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非正規雇用者大量解雇 世界同時不況の波がとうとう日本に押し寄せている。一つが崩れると、それに関連した産業も同時に不況の波を受けていく。業務縮小、人員削減は、こんかい真っ先に比せ好き雇用労働者に、そのつけを回している。 なぜ、このように大量の非正規雇用者がいるのか。これは2000年以降にバブル崩壊と共に就職氷河期が訪れ、その時期に雇用されなかった若者達世代が派遣社員やパート、不定期労働者、バイト、非正規雇用労働者として就業せざるを得なかった。その世代が、いま3万人以上にも達し、以前から問題視されていたにもかかわらず、政府が放置し、さらには規制緩和の流れと共に、解雇にかんしてもその締め付けの法規制が使用者側から外され、とうとうこの時期にその趣旨が生かされてしまったと言える。 突然の解雇と、社員寮からの退去勧告は人道上も許されざることだ。私たちは、いつでね上や貧困と背中合わせに暮らしている実態が露わとなった。内定取り消しも当たり前のように生じているが、この自体が再び、今の非正規雇用者群を再び発生させてくるのは目に見えている。雇用構造の仕組みを買え、不況時の法制化を整備しないと、弱者が社会から放置され、捨てられてしまう構造になっていく。高齢者からなけなしの年金を搾り取りね追い詰めていくのも、こんかいの自体同様に、人は根底からその体質変化を行ってしまった。もはや、社会正義や弱者保護や、福祉屋人道支援などはない。こうなったのが、現状の日本の姿である。
2008年12月18日
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現在の国家は19世紀末~20世紀初頭にかけて誕生した国民国家である。その下部構造は第一次産業(農業)と第二次産業(製造業)を経済基盤として形成されてきた。三権分立の国家形態もその時期に考えられている。 現代はというと、産業構造が変化し超資本主義からポスト資本主義へと移行してきている。産業構造は第三次産業(サービス業)から第4次産業(情報・IT産業)主流となり実体経済は国境を越え、グローバル経済、あるいは超多国籍企業が世界経済を担い、1経済圏と化した世界は、従来の国家主体での、既存の国家を保存したまま経済実態をコントロールすることは最早できなくなっている。そのことが庶民に感じることができるようになったのは、ガソリン代の高騰だ。さらに、マネーゲームと化した投資ファンドは住宅ローン問題として顕在化し世界を同時不況に陥れる事態を招いた。これにたいして、各国は個々の防衛力を駆使ても、最早対処しきれず限界を超えていると実感できた。 既存の枠組みでは、もはや世界経済を操作することはできず、EUのような地域統合経済体制を組むなどの新たな枠組み作りが不可欠となっている。アフリカ共同体、アジア共同体、環太平洋共同体、北米共同体、南米共同体、ロシア共同体といったような地域共同体の構築等が考えられる。また、従来の世界意志決定機関である「国連」はまさに旧国家体制のなごりであり、この組織を解体するとともに再編し直すことが緊急課題といえよう。
2008年11月10日
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子供の死の理解について、マリア・ネギーの研究では、第一段階・・5歳くらいまでの就学前の子供は死が最終のものであるとは認めない。死は生が減少したものととらえている。第二段階・・5~9歳。この段階は死を主に男性に擬人化する。死が確実にやって来ることに対しては不確かである。第三段階・・9~10歳以上。死は生の最後であり避けられず普遍的であることを分かっている。 精神医学者エリザベス・キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間」の研究では、死にゆく過程の五段階としてまとめられている。第一段階・・<否認>まさか自分がもう死ぬとは信じられない。嘘だ、藪医者だと思う。第二段階・・<怒り>自分は品行方正に生きてきた。どうして自分はガンにならなければ ならない。第三段階・・<取引>今日をもって好きな酒を止めます。神様、ガンを直してください。第四段階・・<抑鬱>もう、疲れた。何も考えたくない。誰とも話したくない。第五段階・・<受容>人間は誰でもいつかは死ぬ。靜に運命を受け入れよう。この死の受け入れまでの五段階プロセスは有名になっている。さらに、彼女は「死後の真実」の中で、次の「死の三段階」を上げている。第一段階・・人の肉体の死はチョウ(肉体)がマユ(魂)から出て行くようなもの。第二段階・・臨死体験の状態。精神的エネルギーで幽体離脱し、自分の体から去った場所で何が起こっているかを知覚する。新しい感覚を身につけ、この魂は時空間のないところに存在している。現実界で強く印象に残っている場面をすべて通過し、光に包まれた最終地点にたどり着く。 第三段階・・生前は、いつ何を思っていたのかこと細かにわかり、今までの言動をすべて思い出す新たな認識力を持つ。完全で無条件な愛の世界であり、神と一つになる。 18の博士号を持ち、世界で最も末期患者の援助に心血を注いだ研究者が、自身最後にたどり着いた研究は、ここであった。彼女はすべての命に対する完全な愛と畏敬の念に包まれ、それが宇宙に広がっていことを感じたという。
2008年10月17日
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最近、立て続けに具体的な「死」と接した。尊敬する菊地實川越市会議員と、約12年間共に暮らした愛猫の死である。生者必滅は分かりきったことだが、生きることで得られてきた経験や、知識や、思いや、関係の総体を、個体の死ですべて失うことへの思いを、私たちはどう受け詰めたらよいのか。古人たちはどう感じ、またどう考えてきているのか。 吉本を手がかりに、今回は命と死を取り上げてみた。古代人にとって誕生と死は、現代の私たちが考えているのとは、少々違っていた。 個人は死を体験できない。死と対自的になれても、知識としての死であり、仮構の死であり、あくまで他者の死であり自己体験できない死である。それは見聞としての死であり、生も同様である。生まれることができ、子供を産むことができても、自己意識において誕生という生を体験できない。生まれることは誕生した身体にとっては、正確に言えば自らが生まれたのではなく、この世に産まされたのであって、自己自身が自ら産まれることはできない。 死も同様で、自殺はできても、死ねば死にきりで死の自己体験は語られることのない個人体験であり、体験とはあくまでも生きているものにとっての側にある。 「私たちは、自己意識としてかんがえるかぎり、<生れ>もしなかったし、<死に>もしなかった。」(吉本:死について)とは、まさにそのような意味である。 死は媒介的な認識としてしか存在しない。死のとらえ方はさまざまではあるが、日本的な死のとらえ方は、死を予感、宿命や恐怖として捉えられても、死そのものを対象とした死生観を思想化し得なかったといえる。死は自然に仮託され、あるいは哀惜、哀れといった情緒的なイメージとして捉え、あるいは宗教としての死は捉えられても、死は体験できない。あるいは、他者の死を媒介としてしか死を語ることはできないという知識を持たなかったことが、アジア的であり、日本的なのである。 「死が恐ろしいのは、関係の意識が人間に存在するからです。・・・それが、じぶんの生存と他人の死との関係としてあらわれるか、じぶんの死と他人の生存との関係としてかんがえるためである。それは他人の死を目撃するとか、じぶんの死にたいする他人の嘆きを妄想するとかいうこととかかわりない。人間のじぶん自身の生存とじぶん自身の死との関係が、じぶんと他との関係としてあらわれるほかないからである。」(吉本:カールマルクス) たとえば、記憶に鮮明なところでは「三島由紀夫の死」があるが、これは自殺であり、公的な幻想を生み出し、死に意味を込めようとしたが、その衝撃は思想的ではなかった。 死を生からの離脱と考え、死後の世界に、あるいは生の流転をも考え出されていることで、死を越える死の意味づけもある。この感性的な恐怖は、生を受けたものの時空間の狭さから来ていた。 中世の仏僧たちの死生観は、自分の死を確認するのは不可能であるがため、修行で生の意識の継続から死への移行を、仮構の死後の世界の実体化でやろうと試みた。これは方法も死の恐怖を根拠とし、死を越えようとしている。信仰さえあれば、その死の苦痛を乗り越えられるというう訳だ。いま、私たちは、宗教から離れた死を考えるべき時が来ている。 「死は、個人に対する類の冷酷な勝利のようにみえ、またそれらの統一に矛盾するようにみえる。しかし特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在に過ぎず、そのようなものとして死ぬべきものである。」(マルクス) 死を考えるということは同時に生を考えることであり、人間が類として地球上に生存していることを、どう捉えるかということでもある。マルクスにとっては人間は自然から疎外され、他者である個人からも疎外されている。 死について、吉本は「死の位相学」としてまとめている。死を思想として扱い、ここまで考えつくした本は、今まで日本には存在していない。西欧では死をテーマに思想家や哲学者たちは30代頃から考え尽くすが、日本にはその土壌がなかった。さまざまな死への迷信や宗教や思想の幻想を排除して何が残るか。 まず、E・C・ロスの「死ぬ瞬間」を取り上げる。死についする意識の過程を抽出したもので、死を宣告された患者のインタビューをまとめ、五段階の法則性をにまとめている。その第一段階 自分はそんなことはないという、死の否定がやってくる。 第二段階 一種の怒りや、憤りがくる。 第三段階 延命や取引にいたる。あと何年か生きさせてくれたらどんなことでもす るといったような、具体的な取引になったりする。 第四段階 憂鬱、抑圧、悲嘆といった心の状態がやってくる。 その1 いろいろやり残しがあるのに、なぜ死ななければならないのか といった憂鬱。すべての慰めなどの言葉が役に立たなくなる抑鬱の段階 になる。 第五段階 最後に受け入れにいたる。そしてただひたすら眠りたいと願い、また、 受け入れの言葉をしゃべる段階となる。ここまで来ると24時間以内に 亡くなるといわれている。 このような、死にいたる直前の心の動きの抽出がある一方で、ミシェル・フーコーの「臨床医学の誕生」を取り上げ、身体の死を「分布の死」として評価している。 これはフーコーの「死の過程」で人の死は肉体的には粘膜→臓器→筋肉と「死の進行形」が進む。しかし、死は体全体に一挙に来るのではなく、肉体の中で時間的にも場所的にも分散して、一転が死んでもまだ他で生きている場所はある。脳は停止しても心臓が動いていたり、心臓が停止しても髪の毛が伸びてきていたりということもあるという。時空間的に分散して死は分布する。フーコーは実際にはさらに詳しく述べている。死は覚悟でも、偶然の事実生でもなく、また点でも線でもない。はたして死の理想はあるのか。筆者は死の向こう側から再び生を見るという視点を取ることで、死の恐怖を最小にして、無意識の死を臨んでいるような気がする。
2008年10月07日
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72年の人生で、多くの人と出会い、社会運動家として他人のために一生懸命いろいろなことをなさったはずです。そこで出会った多くの人たちは、あなたとの想い出を数多く共有しています。私が接することができたのは、あなたの最後の1年あまりでしたが、恐らくその1年間では、もっとも接していた人間の1人だったと思います。ですから、最後までしっかりと、感謝を込めてお見送りさせていただきました。私が突然市議選に立候補し、事務所での初対面の時は、さすがにどんな人物かと半信半疑でした。やがてあなたの学生時代の様子をうかがい、そこで人間的にも、思想的にも全幅の信頼を寄せることができました。さらに、現在の霞ヶ関に転居され、牛乳屋・書店経営と自営業をされながら「ホームジャーナル」を地域のために作り続け、既成政党に属さずに市民活動、議員活動を長期にわたり精力的になさっていたことを知りました。きっと、どこに住んでいたとしても、魂の部分では社会運動を必ずなさっていたはずです。あなたは、そういう天性の性分を持った人だ心底分かりました。転居が当市であったことが、私には幸いでした。今、ホームジャーナルを読み返している内に、興味深いあなたの文章に出会いました。「物を云う市民の礎に・・役立たぬ市議一年の反省記」(昭和4 年)と題する記事です。「議員になって痛感したことは(1)人間の住むにふさわしい環境づくりが遅れている(2)建設優先で民生福祉や住民要求が第二次的になっている(3)陳情政治が横行し、科学的・計画的な施策がない」という指摘です。「その原因は端的にいって、自治体が市民の要望や市内の状況把握にうとく、もた市民も積極的問題提起しないなどが指摘できる」とのこと。これは現在でも、そのまま通用してしまう内容ですね。そして「みなさんの意志や声によって、政治は進めていくものですし又そうあらねばなりません。がまんすることなく大いに声を上げてほしいのです。物をいう市民として市役所や出張所などに働きかけてほしいのです。そして、皆さんの要望が受け入れられないか、解決しない時に、私共議員を活用して欲しいのです。みなさんの声を足がかりに、人間優先の政治を市政に確立するため、努力していくつもりです。」こう締めくくられていました。長い引用ですが、菊地さんの政治姿勢がよく表されているように思えます。いかなる政党にも属さず、一匹狼として信念を貫いた巨木が突然倒れましたが、この意志を継いで、私たちは当市に改革の火をこのまま消してはならないと思います。「人のために 働いてきた人生でしたね」と僕が言うと 「自分のためにやっているのさ」と答えましたね この言葉が、ずっと心に残っています。「死ぬときは眠るように死にたいな」とおっしゃっていましたね。でも、そのようになくなられてしまいました。
2008年09月26日
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強制虚勢 ポーランド政府は性犯罪者を対象に、法で投薬により強制去勢するという。つまり、男性が対象だろうが、無理矢理に性転換するというのだ。国民の84%が賛成とは、驚いた。きっかけは、 同国東部の男(45)が自分の娘(21)に性関係を強要し、男児2人を生ませた事件で、トゥスク首相は法制化すべく、刑法改正に向けた準備を司法省と保健省に指示したという。殺人に対して死刑。性犯罪者への処罰が、去勢。考えさせられる。
2008年09月26日
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国民保護法が国にはあるように、地方自治体にも自治体住民保護条例があってしかるべきではないか。行政の失敗のすべては、税の負担として住民に戻されてしまい、行政の管理者、執行担当者、議員などの責任は一切問われない。夕張市の財政破綻が良い例で、この教訓から住民が行政施策、議会での決定内容、等の情報を共有し、もの申すことのできる卯を作る必要と、責任の所在を明確にする必要がある。
2008年09月13日
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福田首相 投げ出し辞任またか。呆れた辞任劇が、再び起きた。すでに自民党自体が政治継続を、責任政党としてできなくなっいることを、意味している。瓦解していく自民党政権と、すでに破綻している政治制度。行き着くところに来ている政治体制の、断末魔の状況が起きているのが、まだ諦めきれずに、続けている。国民は、もっと理解すべきではないか。こんな状態で、また自民党が麻生総理にしていくなどとメディアが吹聴しているが、これも呆れたことだ。
2008年09月01日
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いま、せんたく議連というグループが、早稲田大学の北川正恭教授(元三重県知事)を中心として、超党派で政治改革を試みている。せんたくとは、洗濯と選択をかけているらしい。遊び心は何にでも必要だが、中身はというと行き詰まりと疲弊の国会および国の官僚機構を改めて、政治主導で改革をしようというもの。 中央集権的な政治機構そのものが、産業構造の変化に耐え得なくなっているのは、最早いうまでもない。地方分権改革や地方自治体の改革、官僚主導の国会運営の根幹を解体して、作り直さないと日本は駄目になる。この危機意識が、マニフェスト作りとともに「地方政府」の確立や、国民のための情報公開の機構改革、戸同時に議員の意識改革をしようというもの。おそらく、この動きが今の党派制を無化した状態での主流の先鋒といえるのではないか。 800兆円以上の赤字を抱え、それでも未だに無駄を無駄と意識できずにいる行政、そして頽廃した中での覇権争いや、利権争いが故にを動かしている議員の実態だ。私たちも目を覚ます時期に来ている。
2008年08月25日
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今、なぜ吉本か?という問いを投げかけるとすれば、彼がものごとの原点を解析し、゛く、独自の視点でそれらを普遍的に言い直して展開して見せたところにある。それらの思想は私たちの考えを次へと進めていく上での大きな手かが狩りとして利用するに値する。そう思われることが宝庫のように眠っているからだ。 <大衆の原像>を捉えていく内に、私が上げた<非知>とその二つがつながることが分かり、心密かに興奮している。マルクスの労働価値説を突き詰めると全対象は人間により価値化されてしまう。論理的な探求は息苦しい閉塞感を感じる。これは、<知識>が閉じられてしまう運命にあること。世界性まで獲得する跳躍の可能性があっても、それは知識の自然過程で、それ以上は閉じていく閉塞感を持ち、やがて<党派>を生みセクト主義へと陥るのが学派の末路だ。そこで、それを防ぐには<非知>なるもの、つまり無価値なものを繰り込むことで、絶えず<知>を開くことが<党派性>を回避するための唯一の方法だ。そこで<非知>つまり<知>ではないものに価値の根源を置くこと、<知識>を繰り込めるようにすることが、人類の全思考史の転倒へとつながると判断した。そして、<大衆の原像>が、吉本が設定した、まさに<非知>であった。一人の人間が、生まれやがて結婚し、子供を産み、老いてて死ぬ。この人の身体の生理的自然過程にそって、人の考えも動いて行くという生き方が一番普遍的な、価値のある生き方であると、吉本の世界思想は行き着いたのだ。大きな思考のドラマを見ているような気がする。 大衆を否定したり、大衆を利用し大衆を犠牲にし権力を振るう官僚や権力者の構造を、どうしたら解体できるか。彼は生涯をかけて、このテーマと立ち向かってきた。 アジア的な様式は、時間軸としてのアフリカ的段階からアジア的段階へといたり、やがて西欧的近代的な段階へと移る。その時間的な自然過程で、さらに高度資本主義的段階へといたるのも必然だと断定する。現代の民族国家の経済構造的な下部構造は、第一次産業である農業・漁業・林業といった生産部門と第二次産業である製造部門の上に成り立ってきている近代国家といえる。現在の日本の国家形態も、地方自治の形態も民主主義の基層には日本的な政治構造とともに、この民族国家の三権分立と議会制民主主義が官僚制度とともに成り立つ国家といえる。 ところが、産業経済構造は1960年から80年の間に飛躍的に変化し、サービス業主体の第三次産業、さらには情報産業である第四次産業へと返還してきている。この多様化した産業構造の変化に対して、国家形態は古い構造のままに変更されずにあるために、多くの矛盾や破綻が生じてきているというわけだ。世界のすべての先進国もこの変化のイメージに追いついていけていない。その新たな動きの端緒は欧州共同体で、無意識の最先端は既存の国家の枠から新たな枠組みの構築を、どこまでやるかが一つの動きの目安となる。 すでに世界経済は一国ではコントロールできなくなっている。すでに、先進国は経済、政治、環境など主要なすべての問題で一国主義が破綻していることを示している。欧州共同体以上の世界性が、緊急に健闘されるべきなのは人類存続の命運ともいえるのではないか。 これを意識的に制度解体し直すために、吉本は3つのことを加えれば脱出の可能性があるという。そのヒントを利用してみた。 その第一は、国家が軍隊を持たない。つまり、国家機構から自衛隊や国軍といえる組織を切り離す。その組織を地方政府に移譲し、地域が管理する。基礎自治体の住民の承認なくして地方政府軍は行動し得ない。たとえば、それが道州制だとして地方自治体が自治体軍を保持し、派遣等は議会の議決や民意により2/3以上の賛成で行動するという条令を設ける。こうすることで、一部の権力者の一方的な戦争を抑止できる。 第二は、共同体管理として、あくまで公共性が高く、民営化すべきではないもののみを公有化、公営化する。それ以外はすべて民営化する。官僚制機構を解体し、公務員制度改革を図る。 第三は、中央政府、地方政府の首長の選任および罷免権は住民が有し、政府及び自治体の解散権は2/3の合意により、首長とともに住民がその任免権(リコール権)を有する。首長は任期制とし、徹底した情報公開を推進する。 これら三項目は、吉本の理論の応用で出てくる結論である。
2008年07月28日
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7/1722.26 11年付き合っていた我が家の猫 ちびが 息を引き取った。重い腎臓病を最後は患い、食べれば体に尿毒素が出てしまう苦しいつらい最後だった。庭先に5,6匹野良猫が産んだ子猫の一匹を、私が拾い上げて目の見えないチビを、ミルクを与えて育てた。手塩に掛け、外にも出さず家猫として大事に育てていたので、きっと本人は人間だと思っていたに違いない。いつも、二人で会話し、仕事のない時、家でちびに、癒されっぱなしだった。いつも、二人でくっさいて、といってもいやがるちびを無理矢理抱いて、かまっていた。その日はもう仕事に行く前から息絶え絶えだったから、帰宅する頃には一人で死んでしまっているに違いないと思っていた。でも、夜9時すぎに変えると、玄関先にぐったりと横になり、えっ死んでいるのかと思ったが、ピクのと足が動いたので、「ちび、ただいまー」と大きな声で繰り返し話しかけた。普段行かない冷たい玄関先で寝てしまうので、カーぺっーとに戻し、てでさすり、手を握り、暖めて射すってあげると、顔を何度も持ち上げて反応してくれた。やがて、何とか起き上がろうとして、また、倒れた。さして、私が見つめる前で静かに行きを引き取った。「ちび、ちゃんと最期を見届けてあげたよ」なんか、止めどなく涙が溢れる。「ちび」と声を掛け、揺すったが息はなかった。いつも横になっている座布団に遺体をのせ、線香と好きな缶詰、水をあげて、二人でお通夜。ちびと語り明かした。さようなら、ちび。いままでありがとう。
2008年07月18日
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<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、その頂きから世界を見下ろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂やかに<非知>に向かって着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的に<非知>に向かって環流するよりほかに仕方がない。最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。」(最後の親鸞:吉本隆明著) 前号では、<大衆の原像>を取り上げたが、今号の<非知>とは密接な関係がある。吉本の<信>の構造「対話篇」では、次のように語っている。 知識あるいは理念的なものは、宗教や信仰と同様に閉じられていくという宿命にある。ギリシャ哲学以来、内容は高度に緻密になってきているが、結局その知識の収斂の仕方は閉じた体系になってしまう。そして、知識が閉じられると<党派>になってしまう。その党派性を防ぐにはどうしたらよいか。そこで<知でないもの>に価値の根底を置けば、、またそれを自分に繰り込んでいければ知識は閉じられなくて済むのではないか。こうして、彼の<大衆の原像>が考えられている。
2008年06月17日
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戦闘的民主主義と大衆世界同盟 民主主義も戦後日本の政治制度として、真に定着しえたかどうかというと、最近の政治を見ても疑わしい。自民党一党独裁と官僚制との一体化が、議会制民主主義の名の下に腐敗と国民乖離の中央集権政治を行ってきた。 しかし、この民主主義の導入と運用は大きく曲がり、民意を反映しがたい、生活者・庶民を足蹴にする発想の理念や赤字を生み出し、それでも自民党議員から国民は馬鹿にされている。大衆をないがしろの民主主義を改め、しかも世界性のある制度けっけいをし、大衆が納得いく政治を奪回する必要があると考える。それには社会民主主義でも、改革民主主義などでもない。みな使い古された妥協の産物で、真に根本的な解決とはいえない思想ばかりだ。 そこで、私たちは「戦闘的民主主義」として真に生活者である大衆を主役の政治制度に作り直し事を提案する。なぜ、国民といわないかというと、国民は国家がある、その一員という既成関係が取れていない。既存の国家的発想では、私たちの希望が達成できるとは思わないし、国家はあえてなくても大衆は生きていけるのであるから、各国に同じ生活者として存在する世界民と連帯するために、「大衆世界同盟」なる発想で生活者の連帯を世界レベルで手をつなぐことでくらし、諸問題を解決していきたいと考えている。
2008年06月11日
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中央集権敵官僚制度を解体するには、分権改革と同時に、行政主導から大衆主導の協働という改革の柱で推進する。と同時に新しい議員像は、この行政主導を改革するため、行政プランナーとして、いままで官僚たちが一手に担っていた官僚主導の機構そのものを解体するための、大いなる役割を担うべきであると考える。
2008年06月10日
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丸山真男論のなかで、終戦直後の大衆の様子を「大衆は、それ自体として生きている。天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている。それから出発しない大衆のイメージは、すべて仮構のイメージとなる。」と指摘。大衆の日本的存在様式の変遷として設定しないと、大衆自体を変形させてしまう。例えば民主主義では大衆は国民国家の国民として法に従い民主主義思想の用語と確立に努めなければならないテーマを持たされる。社会主義国家では、プロレタリアートの国民として社会主義建設に寄与しなければ成らず、民族国家であれば民族の一員としての義務と責任を負うといったように、「大衆の原像」はさまざまな思想や共同体の幻想によって、仮構のイメージを負わされてしまうことになる。あるがままの大衆は、歪められてしまうことになる。 思想における真の課題は、日本型知識人の眼鏡を通して見られた、さまざまな体制や、階級や大衆の問題などは、それ自体が歪められた擬制の幻想である。大衆の存在様式を支配の様式が決定するのではなく、それらの共同幻想を排除することで、初めて大衆の真の姿を見いだしていくことが、思想的な課題であり、知識人は絶えず「大衆の原像」を繰り込むことで思想を検証し、新しい思想を構築すべきだと示唆する。 日本の知識人、学者とは、たゆみない実証的な検索のはてに、事物のイメージがおのずから沸き上がってくるのを待ちきれずに、文献の中に小さく挫折するか、あるいは素人にも容易く手に入る知識をかき集めて、一角の学者づらしているジャーナリストになりがちだと批判する。彼はその批判をできうるだけの思想を、単なる模倣ではなく日本の思想史に大きく構築して見せている。 思想の根源をどこに置くか。大衆の「無為」な生活と矛盾さえしなければ大衆それ自体はラジカリズムを決して回避するものではない。戦争に行くことを国家から強制され、あるいはその国民としての責務を化されたとしても、仮構のイメージとしての共同幻想の国家を拒否し、戦争をも回避する「大衆の原像」を思想の原点として行くべきだというのが、彼の大きな思想の核となっている。
2008年05月28日
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「世界を理性的に見る者にとっては世界はまた理性的な観を呈する。両者は交互的限定に立っている」(ヘーゲル「世界史の哲学」) これは、色眼鏡を掛けて対象を見ると、対象はレンズ色に見える。本人は、それで対象を見たと思っているが、対象は見た者の色の染まってしまっている。ただ、見た人間には、それが分からない。そのレンズ色が対象であるという事実が、また見た者に認識と思考をあたえることとなる。しかし、実はそれは対象が限られた真実しか語りかけてはいないのだ。 好きだと思えば「あばたとえくぼ」と似ている。見ている者の意識によって、対象は限定されて表象を露わにする。それは、現実の実態のすべてを、あるがままに総体的に明かされているのではなく、限られた部分認識に過ぎなくなっている。それでも、本人は、それなりに理解できたつもりになってしまう。得てして、日常社会にも、このような例は蔓延しているといって良い。認識の根本にかかわることを、ヘーゲルは初めて文として捉えて見せた。
2008年05月27日
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学者とは、たゆみない実証的な検索のはてに、事物のイメージがおのずから沸き上がってくるのを待ちきれずに、文献の中に小さく挫折するか、あるいは素人にも容易く手に入る知識をかき集めて、一角の学者づらしているジャーナリストに過ぎない。
2008年05月27日
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後期高齢者医療制度 知れば知るほど、よほど冷酷な人間が、事務的な発想でプランを作成しているのが分かる。これはあきらかに東大出のエリート官僚が、机上プランを作成し、自民党に下ろしたものを小泉元首相が議会に丸投げし自分の任期中に仕上げようと強行採決したものだ。 年齢で行われる差別医療は弱者の老人をターゲットに、福祉政策を根底の発想で転換した。それは、社会保障は行政は一切行わないという考えだ。まさに「聖域なき構造改革」であり、老人という弱者をもはや、弱者とはせずという発想だ。 年金天引きは、老人から相談の機会も奪い、さらに現金納入者も含め滞納者は保険証を没収、取り立てられなければ資格証明書を発行し、1年反語には保険給付は差し止めとなる。つまり、10割負担とする。これは、世界に類を見ない過酷な高齢者医療保険制度といえる。また、天引きのため、現在10%の負担が老人の人口増で2015年の保険料自動引き上げ10.8%でも、自動的に有無を言わさず年金からふんだくるシステムができあがった。どこを見ても、老人の痛みを分かるなどという福祉の発想など微塵もなく、社会福祉制度を自ら官僚が崩壊させている。収入が制限され、健康状態も低下する老人に対するケアの発想は根底には全く流れていない。 また、都道府県でも 市町村でもない「広域連合」は、一般財源を持っていないため独自の保険料減免措置を講じたりは一切できなくなる。従来は、自治体行政により、減免サービスが受けられていたがそのようないたわりの発想すら、ブロックされてしまった。 75歳でもお元気な方、すでに体を病み寝たきり老人や、通院通所医療介護を受ける方など様々である。そのここへの対応を線引き方式でカットし、無卯を言わさず一律扱い。 これは、とんでもない医療制度の導入と言わざるを得ない。 厚労省は、病気単位、患者単位で診療行為、医療材料を1ヶ月一律定額で限定するという内容を取り決め、こうなると、患者である老人は必要な医療が保険では保証されず、適正な診療などが受けられなくなる。遠ければ保険外のための高額医療となってしまうからだ。そうなると、病院も適正な治療はともすれば病院の持ち出しと成りかねないため、診療行為自体が制限される。 従来の医療費自動償還は、新制度では高額医療は、申請が本人もしくは代理者から行政に行われないと返還されない。 地域差や性差により格差が生じ、長生き広域連合は、保険料負担が大きくなり、高齢者が多い地域は、維持が困難になってしまう。保険負担のペナルティーが地域連合によっては生じかねない。また、厚労省は都道府県単位で高齢者数に応じた「かかりつけ医」制度導入し、このかかりつけ医に高齢者医療行為の抑制役を押しつけてる。これは、かかりつけ医以外への受診を制限し、国民皆保険制度の根本である医療機関選択制、セカンドオピニオンシステムの権利を抑制することになる。同時に、かかりつけ医定数制は除外医療機関も生じ、かかりつけ医への受診回数制限をも設ける事が懸念されている。主治医と専門医である「かかりつけ医」の両者で老人医療を見ていく体勢づくりが不可欠だと考えられる。 広域連合は各市町村の長及び議員から選出され、高齢者の意見は直性反映されるシステムではない。住民が広域連合に対して議会傍聴を行い、制度や運営の改善を有給する必要があり、住民による条令制定の直接請求も視野に入れないと、広域連合自体が、国の介入により単なる国の出先機関となり、国の良いなりに保険料を取り立て、あるいは給付抑制をする抑圧機関となりかねない。また、広域連合の共通経費を厚労省モデルで(1)高齢者人口割り、(2)人口割り、(3)均等割などを市町村に均等割してしまうと、1人あたりの負担額にも格差が生じる。 さらに、医療費抑制の観点から「終末期医療・看取り制度」の導入で、病院での看取りは抑制し、自宅で看取りをさせようとしている。行き場を失い高齢者、介護サービスの受けられない高齢者、家庭や地域から孤立する老人が大量に生まれ、家庭・地域で孤立する人権侵害の危険性を孕んでいる。個々のケースで在宅、病院の選択ができる対応が必要だ。 尊厳死のために終末期医療はどうあるべきかを、厚労省は、単に医療費抑制から決定していこうとしている。患者、国民の要望を聞き、きちんとした在り方を考えなければ、死のたらい回しや、死の責任転嫁が社会全体を覆いかねない。 医療費の適正化を図るには、数値目標を設定し、それを定期的に見直すことで、達成困難な都道府県には個別の診療報酬を導入するなどの新たな検討策も考える余地はあるだろう。完全なる赤字国家は社会保障に資金を投入しうるベースがない。高齢者医者医療も同様で、本来であれば予測しうる事前分かっていた。この事態を、なんら計画性もなく予算配分し、あるいは無計画に多額の歳出を行いすぎた結果が、資金不足、方法無策のために新たな収入のない老人の年金を食い物にする、世界にもまれに見る魂の抜けた極悪制度を作り上げた。多額の年金を消失させたままで、そらみたことかの老齢年金支給額の削減、さらに高齢者への社会保障費の負担増、差別医療の診療報酬への導入などが、平然と行われている。本来、老人福祉法は、高齢者は「多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ豊かな知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障される」はずだ。この責務を無視し、老人となれば苦しい未来が待っている社会を、突然描いて見せた。 私たちはあえて後期高齢者などと差別して「独立した医療制度」を創設する一用はないと考える。また、工費負担の拡大で拡大する制度財源を確保すべきである。特に70歳以上は、患者負担をさらに軽減し、窓口負担は、外来は一律1割負担、月額上限1000円程度とし、定額負担は1回500円、月2回までの、入院は1日700円までといった選択制を可能にすべきではないか。また、現役並み所得者の3割負担も廃止すべきだと考える。保険料は、応能負担の原則を徹底し、一定以上所得者の報酬上限は撤廃する。逆に、一定以下所得者の保険料は免除する。広域連合の医療給付費の実績で、地域別保険料の導入も検討すべきであろう。暦年齢や地域間格差のよる診療報酬格差は、絶対に設けるべきではない。高齢者が安心して療養できる施設の確保、在宅、居宅環境を整備し、「かかりつけ医」制度の導入はなすべきではない。地域の高齢者や住民の全人的医療を目指し、「主治医」機能をさらに強化すべきだと考える。
2008年05月25日
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後期高齢者医療制度 知れば知るほど、よほど冷酷な人間が、事務的な発想でプランを作成しているのが分かる。これはあきらかに東大出のエリート官僚が、机上プランを作成し、自民党に下ろしたものを小泉元首相が議会に丸投げし自分の任期中に仕上げようと強行採決したものだ。 年齢で行われる差別医療は弱者の老人をターゲットに、福祉政策を根底の発想で転換した。それは、社会保障は行政は一切行わないという考えだ。まさに「聖域なき構造改革」であり、老人という弱者をもはや、弱者とはせずという発想だ。 年金天引きは、老人から相談の機会も奪い、さらに現金納入者も含め滞納者は保険証を没収、取り立てられなければ資格証明書を発行し、1年反語には保険給付は差し止めとなる。つまり、10割負担とする。また、天引きのため、現在10%の負担が老人の人口増で2015年の保険料自動引き上げ10.8%でも、自動的に有無を言わさず年金からふんだくるシステムができあがった。どこを見ても、老人の痛みを分かるなどという福祉の発想など微塵もなく、社会福祉制度を自ら官僚が崩壊させている。収入が制限され、健康状態も低下する老人に対するケアの発想は根底には全く流れていない。 また、都道府県でも 市町村でもない「広域連合」は、一般財源を持っていないため独自の保険料減免措置を講じたりは一切できなくなる。従来は、自治体行政により、減免サービスが受けられていたがそのようないたわりの発想すら、ブロックされてしまった。 75歳でもお元気な方、すでに体を病み寝たきり老人や、通院通所医療介護を受ける方など様々である。そのここへの対応を線引き方式でカットし、無卯を言わさず一律扱い。 これは、とんでもない医療制度の導入と言わざるを得ない。 厚労省は、病気単位、患者単位で診療行為、医療材料を1ヶ月一律定額で限定するという内容を取り決め、こうなると、患者である老人は必要な医療が保険では保証されず、適正な診療などが受けられなくなる。遠ければ保険外のための高額医療となってしまうからだ。そうなると、病院も適正な治療はともすれば病院の持ち出しと成りかねないため、診療行為自体が制限される。 従来の医療費自動償還は、新制度では高額医療は、申請が本人もしくは代理者から行政に行われないと返還されない。 地域差や性差により格差が生じ、長生き広域連合は、保険料負担が大きくなり、高齢者が多い地域は、維持が困難になってしまう。保険負担のペナルティーが地域連合によっては生じかねない。また、厚労省は都道府県単位で高齢者数に応じた「かかりつけ医」制度導入し、このかかりつけ医に高齢者医療行為の抑制役を押しつけてる。これは、かかりつけ医以外への受診を制限し、国民皆保険制度の根本である医療機関選択制、セカンドオピニオンシステムの権利を抑制することになる。同時に、かかりつけ医定数制は除外医療機関も生じ、かかりつけ医への受診回数制限をも設ける事が懸念されている。主治医と専門医である「かかりつけ医」の両者で老人医療を見ていく体勢づくりが不可欠だと考えられる。 広域連合は各市町村の長及び議員から選出され、高齢者の意見は直性反映されるシステムではない。住民が広域連合に対して議会傍聴を行い、制度や運営の改善を有給する必要があり、住民による条令制定の直接請求も視野に入れないと、広域連合自体が、国の介入により単なる国の出先機関となり、国の良いなりに保険料を取り立て、あるいは給付抑制をする抑圧機関となりかねない。 さらに、医療費抑制の観点から「終末期医療・看取り制度」の導入で、病院での看取りは抑制し、自宅で看取りをさせようとしている。行き場を失い高齢者、介護サービスの受けられない高齢者、家庭や地域から孤立する老人が大量に生まれ、家庭・地域で孤立する人権侵害の危険性を孕んでいる。個々のケースで在宅、病院の選択ができる対応が必要だ。 尊厳死のために終末期医療はどうあるべきかを、厚労省は、単に医療費抑制から決定していこうとしている。患者、国民の要望を聞き、きちんとした在り方を考えなければ、死のたらい回しや、死の責任転嫁が社会全体を覆いかねない。 つづく
2008年05月23日
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サブプライム問題、原油価格高騰、それら伴う新エネルギーのための穀物高騰、世界で起きてきている世界同時自然災害、忍び寄る物価高騰は我々の生活をどんどん脅かし始めて来ている。収入は上がらず物価は高騰し、税金は高騰するとなれば、私たちの生活はますます苦しい状況へと追い詰められていく。 世界規模での恐慌が近づいてきている。日本はすでに税金を800兆円近くも無我に使い、それでもまだ無駄遣いを平然とやっている。苦しむ弱者、これは安閑としては居られなくなっている。誰もか、なんとなく生活に危機感を感じ始めている。敏感な人間は、もっと仕組みも見えた上で危機感を感じているはずだ。
2008年05月22日
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申請主義と行政サービス 行政サービスは、申請主義といって、市民からの申請があって初めて手続きが行われる仕組みになっている。 これは、ある現金の交付が制度上あるとして、本人には、なにがしの金額が返金されるといった通知が行政から書類として送付される。実は、住民の受けられる権利にもかかわらず、交付金の申請を特定期日までに行政に申請すれば、その処理が実行されるという内容だ。受け取った住民がもし期日を厳守しなかったり、手続きを怠ったり、気づかなかったりした場合は、権利放棄と見なし、返金を行わない。こまやり方を申請主義という。 行政は、待ち受けの理論に基づいて、行政が住民サービスのために当然の返金の処理方法、手続き方法や手段だけの確認で、後は事務処理を粛々と行うだけで良いはずにもかかわらず、それを実行しない。そのための未払い金、未還付金は自治体により大きな額となり、そのまま戻入される。それらは、どう処理されるのだろうか。 支払われなかった年金同様に、プールされ、市の財産となって使われていくことになる。これは、ひとつの例であり、多くの申請用紙が各課によって住民の申請を待っている。市民が気づかなければ、それまでで反故になる。 行政サービスは、住民へのまさに利便性を図る、住民主役のサービスでなければならない。積極的な、住民の困らない、行き届いたサービスとなるよう改善すべきだといえよう。
2008年05月22日
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まったく、気にしない。個人個人、家庭環境、生活環境、地域環境など大きく違い、アバウトな枠でくくってしまう血液型や、星座などで、自分と相手は合う・合わないなどは、あり得ない。 知人は信ずるあまり、まず相手の星座や血液型は何かを聞き、合わないと思われる相手とは初めから、「合わない」と決めつけて付き合うことをしない。そうするのは勝手だが、大きく考え違いをしている。自分の成長と、相手の受け入れ、二人で築くべきこと、距離感、理解のしあい、多くのことの話し合いと刷り込みの努力と出会いの時期や、総合的な価値観で決めると良いと思う。
2008年05月21日
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「世界を理性的に見る者にとっては世界はまた理性的な観を呈する。両者は交互的限定に立っている」(ヘーゲル「世界史の哲学」岡田高平訳) これは、色眼鏡を掛けて対象を見ると、対象はレンズ色に見える。本人は、それで対象を見たと思っているが、対象は見た者の色の染まってしまっている。ただ、見た人間には、それが分からない。そのレンズ色が対象であるという事実が、また見た者に認識と思考をあたえることとなる。しかし、実はそれは対象が限られた真実しか語りかけてはいないのだ。 好きだと思えば「あばたとえくぼ」と似ている。見ている者の意識によって、対象は限定されて表象を露わにする。それは、現実の実態のすべてを、あるがままに総体的に明かされているのではなく、限られた部分認識に過ぎなくなっている。それでも、本人は、それなりに理解できたつもりになってしまう。得てして、日常社会にも、このような例は蔓延しているといって良い。認識の根本にかかわることを、ヘーゲルは初めて文として捉えて見せた。
2008年05月21日
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ほどよい距離感を保つと言うことは、自分も相手も、固有の個を維持できる。それは、自分を見失わず、自分をも失わない、とても良い精神状態です。しかも、相手のことを好きで、浮気しなくても、或いは浮気しようとも、思いもしないで済んでいられる。入りすぎたり、関わりすぎて相手の固有の精神性が、侵されて息苦しくなると、距離が近すぎて強制や、振り回しや、喪失感が不満や不安を生み出してしまうのではないでしょうか。 個が個にして固有でいられる愛の形は、僕の一つの理想ですよ。
2008年05月20日
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老人よ立ち上がれ!! H20.5.14.政府が施行した後期高齢者医療制度に反対し、とうとうお年寄り達が立ち上がり、制度反対の意思表示のため、国会へのデモ行進を実現した。これは、おそらく画期的なことだ。年寄りをいじめ、年寄りを苦しめる政府のやり口に、制度設計の見直しを迫り、或いは廃止を要求するものだ。老後のために、強制的に天引きされ、或いは積み立ててきた年金を消失する社保庁、さらにはわずかな年金から高額の医療費を強制天引きする国民皆保険制度。これを、いままでただ黙って受け入れるだけで従っていた国民が、とうとう立ち上がった画期的な日だ。これが全国に波及することこそ、今まで時代を担ってきていた国民が、若い官僚や政府の間違ったやり口を正す当然の政治的な発言行為だと言える。日本中のお年寄り達よ、組織して立ち上がれ!この国を間違った方向に、買ってにへし曲げていく、政府のやり口を打倒せよ。
2008年05月15日
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オーストリアの警察は、24年間にわたって娘(42)を自宅の地下室に監禁した上、性的暴行を繰り返して子ども7人を産ませていたとして、73歳の電気工の男(父親)を逮捕したとのこと。母親は失踪したものと思い、知らなかったそうです。
2008年04月30日
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現在、日本は飽食の時代、ものが有り余り、食料は豊富。コンビニやスーパー、デパートなどで、簡単に新鮮な食料が手に入る。その裏では、まだ食べられる食品が年間1000万トンも廃棄されているという。その、廃棄される食品の中には、いたんでも食品が捨てられているのが現状だ。これらの食料品を20年以前から、アメリカのボランティア団体が、スラム街やホームレス、一人暮らしの老人などに無料で配達を始めた。日本に来たアメリカの留学生が、日本でその活動をNPO「ハーベストジャパン」として立ち上げて、食糧支援を始めている。これは、大変興味深い。サイトアドレスhttp://www.secondharvestjapan.org/index.php/jpn_homehttp://foodbankkansai.web.infoseek.co.jp/http://hokkaido.yomiuri.co.jp/zoom/zo_070804.htm
2008年04月30日
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光市の本山洋氏の提言を受けて 他人を殺す動機は何か、なぜ殺意を持ち、なぜ人は殺人を実行するのか。犯罪心理の内面の解析だけで済む問題ではない。それは誰にでも起こりうる事件として私たちの日常に内在している。日常に内在しているとは、私たちの意識に存在しているという意味である。殺人の動機は、実行した個人の数だけ動機が存在しているが、それらを抽出してみると3つに大別できる。心的ファクターで分類するとその一は、身体的要因。脳に異常があるばあい。これは、脳の異常から来る、衝動を自分ではコントロールできなくなる、一種の精神異常だ。純粋殺人というカテゴリーに入るタイプで、人を殺して多の知る殺人快楽犯はここにいる。人が苦しむことを見て快感を味わう。その二は、家庭環境。特に親と本人との関係で乳幼児期の関わり方が引き金になる場合。その三には、第三者との関わりで、家庭内の関係を離れ、社会の諸関係から生じる原因による場合だ。 さらに、その三を細分化する必要がある。ここでも、個人幻想、男女関係としての対幻想、そして組織としての共同幻想から来る原因と大別することができよう。特に男女関係は対幻想の範疇で捉えるべきだし、国家とっいた共同幻想の場合、例えば戦争行為による敵国の兵士を殺すことも殺人として含まれてくる。個人幻想は、あくまで一個人の意識内の問題で、殺人は相手が必要となるために、個人幻想の範疇の殺人はないといってよい。 原因として考えるとすれば社会環境に大きな原因がある。その環境と、追い詰められた、選択力を失った個人の自閉的意識が他者との関わりの中で、自己中心的な目的の達成を相手の合意なく独断的に実行する。 その基層の社会関係の総体が殺人を実行させない環境へと変化していかない限り意識の中に殺意は潜在化すると同時に、その強制は実行されると言わざるを得ない。例えば格差社会、個人個人が労働にあるいは生活に満足できない、夢が実現できない、生きていて面白くない、家庭に問題がある、ねたみ、嫉妬、憎悪から委託殺人、組織上の実行行為としての殺人までである。
2008年04月28日
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死刑を考えるなら、今回光市の母子殺害事件の原告である本村洋さんが会見で述べられたとおり、「なぜ殺人が社会で起きてしまうのか、どうしたら殺人を廃絶できるのかを考えるために、私たちは知恵を絞るべきではないか。」をまずしっかり受け止めなければいけないと思います。私自身も、いま考え、その答えが出ればと悩んでいます。これは、とてつもなく大きなテーマを、彼が私たちに送った。そういうメッセージです。なお、死刑制度については、そもそも殺人には動機があります。その動機により殺人がおこなわれるという理由があります。ところが死刑は動機の如何に関わらず国家という共同体が個人を抹殺しようという制度で、これはそもそもあってはならないと考えます。
2008年04月23日
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山口県光市 母子殺人事件 山口高等裁判所で死刑判決 平成20年4月22日 9年の歳月が流れ、彼の努力は被害者遺族の救済に大きな光を当てさせ、裁判の在り方を激変させたといって良い。今回の報道されたインタビューでも仁紀は目を惹いたのは、死刑制度の是非論議にばかり目を向けるのではなく、殺人が起き被害者と加害者が存在してしまう社会そのものから、殺人や傷害の事件をどうしたらなくせるかという遠大なテーマへと彼が踏み込み、それを提示したことに大きな意味がある。それでも死刑の是非のみを相変わらずしゃべるしか能のない専門家といわれる連中から私たちは学ぶものはないことを、しっかりと示してくれている。殺人のない世界をどう築くことができるのか。殺意をどうしたら脳裏から抹消し、またどうしたら理性で殺意を消去できるか。社会の中に答えはあり、私たち個人の中に原因も結果も隠れている。
2008年04月23日
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行政の不正をただすため、たった一人、調査した内容を印刷して地域に配布中。最初は白い目で見られていたが、少しずつ理解され、「がんばれ」と声を掛けられるようになってきた。印刷も紙代も、いやそれを印刷するための印刷機も自腹で購入。一人ぼっちの戦いは続く。
2008年04月23日
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第二の社保庁、国保組合団体 茨城県の国民健康保険団体連合会の34才の職員が3年間でなんと10億円の着服をしていたという。平成20年4月22日、茨城県警によると国民健康保険料、介護保険料等を着服し協定などの遊興費に使っていたという。水戸市中央、元同連合会会計課出納主任森知勇容疑者(34)を懲戒解雇し、10億円の回収は困難という。謝るばかりの無能な管理職員たちのバカさ加減と同時に、日本社会の堕落の根は致命的となったことが分かる。 続く凶悪犯罪と同時にモラルの腐敗は危機的状況といえよう。 もう、呆れて、ただただ驚くばかりの事件。理事長印を利用し銀行から1日平均100万円を3年間卸し続けていたという。なぜ、これをチェックできなかったのか。発覚は、当の担当職員が伝えたことで初めて分かったという。巨額の横領事件は前代未聞だが、額が小さく、小細工もできるのかもしれない。恐らくまだまだこのような事例は全国の国保組合の全体でもあり得る事件。社保庁の5000万件の消えた年金基金問題同様、消えた国保問題は全国に波及しないとは言えない。根は深そうだ。
2008年04月23日
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まったく、酷いとしか言い様のない政治。世の腐敗の根源が行政だとは。開いた口がふさがらない。国を信頼しての年金制度。合法的に国民からすべて強制徴収して置いて、預かった金が紛失しました。これは国家的犯罪行為。その犯人が行方しれず。しかも、75才以上の年金受給者から、強制的に再び医療費を追加徴収。しかも、年金から。貰ってない人もいるというのに。お年寄りは稼ぐことができない。そこを狙って、むしり取れば命すらも。年寄りを苦しめる発想が、小泉元総理の考えで実施された。資本主義社会は競争社会だ。年寄りはリタイア組。ここを福祉で助けるシステムを作らないと社会は破綻する。絶対に、許せない。すでに国の借金は800兆円。天文学的数字で、世界先進国の中で最も負債額の多い国。国家はタンです。ここまで国をダメにしてきた自民党をまだあなたは指示しますか?
2008年04月09日
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市民100人に職員1人で、1人が3つの仕事をこなしている。 10万人の自治体で1000人の職員。ここでは、1.6人で一種類の仕事をしている。これが行政能力ということで、当市は33000人だから3300人の職員がいて不思議ではない。1人が1種類の仕事をこなすことになる。40万人都市となると市民人数が1職員に対し多すぎるため、1業務がこなせない状況に陥る。そこで政令指定都市は区を設けることで地域を細分化し、区単位に業務を分担することで住民サービスの低下を防ぐことが要求されている。 現在、当市の、H19.4.1付け正規職員数は2394人、臨時職員688人と併せると3082人となる。同期で人口が333360人(H20.4.1では334988人)、世帯数132830世帯(H20.4.1では134965世帯)となっている。 臨時職員を含め職員一人当たりの人口は108人となる。これが既に1年後のH20年では人口が1628人、世帯数が2135世帯増加している。国の統計では35万人の人口をピークにゆるやかな下降をしていくと考えられている。しかし、駅前万色の林立や新築住宅開発の進行状況を考えると、まだ当市の人口は増加の一途をたどると思われる。 ちなみに当市の1世帯当たりの人数は、H19.4で約2.5人であり、H20.4月では2.48人となっている。
2008年04月09日
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他人を殺傷することで、自分の存在を確認しようとしている。社会が高度化し、個人は中流の全体に飲み込まれ、自分がどんな存在かが見えなくなってしまっている。 模写的現実が、映像やデジタル画像に飲み込まれて現実感を喪失してしまっている。生身の他人を殺傷することで、自分が生きていることを知りたい、実感したいという想いが社会現象として蔓延し、誰の心にも潜んでしまっている。
2008年04月01日
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今日、用事があって銀行へ両替に行った。1000円紙幣を100円硬貨10枚に両替するためだ。まず、両替にその銀行のキャッシュカードか通帳が必要だと言われた。あいにく持っては居なかった。すると、両替手続きの記入用紙を渡され、書くようにと言われた。たかが、1000円を両替するのに銀行となると、なんと手続きがめんどうだなと思いながら、順番待ちのカードを引き抜く。座ること20分、こんなに待たされなら辞めれば良かったと悔やみつつ、呼ばれるのを待っている。どうにか1000円を崩したが、「なぜこの銀行に口座があるかどうかを尋ねたのか」と確認してみた。すると、口座がないばあいは、両替手数料を支払わねばならないとのこと。幾らなのかと聞き返すと、「もし1000円の両替をするなら300円の手数料がかかる」という。思わず驚いて息を飲んだ。1000円を崩してもらうと700円しか戻らない。なんということだろう。ちょっとした親切で両替を快くやってくれる商店主はよく見かける。当たり前に接してきていた。ところが、今の銀行はそんな親切心などは全くなくしてしまっている。どうしたことだろう。こんな小さな現象でも、何か世の中に大きな変化が起きていると感じるようになった。無視できることではない。貨幣流通社会において両替しにく環境は、大きな障害を引き起こす。ところがカード社会は小銭をも必要としなくなっている。デジタル化とカード社会は現金の交換がなくても実質的な交換が可能となっている。便利さと引き替えに、人の心のやりとりは省略されている。振り込め詐欺などの騙しの手口も巧妙になり、金融機関も国の指示で顧客被害防止から、1日1回の引き落とし額あるいは、振込額を制限している。貨幣経済の時代に窮屈な思いが始まった。
2008年03月26日
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我が家のペット チビ(猫)との想い出 名前を呼ぶと、チビはしっかりとした目つきで私の顔を確認してから、ゆっくりとこちらに歩いて来るようになった。テレビのある居間で、ダラリと横になっているとき、強引にチビが腕枕できるように抱き寄せると、その行為が習慣となった。呼べば近くに来て、どこかしら自分の体を私に密着させて寝てくれる。そんなときチビの頭に耳を着けると柔らかな毛の感触と生きている温もりが伝わる。しかもゴロゴロと喉を鳴らしている。そんなとき、チビの喜びの感情が直接伝わる。嬉しくて心地よい一時をお互いに共有できていると感じる時だ。ペットからの癒しは、この気持ちの通い合いがあって、初めて膨らむ委ね合いではないか。人間とペットとの心の交流は、想いの交換を間違いなく含んでいる。 仕事柄、私の帰宅時間はだいたい夜9~10時。玄関ドアを開け、暗い部屋で荷物を置く。「チビ、ただいま!」と暗闇に声を掛ける。だいたいは丸くなって寝ている。たまに、玄関先で出迎えてくれる。チビの表情に変化は伺えないが、帰宅して出迎えてくれる相手がいるということは、家に戻る人間にとっては、この上なく喜びになる。それが日常化するすると、居ない方がかえって寂しい孤独感に襲われる。これは人間同士でも同じことがいえよう。 目が見えないときから育ててきたためもあり、自分の肉親は人間だと思いこんでいるに違いない。こちらが話しかけているときも、チビは猫語で自分なりに応えて来る。本人としては私と会話をしていると思っているはずだ。きっと、自分を人間だと信じ込んでいる。もし、君は猫で人間ではないのだよということが理解できたとき、もしかしてショックを受けるのだろうか。 あるときから、カリカリの固い餌を食べなくなった。缶詰か鰹節、煮干しか人間の食べたおかずの食べ残し。一度舌になじむと、味覚が極度に偏食。その種類しか食べずやがては、その種の中の一品のみに絞られてしまうほどの偏食。水ばかり飲むようになってきた。 チビを拾った場所は我が家の窓の下。だから、チビが死んだら拾った同じ場所に埋めてあげようと思っている。今までありがとう。君がいたから癒されてた。言いたくないけど、孤独になってしまったとき、君が心を慰めてくれていると知った。それ以来、僕にとって、君はかけがえのない大切な友でもあり、大好きなペットとなった。だから、君が死ぬと、また僕はひとりぼっちか。アイスを溶かした水が、一番気に入ったみたいで、今夢中で飲んでいる。その後ろ姿も、まもなく見られなくなると思うと、無性に愛しくなるよ。この姿をしっかり、僕の目に焼き付けておくね。 皮膚が水分をすっかり失ってきた。そのためか、けが立つようになってきた。撫でてあげると、僕の手にはやせ細ってきた君の体が直に伝わってくる。何か、食べてくれ二位と。指にペースト状のえさを載せて、またいやがる口を無理矢理に開けて、口腔内の上部に塗るように付ける。それで食べてくれている。よし、とまた続ける。 仕事で家を空けると心配だ。少しでも食べさせないと、何も食べていないはず。ほとんど我が家の外に出たことがないから、たまには外の景色を見せてあげようと、チビを抱いてドアの外に出た。散歩の犬が通り、トラックが轟音を上げて通る。チビは、たちまち驚いて僕の腕からとっさに逃げてしまった。といっても、初めての外の世界。まさか、どこへも行くまいと思ったのが大間違い。素早く我が家の裏の方へ、敷地を出て隣の家の庭に消えてしまった。 血液検査、尿検査の結果 H19.11.3 検査項目 検査結果 正常値 GLU 317 (69~146) 糖尿病、慢性膵臓炎、副腎機能障害 BNU 140 (17~40) 脱水、腎障害 心不全副腎皮質障害 CRE 5.9 (0.6~2.0) 腎障害 尿道閉塞 NH3 325 ( ~172) 肝障害 GPT 54 (29~84) 肝腫瘍 一度は食欲も回復し、元気になったと思えてきたが、年を越し2ヶ月ほど経過するうちに再び食欲が落ちて来始めた。本人は食欲はあるが、食べ物を前にすると減退する。空腹感は体内にたまる尿素とは別にもののようだ。ついもはいないテーブルの下に丸くなってうずくまるようになった。以前飼っていた雑種の犬が、体調が悪くなり始めてからは、いままでいたことのない場所に体を横たえたことを思い出した。一生懸命体を撫で、水分が失われて起毛している毛を寝かせてあげるようにと全体を撫でる。しかし、あまり気分がよくないのか避けたがるように私の腕からすり抜けて行くようになった。
2008年03月14日
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前号で吉本思想を理解するにあたって、三つのキーワードをあげた。「幻想」、「大衆の現像」そして「非知」である。相手の書物を批評するとは、批評する側の知性がほとばしり出てくる。書評の難しさは、自分の言語領域で、向かいあった著者の書いた書物のレベルを理解し、思考した内容をたどり、知の社会的位置づけを自分の力量と構想力で作り直して見せなければならない。 もちろん、彼の構想力は取り分け際だっている。その力が随所に新しい歴史的な思想を打ち立てている。考えることがこれほど刺激的で楽しいものなのかを身をもって感じさせてくれている。と同時に本人は産みの苦しみを負いながらも、十分な手応えを感じ、不安と裏腹に充実感を感じているに違いない。あるいは、自分がとてつもない領域に足を踏み入れていると知りつつ、ときには戦慄と恐怖を知力で押さえ込もうと、もがいているのかもしれない。 人類の知の歴史という時系列をたどり、その思想が人々のこころを捉えていく内に、思想家が意図した内容とは違う方向に動き出してしまう体験もしているはずだ。また、その誤解された思想の模写像に攻撃をかける敵手が大衆を扇動し、ありもしない曲解が批判の材料にさらされることなど日常茶飯事に違いない。言葉の重みと軽さ、視点の違いと意図的妄想が無数に空を飛び交う。知性は溢れかえるが、ほとんどの考えが、人身を惑わすガラクタだとは誰も気づかない。その思想の怖さを知り尽くした吉本が「非知」を目指すことの意味をどれだけの人間が汲み取れることだろうか。 今、自分の考えを信じて敵に論戦を挑んだとしても、勝敗の行方より、帰結する利益が誰のためのものか。あまりにも個人的なエゴのためではなく、あるいは現に国家の意図に乗じて戦争に荷担することに微塵の疑念も抱かない権力者達や大衆でもない。それこそが吉本が手にした、共同体の幻想にも揺れることのない「大衆の現像」に他ならない。 吉本は「共同幻想論」で、国家と社会がまだ明確になっていない、はっきりと分離していない萌芽期の共同性を、人類が獲得していく過程から国家の分析を開始した。やがて国家的な部分は政治や軍事を担い、社会は日常生活の習俗として社会に分離していくことになる。村落共同体の長老会が村落の運営、方針を決め、規則、秩序や禁止事項の保守義務を執行し、それが発達していくと政府や国家に至る。その下部構造としての社会が大衆や国民となり、長老会に権力闘争の勝者が入ることで支配被支配の関係が生じてくる。これらが民族国家、あるいは国民国家へと変化していくことになる。ただ、この国家形成が社会を混合する程度の度合いにより、国家の多様性が世界に現存している。このあたりまでを「共同幻想論」以降の論考で吉本は分析している。 民族とはなにか。これは曖昧にせずに確認すると、(1)方言はあるものの統一の標準言語が同一地域内に通用すること、(2)異人種でも共通の風俗習慣を持つこと、そして(3)考え方が社会内に一般的に通用すること。これらが満たされれば同一民族といえよう。つまり、現代は民族国家が世界で多くを占めていることが分かる。 共同幻想は個人幻想とは逆立する。これは何を意味するのか。分かりやすい例では、小泉純一郎政権下での「郵政民営化」(本当はこれだけではなかったのだが)の民意を問う(?)衆議院解散総選挙で、自民党は民営化反対派に刺客を送り、組織として個人を排斥した。その冷酷で露骨な徹底ぶりには、不快感を抱かれた方も居たに違いない。党や組織の規律を守るために共同体が個人に牙を剥いた分かりやすい例といえる。実例として戦争を取り上げると、さらに理解できると思われる。ある民族国家が領土侵犯を犯し、両国が戦闘状態に入ったとする。ある個人が徴兵されたとき、仮に敵国に親族が居ることから徴兵拒否をしたとする。これは国家の強制力に対する服従義務違反として犯罪行為となる。イラクに派遣されたアメリカ兵は敵であるという理由でアルカイダに属する人間を殺すしかない。また太平洋戦争での日本軍の特攻隊を思い出してみていただきたい。国家という共同体のために一個人は犠牲となって命を落としてしまった。これは、本人が望むと望まざるととにかかわらず、本質的に共同幻想が個に逆リッしてしまう分かりやすい例といえる。死刑宣告された犯罪者にもいえる。原爆投下のスイッチを押した空軍兵も、敵国という理由で大量殺戮を犯した。ナチスはユダヤ人という異民族を理由に、やはり人類史で最悪の大量殺人を犯している。国家は個人の生命をも自由にできるということになる。まさにこれが共同幻想は個人幻想に逆立するということの本質的な意味である。
2008年03月14日
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財政は、自治体だけの利益で考える時代ではなくなった。 国からお金がもらえるから、国から資金調達ができるから、それをいただいて自治体は湯水のように自由に税金を使って良い。最早、そういう時代ではない。 すでに国時代が財政破綻しているといって良い。自治体は国の全体の財政をふまえ、自己利益だけで動くのではなく、財政運営しないと行けない時代に突入している。 まさに、わずかなCO2排出のはずが地球全体の危機をもたらしてしまう時代になってきているのと同じように。
2008年03月07日
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国家が強大になり、宗教や思想など個人幻想の世界は、ますます個の観念の奥へとしまい込まれる時代になってきた。 現実界に思想や宗教が支配していた時代が去り、第二次世界大戦以後は確実に現実界支配の届かないところへと、思想が追いやられている。 資本主義社会は競争社会だ。そのため私たちは競争に勝とうと他の組織と戦い、自分が強大になることで経済界を牛耳ざるを得ないところへと追い込まれてしまう。支配管理機構の上位に立つほど競争原理の勝者扱いとなる。教育が相手より成績優位者をより上位とするのはこの資本の論理、資本者着社会の競争原理が教育を支配していると言って良い。こう考えると、親が我が子のみの立身出世を願い、喜ぶのはすべてこの資本者着社会での意識作りから来ている。この原理は資本主義社会そのものが変わらない限り、打ち消すことのできない根幹の思想ということになり、私たち人間を捉えて放さない。 この原理そのものを否定して平等を実現しようとしたのが共産主義思想だ。しかし、これを実行していく過程に、大きな誤りがあったために、その前段階といわれる社会主義国は破綻していった。しかし、原点の意図はけっして悪い物ではなかった。 現在の資本主義が完全な制度とは言い難いが、私たちはその制度に手を加えることで、改善なり改革をしていくべきテーマも山積していることは確かだ。
2008年02月29日
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●感じられるおかしな現象 近年、こども達のモラルが薄れ、おかしいと感じる事例はあちこちで見られる。 小学校では「あいさつをしない子供」あるいは「きちんと上履きが履けない子供」が目立つようになったという。 教育現場では椅子に座らない生徒、絶えずしゃべりながら勉強を受ける生徒、酷いと授業中立ち歩いて外出までする。大学では、授業を聞かず、携帯電話画面から目を離さない学生が増えているらしい。 モラル崩壊は子供だけではない。保育園では、遅くまで子供を迎えに来ない親が目につくようになった。入学式や学級参観で、こどもの授業を見るどころか、自分のおしゃべりに夢中な保護者もいる。給食費を払わずとも平然としている。親から子へ道徳心の薄れは広がる様相だ。 かつては、朝から晩まで近所の子供たちが外で遊ぶ姿が見られた。異年齢の仲間のなかで自然に学ぶことが多かった。だが、ゲームやネット世代の子供たちは、人と話すより、機械相手に遊び、友人らとのトラブルに対応する方法が分からない。そうして育った子供達が親となる。だから親自身も地域と交流したがらず、きちんとあいさつのできない大人が少なくない。●社会環境の変化 戦後の経済復興から日本の社会も大きく変化してきた。その変化の要因がこうした結果を引き起こしていると言える。例えば核家族化は一世代住宅という小型の家族を生み、上の世代との同居から学ぶ機会を失うことになった。女性の社会進出は子育てにかかる時間を少なくし、少子化の原因ともなっている。テレビの普及は家族との会話の時間をなくし、さらに進んでテレビゲーム、パソコン、携帯電話の普及は親子の対話、家族の絆を奪うことに拍車をかけている。こども達はメディア、ゲーム、インターネットから学習する機会を多く持つようになっている。 かくして儒教思想などは、戦後60年を経過して見事にに消えてしまった。これらの現象は先進諸国に共通の大きなテーマとなっている。 暴力やセックス、内容のないメディア放送などが彼らの学習の基礎となっている。こうした環境に育ったこども達が大人となり、家庭を持ち、新しいこども達の教師指導に関わり、日常的に接している。凶悪事件の低年齢化などで「心の教育」が失われ、学校教育では「いじめ」などの批判をおそれ、正面から指導することすらためらっている。●どう取り組むと良いか日常のルールやマナーの基本を家庭の親、学校、地域社会がしっかり伝える。また地域ぐるみで子育てに取り組むとともに、伝え合い協力し合う地域教育力を付け、孤立せずに相互に心の手を握り合う連携の構築こそがが、唯一この進行を食い止めていける手段ではなかろうか
2008年02月28日
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11111 (一万一千百十一) 一万の 1 は 毎日 一万歩を歩く。 千の 1 は 毎日千文字を読む 百の 1 は 毎日 百文字を書く 十の 1 は 毎日 十回笑う 一の 1 は 一日一回 お通じがあるこうすれば 長生きができる。
2008年02月20日
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1 言語の本質 夢は「言語」で理解されている潜在的思想が「像」に置きかえられたものこれが複雑なのは、両者の象徴の対応が複雑だからだ同時にフロイトのいう人類が生命史を持っているのと同様に、夢にも太古からの像が内在しているという。人間は、現実的意識としての音声表出を、人間的な意識の自己表出としておこなうようになったとき、初めて自分を動物と区別し始めた。無言語原始人が、動物社会よりも高次な生産関係を持つ高次な共同社会を営むようになったとき、甲が乙を労働にさそったり、共通の利害に呼応したり、男女がもとめあったりする叫び声の音声も、高次な編み目を持つようになり、そのため器官への固定作用が高度になって、特別の有節音が、特定の信号としての機能を持ち、ついに共同社会の約定のようになったものとして特定の音が特定の事物を指示するものとしてあらわれた。 <自己表出> 自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に「幻想」の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準を決めるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性としとて言語本質をなしている。 労働の発達は、相互扶助、共同的な協力の場合を増加させ、社会の成長を相互に近づかせるようになる。この段階では、社会構成の編み目はいたるところで高度になり複雑化する。これは人類にある意識的なしこりをあたえ、このしこりがある密度をもつようになるとやがて共通の意識符牒を抽出させるようになり、有節音が自己表出されるようになる。人間的意識の自己表出は、そのまま自己意識への反作用であり、それはまた他の人間との人間的意識の関係づけである。 言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり、それが発達して自己表出として指示性をもむつようになったとき、はじめて言語とよばれるべき条件を獲得した。この状態は、「生存のために自分に必要な手段を生産」する段階におおざっぱに対応している。 言語が現実的な反射であったとき、人類はどんな人間的意識ももつことはなかった。やや高度になった段階でこの現実的反射において、人間はさわりのようなものを感じ、やがて意識的にこの現実的反射が自己表出されるようになって、はじめて言語はそれを発した人間のために存在し、また他のために存在することになった。 こういう言語としての最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己をふくみながら自己にたいする存在となり、それは自己自体をはらむといってよい。
2008年02月19日
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■変化した社会道徳心■ ●感じられるおかしな現象 近年、こども達のモラルが薄れ、おかしいと感じる事例はあちこちで見られる。 小学校では「あいさつをしない子供」あるいは「きちんと上履きが履けない子供」が目立つようになったという。 教育現場では椅子に座らない生徒、絶えずしゃべりながら勉強を受ける生徒、酷いと授業中立ち歩いて外出までする。大学では、授業を聞かず、携帯電話画面から目を離さない学生が増えているという。 モラル崩壊は子供だけではない。保育園では、遅くまで子供を迎えにこない親が目につくようになった。入学式や学級参観で、こどもの授業を見るどころか、自分のおしゃべりに夢中な保護者もいる。給食費を払わずとも平然としている。親から子へ道徳心の薄れは広がる様相だ。 かつては、朝から晩まで近所の子供たちが外で遊ぶ姿が見られた。異年齢の仲間のなかで自然に学ぶことが多かった。だが、ゲームやネット世代の子供たちは、人と話すより、機械相手に遊び、友人らとのトラブルに対応する方法が分からない。そうして育った子供達が親となる。だから親自身も地域と交流したがらず、きちんとあいさつのできない大人が少なくない。●社会環境の変化 戦後の経済復興から日本の社会も大きく変化してきました。その変化の要因がこうした結果を引き起こしていると言える。例えば核家族化は一世代住宅という小型の家族を生み、上の世代との同居から学ぶ機会を失うことになった。女性の社会進出は子育てにかかる時間を少なくし、少子化の原因ともなっている。テレビの普及は家族との会話の時間をなくし、さらに進んでテレビゲーム、パソコン、携帯電話の普及は親子の対話、家族の絆を奪うことに拍車をかけている。こども達はメディア、ゲーム、インターネットから学習する機会を多く持つようになっている。 かくして儒教思想などは、戦後60を経過してきれいに消えてしまった。これらは先進諸国に共通の大きなテーマとなっている。 暴力やセックス、内容のないメディア放送などは彼らの学習の基礎となっている。こうした環境に育ったこども達が大人となり、家庭を持ち、新しいこども達の教師指導に関わり、日常的に接している。凶悪事件の低年齢化などで「心の教育」が失われ、学校教育では「いじめ」などの批判をおそれ、正面から指導することすらためらっている。●どう取り組むと良いか日常のルールやマナーの基本を家庭の親、学校、地域社会がしっかり伝える。また地域ぐるみで子育てに取り組むとともに、伝え合い協力し合う地域力を付け、孤立せずに相互に心の手を握り合う連携の構築こそがが、唯一この進行を食い止めていける手段ではなかろうか。
2008年02月18日
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吉本思想を理解するにあたって、三つのキーワードをあげた。「幻想」、「大衆の現像」そして「非知」である。相手の書物を批評するとは、批評する側の知性がほとばしり出てくる。書評の難しさは、自分の言語領域で、向かいあった著者の書いた書物のレベルを理解し、思考した内容をたどり、知の社会的位置づけを自分の力量と構想力で作り直して見せなければならない。 もちろん、彼の構想力はひときわ際だっている。その力が随所に新しい歴史的な思想を打ち立てている、考えることがこれほどおもしろいものなのかを身をもって提供してくれているとともに、本人は産みの苦しみを負いながらも、十分な手応えを感じ、不安と裏腹に充実感を感じているに違いない。あるいは、自分がとてつもない領域に足を踏み入れていると感じながら、ときには戦慄と恐怖を知力で押さえ込もうと、もがいているのかもしれない。 歴史という時間をたどり、その思想が人々のこころを捉えていく内に、彼が意図した内容とは違う方向に動き出してしまう体験もしているはずだ。また、その誤解された思想の模写像に攻撃をかける敵手が大衆を扇動したり、ありもしない曲解が批判の材料にさらされることなど日常茶飯事に違いない。言葉の重みと軽さ、視点の違いと意図的妄想が無数に空を飛び交う。知性は溢れかえるが、ほとんどの考えが、人身を惑わすガラクタだとは誰も気づかない。その思想の怖さを知り尽くした吉本が「非知」を目指すことの意味をどれだけの人間が汲み取れることだろうか。 今、自分の考えを信じて敵に論戦を挑んだとしても、勝敗の行方より、帰結する利益が誰のためのものか。あまりにも個人的なエゴのためではなく、あるいは現に国家の意図に乗じて戦争に荷担することに微塵の疑念も抱かない大衆でもない。それこそが吉本が手にした、共同体の幻想にも揺れることのない「大衆の現像」に他ならない。 吉本は「共同幻想論」で、国家と社会がまだ明確になっていない、はっきりと分離していない萌芽期の、共同性を人類が獲得していく過程から国家を分析し始めた。やがて国家的な部分は政治や軍事を担い、社会は日常生活の習俗として社会に分離していくことになる。村落共同体の長老会が村落の運営、方針を決め、規則、秩序や禁止事項の保守義務を執行し、それが発達していくと政府や国家に至る。その下部構造としての社会が今週や国民となり、長老会に権力闘争の勝者が入ることで支配被支配の関係が生じてくる。これらが民族国家、あるいは国民国家へと変化していくことになる。ただ、この国家形成が社会を混合する程度の度合いにより、国家の多様性が世界に現存している。このあたりまで「共同幻想論」以降の論究で吉本は分析し尽くしている。 民族とはなにか。これは曖昧にせず確認すると、方言はあるものの統一の標準言語が通用すること、異人種でも共通の風俗習慣を持つこと、そして考え方が社会内に一般的に通用すること。これらが満たされれば同一民族といえる。つまり、現代は民族国家が多くを占めていることが分かる。 共同幻想は個人幻想とは逆立する。これは何を意味するのか。分かりやすい例では、小泉純一郎政権下での「郵政民営化」(本当はこれだけではなかったのだが)の民意を問う衆議院解散総選挙で、自民党は民営化反対派に刺客を送り、組織として個人を排斥した。その露骨な徹底ぶりには、不快感を抱かれた方も居たに違いない。党や組織の規律を守るために共同体が個人に牙を剥いた分かりやすい例になろう。実際には、戦争をあげるとさらに理解できるはずだ。ある民族国家が領土侵犯を犯し、両国が戦闘状態に入ったとする。ある個人が徴兵されたとき、仮に敵国に親族が居ることから徴兵拒否をしたとする。これは国家の強制力に対する服従義務違反として犯罪行為となる。イラクのアメリカ兵はアルカイダを殺すしかない。太平洋戦争での特攻隊を思い出してみていただきたい。死刑宣告された犯罪者にもいえる。好むと好まざるとに関わらず、国家は個人の生命をも自由にできるということになる。まさにこれが共同幻想は個人幻想に逆立するということの意味である。 国家の起源は、部族連合が拡大して国家が機構として誕生する、という定説を吉本は覆している。村落共同体内の長老会などの支配層にある血縁親和の共同性は、そのままでは血のつながりがかえって話し合いなどで合一しやすく、それ以上に権力を集中したり、組織を統合して強大化していく根拠にはならないという。この前段階では、宗教性を持った村落の長の死とともに兄弟姉妹が継承し、姉妹が祠祭を担い、兄弟が実質的な現実の政治の部分を継承していくことは「共同幻想論」で述べられている。それ以後の国家形成は、血のつながりのない部族統合が鍵といえる。村落の支配層が村民の意志から分離して独自に軍隊をつくることによる。こうして、他部族を統合しても、軍部の制圧が他民族、ひいては自身の部族の民を従わせていくことで権力機構の基礎が作られるとする。血縁がなくなることで長老会などを無視し、その親和力をも壊していくことで伝統的な親和を無効にする。こうして軍事力を掌握した新たな支配層は、自己利益を追求するために既存の長老会の助言、仲裁などのすべてを拒否して、薄情な中央集権的権力機構の基礎を完成する。 ここでは、支配層に既存の長老の一部が入っていることで、より部族を統合しやすくなる。国家の起源のドラマが見えてきたのではないか。
2008年02月18日
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子供達(おもに小学生)のために既成の教育だけではなく、地域・大学を巻き込んだ新しい教育の場を提供し、彼らの好奇心と創造性を育てるプロジェクトを立ち上げています。これは、日本で初めてのものです。ご期待ください。興味のあるかたはコメントを・・お待ちしています。
2008年02月09日
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2008年02月04日
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(1)TUTAYA online http://www.tsutaya.co.jp/item/book/(2)紀伊国屋bookweb http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/(3)セブンアンドワイ http://www.7andy.jp/books 上記のサイトで 1470円+送料にて購入できます。
2008年02月02日
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仏教以後、中国の儒教思想が日本に大きな影響を与えた。模倣の歴史といえる日本にとってその担い手である儒学者としては、有名な荻生徂徠が徳川幕府の支配思想を担い、新井白石が政治性を強めていった。近代では吉田松陰、頼山陽も影響力を持った。こうして儒教は政策思想や生活倫理までかなり牛耳っていたといえる。もちろん、本居宣長を代表とする国学者達が、日本の神話や古典を独自の体系化で考察した。こうして、尊皇攘夷思想が明治維新革命を実践し、維新以後、近代でも国学と儒教が大きな影響力を持っていた。その封建制社会の要の思想として、我が国の近代社会までを席巻していた儒教も、第二次大戦終結後、日本が再び欧米化され、この儒教思想の影響が薄れてきた。そのこと自体は、良いことだと思っている。中国、韓国などは依然としてその儒教思想が強いため、一歩彼らの社会に踏み込むととまどいを持つかもしれない。 ただ、現代は、はたして何の思想が私たちを捉えているだろうか。また、どこかの国の思想を引っ張り、あるいは借りてきて模倣することで思想形成するのか。独自の思想を生み出す構成力が果たしてあるのか。民衆を正しい方向に導ける思想とは。まさに「幻想」、「大衆の原像」、「非知」の思想ではなかろうか。
2008年01月30日
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道路特定財源のための暫定税率廃止せよ 道路整備は自動車利用者が負担するとの考えに基づき、ガソリンに対する揮発油税、ほかにも軽油引取税、自動車重量税などが掛けられ、国の「道路特定財源」に充当されている。揮発油税はガソリン1リットルあたり24.3円だが、1974年から暫定税率として倍にあたる48.6円が徴収されている。時限立法で継続し、3月末に期限切れとなる。軽油引取税、自動車重量税にも暫定税率が上乗せされており、上乗せ額は計約2兆6000億円。国に約1兆7000億円、地方に約9000億円が配分されている。 それは地方は、いただけるものは欲しいに決まっている。いま、原油価格高騰がどれだけ庶民の生活や企業に大きな負担となっていることか。これが景気をダウンさせ、相乗効果を生み出して、スタグフレーションとも言える現象を起こしている。にもかかわらず政府は、暫定期間延長法案を成立させようと画策している。私自身、自治体の財政を調べ、また勉強しているが、行政の体質そのものが節約という発想が微塵もないことが分かった。その節約感覚で財政再建をする姿勢もないままに、やみくもにまた、無駄遣いしようという考えに過ぎない。こんな馬鹿な連中に政治を任せ来たから、770兆円以上もの国が財政赤字として抱え、銀行にはいとも簡単に巨額の税金を投入。経営センスがまるでない無能経営者達が、また国民を税負担で苦しめようとしている。黙っている訳にはいかないのです。民主党も生ぬるい。徹底した行財政改革なしで、この国は崩壊してしまうのです。失われた年金問題を私たちは体験し、行政はもう駄目だと分かっているのではないでしょうか?
2008年01月30日
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