子供の時、おじいちゃんが時たま優しい時がある。大好物の南部せんべいを分け合って食べるのである。
子供の時、私は人が嫌いだった。こないだ、友達に会ったら、どういうわけか、友達に対してさえ不安を覚えるので、ふと疚しさを感じずにいられなかった。ギンレイホールの横を通り抜けて、ストリップ劇場があって、それらが冗談にするには、私には悲しすぎた。
大学にいた時、好きなことばかり何時間でも話していられたのに、社会に出てすっかり疲れて、私は何だかつまらないのだ。私はよく人に言われるけれど、何年経っても大して変っていないらしい。
新鮮な魚介類をそのまま焼いて出してくれるお店で、私達は幾分かの興奮を味わった。貝を焼いて、それを汁ごと味わって、私は白ワインやロゼで流し込む。茶目っ気のある魚がそのまま一本いい焼き色をつけて、目の前に供される。箸をいれると、ほっくりとした白身が食欲をそそる。
それらを目で楽しみ、うわっと喜んで、やっと肩の力が抜けるのだ。
お正月は忙しくあっという間に過ぎたので、誰にも挨拶をしていない。恩師にも連絡はいれず、友人にも手紙は書かず、それで過ぎてしまったのでちょっと焦って、恩師が二週間おきにいく大学の先輩の店に電話をかける。
相変わらず無邪気だ。この恩師が一時杖にはまったことがあって、上をぐるぐると回すと、中からお酒が出てくる。ポケットの中から、持っているバックから魔法のように、ありとあらゆるものが出てくる。それが、高価なものやら、お菓子やらが、ごちゃごちゃでおかしいのだ。授業が終わった後も、生徒と話すのが好きで、私は何となく面白いからそこにいた。周りの生徒がリアクションをしても、私はただ黙っていた。ただ黙って座って、缶コーヒーやら飲みながら、きいていた。それはそれでよくて、許されていて、私は何となくほっとしていたのだと思う。
朝、起きると、早くも疲れを感じている。日々は、チャプリンのモダンタイムズのように目まぐるしくなくもない。
ただ、私は今も昔も黙っていたいと思う。でしゃばらず、それでも安心していたい、と、思う。
久しぶりに山に行ってからそう思ったのかもしれない。登山路では人に会わなかったけれど、大概行くと出会う人間に、人間らしさを感じている。現代では、他人に干渉しない風潮がある。ふと疑問に思うと、人間は様々だといわれるけれど、一方では、大して様々さを感じない。
だからかしら、と思う。有象無象にならない為に、声を大きくするのか、と……。
昨日職場に行くと、女の子が一人店頭で叫んでいる。おそらく、今日も叫んでいるだろう。私は彼女が好きになれないなぁ……と思う。肩に力が入っていて、見ているとどうしてか疲れてしまうのだ。お客さんはいいなぁ、と思ったりする。
とはいえ、ソムリエ氏もふとそんなことを口にした。どっちつかずに、結論は出なくても、似たようなことを思ったりするのかもしれない。
疲れるなぁ。何でだろう?はっきりとした理由はわからない。”私には仕事しかなくて”とある日泣いた彼女のせいだろうか?涙で愛しさがちょっと湧いたりする。ある種の不器用さのような……。
仕事の合間、小さな子供たちの相手をしていた。ちょっと笑えた。自然はいいなぁと思った。子供と一緒になってはねていたら、同僚に見つかった。”何でこのボトルこんなにおおーきーーいの?”と女の子にきかれた。そのまま、”何で??”と同僚に聞いたら、逃げられた。”何でだろうね”と言いながら、ちょっと嘘をついた。
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