Rock's cafe

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January 15, 2005
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言論の自由が建前として存在する日本で最大のタブーは何か。天皇だ。朝日新聞にしろ産経新聞にしろ、天皇についての記事には、ほとんど相違を見出せない。かの共産党すら、ほとんど天皇制を認めてしまった。日本に一つぐらい天皇制反対の党があっても良いのではないかと思うが、そもそも一般マスコミで天皇を真剣に論ずる事はほぼない。それは天皇をまじめに批評するのは本格的な危険を伴うからとされている。


嶋中事件、というのがかつて起こった。
ことの詳細は以下のURLを見ていただいて、

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/simanaka.htm

結論から言えば、天皇と表現の「闘い」に於いて、表現側の敗北を決定付けた事件とされている。しかし本当にそれだけで表現側は「連戦連敗」を経て、本日の沈黙に近い状況にまで陥ったのか。嶋中事件のような(本人のみならず、周辺に蔓延する)テロルの恐怖や、村上春樹に代表されるような黙説法(中心について具体的に触れることなく、周辺のディテールを凝ることで、読者に中心への興味を駆り立てる手法)全盛など、これらは全て立派な理由となりうるが、脳裏でなかなか拭いきれない考えのひとつに「そもそも天皇は表現者にとってそれほど書くに値しない存在なのではないか!?」がある。

何故なら私には、表現者が純粋な外的な原因に束縛されて書かなくなるような器用なことができる類の人たちだと思えない。それはむしろ本質として自己中心的・破壊的な性格を持っていて、内からの著作の欲望が確かに存在すれば、それは自身を滅ぼそうが、また周囲を滅ぼそうがお構いなしに作品を産み、それを世に問うのではないだろうか。そのようにして作品が作られるのではなく、むしろ自ら生まれるものだとすれば、文学が一貫として、天皇側の巧みな接近=遮断・中心を遮る黙説法の戦術に敗れ続けてきたという構図は少し変化するのではないだろうか。つまり、本来ならこの敗れ続ける体験こそが新たな文学を育むのである。しかし現状として今日では小説でまるで存在を忘れ去られているような天皇は、ひょっとするただ、それほどリスクを犯してまで作品に登場させたいと思わせる「強度」が欠けているに過ぎないのではないのか。


たとえば小説の人物としての、中国での毛沢東の書かれ方と日本での天皇の書かれ方の違いを見ると興味深い。すなわち、現実にアジアで最も民主的であり、法治のシステムが完成されている日本で天皇を扱う文学が今日ほとんど皆無であるのに対し、人治の国であり、具体的かつ力強い禁令のもとで中国には毛沢東を扱う文学は溢れているという現実だ。もちろん、一定の限度を超えた批判的な内容をもつものには、実名で登場するとは限らない。しかし誰が見ても明らかにそうであろうと分かるような書き方を通じて(島田雅彦「惑星の住人」のフジコのように)、作者が批判・風刺をすることは文学でありふれたことであり、その一例は中国の代表的作家である張賢亮の「無法蘇醒」(目覚めることができない)に見て取れる。

これは、題名から見て分かるように「風流夢譚」と同じく作中の出来事を作者の夢ということにしている。主人公の「ぼく」は文化大革命時に迫害された知識人で、改革開放後に科学者としての地位を回復した者であるが、ある日突然逮捕されてしまう。しかし何故逮捕されたかといえば、それはただ文革中に犯した「偉大なる毛主席を侮辱した罪」で科せられた懲役18年のうち、文革終了時にまだ8年残っていて、当時の釈放文面に「無罪」の2文字が欠けていたために、それを今からつぐなうためという理由であった。既に世界的知名度の高い主人公を何とか釈放しようと市長・書記長および副市長たちは夜を徹して会議を開き、「ぼく」の過去の言動の資料を吟味しなおしてみる。「ぼく」の言動の多くは既に名誉が回復された政治家たちを擁護するものだったので問題なかったが、毛沢東を批判したものについては、無罪という判定を下せないのだという。役人たちはそこで苦悩するのだ。それは次の対話をとって現れる。


「冷静に考えてみたまえ、文革が終わった時、あのじいさん(=毛沢東)について少しばかり過ちを総括したことは確かだが、それが十分なものだったのか、もし違うとすれば何でできないのか、そんなことは、言わずとも天下皆知っていることだ。こいつ(=ぼく)は理系のくせに政治に口出しするから始末が悪い」・・・

「ぼく」はとうとう釈放されない。それどころかある日監獄の外が大騒ぎとなる。何事かと見てみれば、再び文革は始まり、自分の助手や息子までもが造反派となって捕らえられている「反革命分子」の自分を批判しに来ているのだ。「ぼく」は目の前が真っ暗となり倒れてしまう。「風流夢譚」と違うところは、ここで夢が終わるが、「ぼく」が目覚めることはない。「ぼく」は夢の中の恐怖による心筋梗塞で死んでしまうのだ。

この小説は80年代中期に発表された時、猛烈な批判をこうむることになる。この作家の経歴を調べてみると、57年の反右派闘争時に右派とされてから、なんと文革終了時まで逮捕5回、18年間監禁生活を強いられるという経歴を持っている。言論の自由が確立されていない中国で、上記のように毛沢東を名指しで揶揄するような小説を出すことは、作者にとっても出版社にとっても、そのリスクを考えれば遥かに60年代初頭の深沢七郎と中央公論社より大きい。しかしこの中国の作家には、そのリスクを冒してまでも筆をとらせる、毛沢東及びそれによって作られた共産党専制社会の「強さ」があるということだろう。この場合文学は、まさにそれに「要請」されて生まれたと見るべきである。作者は、作品の中で文革という政治運動の恐ろしさと、それを引き起こした毛沢東、意図的に総括も反省も十分にしないまま支配を受けついた共産党支配層を痛烈に批判し、同時に時代の逆流に対する強い危機意識を露にしている(作中の主人公の名前は中国語でZHAO JIU、「昔のまま」という言葉と同音である)。そのおそらく自らの痛切な体験を基にした記述には、作者の確固たる信念・思想性を見て取れる。そしてそれは同時代を過ごした多くの人々に共有された体験であり、実際上記は同類の作品の一例に過ぎず、これ以降も(自主規制ではなく)厳格な検閲制度ある下で、様々な創作のジャンルで作家と出版社の慎重かつ執拗なタブーへの挑戦は続けられていく。もう一つの端的な例として、天安門事件の一年後に、人民日報海外版の文化面に載せられていた詩が、斜めで読むと「李鵬失墜すれば万民之を歓ぶ」になったことも挙げておこう。

これに対して、日本文学の天皇に対する姿勢を、小林よしのりの「ゴーマニズム宣言第2巻」末章の「かばやきの日」に即して考えると面白い。本作品で、まず作者は明々白々に自分は天皇に対して一切恨みがないどころか、皇族が日本で恐らく一番世間に気を遣う大変な家族であり、皇太子にしても雅子さんにしても良い青年であるから、成婚に対する悪い感情も全く無いと断りを入れる。しかし、天皇の存在を勝手に持ち上げて定義し、それによって己を権威付ける右翼に対する反感があるとした上で、自分はギャグ漫画家であり、ギャグは厳粛な場面を下らなく茶化すことによって生まれるものだと主張する(この部分の挿絵として、葬式でお経を唱える坊主の後頭部に落書きする子供、それを見て笑いをこらえる大人を描いている)。だから相手側が厳粛と振舞おうとすればするほど、漫画家としての性がうずくのだとして、「本当に何の思想性もないから」と強調してから、留学中に過激派にそそのかされた雅子様がパレード時に爆弾を周囲に投げる「ロイヤル爆弾」という超弩級のギャグが展開され、末尾に「これが普通に雑誌に載っていられるような寛容さが社会にほしい」と結ばれる。

この時期のゴーマニズム宣言は内容的にもリベラルであったが、この章は皇太子・雅子成婚に関する内容であったため、当時掲載されていた「SPA」の自主規制にあい、作者はこれを「ガロ」に持ち込んでノーギャラで掲載したことでも良く知られている。この作品で読み取れるのは、タブーである天皇を描こうとする動機が何か?実は、単にそれがタブーであるからだということに他ならないことである。

日本の天皇は、すごく乱暴な言い方をすれば、近代以降は時代の権力者に都合よく利用される、ほとんど主体性を持てなかった存在である(そういう意味で、本当に天皇に「意味」ではなく「強度」を感じていた真性右翼はどれほどいただろうか)。従って私たちが天皇を考えるというのは、往々にして天皇を「神聖不可侵」と意味づける体系や、「国民の象徴」と意味付ける体系を考えることであり、実際に天皇本人、例えばその人間性などを考えることは少ない。天皇本人は、何もしていない(できない)し、そして天皇の存在そのものでさえも、民主主義思想が全盛の今日では自明的とはいえないが故に、天皇に対して良かれ悪かれ一定以上の感情を持つというのは現代の一般人にとってもはや不自然なことである。

例えば成婚パレードに大勢の人が詰め掛けたとか、皇室の特番が高視聴率を取るといった事象の中から、安易に「国民に愛される天皇像」を抽出しようとするのはたやすいが、それは既にワイドショーのアイドルとして消費されている存在でしかない。時々テレビで皇室を見るとき、私はこの日本の天皇という存在が国民にとって、大衆の不可侵的なアイドルたち、例えば長嶋茂雄や山口百恵と本質的にどう違うのだろうと考えてしまうことがある。アイドルは空洞であるために偶像としての意味がある。しかし空洞である以上強度は無い(その意味で、例えばスキャンダルだらけで、コメディーなどでも風刺の対象となる英国王室が日本のそれとくらべ、どれほど国民に対して強度を持っているかを考えると面白い)。


だからそれをさもものものしく、過剰に持ち上げて定義しようとする環境に対し、我々がうさんくささに似た不信感を覚えるのは当然のことで、ギャグ漫画家ならずとも、
「茶化そう」とする欲求が生まれてくる。そこには確固たる信念や思想といったものは、天皇の存在自体がそれを要請するほどの強度を持たない以上、必要ともされてないのである。しかし確固たる信念や思想性の不在は、当然圧力というリスクに屈しやすい文学の構図を作り出してしまう。小林よしのりのマンガ表現を借りれば、子供である深沢七郎らがインチキ坊主(?)の天皇のつるつるとした後頭部に落書きするのを、あとで親ともどもこっぴどく怒られて懲りてしまうように。

もちろん、全ては天皇側が、意図的に高等な政治技術によって、ただ自らを「書くに値しない存在」に身を隠しているともいえるし、必ずしも強圧な外見を伴わずに大衆を飼いならしてしまうのが権力の恐ろしいところであろう。映画「マトリックス」は、我々はいかにも自由に生きているように見えて、実はただ脳に管を繋がれていて、そこからエネルギーを吸い取られる代わりに幻像を提供されているに過ぎないという悪夢のような構図を示したが、民主主義政権の下での大衆と権力を考えた時にそうでないと誰が言い切れるのか。無力か、狡猾か、私たちにとっての現実とは何かを考えた時に、それは興味の尽きないテーマである。






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Last updated  January 16, 2005 05:31:23 AM
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