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江戸時代●考えてみると、日本の歴史の最近150年ってほんとに、アメリカ合衆国との絡みですね。鎖国及び江戸幕府国内体制の崩壊は、ペリーの浦賀港入港(ペリーは琉球国との友好条約を結ぶ)、そして満州及び中国との権益から発生した太平洋戦争と戦後のアメリカ軍を中心にした連合軍による日本占領(7年間)に加えて今、IT革命といわれるアメリカ発のインターネット文化の席捲。で、中公新書の古典から▲大石慎三郎/江戸時代/中公新書476/1977年「ほとんどの藩は破産同様の状態で幕末維新をむかえている。明治維新とは明治政府による個別藩債の肩代わりであり、破産寸前においこまれていた大名の救済策であった。領主階級は維新変革による被害者ではなく利得者なのである」(P236~242からまとめる)です。MM前回は幕末の所で終わってしまったので、幕末のHPを紹介しましょう。明治維新史学会のサイトは▲ http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/ishinshi/大石慎三郎/江戸時代/中公新書476/1977は、まだまだおもしい話あり。我々の江戸時代の情報を覆してくれる(といっても既に23年前におっしゃってたわけですが)「明治村」という博物館公園のあり、明治という時代をかんじるならここという場所ですが、この園内に入鹿池という池がある。ここはむろん蘇我入鹿の領地といわれているが、ここを江戸時代に新田開発した。新田ができましたが、尾州藩は入植者を集めることができなかったのです。新田開発をやりすぎてしまって、百姓の人手がなくなっていたのです。大変!それゆえ、全国に大募集!。どんな人でも他国他領の人でも、重罪の人でもいらっしゃい。無論。幕府の御叱りありですが。明治村のサイトは▲ http://cjn.meitetsu.co.jp/meiji-vil/nof.html
2006年01月19日
■佐賀県立名護屋城博物館○佐賀県唐津からバスで一時間の所に名護屋城跡がある。大阪城クラスの広さの城であり、秀吉が朝鮮侵攻に築かせた城である。城といっても日本中の大名を、周りに屋敷を作らせていた。いわゆる大本営であり、瞬時にひさたる時の大城塞都市であった。当時10万人以上の人口。朝鮮半島はそれこそ眼の前にあり、入り浜で船の出入りにも便利だったようである。現在も大きな漁村です。この時期、秀吉は世界王朝王者の一人に対抗意識を持っていたといわれている。それは、スペイン・パプスブルグ・フェリペ2世である。パプスブルグ家は、オーストリー出身であるが(実際にはスイス)婚姻政策によって欧州フランドル地方や、スペイン王家と血のつながりを持ち、南北アメリカを支配していた当時最大級の帝国でした。オランダもここと独立戦争で戦いました。日本の南にはフィリピン、太平洋の対岸ではメキシコがその中継基地である。オスマントルコ帝国との地中海の覇権を争っていて、とりあえずレパントの海戦で勝利をおさめていた。(この海戦では、セルバンテスが参加し、奴隷となる。「セルバンテス」という映画がビデオ化されているはずです。セルバンテスってわかりますよね。ドンキホーテの作者です。)豊臣秀吉ではなくて、織田信長VSパプスブルグ家フェリペ2世のシミュレーション小説が、佐藤大輔さんの小説シリーズにあります。話は戻って、この名護屋城の南側の地域を旅行すると、伊万里、有田など陶器の大産地。わかりますよね。秀吉が、大名が朝鮮から連れてきた陶工の方がその陶器を作りだし、江戸時代の陶器ムーブメントの一端を作ったわけですよね。名護屋の跡地から北の海を見渡すと、そんな殺伐たる歴史を感じさせないほどの無限の広がりがあり、快い風が吹いていました。名護屋城の跡地には、佐賀県立名護屋城博物館があり、ここは必見です。朝鮮侵攻の折、朝鮮人の捕虜を奴隷として売り飛ばしたのですが、その中の1人がイタリアまで行き、今もその子孫の方が残っておられるという韓国新聞記事や、最近の歴史の教科書に必ず載っている「名護屋城絵巻」を元にした城の模型、当時の戦艦安宅船、対する朝鮮の亀甲船の模型など見ごたえたっぷりの博物館です。模型はすべて数億円かかっているそうです。▲ http://www.pref.saga.jp/syoukou/kankou/info100/i028/index.htm
2006年01月18日
広島県立歴史博物館もう1つ、同じ本から草戸千軒の話。「戦後考古学の2大壮挙は高松塚古墳の発見と、もう1つが「東洋のポンペイ」草戸千軒の発掘といわれています。」さて、ここはどこでしょう。草戸千軒は、福山市明王院の門前町で、芦田川の中州にあったのです。乱開発で滅んだ例です。ここも、すばらしいです。また例のごとくR&B(電車&自転車)でこの中州にたてば、目の前に草戸千軒が浮かび上がって感動するのです。というのは言葉のあやで、広島県立歴史博物館が福山駅近くにあり、この町並みが再現されています。ここも是非一度。で、福山市の同じく瀬戸内に面する鞆の浦。ここも良い場所です。大林宣彦監督の映像にも登場するこの港町の風情は…。、「足利は鞆にてさかえ鞆にて滅ぶ」というわけです。完全に歴史ガイドになっています。本及びwebの自由連想で書いているのでお許しを。とにかく私が感動した町並です。広島県立歴史博物館。▲ http://www.manabi.pref.hiroshima.jp/rekishih/cover.html以下このサイトは、個人の方です。▲ http://www.mars.dti.ne.jp/~suzuki-y/
2006年01月17日
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■瀬戸内の海人たち今回の2冊は中国新聞社の本です● http://www.chugoku-np.co.jp/■『瀬戸内の海人たち』~交流がはぐくんだ歴史と文化~ 著者:森浩一、網野善彦、渡辺則文 体裁 四六判・256ページ 定価 税込価格1,365円 送料 310円 内容 瀬戸内海に新時代を拓く「しまなみ海道」が、99年春に 開通。今注目の3人の歴史学者が内海の通史に光を当てながら、古来「 渡し」ルートの『海道』周辺地域に暮らした海人たちの足跡を語ったシンポ の再録書。 ● http://www.chugoku-np.co.jp/book/setouch.html■瀬戸内の海人たち2 水軍~情報がもたらした文化と経済 著者:森浩一、網野善彦、生田滋、山内譲 判型 四六判・316ページ 定価 税込価格1,470円(本体価格1,400円+税)送料 310円 内容 「瀬戸内しまなみ海道」(本四連絡橋尾道-今治ルート)が1999年春に開通。そのルートにあたる芸予海域を拠点に活躍した水軍の軌跡を、四人の歴史学者が日本史やアジア史の視点から検証したシンポジウムの再録書。● http://www.chugoku-np.co.jp/book/setouch2.htmlという説明ですが、私が要約するとこう意味です。文章責任は山田です。日本の中世・近世は農業的な封建社会ではない。商業・流通・金融が相当程度発達していた社会であるという網野歴史学を確認。○百姓=農民ではない。百姓は色々な人々の意味で、日本建国以来、日本人はほとんどの人が農民のままでいたと考えるのは間違い?農民が搾取されていて、一揆を起こしたというストーリーがあります。が、本当は違うのではないかというのは皆様のご承知の通り。明治時代に鉄道が発展するまで、古来より物資の輸送で一番早く大量に運べるのはやはり船です。○近世の城下町も全て「水につける」船による輸送ができる港部分が必ず設けてありました。特に瀬戸内海岸は、全て海につながっています。奈良朝以降、寺社の荘園がほとんどでした。すると活躍するのは海賊ということになります。海賊とは襲われる方からの名前で、彼らは自らを"関"と呼んでいました。いわば動く関所。瀬戸内海岸から九州北部にかけては、「海の民」の支配地であり、倭寇などは、広く朝鮮、中国の人々など日本人と一緒になって「海の民」のコミュニティを作っていた。国境がないのです。ルールは自分たち「海の民」のルール。海賊として、朝廷につかまったのは自分達の側に逆らう"関"の人々を京都に連れていったとのこと。豊臣秀吉の時期から江戸時代初期までは、船の発達が凄かったようです。ルソンのフィリピン政朝よりも(ちなみにフィリピンの名前はスペイン、パプスブルグ・フェリペよりきています。)船の注文があったとのこと。また、江戸時代初期フィリピン・ルソン島襲撃計画が、江戸幕府により計画されていました。日本人は、農民だけではなく種々の職業で生活していたわけです。年貢も"米"でおさめていたわけではないのです。例えば、岡山では鉄、瀬戸内海沿岸では2/3が米以外の商品。例えば油、塩とか鉄とか。農民が少ないことになりますね。水呑とは、イメージとして非常に貧しい農民というイメージですが、船の交易でもうけていた人も水呑に入ってしまう。つまり農民以外の職業の人が大多数であり、江戸時代中期以降は、農業開拓が進んで農民が増えたとのことです。つまり、日本人はプロフェッショナルな職業の人が多いわけです。今も会社員という農民ばっかりではなく、色々なプロフェッショナルな職業の方々が出現してほしいと考えます。決して農業をうとんじて言っているわけではありません。
2006年01月16日
尾道でびっくりした事駅前にあった建物が全てなくなっています。駅前から海が見えるのです。「駅前から灯台が見える駅は尾道以外ない」のでは。の話もうなづけます。それに「しまなみ街道」で島づたいに尾道から四国の今治まで道ができています。自転車でいけるのですね。それゆえ駅では、自転車を持ってくる人の多い事多い事。去年「しまなみ」海道が開通した時、私もママチャリで行きましたが、島1つ渡った処でリタイヤ。やはりギアチェンジでないとしんどいです。http://www.hiroshima-cdas.or.jp/onomichi/http://www.urban.ne.jp/home/onomichi/index.htmlhttp://www.shimanami.or.jp/council/ja/info/cycle.html
2006年01月15日
明治村大石慎三郎/江戸時代/中公新書476/1977は、まだまだおもしい話あり。我々の江戸時代の情報を覆してくれる(といっても既に23年前におっしゃってたわけですが)「明治村」という博物館公園のあり、明治という時代をかんじるならここという場所ですが、この園内に入鹿池という池がある。ここはむろん蘇我入鹿の領地といわれているが、ここを江戸時代に新田開発した。新田ができましたが、尾州藩は入植者を集めることができなかったのです。新田開発をやりすぎてしまって、百姓の人手がなくなっていたのです。大変!それゆえ、全国に大募集!。どんな人でも他国他領の人でも、重罪の人でもいらっしゃい。無論。幕府の御叱りありですが。明治村のサイトは▲http://cjn.meitetsu.co.jp/meiji-vil/nof.html
2006年01月14日
-○Denkenは、日本様式美のパラダイスだ!Denkenってのは野口先生のHPにあるページですが、山田の言うDenkenは、「伝統的建築造物群保存地区」のことです。多分皆様もいくつかの地区には行かれた事があるはず。32道府県48市町村53地区。つまり古くからの街並がまとめて残っているエリア。文部省が指定しています。筋金入りの日本の街並と、みとめられたものです。いやはや、ここは良いです。団塊の世代の方なら、子供の頃に見た街並が残っている。Discover Japan。が人はあまりいない。いわゆる日本の田舎。住んでおられる方も平均的に年齢層が高い。が、行くべき、見るべき、写真を撮るべき。普通の観光土産を買うところじゃない。並のテーマパークじゃ感動できないデイ―プな処。いわゆる大がかりな「日本伝統テーマパーク」。が、交通の便の悪い所が多い。しかし、レアもの。感動もの。地元の方と話をするんですが、なぜ人が来ないのでしょうね。だって、皆知らないし、行き方がわからないし、どんなにすばらしいところかわからないものねー。内子(愛媛)、角館(秋田)、御手洗(広島)、、これらの地区には感動しましたね。御手洗(ミタライ)なんて、行き方を全然知りませんでしたものね。▲山田の旅は、R&B。リズム&ブルースじゃありません、レイルロード&バイク。バイクは自転車のこと。実は御手洗は、島の一部で三原港から船で…。島の御店で自転車を借りてギッタカコッタカお出かけ。御手洗を始め、瀬戸内海の島は素晴らしい風景を残しておられる所数限りなし。うーん、この辺の旅については別タイトルのメールマガジンで詳しく書きましょう。タイトル予告▲WALK 京都小京都の旅▲乞うご期待です。Denken地区は、昔の情報物流ネットワークの中心地です。金とモノと人が集積されていた場所です。だから文化品も多数あり。人々の物腰も家の風情も艶がある。よろしいいぜ。今年の夏はココ。山田の話に騙されよ!▲DENKENの公式ホームページはこちら。他にも個人サイト数限りなし。http://www.denken.gr.jp
2006年01月13日
●「海の国」●前回の「海の国」から続きますが、国家という概念です。瀬戸内海は、一つの文化圏です。いわゆる船で往き来できる大きなクニです。平安末期の平家の福原を中心とした海商国家、大輸田泊は現在の神戸港の一部です。中世以降、兵庫島とよばれて、現在の兵庫県の名前の由来です。また同じ頃、奥州平泉を中心とした満州沿州地方を東アジア貿易圏も考えられます。現在のNHKテレビは元寇文永・弘安の役。を扱っていますが、「元寇」も実は2回だけではなく、何度も計画されています。むろん、元から日本侵略の計画があったわけです。逆に日本から高麗への侵攻計画もありました。この時期、鎌倉の御家人が地頭として、日本全国へ敬っていったわけです。時代が下がって「豊臣秀吉」時代の九州・畿内にはキリスト教徒が30万人いたと言われています。当時のヨーロッパのスウェーデンの全人口が100万人程度であったことを考えると、日本に住むキリスト教徒で一つの国を作りあげることは可能だったでしょう。さらにはこの時期、イエズス会は日本占領計画を立てていました。イエズス会の公式記録にもその記述はあるとされています。同じ時期、九州の松浦家を中心に倭寇国家あるいは海賊国家といえるのでしょうか。長崎県の平戸は中世・松浦党の基地で遣唐使・南蛮貿易でも栄える。九州・朝鮮・中国の海岸を中心に、一つの「クニ」を作っていました。江戸時代初期、近松門左衛門の国姓爺合戦「鄭芝竜が、日本人妻の子鄭成功を伴い、明を再興する話」で描かれている「鄭成功」の帝国と比較してみましょう。この時期、中国アモイを中心に5,000艘の艦隊が支配下にあったと言われています。岩波新書382「華僑」より瀬戸内海が思ったより、昔から発展していて、沿岸の物量が盛んであったことは「兵庫北関入船通帳」で有名になったわけです。これは、林屋先生が京都の古本屋で発見したもので当時の関税をとっていた東大寺の資料です。ちなみに、瀬戸内海とは明治以降の言葉で、それまでは「瀬戸」あるいは「うちうみ」「うちのうみ」という表現です。中公新書1466「瀬戸内海の発見」より
2006年01月12日
●崇徳上皇の怨霊●1156年「保元の乱」を、「武者(ムサ)の世」のはじまりといわしめた慈円(じえん)は藤原氏の人間であり、関白・九条藤原兼実の弟。源頼朝の宗教的指導者となった。歴史書を著し・1220年に著わした愚管抄にこの言葉があります。武者の世は、崇徳上皇と後白河天皇の争い「保元の乱」より始まり、その崇徳上皇の「怨霊」は明治まで尾を引く。現在サッカー神社として名高い「蹴鞠神社」の京都白峯神社は、明治元年。明治天皇によって建立され、白峯神社は讃岐・香川県にある。「保元の乱」の後崇徳上皇はここに流される。現在の四国88箇所巡礼の地である。明治帝は「崇徳」上皇の地鎮のためにこの神社を作ったが、鎌倉から江戸までずっと約700年、武者の世が続いたわけである。1156年保元の乱で明治維新が1868年で。約700年ですね。京都白峯神社は京都御苑西・今出川通り堀川通りの交差点側。讃岐・香川県の白峯神社は坂出市です。
2006年01月11日
以下、山田の色々な本を読んでのまとめなので、歴史の学説でいうと認められていない説なども盛り込んであります。歴史をこういう見方も出来るのではという形なので、面白く見てみるというテーマ、間違いなど多々あります。お許しください。●小京都「鎌倉」に関が原・明治維新を見る?●「鎌倉」幕府あと源頼朝の墓100m範内にその遺構は残っている。2つの墓。毛利家は、大江広元を租とする。大江広元・公文所の初代別当。この人が、守護・地頭の献策者です。博学者といわれて大江匡房の曾孫。文章道(紀伝道ー漢文学・史学)の教官を文章博士といいいますが、菅原・大江氏が主流です。この大江広元の子供。毛利季光(すえみつ)の墓。また島津家は、この鎌倉時代に九州大隈へ差し向けた御家人を租とします。島津忠久の墓。ここに関が原・明治維新をみるわけです。登りは細い道なのでご注意。●小京都「鎌倉」に平泉を見る?・永福寺跡●奥州合戦により源頼朝に平泉は滅ばされる。がこの平泉にて、藤原秀衡の中尊寺毛越寺に感動した 源頼朝は鎌倉に同じような寺院を建立。いまに残る二階堂の地名はこの寺院(中尊寺・大長寿院)に因む。宇治にある平等院風の建物で在ったといわれています。鎌倉宮の東・テニスコートの近くの空き地。以上2項は山川出版社「神奈川県の歴史散歩下」より。自分の目で確かめました。
2006年01月10日
―――――――――――――――――――――――――――――――――――福山・鞆の浦(広島県)は歴史的においしい所である。―――――――――――――――――――――――――――――――――――1。東洋のポンペイ。(広島県立歴史博物館)2・幕末老中阿部正弘の城下町3・坂本竜馬のいろは丸遺跡「いろは丸展示館」4・大林宣彦監督の映画(野行き山行き海辺ゆき)の撮影現場・雁木・常夜灯など5・「足利は鞆にておこり鞆にて滅ぶ。」(鞆の浦歴史民俗資料館)6・朝鮮通信使の足跡(景色の美しさをほめたたえる-対潮楼)などなどのある所です。1は中世の町並み「草戸千軒」が洪水にて埋まり、発掘。城跡横の広島県立歴史博物館に当時の様子が現寸復元されているのです。2、ペリー来航事の当時の主席老中阿部阿部正弘の城下町。阿部正弘さんのおかげで、歴史はすすみました。江戸時代のシステム崩壊は、この老中からです。海岸防御掛新設、諮問政策開始。つまりアメリカとの国書についての意見を広く取り入れる政策です。外国との友好条約。広く一般からもペリー問題とかに意見を求めるなど。答申書の内容で抜きん出ていたのが、勝海舟です。勝の登場のきっかけとなりました。21867年慶応4年紀州和歌山の船と坂本竜馬の率いる海援隊の船とが鞆の浦の沖で衝突。沈没。今でも沈んでいます。その坂本竜馬の滞在旅館跡「旧魚屋萬蔵宅」もあります。4この港の雁木はミモノ。江戸末期の状態がわかる貴重なもの。5足利幕府は実質この町で成立、また滅亡です。1336年建武の新政の折り足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵。京都朝廷軍に敗退。一時九州に落ち延びようとした。光厳上皇からの後醍醐天皇派の討伐の院宣をここ鞆の浦にて受け取る。1576年天正4年最後の将軍足利義昭はこの鞆を中心に幕府の再興を考え毛利輝元を頼りました。鞆幕府です。最初、失礼ながら私もそうたいした町じゃないのでは、、とバスで鞆の浦へ行くト、そこは、ほんとに感動ものでした。「日本一の眺め」といわれてこと納得です。このあたりを周遊するのは自転車が一番。バス亭横にレンタル自転車店があります。他にも安国寺恵けいの寺、安国寺。関ヶ原の戦いにも登場しますね。瀬戸内海航路は、古代から発達。中国地方も、この場所に設けられた中国短題から始まります。参考文献/山陽新聞社・歴史散歩鞆の浦今昔/山陽新聞社・備後の歴史散歩
2006年01月09日
――――――――――――――――――――――――――――――――――■100年前の日本(6年前の原稿です。お許しを)■――――――――――――――――――――――――――――――――――1900年8月14日、北清事変で西欧列強が北京を鎮圧。北清事変とは映画「北京の55日」で知られる義和団の乱。清朝末期、西大后は義和団という秘密結社を使い、西欧列強を襲われた事件。ラストエンペラー溥儀の生まれる2年前。この事件を機にロシアは満州占領。日露戦争の原因に。日本はこの戦役で世界に認められ、日英同盟へ。いわゆる多国籍軍には日本もふくまれていたわけです。映画は1963年作品。日本軍柴大佐の役を伊丹十三。当時の伊丹夫人の川喜多和子さんも出演。アメリカ軍マットルイス少佐にチャールトン・へストン。英国公使にデビット・ニーブン。公開当事は映画音楽もヒット。現実の柴大佐は、この戦役で有名になり、ジェネラルトーゴーの前に英国で有名になった日本人の一人。「ある明治人の記録」中央公論新書252で読めます。「北京篭城」は平凡社の東洋文庫の中に。柴大佐は大将となり、昭和20年87歳にて没。生まれは会津若松ですから戊辰戦争にて辛酸。下北移住も体験。約150年前、1853年ペリー来航。その50年後、1894年日清戦争。1905年日露戦争。1945年太平洋戦争敗戦。1950年朝鮮戦争。ペリーから14年後1867年明治維新。その27年後日清戦争。その11年後日露戦争。その36年後太平洋戦争という流れ。してください
2006年01月08日
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======================================================================●江戸の都市計画。鈴木理生。三省堂。1988年初版。1800円======================================================================■P159■(以降この本のページ数です)江戸の意味合い。江戸の意味合い。というのは、日本人社会がはじめてその基盤を沖積土地におき、海を埋め立てて海上に進出した場所であった。大量輸送手段としての水運基地の確保した。江戸の建設は、1590年から1660年までの70年の及ぶ大建設であった。いわゆる天下普請である。天下人が命じた工事であった。かって家康は、名護屋城(佐賀)、伏見城(京都)の秀吉のお手伝い普請をしていた。日比谷入り江埋め立ては重要な工事であった。ここで江戸城と江戸前島(元鎌倉・円覚寺領であり前島村)一体化。沖積地不足であり、軍港日比谷入江に敵船が入るの防ぐ事を行う。つまり日比谷は湊の位置にあったわけです。八丁堀は大航海時代の湊町都市施設であり、うり二つの例でバタビア港現インドネシア・ジャカルタ)がある。■P156■徳川は円覚寺領江戸前島を横領した。対岸の江戸城入場。江戸前島は円覚寺寺務所があり所長は長吏(ちょうり)と呼ばれた。ここで浦銭を徴収、これは港湾施設使用料にあたる。頼朝の命令で、摂津池田から江戸にきた浅草団左衛門由来書の書類が残っている。ここでは近世までの外貨(永楽銭)が多く流通していた。これは徳川の侍たちに強い印象を与える。国際的な貨幣の流通状態があった。(ここから時代は遡って)■P31■アヅミ族の話アヅミ族という日本列島の多くの地方に中国大陸南方から黒潮にのって、いわゆる海上の道(柳田国男説)をとうり、渡来してきた方々が、東京湾から利根川水系まで、時期を事にする集団が分け入って土着していった。日本列島は、なうての森林地帯。温帯針葉樹林に覆われ、たやすく陸地に踏む込めない。それゆえ、川筋をたどっていく。海からの塩の流通を握るアヅミ族は歓迎される人々であった。アヅミ族は、河口から河口へたどっていく。また、河口から川をさかのぼるグループもでていく。房総地方の国造り数の多い理由は、この地に渡来人たちの最初の到着地と考えられる。■P71■7世紀から12世紀までの、西南日本の東国(むろん日本の)攻撃の最大理由は、東北の豊富な金属資源、冶金技術獲得、戦力・輸送力の良馬の獲得である■P84■鎌倉のウオーターフロント計画・朝比奈切通鎌倉のウオーターフロント計画があり。舟道の延長としての道路。東京湾と鎌倉を結ぶ最短距離の道路開発が行われ、仁治2年(1241)、朝比奈切通の開通で、南関東の交通事情はいっぺんした。いわゆる今で言う「鎌倉新幹線」であった。鎌倉幕府は経済的基盤を確立させるため農地開発を盛んに行った。利根川水系を利用し、埼玉平野、東京下町低地を水田地帯にしていく。■P77■江戸重長と大田道灌頼朝の敵のひとりが、板東8カ国の大福長者である江戸重長で、現在の皇居東御苑付近に居住していた。ただしこのエリアは熊野信仰の熊野の御師(伝道者)が握っていた。中世の情報・物流の中心は、この熊野の御師が握っていた。1252年鎌倉幕府6代将軍、宗尊親王が赴任。この将軍の介錯人(後見人)として丹波の国上杉庄(京都府)地頭上杉重不房が同道。家来として五個荘住人、太田資国も、ともとして赴任。大田道灌は6代目子孫である。この江戸氏を追放し、江戸城を再構築したのがこの大田道灌。1457年に江戸城完成。1486年に暗殺された。道灌は今の御殿山にいた。目黒川河口にあった品川湊は、紀州財閥の根拠地であったが、道灌は品川湊から離れ江戸湊で城を建設。品川湊は日蓮宗の支配地、禅宗臨済宗である鎌倉円覚寺領の江戸湊へ道灌は移住する。それほど江戸湊の経済力は魅力的であった。■P112■傭兵の市場が、ここ江戸湊にあって、傭兵の輸出先は和冦の補充要員、中国の泉州とのかかわりもあった。江戸には人家が続き、東武の一都会、北方「浅草の浜」の巨殿宝房の美は、数十里の海に映えそびえていた。傭兵するのは現金がいり、その銭が流通していりのは、諸国の湊である。■P109■鎌倉5山は、宗教統制組織、日明貿易の外務省、通産省の役割でありこの経済僧たちと大田道灌は交際が盛んであり、資料が残っている。■P124■信長。秀吉。家康の都市戦略信長。秀吉。家康の都市戦略はどうか。信長は、琵琶湖及び沖積地制圧。若狭に代表される日本海海運と、淀川沖積地を結びつける安土中心に琵琶湖水運の広域化を図る。秀吉は、京都南端に伏見湊を建設し京都の水運都市化を実現。淀川河口である大阪にて、瀬戸内海運との一体化を行う。安濃津のある尾張平野に育った信長・秀吉の悲願は、大阪の近世都市化により機内水運の一体化、と日本海海運と瀬戸内海運の一体化の実現であり、これが天下統一の決定的条件であった。ローカル経済圏を数珠つなぎして広域化。全国的な水運網を組織した。以上が天下統一の側面である。軍隊・軍需品の大量輸送と広域流通の確立が必要になり、河川内水面・海上輸送網の充実。川と海の接点である河口に都市をつくる。城が戦術施設から戦略施設(物資の集積基地)に変化。城の都市化現象である。
2006年01月07日
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―――――――――――――――――――――――――――――――――――●江戸の都市計画。鈴木理生。三省堂。1988年初版。1800円―――――――――――――――――――――――――――――――――――いろいろな武将を、情報空間の設計者と考えて、どのような、経済・情報政策を考えたかを思い起こしながら、観光すると楽しいと思います。従来では教えられなかった、流通経済政策。情報政策などをかんがえて見ましょう。歴史研究書を読むと、経済にかんする視線があると、別の見方、考えた方があると理解できます。======================================================================で、山田は研究者、学者ではなく、歴史が趣味の人ですから、情報の使い方はご注意下さい。学説等の検証は行っておりません。また、質問があってもお答えできません。20年程前に江戸本のブームがあり、江戸本が多数発行されましたが、その折りの定番本がこれでしょう。面白い部分を抜き書きしていますので、興味があれば、どうぞ。江戸と紀州の思わぬ関係。経済活動による湊の繁盛。各武将の経済政策等。
2006年01月06日
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――――――――――――――――――――――――――――――――――藤田達生(三重大学助教授)の本本能寺の変の群像ー中世と近世の相克ー雄山閣 2500円 2001年3月―――――――――――――――――――――――――――――――――――発行者は佐賀県にある城跡をみてなぜ、このような大城塞・軍事都市がここにあるのか。日本全国の戦国大名がここに集まっていたのです。ここから、日本の海の歴史についての興味が始まりました。それでは、秀吉の海外戦略とはなにであったのか?http://www.freeml.com/message/umi-rekishi-ken@freeml.com/0000001今回の本のコンセプトは、「旧体制を倒すために、如何に新概念・大概念をつくり、それにより新体制をつくろうとしたか。その新概念の継承者は、それを止揚したか。」です。藤田達生(三重大学助教授)の本本能寺の変の群像ー中世と近世の相克ー 雄山閣 2500円 2001年3月。今までの日本史の歴史的概念を切りかえるべき疑問を提示するコンセプト本。特に第3章は、「本能寺の変」という日本史最大の謎に、当時の文献資料を交差させていき思いもつかない当時の政治の仕組みを言質される。この推理をどう納得するか?は、読者の判断です。16世紀の東アジアにおいては、旧世界の秩序が崩壊しようとしていた。このようなグローバリゼーションの時代の織田信長の政治改革の本質は何であったのか。この本の4つの課題(仮説)は以下のとうりです。1なぜ尾張から近世を切り開く権力が誕生したのか。2信長は足利義昭との抗争のなかで、いかなる国家構想を表現しようとしたのか。3なぜ、本能寺の変がしょうじたのか4豊臣政権のありかたは、信長の政治的達成を、どう刻印づけたか。以下は明治・大正期のジャーナリスト山路愛山(やまじあいざん)の言葉です。「今の日本政府は、信長のたてたる政府を継承したるものにほかならず、日本国民はこの新時代の開祖に感謝しなければ、、」日本の近代国家の源流は、450年前の信長によるという認識です。近代日本の基本的コンセプトは、どこからきたのか。民族的記憶の底になにがあるのか。藤田先生は、現代の社会状況が、戦国末・織豊期の社会状況とにているような気がすると述べます。信長、秀吉。家康この3人の軍事カリスマ独裁者がなぜ、このように、英雄としてとりあげられているのか。時代の転換期に、社会不安によって増幅された民衆の爆発的なエネルギーを背景として強烈なカリスマが登場した。異民族に対する抑圧と戦争によって繁栄がもたらされるとみる幻想は、信長、秀吉のみならず、そののちも声高に叫ばれた時代が何度かあった。(p257)。信長の統一事業は、初期は伝統的な「公武一統思想」にもとづくものであったが、(足利幕府足利)義昭との抗争を通じて「天下」思想を定立する事で、新たな王権を確立すべき倒幕を画策する。「天下」というコンセプトを如何に使い、誰がそれをよりよく理解したのか。この「天下」というコンセプトは、当時の武士にとって難解な抽象概念であり、武士に対する概念形成で、家臣団の精神領域にに対する「革命」理論であり、秀吉のみが、この概念を把握し、百姓(農民)が天下人になるという、最大の「下克上」が実現した。(p254)秀吉は文学(物語)と宣伝の力を知悉した独裁者であった。中世から近代の飛躍は秀吉によっておこなわれた。16世紀。東アジア周辺は、中国を盟主とする文治・官僚国家が、儒教を外皮とする柵封という外交関係で結ばれる。ただ、日本のみが、信長・秀吉・家康という軍事カリスマ独裁者であり、まったく異相の兵営国家が誕生した。社会的矛盾・富国強兵・戦争という連鎖はくりかえられる。現在の原点は、この時代にある。という指摘がされています。「1なぜ尾張から近世を切り開く権力が誕生したのか。」のまとめ戦国の政治史は、将軍家二系統の分裂が基層にあり。細川管領家の細川政元(1466ー1507)が「明応2年の政変」(1493年)によって将軍を追放し、「京兆専制」と呼ばれる独裁体制を確立した。この折りの将軍家の分裂・家位をめぐる対立が、以降の時代に政治対決として展開する。信長はいわゆる戦国大名から脱皮し、環伊勢湾諸国を基盤とする政権を樹立する。尾張をはじめとする環伊勢湾諸国は東国と、西国の境目にあたる場所であり、「畿内」と、「東国」発生の領国体制の矛盾と緊張が蓄積された場所である。日本の近世はこの「境界中の境界」の地方から発生した。信長の戦略は、まず、流通支配をめざす。尾張・美濃・伊勢という3国支配をはじめに行う。これは、室町幕府側の対立する細川ー三好政権を「環大阪湾政権」と名付けるなら、それにたいする「環伊勢湾政権」である。それゆえ、「兵営都市・岐阜」は軍事基地である。例証として、天正3年、信長は義昭勢力との勝算がつき、その時期から信長文書が、「花押」から「朱印」に変化。表現も尊大化している。2「信長は足利義昭との抗争のなかで、いかなる国家構想を表現しようとしたのか。」のまとめ。足利義昭との抗争により、天正3年以降、信長の頭に倒幕思想としての「天下」観ができる。天正3-10年は、信長と室町幕府の二重政権期であり、「天下」コンセプトの象徴として安土城を建設しょうとした。君臣関係、父子関係より超越する「公」概念の「天下」を信長は考えつく。この「天下」コンセプトを東アジア世界の再編を念頭において外交戦略を行う。またこの政治思想のモニュメントとしての安土城を建設する。この安土城は、長浜城、佐和山城、坂本城、大溝城など琵琶湖をとりかこむ中継地点としての城郭ネットワークというグランドデザインの構想のうえ、設計された。3「なぜ、本能寺の変がしょうじたのか」のまとめ。「本能寺の変」については近年、最近注目されている立花京子説があり、これは朝廷側からの関与の視点が提起されている。藤田先生は、この関係に加え、織田政権内部に生じた矛盾の拡大過程がこの「本能寺の変」であると考える。天正9年における四国政策の転換。によって、確実に光秀と秀吉の地位が逆転した。光秀のクーデター劇は、志を一にする人間関係(旧体制派)に裏打ちされて行われた。その人物関係は?。また、その時期、信長が、光秀の軍をつかって粛清しようとしたいた人物は?、また、秀吉の情報戦略は?、この時期のターニングポイントを握っていた人物は、誰か?4「信長の政治的達成は、豊臣政権のありかたをどう刻印づけたか。」のまとめ秀吉の天下を簒奪する「プレゼンテーション」行為は、大坂遷都論である。天正13年、豊臣秀吉は、関白任官により、自らの国家思想を明確化する。この時期までに、「本能寺の変」の主導者をすでに取り込んでいた。この時期に中世は終わりをとげた。以上、3の部分は、この本の肝部分なので、書きません。ぜひともお読み下さい。
2006年01月05日
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――――――――――――――――――――――――――――――――――川勝平太(国際日本文化センター教授)の本――――――――――――――――――――――――――――――――――■川勝平太(国際日本文化センター教授)の本1NHKブックス・日本文明と近代西洋・1991年初版・1020円■――――――――――――――――――――――――――――――――――日本文明と近代西洋1991年、フランス歴史学者の翻訳本が、藤原書店から出版されました。ブローデル「地中海」。16世紀の後半の西欧スペインオーストリーのフエリーぺ2世の治世の地中海の政治・文化・社会の全体の流れを書いた大きな本です。元本は、第2時世界大戦の後1949年にフランス発行されました。また、ブローデル「地中海」に影響を受けた川勝平太先生先生の本が刊行されました。この時から、静かな、歴史認識における革命が始まりました。海から見た歴史観です。すでにご存知の方も多いでしょうが。==================A.NHKブックス・日本文明と近代西洋・1991年初版・1020円B.中央公論新社・文明の海洋史観・1997年初版・1900円C.PHP研究所・海洋連邦論・2001年初版・1600円D.南風社・日本史を海から洗う(竹内実・村井章介他編著)・1996年・1800円その他の著作よりのまとめ。==================ヨーロッパに偏った世界史でもなく、世界史・東洋史・日本史を貫き、また、陸の世界史から、海の地球史(グローバルヒストリー)あるいは、人類史へと希有な話が聞きたいですよね。「海から見た歴史」を考える上で、やはり、日本人が考えた「大きな文明史・世界史観」として、今回以降、川勝先生の文明論をご紹介します。骨太の日本文明論でもあります。「川勝海洋史観」と現在呼ばれています。興味を持たれた方は、詳しくは、上記本の本文をお読み下さい。図書館、大きな書店には在庫があるでしょう。これからの紹介の間違いがあえば、その責任は山田です。また、内容の質問には、残念ながら、お答えできません。以下文章内容にくり返しが多いですが、お許しを。==================16世紀に東南アジアで、日本と西欧は遭遇する。ヨーロッパは大航海時代。日本は和冦・戦国時代。この当時、文明の中心であったアジアから、同じように、アジア発の主要物産を輸入していた日本と西欧(特にイギリス)は、「近代世界システム」成立の課程で、国内の輸入代換えに成功し、並行的に発展を遂げたか。日本はいかにこの19世紀時期、対アジア間競争の勝利者になっていったか。「海洋アジア」の経済圧力が、近代史を書き換えた、西洋イギリスでは、産業革命をおこし、アジアをはさんで反対側の、アジアの東の端の、日本では、勤勉革命(生産革命)を起こした。この革命で両者は、「海洋アジア」から「脱アジア」を図った。江戸時代の鎖国の間に日本は富める国になるための基本条件はそろっていた。イギリスは、綿工業の自己産業化にあたって、アメリカ等の綿をアフリカの奴隷を労働力として使用し次第に大西洋を中心とした自国経済圏で、産業化し、産業革命をおこして富める国に脱皮していく。一方の東の端、日本は、自国内で徹底的に自己完結的に革命をおこなった。日本の自給圏は、日本国内(陸地志向)。英国の自給圏は、大西洋・大英帝国である環大西洋圏。(海洋志向)。新大陸の金銀の1/3が、アジア物産の購入のために、アジアへ。日本もアジア物産購入のため、金銀銅を輸出していた。16世紀には日本は世界最大の産銅国であり、東アジア社会世界に銅を輸出していた。東アジアでは、漢代から中国の銅銭が国際共通通貨であった。日本では、平清盛が、奥州の金を輸出し、銅銭(宋銭)を輸入していた。江戸時代まで日本には、独自の銅銭がなく、江戸幕府の寛永通宝を発行し、中国銅銭を駆逐していった。日本史上で始めて日本国内から姿を消した。清中国(康煕帝以降)の銅銭の素材は日本の銅である。また、銅はアジア全体の交易交換手段であった。かっての中国に変わってアジアにおける最大の貨幣材料の供給国になっていた。日本とイギリスとは、「貨幣素材」流失を防ぐために、アジア物産を国産化する必要にせまられていた。イギリスの産業革命は、木綿の機械事業から始まっている。参考として「近代世界システム」(翻訳・岩波現代選書・名古屋大学出版会1981年から・原本初版1974年から)は、アメリカの学者ウオーラーステインが提唱している理論。15世紀に出発点をもつ、現在の世界経済システムの展開課程の理論です。ブローデル(フランス)ウオーラーステインは20世紀後半最大の歴史家(翻訳書は、藤原書店・地中海他)といわれていますが、川勝先生は、このブローデル(フランス)ウオーラーステイン(アメリカ)理論から、独自に日本も含めた文明史理論を提唱しました。この思想から影響を受け、川勝先生の論は、「海洋連邦」論や、「ガーデンアイランド」論に発展
2006年01月04日
――――――――――――――――――――――――――――――――――鎌倉時代の[プロジェクトX]「東大寺大仏再建計画」大勧進職・重源―――――――――――――――――――――――――――――――――――●関西元気印?はてさて、関西は元気がない。では、昔の関西ベンチャー企業はどうだったか?を考える歴史講談です。昔を省みて今を嘆く話。で、トレンドもとりいれて、 サラリーマンに人気のNHK番組に似せて、平安・鎌倉時代の[プロジェクトX]をとして見てみましょうか。内容は「東大寺大仏再建計画」。(参考資料HPは文末に提示)この話の主人公は、重源(ちょうげん)という大プロデューサーです。源平の争いで焼け落ちた奈良大仏、大仏殿を日宋協同事業として再建しました。(ちなみに奈良大仏・大仏殿は、戦国時代にも焼け落ち、江戸時代に再建されています)動乱の時代にアジアを股に掛け大仕掛けをした人です。●歴史についてのお勉強では少し、この時代のおさらいです。時期は源平の合戦から平泉大乱(奥州藤原氏を鎌倉幕府軍が征服した戦乱1189年)まで。日本で初めて北から南まで武士が大移動し日本が大戦乱の巷にあった時期です。つまりは、平安時代から鎌倉時代への過渡期。武士階級が台頭し、国家が構造変革の時期です。この時代、現在の日本と同じように構造改変が進んでいます。というか国(京都王朝)のお金がなくなってきていました。荘園制が進み、国家に税金が入ってきません。財政破綻です。国家の経済システムを変更せざるを得ない時期です。何か今に似てますね。おなじみ平清盛は、日本の経済機構を変えようとして、奥州平泉の黄金を、宋に輸出し、逆に主に「宋銭」を輸入。当時の日本では永い間、銭(流通貨幣)が鋳造されておらず、この宋銭は急激に普及しました。新しい経済の流通を作ったわけです。さらに平清盛は、日本の首都を福原(神戸市)に遷都。日本の国家構造を、貿易立国に変えようとしていました。また同じ時期、多田の庄(現・兵庫県川西市)に起こった摂津源氏の流れをくむ源頼朝は、この京都西国王朝に対して板東(関東)地方の独立と、武士階級の階級闘争のために旗をあげます。つまり時代が違いますが、アメリカの例に直すと、西部劇のカウボーイ(西部地方の土地開墾牧場主)が首都ワシントンの官僚のいう事を聞かず、自分たちの国「西部地方の武装開墾牧場主国家」を創ろう。日本では「坂東国家」を創ろうとしたわけです。まあ経済特区ともいえますが。●シニアベンチャー・重源?この時期、讃岐出身の重源は武士階級から僧(勧進聖)となり、大勧進職[だいかんじんしき]を執り行う事となります。勧進職とはあの歌舞伎弁慶の勧進帳で有名ですね。勧進とはお寺の再建などをするために民間や貴族から寄金を集めて物事をなしとげる事です。当時の勧進職を、いわばNPO組織を作り事業を始める「ベンチャー事業家」であるとみてみましょう。重源は大勧進職役職についた時すでに61歳。シニアベンチャー。京都王朝はこのようなご時世ですから、お金がありません。資金調達をも、この重源に頼むわけです。重源は資金を調達し、最新技術を持つ人材を組み合わせ、プロジェクトをやり遂げます。「企画から実施まですべてやってよ。あなたのコネクションを使ってスポンサーも見つけてきてよ」と京都から言われるわけです。重源は「スポンサーになって!」と、源頼朝や、奥州藤原氏に依頼するわけです。奥州(東北地方)は奈良時代から黄金の産地。奈良時代の大仏は塗金されていますので金ピカです。この奥州藤原氏の同族である西行法師に資金の斡旋をお願いします。西行法師と重源は、高野山の修行時からの知り合いです。ダチです。西行法師と奥州藤原氏は、平の将門(まさかど)乱(第1次関東独立運動とも言われます)を鎮めた有名な武人、藤原秀郷(しげさと)の子孫にあたります。この時代も(現代もそうですが)人脈と血縁関係は重要ですよね。キーワードはヒューマンネットワーク。重源は 人々(民間人)の宗教心と日宋貿易の利益を得てベンチャー事業を行ったわけです。日本全国を、阿弥陀の化身が一輪車でまわって行くという奇抜なアイデアで耳目を引き、東大寺再建キャンペーンを行うわけです。 寺の勧進と、兵庫など港の建築にも当たりました。当時の兵庫、尼崎(大物浦)の港改修工事は、重源の仕事と言われています。寺院再建材料である日本各地(特に山口県)の木材を奈良の地まで搬入しなければなりませんでした。ルートは?尼崎から淀川、山崎、奈良坂、を通じ奈良東大寺へ。この大仏殿の再建に当たって木材資材の調達のため全国を歩きその事績が残っています。そのための経済特区も作ってもらっていました。詳しくは末尾の重源(ちょうげん)関連サイトをご覧ください。当時の一流国は宋であり、鋳仏師の陳和卿(ちんわげい)という中国の最新技術テクノクラートを連れてきています。●支度一番になろう!というような具合に、重源は資金調達、材料調達、流通経路の確保、彫金技術などすべての技術と人間をも調達し[プロジェクトX]を成し遂げました。1180年東大寺焼亡。1185年大仏落慶供養。1195年には大仏殿はじめ中門などの造営。この重源の仕事のやりかたは、当時の言葉で「支度一番(したくいちばん)」と呼ばれました。企画・資金調達・実施・運営。プレゼンから報告書書き、式典まで、です。重源は仕事を終えて、建永元年(1206)、86歳でその生涯を終えました。1192年、鎌倉では源頼朝が鎌倉幕府を開き「天下草創」を行いました。新しい世の中を作ったのです。願わくば、関西のベンチャー企業や個人の起業でもいいでしょうが「支度一番」になり個人事業の「天下草創」されん事を願ってやみません。「重源の活動は中世日本のネットワーク構造を利用し、ゆりうごかし、ゆさぶるものでもあったし、そこに行使された数々の経済手段はあまりにも独創的なものだった。」以上の文章は松岡正剛さんの「重源」伊藤ていじ著(新潮社刊)の批評文の一部引用です。http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0063.html現在の我々も、考え方は一つではなく異なる考え方を取り入れながら、いろんな技術者とクリエイター(創造者)の組み合わせで事業をやりましょう。つまり、昔の関西人の方々は世界史上、アジア史上に残る大仕掛けを自らの力、実行力で行ってきたわけです。それゆえ、今の日本人が負けるわけにはいかんでしょう。今の日本人、ベンチャー企業、クリエイターの方々が、自らの人的なネットワーク、技術ネットワークを再確認する。東大寺大仏殿その他、関西に多々残る過去の大プロジュクトを思い起こし、事跡を見て感動し、この日本人の業績を思い起こし、現在の大プロデューサーが出でん事を、願います。●重源の郷http://www.chogen.co.jp/
2006年01月03日
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1900年8月14日、北清事変で西欧列強が北京を鎮圧。北清事変とは映画「北京の55日」で知られる義和団の乱。清朝末期、西大后は義和団という秘密結社を使い、西欧列強を襲われた事件。ラストエンペラー溥儀の生まれる2年前。この事件を機にロシアは満州占領。日露戦争の原因に。日本はこの戦役で世界に認められ、日英同盟へ。いわゆる多国籍軍には日本もふくまれていたわけです。映画は1963年作品。日本軍柴大佐の役を伊丹十三。当時の伊丹夫人の川喜多和子さんも出演。アメリカ軍マットルイス少佐にチャールトン・へストン。英国公使にデビット・ニーブン。公開当事は映画音楽もヒット。現実の柴大佐は、この戦役で有名になり、ジェネラルトーゴーの前に英国で有名になった日本人の一人。「ある明治人の記録」中央公論新書252で読めます。「北京篭城」は平凡社の東洋文庫の中に。柴大佐は大将となり、昭和20年87歳にて没。生まれは会津若松ですから戊辰戦争にて辛酸。下北移住も体験。約150年前、1853年ペリー来航。その50年後、1894年日清戦争。1905年日露戦争。1945年太平洋戦争敗戦。1950年朝鮮戦争。ペリーから14年後1867年明治維新。その27年後日清戦争。その11年後日露戦争。その36年後太平洋戦争という流れ。
2006年01月03日
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「ザビエルの謎」110ページ。「日本占領計画」1587年5月、イエズス会日本準管区長、ガスパル・コエリヨは、宣教師たちの緊急会議を開く。場所は、平戸の沖合いにある度島の洞窟である。「日本のキリスタン領主を集めて秀吉に反乱を起こす、イエズス会は軍資金武器を集める。スペイン軍を日本に導入し、軍事要塞を作ること」をガスパル・コエリヨは提案した。度島http://www.yado.co.jp/ship/f_takusima/度島地図http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.26.26.145&el=129.32.24.304&la=1&fi=1&sc=6
2006年01月03日
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「歴史・公民」全教科書を検証する」本の91ページ。「15世紀末にはじまったスペインとポルトガルによる大航海時代の波は、その後数世紀にもわたる欧米植民地支配の起点となった。キリスト教布教と征服事業ははじまから車の両輪であった征服の方をあきらめざるをえなかった日本のごときは例外であった」とします。日本に対する日本征服計画。また、イエズズ会の、スペインの明征服計画も企てられていました。それゆえ、当時、明征服を考えていたのは、スペイン、満州女真、そして、秀吉であったわけです。このあたりのことを、色んな本から、推理していきます。
2006年01月03日
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