆コースに反対であったとする説があるが、正確ではない。マッカーサーはつまみ食いをしたのである。社会党を擁護する目的があったから、産別潰し、レッドパージを行い、世界が冷戦になり、両極化するにつれて、中道を守る為に社会党を補強しようとした。マッカーサーの憲法には敵が三つあった。ひとつは、ケナンであり、一つは再軍備を要求する統合参謀本部で、もうひとつが、新憲法に反対した「保守反動」の吉田茂であった。第七章マッカーサーの占領政策には一貫性がない。寛容と過激が入り交じっている。天皇処刑に反対して寛大な処置をとるが、パージについては民生局の意見を入れて、大量に追放をしている。吉田は、選挙管理内閣の総理になってはいたが、民政局の吉田いびりは続いていた。1949年2月にロイヤル陸軍長官が訪日してマッカーサーの説得を試みるが、日本非武装化の線を譲ろうとはしなかったどころか、米国が日本を永遠に防衛する義務があると持論を開陳した。二月末にマッカーサーは,日本は東洋のスイスになれと檄を飛ばしているが、これは、統合参謀本部に対するマッカーサーの当てつけの発言であった。 吉田の民自党が倍増して、芦田の民主党は激減、社会党は二桁に転落、共産党は倍増した。マッカーサーは選挙の後で、手のひらを返すように吉田と関係を改善している。第八章 マッカーサーと吉田の妥協マッカーサーにとっては、新憲法を守ることが全ての出発点である。マッカーサーは護憲になるワシントンの指令だけを実施した。マッカーサーの一存で、パージが延長されて、追放された政治家は、講和条約交渉から閉め出された。ニューディーラー達は吉田を虫けらのように嫌っていた。マッカーサーは、講和条約に憲法を書き入れることが最終目的となった。日本が二度と戦争ができないように,ある種の革命史観が働いたかのようである。追放は全て非武装化の名目で行われた。敵は個人ではなく社会構造であった。罪のない人間は追放できないから、超国家主義者、軍国主義者のラベルを貼ることになる。間接統治とは、官僚を温存することになった。主権の全部はマッカーサーにあったから、直接統治を間接統治に見せかけただけであった。占領下の権力の序列は、GHQが頂上で、官僚がその下、一番下に政治家がいたといっても言い過ぎではない。戦後の日本で官僚が強いのは、占領政策で、職業政治家が追放で骨抜きにされて、官僚が戦前の状態で温存されたからである。1949年の選挙で、吉田学校を造り官僚政治家の増産にも手がけている。占領中の日本には民主化はあったが、民主主義はなかった。
2015/01/27
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転載記事**********「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第316号は、稲村公望先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~第二章 スウィンク150の48月14日に、スイス政府を通じて、東京地方の占領を避けることと、日本軍の武装解除は、日本政府の責任で行うことを米国政府に要請している。8月22日には、終戦処理会議を内閣に設けている。米軍に東京にはいらないこと、軍票を発行しないことなどを、要求している。日本政府はマニラのマッカーサー将軍に、上記の要求をする電信を送っているが返事はなかった。占領軍の先遣部隊は、8月28日に厚木に到着して、マッカーサー自身は30日にバターン号という輸送機で到着している。横浜のグランドホテルで、執務を開始しているが、その間に、東条英機元首相を逮捕している。ポツダム宣言の戦争犯罪はジュネーブ条約の戦争犯罪ではないことが判明した。9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ上で降伏文書の調印が行われた。9月3日に重光は、マッカーサーに談判して、直接の軍政を敷くことをあきらめさせている。降伏後初期対日政策が、マッカーサーから日本側に密かに手交されたのが、9月下旬であった。その文書が、スウィンク15-の4と呼ばれる。スウィンクとは、1944年に各省の次官で構成される国務・陸軍・海軍連絡委員会を指す。スウィンク150の4の最も過激なものが、追放―パージであった。アングロサクソンの社会では、人間関係をいじくり回すことをソーシャルエンジニアリングと呼んで忌み嫌うが、それを日本で行うこととしたのである。日本の政治構造を根っこから引き抜いて,社会主義のイデオロギーが入っていて、米国内ではとても実行できないことを、実行しようとした。近年、日米構造協議が通商代表部と商務省で、ごり押しが見られるが、占領に伴うことであるから、実に過激なものである。財務長官のモーゲンソーが主張したドイツの牧場国家への残酷な計画の一部などが盛り込まれていた。一方では、ポツダム宣言を逸脱しているという意見もあった。今になって天皇制を廃止するのは、裏切りになると主張するグルーの配下の日本通もいたし、アチソンのミラー特別補佐官のように、ポツダム宣言が軍隊の無条件降伏を要求したことは認めるが、その後の両政府のノートの交換によって無効となったように見えると述べた者もある。第三章 衝撃と歴史の書き換え重光外務大臣は、横浜のグランドホテルを訪ねて、マッカーサーに軍政をやめるように進言したことは既に述べたが、それから二週間後に、密かに更迭された。重光はA級戦犯として逮捕され巣鴨拘置所に入れられている。マッカーサーに飛ばされとの推測もあるが、モスクワ大使時代にソ連政府の不況を買っていたと言われ、ソ連が戦犯に指名したとの説もある。後任は吉田茂である。9月17日に、皇居の堀端にある第一生命ビルが総司令部として、接収された。吉田外務大臣は、「天皇陛下の訪問をうけますか」とマッカーサーに聞いている。「天皇をエンバラスしたり、ヒュミリエイトする気はない」と吉田外務大臣に述べたのは、貴重な情報となった。スウィンクがその一週間後に伝達されている。それから10日経って、天皇陛下は、米国大使館にマッカーサーを訪問した。これ以降、天皇の無責任説が定着する。戦争責任を認めたりすれば、国務省の追求の手が厳しくなることは火を見るより明らかだった。陛下の責任を否定せざるを得ない理由は、無条件降伏の概念が無茶で、負けた国の戦争責任の指導者は瀬平和に対する罪で戦勝国によって処罰されると言う概念だからである。訪問の翌日、写真を新聞社に配布したが、内務省は検閲で発禁にしたが、GHQはすかさず解除している。占領下の日本は、ポツダム政令と呼ばれるScapin――SCAP Instructionの絶対命令か、GHQの指令で国会がつくった法律で動いた。10月4日には、政治犯の即時釈放、思想警察の全廃、内務大臣と検察首脳の罷免、弾圧法規の撤廃が命令された。内閣は辞職したが、後任は幣原喜重郎で、マッカーサーが選んだ首相である。吉田外務大臣がアグレマンを取りに行っている。10月25日には、バチカンを含む6つの中立国と日本とが外交関係を断絶するよう占領軍は命令した。日本は外交を行う権利を喪失して属国となった。連合軍最高司令官の政治顧問が、駐日大使の役割をして国務省の役人が出向した。グルーは、ドゥーマンを任命するつもりだったが、失脚したために、バーンズ国務長官は,中国通のジョージ・アチソンを任命した。マッカーサーを監視するために東京に派遣したと言われる。10月に、エマーソンとEHノーマンが、直接府中刑務所に出向いて、政治犯16人を釈放している。カナダ人のノーマンは、日本の歴史を専門とする学者であったが、理論をそのまま実践することで、日本共産党の理論である講座派の理論を虎の巻にした。1932年にスターリンが天皇制打倒のテーゼを出し,二段革命論を主張するようになったが、ノーマンは日本叩きの代弁者となった。統合参謀本部のケージス中佐もノーマンの本を聖書のようにしていたし、オーエンラティモアは、ルーズベルトに影響力があり、中国共産党びいきで、日本の降伏直前に天皇断首を唱える過激さであったが、ノーマンの本を虎の巻にしていた。ノーマンの事務所に共産党の幹部は入り浸りとなり、ノーマンは、その情報を下に、A級戦犯の起訴状を書いている。近衛文麿を自殺に追いやったのもノーマンである。共産党幹部は、府中刑務所をでるなり、連合軍は解放軍だと主張している。総司令部はこれを黙認している。生産と経営とを乗っ取らせる生産管理運動を開始したのも総司令部で、共産党の労働組合の連合組織である産別会議を総司令部は奨励した、瞬く間に、組合員が400万人となっている。ノーマンには、後日談があり、朝鮮戦争と冷戦で、統一戦線の世界が逆転して、マッカーシー旋風が吹き荒れるとカナダ人であったノーマンはカナダの駐エジプト大使となっていたが、自殺においこまれることになった。ノーマン著の日本の兵士と農民、と題する本は、岩波書店から日本語に翻訳されて出版されていた。日本語に翻訳した大窪氏は、戦後長い間カナダ大使館の政治顧問であった。マッカーサー将軍には、三つの縦糸があったとされる。その第一は、歴史に名を残そうとする野心である。第二は、米国のManifest Destiny(明示された定め)、つまり、帝国主義的な拡張主義を裏付けるイデオロギーで、フィリピン総督であった父親と自身のフィリピン統治の経験から来るものである。第三は、共和党系の保守主義者であり、ルーズベルトとニューディーラーなどの左翼とは敵対関係にあったことである。戦艦ミズーリ上での降伏調印式の締めくくりに演説をしているが、二期目のリンカーンの就任演説を下敷きにした者と言われ、南北戦争の終結に向かう米国民に、過去の敵に寛大になるよう呼びかけた内容であり、参加した重光外相と加瀬俊一(外務省情報局報道部長)は、これを感知して、宮中に即刻報告している。マッカーサーは、1930年にハーバート・フーバー大統領によって陸軍参謀長に任命されているが、失業した軍人が起こしたデモを催涙弾で鎮圧したことから評判が悪くなり、ルーズベルト大統領と仲違いになる。コレヒドールの孤軍奮戦で一夜で英雄になり、ルーズベルトは、海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーと二本立ての指揮系統にして処遇せざるを得なくなった。マッカーサーは共和党の大統領候補になることを真剣に考えたこともあったほど、ルーズベルトに対立していた。マッカーサーは、マニラにいたときから、天皇陛下を救わなければならないと決意していたとの証言もある。
2015/01/21
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転送記事*****■■ Japan On the Globe(883) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 人物探訪:昭和を走り続けた「宗谷」とその乗組員たち 足も遅く恰好も悪いが、「宗谷」とその乗組員たちは、その時々の使命を実直に果たしてきた。■1.「こんな格好悪い船に乗るのか、、、」 医大を卒業し、海軍の軍医になった並河潔は、昭和19(1944)年に横須賀にやってきた。乗艦する艦名は直前まで分からない。軽巡洋艦「阿武隈」が停泊していたので、これか!と喜んだのもつかの間、命ぜられたのは、その横にいた小型でヘンテコな型の「宗谷」だという。「こんな格好悪い船に乗るのか、、、」 心底がっかりした。 砕氷船型の丸い船底のせいか、ゆれが凄まじい。しかも、石炭で走るため、8ノットしか出ない。乗組員は「四十八ノット」ならぬ「始終八ノット」と評していた。通常の艦隊の速度の半分で、目的地まで倍の日数がかかるため、常に「我艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ズ」と信号を掲げて、船団より先に出発しなければならない。「軍艦」とはほど遠い艦に任ぜられて、落胆するのは「宗谷」乗艦を任ぜられた者が誰でもの事であったが、この落胆が、計り知れない幸運だったと感じるようになるのも、また常であった。 昭和20年6月、「宗谷」は「神津丸」「永観丸」とともに、横浜港で飛行機生産用機材を積み込み、朝鮮の羅津(らしん)港に運ぶべく、岩手県三陸海岸沖を航行していた。すでに日本近海も制空権、制海権ともにアメリカに奪われており、「特攻輸送」とも呼ばれていた。「敵潜水艦を発見!」と「宗谷」から知らせようとした瞬間、轟音とともに大きな水柱が空中につきあがり、「神津丸」が真っ二つに割れて轟沈した。ばらばらになった遺体や船体の一部が浮き上がってきた。再び、轟音がとどろく。「永観丸もやられた!」■2.「これで黄泉(よみ)の国に行っても、『宗谷』に乗れます」「宗谷」は爆雷攻撃を開始。ズンという鈍い爆発音が響く。「成功だ!」見事、敵潜水艦を仕留めた。 すぐに生存者救助のために、「宗谷」からカッターが降ろされた。波間に漂う浮遊物や死体をかき分け、生存者を救出する。並河はたった一人の軍医として、次々に運ばれてくる瀕死の負傷者の救命作業にあたった。一刻を争う、まさに修羅場であった。 自身の手ひとつに、目の前の名も知らぬ兵隊の運命、その親、その妻、その子の運命までが懸かっている。自分は彼らの最後の望みの綱だ。そう思うと、何としてもここで命をつなぎ留めなければならない。その必死の思いで救命にあたった。 この修羅場を乗り切ったことが、並河の医師としての原点となった。戦後、内地に戻って間もなく、財産をはたいて5千円の自転車を購入し、山をいくつも越えて患者の治療に奔走した。その志を教えてくれたのが「宗谷」だった。 医師を引退した時に、寺に頼んで『宗谷院医王潔海居士』と、「宗谷」の入った戒名を貰った。「これで黄泉(よみ)の国に行っても、『宗谷』に乗れます」と並河は言う。■3.「『宗谷』の強運は先人たちの苦労の結晶だったのだ」「宗谷」は昭和13(1938)年2月16日に進水した。川南豊作(かわなみ・とよさく)という青年実業家が、長崎で閉鎖されていた造船所を買収して、初めて竣工した船であった。川南は「会社の金も、自分の金も、国のものである」が口癖で、常に「日本を良くしたい」という報国の志を抱いていた。 また、買収した造船所の前社長・松尾孫八を顧問に迎え入れ、「松尾造船所」と命名して、男泣きに泣かせるような、人情を持っていた。 そうした志と人情の中で建造された「宗谷」は、よほど精魂込めて造られたのだろう、それから30年後に南極観測船として改造された際の監督官・徳永陽一郎はこう語っている。__________ 宗谷を改造するために、ばらして中身が露わになった時、目を見張ることとなった。あまりにも立派に造られており、「宗谷」の強運は先人たちの苦労の結晶だったのだと、そのときはっきり分かった。[1,p147] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄「宗谷」はもともとはソ連からの注文で、砕氷型貨物船として建造された。しかし、進水後もソ連はいろいろ文句をつけて引き取らない。そのうちに、海軍が目をつけて、ソ連と話をつけ、測量艦「宗谷」として使われるようになった。■4.「『宗谷』のように、何があってもくじけずに生きよう」「宗谷」は千島列島や樺太周辺の測量に従事し、また開戦後はサイパンなど南洋での水路調査に活躍した。最前線の南洋で、浅瀬や防潜網、機雷などを正確に記述した海図を作り、艦船の運行を助ける。敵の偵察機も「宗谷」の測量を妨害しようと、爆弾を落としていくこともしばしばだった。 昭和19(1944)年2月、連合艦隊司令部のあるトラック島に停泊していた際に、米軍機延べ450機もの空襲に襲われた。魚雷攻撃や爆弾投下で、目の前の僚艦が次々に撃沈されていく。 一番砲手の八田信男は、仲間と共に敵機を狙い撃つが、傍らの仲間は次々と機銃掃射で斃れていく。甲板は肉片の飛び散る血の海と化した。八田も肩と両足に銃弾を受け、その場に倒れた。「宗谷」は回避行動をとったが、その途中で座礁してしまった。夜を徹して、離礁作業を行ったが動けない。銃弾を撃ち尽くし、身動きもとれない状態で、やむなく「総員退避」の命令が下された。 翌朝、鎮まり返った湾内は見るも無惨な光景だった。沈没した艦船は50隻に達した。しかし「宗谷」だけがポツンと浮かんでいた。自然に離礁して、乗組員を待っていた。「なんてやつなんだ、、、」 乗組員たちは目に涙を浮かべて、狂喜した。 艦の状態を調べてみると、損傷は少なく、航行に支障はない。ただちに負傷者たちを乗せて、内地に向かった。大怪我を負った八田もそのうちの一人だった。 八田は敗戦後も、足の痛みを隠して、必死に働き、小さなスーパーを営むようになった。八田を支えたのは「宗谷」の存在だった。「『宗谷』のように、何があってもくじけずに生きよう」という想いが、八田を支えてきた。下に続く
2015/01/21
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上からの続き■5.「『宗谷』に戻って、引揚輸送をしよう」 中澤松太郎は砲術学校を出て、昭和19(1944)年11月から「宗谷」に乗艦した。その頃、「宗谷」には“不沈船”神話が生まれていた。艦内に祀られている「宗谷神社」のお陰とも言われていた。 しかし、砲術長の萩原左門中尉は「鬼の萩原」とあだ名された「猛者(もさ)」。「そんなものをあてにするな! 信ずべきは日頃の訓練のみである!」と朝晩、訓練に次ぐ訓練で鍛えられた。 冒頭の三陸沖での戦闘でも、いち早く敵潜水艦を見つけたり、爆雷で仕留めたりしているのは、そうした猛訓練の成果だろう。“不沈船”神話の陰には厳しい訓練で鍛え上げた乗組員の技量があった。 終戦後、中澤は郷里の長野県の実家に戻ったが、両親から二人の兄の戦死を告げられた。「兄さんが、、、そんな」と中澤は絶句した。ただ一人残った自分が両親を支えなければならない、と決心した。 9月のある日、ラジオ放送から聞こえてきたのは「宗谷乗組員は浦賀擬装事務所に集合せよ」という放送だった。海外に残っていた邦人は、軍人・民間人あわせて7百万人に上り、その引き揚げのために残存していた海軍艦艇132隻が動員された。「宗谷」はその中の一隻だった。「宗谷」に戻る事は強制ではなかったが、外地に残されたままの人びとの苦しみをよそに自分だけが暖かな床についていることを、二人の兄はどう思うだろう、と中澤は考えた。長い逡巡の末、「『宗谷』に戻って、引揚輸送をしよう」と決心した。老父母の顔をまともに見る事はできないまま、故郷を後にした。■6.「あと少しで内地ではないか」 中澤が「宗谷」に戻ると、狭い船内も、よく揺れる足元も、全てが「我が家」のように思えた。しかし、1ヶ月足らずで、引揚船に仕立てなければならない。 機械類を点検し、多数の引揚者を収容する部屋を作り、食料や毛布などを仕入れる。引揚船となった「宗谷」は、日本中の留守家族の期待を背負って、10月に浦賀から出港した。占領軍の命令で、軍艦旗も日章旗も禁じられていた。 日本近海は米軍の敷設した磁気機雷が無数に浮遊していた。せっかく日本近海まで戻ってきた引揚船が機雷で沈没し、亡くなった人も多くいた。しかし、磁気機雷が国際条約に違反していることから、米軍はその公表を禁じた。 日本近海が安全に航行できるようになるまで、海上保安庁の掃海作業が多くの殉職者をだしながら、7年間続けられた。[a]「宗谷」がフィリピンから1千2百キロほどの西方海上にあるヤップ島に到着すると、駐屯していた陸軍兵士が乗り込んできた。栄養失調のため、戦友の肩を借りて歩く者が多い。デッキに上がった途端に感極まって嗚咽する姿もあった。その光景を見て、中澤はそれまでの苦労が吹き飛ぶ思いだった。 しかし、極度の栄養失調から、米を食べて亡くなってしまう兵士もいた。その遺体を水葬に付すのも中澤たちの仕事だった。 10月24日、水平線上に富士山の姿が見えた。「富士山だぞー!」と船内はどよめいた。その瞬間に甲板上に倒れた兵士がいた。中澤は「おい!しっかりしろ!」と抱き起こしたが、すでに事切れていた。「あと少しで内地ではないか」 中澤は悔しくてたまらなかった。「宗谷」の引揚任務は、グアム島、トラック島、上海、台湾、ベトナム、樺太、北朝鮮などに及び、3年間で約1万9千人の人々を祖国に迎え入れた。■7.「海のサンタクロース」から南極観測船へ「宗谷」は昭和25(1950)年からは、創設されたばかりの海上保安庁に移籍し、灯台補給船となった。人里離れた岬などで暮らす灯台守りの一家に、火を灯す燃料や機材、暖房用の石炭、日用雑貨などを運ぶ仕事である。 遊ぶ相手もいない子どもたち向けの絵本やおもちゃも積んであり、家族揃って、その日の夕食は船でご馳走になる。毎年1回やってくる「宗谷」は「海のサンタクロース」だった。 昭和30(1955)年、「宗谷」は南極に赴く事になった。その年9月にブリュッセルで開催された第2回「南極会議」で、日本は南極観測計画に加わりたい、と手を挙げたのである。 戦前から我が国は白瀬探検隊による実績を持っていたが、戦争中の恨みを抱くイギリスやオーストラリアから「日本は、まだ国際社会に復帰する資格などない」という発言があった。それを跳ね返しての参加である。松村謙三文部大臣も「戦争に敗れ、意気消沈している時、こういうことをやらねばだめだ!」と後押しした。「宗谷」を南極観測船に大改造するには多額の費用がかかったが、朝日新聞社が1億円を寄付すると共に、広く国民に募金を呼びかけ、小中学学生も参加して、1億45百万円もの募金が集まった。「宗谷」の船出を見送った鳥居辰次郎・元海上保安庁長官は、『宗谷の思い出』でこう述べている。__________ (「宗谷」は)その当時敗戦に打ちひしがれた無残な日本を甦らせ、一般国民、殊に青少年を鼓舞し、新生日本に立ち上がらせた精神高揚に、どれだけ貢献したことか[1,p154] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■8.「海の守り神」から最後のご奉公へ「宗谷」は昭和37(1962)年、第6次南極観測から帰国して、観測船としての使命を終えた。すでに国民的な存在となっており、しかも船齢26年となっていたが、すぐに次の任務が与えられた。北海道配備の巡視船として、流氷に閉じ込められた漁船などを救う任務である。 昭和45(1970)年3月16日には、択捉島近辺で操業していた漁船19隻が流氷群に閉じ込められた。11隻はなんとか脱出したが、7隻は巨大な流氷に前進を阻まれ、風速30メートルの猛吹雪の中で2隻が転覆、5隻の乗組員は流氷を伝って、択捉島に脱出した。 この時に助けられた84名の生存者の一人はこう語っている。__________ 迎えの船がいつ来るのか不安だった。だから「宗谷」が来ることを知らされたときの喜びは大変なものだった。厚い氷をばりばり割って進んでくる大きな姿をみたとき、思わずジーンとなった。 釧路に入港するまでわずか1日の乗船だったが、すぐに入れてもらった熱い風呂と炊きたての御飯のうまさ。なによりも乗組員の心のこもったねぎらいを今日も忘れない。[1,p158] ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 北方巡視船として、「宗谷」は16年間活躍し、救助した船は125隻、人数は約1千人に及んだ。いつしか「宗谷」は「海の守り神」と呼ばれるようになっていた。 昭和53(1978)年、船齢40歳に達した「宗谷」は巡視船の役目を終えた。最後の「サヨナラ航海」で14の港を回ったが、全国で総計11万人の人々が見送りにやってきた。当初はスクラップ化される予定だったが、全国から「宗谷」を永久保存しようとの声があがり、11の自治体から陳情があった。 今、「宗谷」は東京お台場の「船の科学館」で見学者を受け入れている。「宗谷」を見て、海洋大国としての日本の未来を開こうという志を抱く青少年も少なくないであろう。「宗谷」最後の使命である。(文責:伊勢雅臣)
2015/01/21
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転載記事です。*****「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第312号は、稲村公望先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~第一章 無条件降伏の戦争指導憲法を含めて戦後政治の体制の大枠は、米国の日本占領中につくられた。サンフランシスコで講和条約が締結され、その占領中につくられた枠組の修正が試みられたが失敗した。占領中に米国によってつくられた制度などが、日本自身が選びとった制度のようになっていった。日本の現在の制度の根幹は、占領時期に求められるので、占領期のいわゆる改革がどういうものであったかを理解することが必要であり、また、その占領の背後にあった米国の戦争指導方針を理解することが必須の条件である。米国の戦争指導方針は、一言で言えば、フランクリン・ルーズベルトが編み出した無条件降伏であった。国家による無条件降伏と言う概念は、第二次世界大戦で初めて生まれた概念であるが、核兵器の時代になって、核兵器保有国を無条件降伏に追い込むことができなくなって、その無意味さが露呈した。ゴルバチョフのソ連がいかに弱体化しても、核保有国であるから、ブッシュ大統領も手をこまねいて見ている以外に手立てはなかったのであるが、日本は、たった一回の実験に使われることになった。ルーズベルト大統領の無条件降伏という戦争指導は、ウィルソン主義の失敗を避けるために修正したものである。ウィルソン大統領は、米国世論を第一次世界大戦で参戦にまで盛り上げながら、権力政治むき出しの講和会議となり、米国民の失望をかい、孤立主義に走ってしまったことである。また、ウィルソン大統領は、米国の指導力を発揮しようとせず、負けたドイツにも涵養であったことだ。ウィルソン大統領の下で、フランクリン・ルーズベルトは、海軍次官をしているが、ウィルソンの理想を達成するには、パワーという牙が必要であるということであった。ルーズベルトの信条は、パワーとは世論の団結から生まれ、世論が一枚岩になればできないことはないというのが,野心家ルーズベルトの信条であった。民主主義国家の戦意を鼓舞するには、善と悪との戦いに仕上げて、悪の権化を粉砕して、戦後処理の過程で徹底的に処罰して,将来の見せしめにする。そのために発案されたのが、無条件降伏であった。一枚岩になった世論を梃子にして、国際連合、自由貿易、ブレトン・ウッズ体制などを想定していた。ずば抜けて強い通貨としてのドルが必要で、米国なしでは機能しない世界新秩序をルーズベルトはつくろうとしたのである。ずば抜けて強い保安官の役割を担った。無条件降伏の概念を最初に発表したのは、1943年にチャーチルとカサブランカで会談したときである。軍隊の無条件降伏の概念はあったが、国家の無条件降伏はなかった。無条件降伏を要求すれば、負け戦の側が徹底抗戦をして、先頭が長引くことになることも予想され、ヤルタ会談でチャーチルが口に出したとされるが、ルーズベルトは、膾炙しなかった。もちろん東郷参謀本部の軍人には理解できることであった。硫黄島では、守備隊2万三千人が二百人を残して玉砕したが、米軍の死傷者も二万三千人であった。軍隊では、戦闘能力がなくなることを1とするから、互角の戦いであった。統合参謀本部のマーシャル議長は毒ガスの使用を考えるが、ルーズベルトは、4月12日に死亡するまで、無条件降伏の修正を一切考えていない。日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。「原爆もソ連の参戦もなかったポツダムにおいてより、なぜわれわれが、ソフトピースの方に更に行かなければならないのか」と、バーンズ長官が言葉を残している。8月6日に、広島に原爆が投下され,その二日後にソ連が宣戦布告をして、長崎に原爆が投下される。8月10日付けで、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」と回答する。ポツダム宣言受諾に軍配をあげられたご聖断の結果である。この回答に対して、「降伏の瞬間から,天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」「最終的な日本政府の形態は,ポツダム宣言に従って,日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答してきた。12日に日本に到着して、従属とは何かが議論になったが、14日には、天皇陛下は、御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。天皇陛下の介入のみが戦争を終結できた。日本の皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしておらず、法律的には、存続も廃止も両方可能であった。宣言は、皇室を廃止すると脅しをかけて武装解除と占領改革を推進することを可能にしたのである。降伏後の交渉で確保されたのであり、日本陸軍のポツダム宣言に対する不信は正しかったのである。
2015/01/16
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転載記事です。********** 「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第314号は、福住蟷螂先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~日本の国柄(くにがら) 第47号 福住蟷螂 国権の最高機関である国会が自分たちに課された義務を実行し、話し合いをしていたら、平成23年の原発事故は起きなかったはずです。 吉井英勝議員が委員会で「津波で原発の外部電源が失われると事故になると想定される。 対策を講じるべきだ」と発言しました。委員たちは「それは大変だ」ということになるはずです。 率直に話し合えば対策を講じるように意見がまとまります。 その対策については、地震がいつ来るか分からないから、直ちに実行せよ、ということになります。 近々大地震がくるとは言えないから、その内でいいと考えたら、無能力な人です。 危機管理の基本を理解していないから、国会議員失格です。 政府と原子力安全・保安委員会、東京電力を動かし、直ちに工事に掛かるはずです。 弱小政党である共産党の主張でも、その内容を吟味してみれば、重要な問題点であることが理解できて、国政に生かせるのです。 なぜ、こうならなかったのでしょう。 以下述べるように、日本が民主主義国家ではないからです。 恥ずかしいことです。 小室直樹氏は民主主義の必要条件を、「議会政治が機能することです。 議会において言論の自由が保障され、そこで自由な議論が交わされる。 そのプロセスを経て、法律や予算が決まる」(『日本人のための憲法原論』)ことであると述べています。これは常識です。 ところが、与党も野党も「自由な議論」を極力避けようとしているように見えます。 国会で議論を闘わせません。多くの野党が反対のための反対だけしています。 そして、与党の議案が採決されそうになると、審議拒否をして議会に出て来ません。 かつて野党は、“牛歩戦術”で投票を長引かせようとしました。 あるいは、議長を取り巻いて大声を上げ、あるいはマイクを取り上げ議事妨害をしました。 与野党入り乱れての乱闘になったこともあります。 与党は、与党から出ている議長と示し合わせて“強行採決”します。 つまり、日本の国会は、小室氏の言う「民主主義の必要条件」を充たしていないのです。
2015/01/16
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転載記事******「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第308号は、日本政策研究センター 代表 伊藤哲夫先生です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 朝日新聞の慰安婦報道に関わる「第三者委員会」の検証報告が出た。 充分な時間がとれず、ざっとしか読めていないが、とりあえず印象に残ったことを記したい。 「第三者委員会」とはいえ、朝日が任命した委員である。一読しての印象は「やはりこんなところか」というものだった。 批判はあるが、責任には蓋だからだ。 とはいえ、注目したところもあった。 朝日報道が国際社会に与えた影響に関わる部分での波多野澄雄氏の分析と、 個別意見の部分での同氏と岡本行夫氏、北岡伸一氏による問題指摘である。 ただ、後者は他紙にもそれなりに紹介されていたので、ここではとりわけ前者の波多野氏の指摘を紹介してみたい。 波多野氏がまず朝日報道の影響として指摘するのが、92年1月11日の「慰安所 軍関与示す資料」と題した記事である。 これは「韓国世論を(問題の)真相究明、謝罪、賠償という方向に一挙に向かわせる効果をもった」と氏は分析する。 むろん、これは「強制連行」を指摘した記事ではなかった。 しかし、韓国紙には「日本政府関与決定的な証拠」と「強制連行」に関与したかのごとく報道され、更には女子挺身隊強制連行、 そしてその中には「小学生までも」という報道にもなっていったとする。 むろん、朝日としてはそれを間違いだと否定することもできた。 にもかかわらず、むしろこれを「小学生まで慰安婦に……」とそのまま報ずるとともに、 「国民の対日感情が急速に悪化している」と他人事のように報じた、とするのである。 これは当然、その直後の宮沢首相の訪韓に大きな影響を与えた。 これについて波多野氏は「(11日のスクープ記事は)宮沢訪韓に向けた一定の政治的意図が働いていた、 と指摘されても否定できない」と指摘している。つまり、朝日が仕掛けたとするのだ。 いわゆる「強制連行」の問題については、朝日はいつの間にかそれを「狭義の強制」という言葉にすり替え、 問題は「広義の強制」だといういい方に転じたが、これについて波多野氏は、 朝日は当初は明確な「狭義の強制」論だったとし、それが焦点であるとの報道を続けていた、とする。 これは朝日としては触れてほしくない点であったはずだ。 ところで、波多野氏の問題指摘の中で、筆者がよくぞ指摘してくれた、 と評価したのはクマラスワミ報告と女性戦犯法廷に対する、朝日の「突出した」報道ぶりであった。 まず前者については、朝日の立場は「全面的な賛意」を表明するもので、日本政府を批判するものが多かった、とする。 ならば今、朝日はこの間違いだらけの報告をどう位置づけるのか。 と同時に、これに朝日が影響するところは本当になかったのか、これもまた本来は明らかにすべき論点だったはずだが、 これについては指摘はない。残念なところだ。 後者については、朝日報道の主催者への密着ぶりを指摘しているが、同社説は「人権や人道についての国際社会の意識は、 女性たちの声を受けて少しずつ広がり、深まってきた」とした上で、 「『女性法廷』の試みは、その流れをさらに確かなものとするために、 東京から世界に発信した問題提起と受け止めたい」とまで書いた、と指摘している。 最後の「個別意見」で、岡本、北岡、波多野の3氏は、 朝日報道を 「事実に角度をつける」 「火のないところに煙を立てる」 「キャンペーン体質過剰」「過剰な正義の追求」 「被害者の立場に過剰に寄り添う取材対象の選択」 「運動体と一緒」 「『人権派』の一握りの記者が報道の先頭」……等々と性格づけたが、まさにこのような報道が、 この慰安婦問題に関し、なされたということでもあろう。 いずれにしても、朝日報道の問題追求はこれで終わりにするわけにはいかない、ということでもある。
2015/01/08
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転載******** 「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」です。 第307号は、稲村公望先生です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~政府・日銀が、バブル景気の過熱をハードランディングで切り捨てた結果、未曾有の不景気におちいってしまったが、以来、日本は衰退の坂を転げ落ちるかのようになった。当時の自民党政権は、外圧がないと意思決定ができない思考停止状況に陥っており、米国のクリントン政権は、しびれを切らしていた。政府は憲法を盾にとって自衛隊の海外派兵を拒否して、その代わりに巨額の御用金を支払った。湾岸戦争はその典型的な事例であったが、巨額の軍事費用を負担したにもかかわらず、何の評価もされなかった。そもそも、バブル自体が、日本の無策によって発生したものであった。1987年に、ウォール街でブラックマンデーと呼ばれる株の大暴落が起きて、流動性の危機が発生して資金繰りが困難となり、そこで米国側は、日本に資金注入を求めた。竹下内閣はこれに応じて、日銀の公定歩合を就任時の2.5%に据え置いて、日本からのカネ、ジャパンマネーが高金利を求めてウォール街に還流するように仕向けたのである。要すれば、これが自衛隊の海外派兵を拒否した代償であった。自分の国の大損をしてまでも、米国の経済を救わなければならなかったのは、安全保障の面で借りがあったからである。バブル崩壊後の1998年の年初に「第二の敗戦」という言葉が流行した。文藝評論家の江藤淳氏が、文藝春秋に書いた記事の題名であった。当時は、この第二の敗戦の意味するものは、一般的には経済的に競争に負けたとするものであったが、今から考えると、江藤氏の言う第二の敗戦は、そんなものではなく、日米問題、沖縄米軍基地を巡る日米関係論に係わる外交と安全保障に係わる問題で、米国に負けたことであった。日本は、冷戦終結と同時に新しい可能性、つまり、対米独立、自主防衛の可能性があったにもかかわらず、第二の敗戦となったと、江藤淳氏は指摘したのだ。冷戦終結後、自民党長期単独政権が終焉して、細川非自民連立政権が成立するが、それも内部から崩壊して,今度は自民党主導の「自社さ」連立政権・村山政権が誕生する。その後、期待されつつ成立した自民党中心の橋本内閣だったが、平成8年4月「橋本・クリントン会談」で「日米防衛協力指針」、いわゆるガイドラインが取り決められた。クリントン政権は、怒鳴りだしたのである。江藤淳は、これを第二の敗戦とした。何故なら、このガイドラインは、対米自立、自主防衛の可能性を探るというよりも、むしろ逆に米国の軍隊への依存を更に拡大するものであったからである。後方支援活動に、民間能力を活用することを含めて、日本の軍事的な空間が全面的にアメリカの軍事力の空間に組み込まれたことになってしまった。在日米軍が固定化されるどころか拡大してしまった。これが、第二の敗戦であったと江藤淳氏は、論じたのである。もう想像できることであるが、沖縄の米軍基地海外移転論は、江藤淳氏の第二の敗戦論の延長線上にある。政権交代によって、米国の軍事力の影響を低下させて、自主防衛、日本独立を目指す絶好のタイミングとして捉えられたが、鳩山由紀夫首相は、自らが登用した外務大臣と防衛大臣に裏切られて、自滅するが、その際に、民主党の幹事長の小沢一郎を道連れにして政権を投げ出した。江藤にしても、鳩山にしても小沢にしても、反米主義者ではない。むしろ親米派の系譜にあり、江藤淳には、プリンストン大学に留学したときの記録を「アメリカと私」と題して出版しているが、それを見る限り、反米の要素はない。小沢も、ジョン万次郎の会を主催しており、憲政記念館における集会でも、星条旗をバックにして演説をするなど、湾岸戦争当時においても、米国の軍事費の巨額の負担を難なく受け入れるなど、決して対立的な反米の要素はなかった。鳩山由紀夫議員に至っては、スタンフォード大学への米国留学の経験があり、生活様式などみるとアメリカ文化への憧れすら感じられる風である。しかし、冷戦が終わり、米国は、空前絶後の超大国になった頃から、憲法改正と日本の独立を求める政治家を排除するようになった。親米派で米国文化を理解を示しても、むしろ、植民地主義的な従米を要求するようになり、日本国家の独立と国家主権のいかんにかかわらず、米軍基地を日本国内に維持しようとする帝国主義の色彩を強めた。そうしたなかで、江藤淳氏や、小沢一郎議員は、反米主義者や、裏切り者に仕立て上げられていったのではないだろうか。小沢一郎議員が検察やマスコミに狙われた、その背後には、米国の一部勢力が見え隠れする。 第二の敗戦の原因は、直接には、日本国の尊厳を冒しかねない憲法の存在である。国防をおろそかにする国は独立国としては存在できないのであるが、日本は平和憲法を盾に取って、アメリカの安全保障にただ乗りすることによって、「経済大国」の反映を勝ち取ったので、平和憲法が国家を興隆させたという、根拠のない神話ができてしまった。ところが,真実の姿は、日本が独立したとは表面のことで、米国が日本を支えて国家機能を維持することができたが、ソ連という仮想敵国が消滅した瞬間から、日本は米国の経済的な競争相手となり,米国は対日貿易戦争を仕掛けた。日本という擬似国家が政策を変更した米国に衝突して負けたのが、第二の敗戦と呼ばれるものである。バブルがはじけたときに日本はすぐさま方向転換をすべきであったが、できなかったことが、日本を凋落の道に向かわせた。方向転換ができなかった理由は,政治の堕落、感度の低下にあったことは論を俟たない。自民党政府は、この不況を単なる不況として捉えて処理して、第二の敗戦という、世界情勢の変化に根源を求める思考をすることができなかった。1993年以降、衆議院選挙が二回、参議院選挙が二回、東京都知事選挙が二回あったが、自民党はその全てで負けており、野党の分裂でようやく自分の権力を維持している体たらくであったから、安全保障に関する政策を変更することなどは思いもよらなかったことであった。日本は、占領憲法を守るために、日本の没落に目をつぶり、自立・自尊の日本を失ったのである。戦後政治について、占領直後から講和条約に至るまでの過程を、簡潔に観察してみたい。激動する国際情勢の中で、日本の政治経済の成り立ちを,簡潔に鳥瞰して、その内容と問題点をたたき込んで置くことは、企業の経営・運営上にも必須の教養である。それがなければ劣化する政治経済を克服することはできない。----------------------------------------------------------------
2015/01/08
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転載記事 *******僕が総理大臣になったら……。http://news.livedoor.com/article/detail/9634453/前略(1)僕が総理大臣になったら 「総理官邸でほぼ毎週末、クラブイベントをやります」 官邸だけでなく、永田町にある施設も週末クラブ化させ、パスを発行し、ハシゴできる様にします。営業は、深夜12時まで。そのあとは、他へ流れて、朝まで遊んで戴ける様にします。 風営法によって、深夜に踊る事も許されない国を、官邸主導で変えて行きます。イベントをオーガナイズする人を毎週公募、週末の永田町があなたのアイデアで彩られます。収益は財政が厳しい自治体、または生活困窮者支援に分配します。(2)僕が総理大臣になったら 「全国の城を宿泊施設にします」 イメージは、ポルトガルのポサーダ。 現在、博物館的な役割をしているお城の天守閣をスイートルームにして、世界の富裕層、超富裕層に、1日城主を味わって戴き、お金を落として戴きます。 例えば、姫路城天守閣一泊、200万円でも泊まるお金持ちはいます。 収益は、それぞれの施設の維持費、余れば、その自治体の財源とします。(3)僕が総理大臣になったら「海外視察に学生を連れていきます」 海外視察に行く度に、全国の中学校から抽選で一校選び、同行して戴きます。 安倍総理の様に50カ国を訪問するなら、50校の生徒を連れて行く。 相手国の学生も交えた首脳会談や、ホームステイ、などなど体験できる修学旅行をして戴きます。(4)僕が総理大臣になったら「教育を変える」 18歳になれば、自分がどんな仕事をして生きていくのか、が大体決まるというドイツのマイスター制度を手本に、音楽・演劇・映像・漫画・美術などアート方面にも選択の幅を拡げ、望む人全てが手に職をつけられる様な、ひとりひとりが持つ才能を発見し、誰もが必要とされる教育環境を築きます。(5)僕が総理大臣になったら「消費税を廃止します」 25年続いた欠陥税制でこの国に生きる人々は疲弊し、経済は後退しました。 じゃあ、財源は? 僕が総理大臣になったら、税の累進制を強めます。 お金持ちになればなるほど税金が安くなる、日本の所得税。 多く払える人が多く払う、と言う、税の概念・大前提に反する現状は、ただの金持ち優遇、お仲間たちへの最大の配慮、既得権益の強化です。 山本太郎政権の税金の集め方は至ってシンプル。持ってる人から多く取る。 それだけでなく、大企業とネンゴロである政治家や官僚が作り上げた、大企業が税逃れを出来る為に用意された80ものシステムも見直し、相応の法人税を支払って戴きます。 これができれば、消費税など不公平な税金は必要ありません。 この国に生きる人々を犠牲にし、財務省と大企業に気遣いをするのは終わりです。(6)僕が総理大臣になったら「議員定数は削減しません」 既存の政党が念仏の様に唱える、議員定数の削減。「議員を減らし、議員に掛かるコストも削ります」「身を切る改革を!」 など勇ましい響きですが、根本的な解決にはなっておらず、話を誤魔化しているだけです。 定数削減されて得をするのは、大政党のみ。 新規参入がただでさえ難しい今の政治が、定数削減でより狭き門となり、既得権が一層強化されるだけ。 多様な意見を交わす為には多様な立場の代理人が議会に送り込まれなければならないのに、定数削減で、入る余地がなくなります。 今よりも偏った、企業側の代理人ばかりが送り込まれる事になってしまいます。(7)僕が総理大臣になったら「お金が掛からない政治をつくります」 選挙にエントリーするだけで数百万円。選挙運動費用も含めて数千万。 それを全国の全てに候補者を立てれば選挙にひとり5千万円かかるとして、300小選挙区で150億円。こんなふざけた話はありません。 ずる賢い大人たちは、選挙や日頃の政治活動にお金が掛かる様にして、新規参入が難しいシステムを考えた訳です。そこに、「もっと議員減らそうぜ、金掛かるだけだよ」 って話にすり替えてるのが、議員定数削減を主張する人たちの本音。 議員は減らしちゃ駄目。 政治にお金が掛からなくすればいいだけ。 数万円で選挙にエントリーできて、巨大政党の候補者も「泡沫」と失礼な言い方で表現される候補者も、同等の条件で選挙ができる、当たり前のルールが必要です。 平等な露出が全てのメデイアで担保され、お金が掛からない選挙戦が出来る様にすれば、平等に政治に参加出来る権利が保証されれば、お金を引っ張る為に、大企業にゴマを擦る必要もなく大企業からの献金も、それに対するご恩返しも必要なくなります。 政治にお金が掛からなくなれば、議員の給料や諸経費(文書通信交通滞在費・立法事務費)もなくせます。 議員の給料が下がれば、国会法35条にある通り、高級官僚の給料もさがるのです。 一般の公務員の給料が高い、と批判されますが、高いのは、幹部クラスの公務員だけで、他は決して高いとは言えません。労働者の多くの給料が、不当に安いだけの話。 公務員バッシングに話をすり替えて、本質をボカし、労働者に長時間労働・低賃金で大企業を肥やし、結果、自分たちにも利益を還流させているだけの事。(8)僕が総理大臣になったら「正当な労働の対価を手に入れることができる、当たり前の社会を作ります」(9)僕が総理大臣になったら「全ての労働者が1ヶ月連続のバケーションを取れるような労働環境を作ります」 僕が総理大臣になったら……。 僕が総理大臣になったら……。(了)著者プロフィール参議院議員山本太郎1974年、兵庫県宝塚市生まれ。1990年高校1年生時に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ダンス甲子園」に出場し、芸能界入り。1991年、映画『代打教師 秋葉、真剣です!』で俳優デビュー。『光の雨』、『GO』で2001年度日本映画批評家大賞助演男優賞を、『MOONCHILD』、『ゲロッパ』、『精霊流し』で2003年度ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。2011年3月11日に発生した東日本大震災の後、4月より反原発活動を開始。2013年7月、参議院議員選挙に東京選挙区より出馬、666,684票(11.8%)を得て当選。内閣委員会に所属。現在、原発問題、被曝問題、子どもと放射能、TPP問題、労働問題、社会保障制度改革、表現の自由に関わる問題等に特に深く関わり活動中。
2015/01/05
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新年の最初の転載記事です。以下、転載します。**********この演説がなければ日本はどうなっていたのか。多くの日本人が知らなかった話。1951年のサンフランシスコ講和会議でソ連の日本分割占領案に反対を唱えたセイロン(現スリランカ)代表の演説です。 J・R・ジャヤワルダナ (元スリランカ大統領) https://www.youtube.com/watch?v=0FWqHW7RzbU★日本を分割占領から守ってくれたスリランカ。スリランカの国会議長 チャマル・ラジャパクサラージャ・マハー・ヴィハーラ大寺の管長ワラハヘングナウェワ・ダンマラタナ大僧正○ご両名が、兵庫県加東市の仏教行事の為、来日している。念仏宗総本山無量寿寺で産経新聞のインタビューに応じた。「両国民は共に仏教に根ざした感覚を持ち、良好な関係を築いてきた」と強調した。★スリランカ第2代大統領、ジャヤ・ワルダナは、1951年サンフランシスコ講和会議で出席者の心に浸みる大演説を行った。それにより、各国の出席者は寛容な気持ちに導かれた。○ジャヤ・ワルダナの名言1951年のサンフランシスコ講和条約締結後、世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのもスリランカであった。当時の大蔵大臣で、後に、初代スリランカ大統領になるジャヤワルダナ氏が尽力したのだった。スリランカが、「英連邦内自治領セイロン」であった当時、随一の実力者だった彼は、サンフランシスコ講和会議に出席する。席上、諸外国からは、「日本に今、この段階で平和を与えるのは、もってのほか。」「日本は南北に分割して統治すべき」「日本を独立させるのは時期尚早」などなど、さまざまな議論・意見が出る中、ブッダの言葉を引用し、こう語った。「戦争は戦争として、終わった。もう過去のことである。我々は仏教徒である。やられたらやり返す、憎しみを憎しみで返すだけでは、いつまでたっても戦争は終わらない。憎しみで返せば、憎しみが日本側に生まれ、新たな憎しみの戦いになって戦争が起きる。戦争は憎しみとして返すのではなく、優しさ、慈愛で返せば平和になり、戦争が止んで、元の平和になる。戦争は過去の歴史である。もう憎しみは忘れて、慈愛で返していこう。」と。対日賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、わが国を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行った。この演説が、当時わが国に厳しい制裁措置を求めていた一部の戦勝国をも動かしたといわれ、その後のわが国の国際復帰への道につながる象徴的出来事として記憶されている。彼の足跡は、今も日本国内に残っている。八王子の雲龍寺、鎌倉の大仏、長野の善光寺の3ヶ所には、彼の善行に感謝し、記念のための、顕彰碑や、銅像が建立されている。★ジャヤワルダナ氏の言葉サンフランシスコ講和会議にて「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」死去に際し献眼、角膜提供「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られた★1951年、サンフランシスコ講和会議○ソ連の日本分割占領案北海道・東北 ⇒ソ連関東・中部・関西・沖縄 ⇒米国四国 ⇒中国中国地方・九州 ⇒英国東京 ⇒米英中ソ大阪 ⇒米中■ジャヤ・ワルダナは対日賠償請求権を行使することを放棄し、日本の本土分断統治を救ったのです。
2015/01/05
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