1

本丸に上がるとそこには天守閣が・・・。石垣の壮大さと比べ、丸亀城の天守閣は驚くほど小さい。現存する十二天守の中でも最も小さい天守ということです。中に入ると、急な階段に驚きます。この天守は1640年山崎安治によって築かれ、1660年に京極高和によって改築されたものです。この階段は、350年の歴史を実感できるだけの味が出ていました。三層三階の天守は小ぶりで、もちろん三階もこじんまりとしていますが、ここからの眺望は素晴らしいものでした。天守から見える瀬戸大橋入城してきた大手門から丸亀駅方面、その先には瀬戸内の島々が見えます。亀山公園の方から丸亀駅に向かいます。お城の周囲を回ってみると、いかにも古いと思われる石垣がありました。
2017/02/10
閲覧総数 118
2

大阪原人の歩いた上町台地JR森ノ宮駅の西北すぐのところにある“大阪城公園”ここは上町台地の東北の端っこってところでしょうか。紀元前7000年ころ、半島は北にいくほど海抜が高くなり、最も高いところで15~20メートルほどありました。河内湾は、北は琵琶湖から流れてくる淀川、東には生駒山脈がそびえ、その生駒山脈の南側を大きく迂回して流れてくるのが大和川です。【6000年前の大阪の姿】 半島の東側は緩やかな傾斜で、そこから河内湾という内海が生駒山脈の麓まで広がっています。半島の西側は急な崖が海に落ち込んでおり、その崖下まで瀬戸内海に面した大きな湾が入り込んでいました。この二つの海の間に伸びた半島が、大阪の歴史舞台の中心となる上町台地です。【法円坂】 大阪城の南側にある「法円坂」は、上町台地の東側に位置し、森ノ宮から難波宮跡まで緩やかな坂道が続いています。上町台地の形状は幅2~3キロ、長さ約12キロ。北端は大阪市中央区天満橋で、南端は住吉区の苅田付近です。標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部は急激に淀川水系の大川へ落ち込みます。【大川と天満橋】一方、南部へは緩やかに傾斜しており、大手町付近で24メートル、天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルとなっています。しかし南部の万代池南方から勾配が急になり、住吉大社付近で6メートルとなり、台地南端の住吉区清水丘では2~3メートルになるのです。上町台地上には台地の形状にちなんだ地名が多く、北から天王寺区の「真田山」「北山」「桃山」「夕陽丘」「茶臼山」阿倍野区の「晴明丘」「丸山」、住吉区の「帝塚山」「清水丘」と続いています。《続く》
2015/10/22
閲覧総数 2463
3

世界遺産法隆寺の魅力五重塔の相輪をよく見ると、アレっと思うものが二つあります。一つは、相輪の下の方に刺さった鎌の形をしたようなものです。この九輪にある「鎌」は、高層建築物の大敵である「雷」を魔物と考えて雷よけとして設けられたのではないかと言われておりますが、事実かどうかは定かでありません。【相輪の鎌】「鎌倉時代、五重塔に落雷があり、火災が発生した。幸い4人の大工が死を決して消し止めた。その時、西大寺の興正(こうしょう)菩薩・叡尊(えいそん)が駆けつけ、北室院に泊まり込んで対策を練った。叡尊は木簡に墨書して護符(お札)とし、五重塔の各層に安置するとともに、雷除けのため鉄の鎌4本を相輪最下部の四方にかけた。」という話が伝わっているそうです。 そして、二つ目は、“露盤”という相輪の台にある“三つ葉葵”の家紋です。何故法隆寺の五重塔に徳川の家紋があるの?不思議ですよね。 【露盤の家紋】これは、実は元禄の修理の時に、徳川の家紋入りの露盤に取り替えられたということです。徳川家の家紋「三つ葉葵」と桂昌院の実家・本庄家の家紋「九目結紋」を並べるのが通常の形ですが、露盤には三つ葉葵だけしかありません。江戸時代といえば塔は完全なアクセサリーとなっていましたが、法隆寺造営当時は塔は金堂と並んで最高の礼拝対象だったので、恐れ多いと言うことで桂昌院は九目結紋の表現を遠慮されたということです。 法隆寺境内の中央、最も目立つ場所に桂昌院燈籠といわれる大きな銅製の燈籠が建っています。【桂昌院燈籠】これは元禄7年(1694年)、法隆寺が大修理(金堂や五重塔などを解体して修理した)に際し修理費用を得るために、江戸で出開帳を勧進。そして、五代将軍綱吉と桂昌院の上覧を受けた際、桂昌院から金400両、燈籠代として金50両、その他米200俵、水引などの寄進を受け、さらに翌年にも、金300両の寄進を受けています。その際つくられたのが、この桂昌院燈籠で、こうして元禄の大修理という大工事のかなりの費用を桂昌院がもったということです。 ここには、徳川家の三つ葉葵の紋章と、桂昌院の養女先であった本庄家の九ツ目結紋の二つの紋章がついていました。【邪 鬼】建造物を支えるのはカンダーラでは西洋から請来した「アトラス」でインドでは「ヤクシー」の役目ですが、法隆寺五重塔は“邪鬼”が四方を支えています。 【風 鐸】 お寺では通常、相輪や堂の軒の四方に「風鐸」(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられています。これらは青銅でできており、強い風が吹くとカランカランというやや鈍い音がします。強い風は流行病や悪い神をも運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味でつけられており、この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないといわれています。 風鐸は現在の風鈴のもとになったといわれていますが、民家の軒先に吊るす風鈴がいつから存在するのかはっきりしません。 桂昌院は、もとは京都堀川通りの八百屋・仁右エ門の娘であったのですが(幼名をお玉という)、幼いころ父がなくなったため、家計のために下級武士・本庄家の養女になりました。そこからさまざまな転機を経て、江戸幕府の大奥に入り、家光に見こまれ側室になった女性です。ちょっとした偶然の積み重ねと運命のいたずらから、江戸時代のシンデレラといわれる出世を重ね、三代将軍家光の側室になり、五代将軍綱吉の生母となった人です。《続く》
2014/01/16
閲覧総数 2598