Rock's cafe

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August 13, 2004
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文章を書くのは難しい。いつも思う事だ。

ぼくたちが用いる言葉は、所詮不完全な、借りものの集合でしかない。このブログの文章を見て、フリッパーズ的な文体だと褒めてくれた方がいて、それは本当にうれしかったのだが、考えてみればぼくはこの何年か、村上春樹の作品と柴田元幸の訳した英米小説と、小沢健二の詞曲をずっと聴いてきたわけで、その影響下にあってこういう文体になったのは間違いないだろう。もっと言えばせっかちな性格をしているが故にリズムは飛ばし気味になることが多々あり、法律書を日頃読まされているせいで、やたらと論証的な文体になってしまう。つまり、オリジナルなものはどこにも無いと言っていい。

内容も同じことだ。課題としてだされるレポートの類とかならともかく、自分の内側から湧き上がる何かを伝えるために文章を書くのは、本当にむずかしい。

往々にして、伝える途中で、本当に伝えたいことは何も無いことに気づいてしまうのだ。ただあからさまな自己顕示欲を、使い古された言葉に乗せて世の中に無断発信してるに過ぎないのではないか。そう気づいた時に、いつも筆を置いてしまう。

これに限らず、何かについて、本気で伝えようとする時でも、自分の力不足を思い知らされることがしばしばある。例えば、「すべての言葉はさよなら」。この含蓄の深いタイトルから始まる美しすぎるフリッパーズギターの名曲を語ろうとするときに、いつも無力感に襲われる。さしたる関心のないことについては知ったような口をバンバン叩けるのに、本当に愛着のあるものや、思い入れの深いものについて語るのは難しい。

沈黙は金、という言葉がある。これには「雄弁は銀」という前語があるが、真実は語らずともそこに存在し、多くを述べることはかえって物事の本質おごそかにする行為に他ならない、ということを意味しているのだろう。また、僕が心の中で尊敬している天才の一人・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の最後は、「語りえぬものについては、沈黙するべきである」という一文で閉じられる。真理の前には、我々が持つ言語のもの足りなさ・乱暴さという欠陥が浮き彫りになるのだ。

小沢健二は「ありとあらゆる種類の言葉を知って」という、たいそれたことを言う自負に値する表現者だったと思う。 彼の歌詞からは深い教養と鋭い洞察、急激な視点の転換を伴う豊かな想像力、そして澄み切った誠実さが感じられる。

しかし、それでも「ありとあらゆる言葉を知って、何も言えなくなるなんて、そんなバカな過ちはしないのさ」と、高らかに宣言した小沢健二は、長い沈黙を続けている。これはその宣言の放棄を意味するのだろうか?ぼくはそう思わない。それだけ「何かを言う」ことは、とても難しいということだと思う。恐らくあらゆる事象は本質的に複雑であり、それに対して思い入れが深く、知識が多いほど、そのものを言葉で乱暴に単純化して語る作業に戸惑いを感じてしまうのだろう。

しかし語らなければ始まらないこともある。語らなければ、そのもの自体がが存在しないことになってしまうからだ。模倣しなければそのものが忘却され、無いことにされてしまうのなら、ぼくは愛するものを守るために己のプライドを捨てても、模倣を厭わない。また、存在しないだけならまだ良い。あらぬ方向に本質を曲げて伝えようとする連中だって出てくる。それに対して沈黙を続ければやがて世の中の常識というものが変わって、世界は暗転していくのではないか。たかが音楽から始まった話だけど、物事の本質が根本的に欺瞞され、それによって大きな悲劇が産出されたことは、この社会の何千年もの歴史でそれこそ枚挙にいとまない。



でも誤解を恐れずに言ってしまえば、ぼくは「小沢健二」という符号で示された血と骨と肉の塊にはそれほど興味がない。なんといえばいいのだろう?例えば彼の生まれた場所とか、肉親とか、身長何センチで体重何キロでどんな女の子が好みとか、そういうのはどうでもいい。ぼくが興味あるのは、ただ彼の作品であり、もっと言えば自身の感情の琴線に触れるような詞と曲と文章だ。「当然のことじゃん」と思うかもしれないけど、何かを言いたいかというと、何かの「ファン」になるというのはそのアーティストに盲従することではなく、あくまでその作品を鍵として自身と、自身の存在するこの世界について考え、解釈する行為だということである。

これと盲従の違いは、前者の場合、崇拝する表現者がいなくなった場合、いつか信じる者が再び現れる事を願って「信者たち」は路頭を彷徨うしかない。しかし、後者の場合、表現者から渡された鍵は、当表現者がいなくなったとしても、依然とぼくの手中にあるわけで、それを使って扉を開けたり、車を発進することで、何か新しい風景が見えると考えるのは、不自然のことじゃない。また、それは鍵だけでなく、「バトン」とも考えられないだろうか。表現者がぼくたちに与えてくれたメッセージとレッスンをヒントに、自分自身で答えを見出し、それをさらに人に伝えていく作業と考えるのは、おこがましいことだろうか。

話を元に戻そう。時としてぼくたちはニヒリズムを捨てて、雄弁になるべきだ。それは自分の愛する世界を守るためでもあるし、永遠に語りえない空間を不完全ながらにも、少しずつ埋めていく作業だ。ありとあらゆる種類の言葉を知って、何も言えなくなるバカな過ちは、やっぱりするべきじゃない。

「語りえぬものについては、語り続けるべきである」

これは、ぼくが尊敬しているもう一人の哲学者、野矢茂樹の「『論理哲学論考』を読む」の最後の一文である。







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Last updated  August 16, 2004 04:50:58 AM
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