新・理学気功的気まぐれ言いたい放題!

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「損する人がいない理由」



『他人本位』になろうとするとき、初めから見返りを期待して行動したのでは、既に『自分本位』ということになってしまいます。でも、そんなことは実はどうでもいい論点かも知れません。

なぜなら、知っての通り、心底『自分本位』になってみたところで、思うような見返りなど絶対にないからです。金銭的な見返りなど特にそうかも知れません。

ところが本当は行為が思いの結果であるとするならば、必ず変化は起こります。良い思いなら良い方へ、悪い思いなら悪い方へではありますが・・・。ただ、なかなか自分の行動(思い)と結果との繋がりは見えません。

例えば、AさんはBさんが困っているときに色々と親身に面倒をみていたとします。ところが不景気でAさんが困ってBさんにお金を借りようとした時、今は余裕のあるBさんは冷たかった ー そんな時、ほとんどの人は自分がAさんの立場なら、Bさんに対して「恩知らず」だと責めるかも知れません。当然、恩があるから貸してくれるのが当たり前ということです。

よく考えると、「貸した相手本人から借りを返してもらうこと」に拘ると自らの「こころの毒」を増やすことになるのです。『宇宙全体がひとつの存在』だとすれば、CさんやDさん
がBさんの借りを返すのも、Bさん自身が返すのもまた同じ事なのです。

人間同士のやりとり全ては、全体の流れとして旨く調和しているように思います。そもそもが『損』も『得』もないのではないでしょうか?ただ、巡り続けるだけです。「生きる」は「活きる」とも書けますが、『活かしあってきた』からこそ今があるんだ、と思います。

理由が解からないような大きな『親切』を他人から受けたりしたことはありませんか?

当然それは、かつて自分から発せられたものが返って来たにすぎません。自分じゃないとしても、自分の親や親族が元かも知れない。

私はよく20代前半の人には、なぜか気持ち良くご馳走してしまうのですが、私自身学生時代に居酒屋などではよく他人にご馳走になっていました。こういうことは、実に多いはずです。

一時の状況だけに振り回されて、「一体感」を失うことは馬鹿げていませんか?


私たち全員は充分に恵まれているのではありませんか?


本質的『損』する人などいないことが分ると「自分」のためには『他人本位』になっている方が物事はよっぽど上手くまわることに気づくはずです。


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