作家の部屋 「ダルタニウスの苦悩」

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共同幻想論 研究



「<女性>というのは、乳幼児期における最初の性的な拘束が<同性>(母親)であったものを指している。その他の特質は男性に対してすべて相対的なものに過ぎない。身体的には勿論、心性としても男女の差別はすべて相対的だが、ただ生誕の最初の拘束対象が<同性>であったことだけが<女性>にとって本質的な意味を持つ。」
このフロイトの論考を踏まえた吉本氏の展開は次のようになっていく。
「最初の心的な拘束が同性であった心性が、その拘束から逃れようとするとき、ゆきつくのは異性としての男性か、男性でも女性でもない架空の対象だからだ。男性にとって女性への志向はすくなくとも<性>的な拘束からの逃亡ではあり得ない。母性に対する回帰という心性はありうるとしても、男性は決して自分の<男性>を逃れるために女性に向かうことはあり得ないだろう。」
この論拠から「あらゆる排除をほどこした後で<性>的対象を自己幻想に選ぶか、共同幻想に選ぶものをさして<女性>の本質と呼ぶ。」
この根拠として<巫女>は共同幻想を自己の性的対象となしうる能力を持ち、その対象が神でも人でも狐でも仏像でも、共同幻想の象徴であれば<性>の対象となしうる、という論拠になっている。
まず、出生が母胎を介して乳幼児期に、いつ性の決定がなされるか。育児担当が主に母親とすると子供にとっての拘束、サポートや育児全般は子供の性によって同性、もしくは異性となる。また、主に父親であっても同じことが言える。ここで性の決定は育児担当がどちらの性によるのかによって影響を、あるいは決定されるという根拠がないことが分かる。その拘束から逃れるための対象を他に求めるとすれば、対象への恐怖からの回避が異性か他の対象になる。恐怖からの回避としての異性か、同時に親和としての同性への志向が自身の性の決定に深く関わっていることが分かる。このいずれでもないとすれば、子供自身が自己幻想としての二重性もしくは多重性として人格を自己内に生み出す多情人格の右方での回避か、残るのは共同幻想としての宗教、国家や何らかの共同性を、自己矛盾を抱えたまま心の拠り所としていくことになる。
巫女が、つまりは女性が<性>の対象として人間である男性あるいは女性になしえない場合には、残された幻想領域は吉本氏の持論と言える個人幻想もしくは共同幻想の選択へと向かうのが論理の帰結と言える。
 ただ、分かりにくいのは「<性>的対象として自己幻想と共同幻想のいずれを選ぶかの特質には別のことを意味していない。」というところだ。これは、本質的な巫女にとっては、自己幻想と共同幻想が自己同一化している場合を意味し、このとき巫女は共同性としての宗教的権威を持つことになる。


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