松尾大生の独り言

松尾大生の独り言

2010.06.24
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「また、ストリートファイト系の日記を書いてくれ」

とリクエストがあったので、書いてはみるが……。

俺は現存する人類の中では、ヒクソングレイシーが一番強いと思っている。

かなり前になるが、「朝まで生テレビ」で、

●人類の歴史上、一番強いファイターは誰?

というテーマで激論が交わされているのを観たことがあるが、勿論、諸説紛々で、そんなことに結論が出る訳はないのだが、やはり

●宮本武蔵

の名前が出る頻度が一番おおかったし、勿論、ヒクソングレイシーも登場していた。極真空手の大山さんや、海外の名前も知らない歴史上のファイターも多数登場!



と、いう思いはあった。ほとんどが軍事評論家やプロレス・オタクなどの、要するに実戦経験のない「評価するだけの人間」であった。市井の経営コンサルタントみたいなもんである。

ちなみに、俺は、歴史上、一番強い人類は、やっぱり宮本武蔵だと信じている。精神面、肉体面をトータルに判定すると、宮本武蔵の他に誰がいる? という結論になる。

仮に「アキレス腱」で有名なアキレスと宮本武蔵に剣の勝負をさせたら?

話にならん確率で、宮本武蔵に瞬間的に斬られていたろうと思う。ヒクソングレイシーの強さの一番の要素は、ヨガによる心・技・体に及ぶ瞑想であると思う。宮本武蔵は、実は兵法以上に瞑想を重んじて実戦していた。ヒクソンどころの話ではない。アキレスは無論、瞑想していなかったであろう。勝てる訳がない。

ヒクソングレイシーは、

「自分はサムライだ」

と洒落抜きで宣言しており、宮本武蔵の「五輪の書」を聖書のように熟読している事実がある。

ヒクソングレイシーが戦う時の足運び、擦り足のように、リングのマットから極力、足の裏を離さない戦い方にしても、「五輪の書」に描かれている宮本武蔵の足運びをアレンジしたものだと、彼自身がインタビューに答えていた記憶がある。

その宮本武蔵だが、生涯に負けなしと伝えられているが、実は一度だけ、「負けた」ことがある。

晩年の塚原ト伝に後方から木刀で襲いかかったが、塚原ト伝が偶然のように振り上げた鍋の蓋で、封じ込められてしまった逸話は有名。つまり、負けたのである。しかし、この話は実は後世の創作であり、宮本武蔵と塚原ト伝の生きた時代は違うから、あり得ない逸話である。しかし、この逸話のは奥は深い。

歴史上のリアルな塚原ト伝はご存知のように、無手勝流の使い手であった。無手勝流とはいうまでもなく、戦わずして勝つ流儀だが、現実の塚原ト伝は、真剣勝負が数十人、合戦に参加した回数も数十回、……生涯に殺したファイターは、二百人を楽に超えているのは、事実。そうして彼自身はかすり傷程度のダメージを六回程度受けただけだという。しかし、彼の兵法は基本的に無手勝流であった。無手勝流とは、いうまでもなく、戦わずして勝つ兵法である。



ある時、塚原ト伝が小舟に乗って海を移動していた。一緒に乗り合わせていた武士が、

「自分は武芸者だが、一度も負けたことがない」

と唾を飛ばして下品に自慢しているから、頭にきた塚原ト伝が、

「自分も勝負で一度も敗れたことはない」

と、武芸者を挑発した。それでは一戦交えてみようと、二人は船頭に命じて、近くの無人島で決闘することになる。



さて、俺の小学生時代からの喧嘩遍歴は以前にも述べた。

俺は生まれつき、平均より体格と体力に平均より相当にずば抜けた子供であったから、小学校や中学校の廊下で、つまり狭いスペースで戦った場合、面子にもよるが、本気になれば、5人位までは、打ち勝つことができた。その代わり、5人以上くらいに襲われると、ボコボコにされていたが、小学校から高校まで、1対1の喧嘩では負けたことがない。「負けたことにしてあげた」ことはあったが……。

以前にも紹介したが、俺の喧嘩技は、様々な要素が混同している。小学校三年から五年生までは、真駒内小学校の同級生の立石くんと、三年間、学校が終わると毎日のように、野相撲とカンフーを混在したような、立ち技中心のファイトの遊びをしていた。小学校五年生の時に、俺が学年で一番、喧嘩が強いという評判が広がり、喧嘩自慢の他のクラスの小学生から挑戦されたことがあるが、取っ組み合いになった末、馬乗りになり、かった。

西野小学生に転校になって間もなく、六年生の冬、担任の伊藤先生がクラスの男子全員で、グラウンドでバトルロイヤル形式の野相撲をやってみれと、体育の時間に皆に提案。20人くらいの男子は当然のように俺に集中攻撃をかけてきた。俺は、雪のグラウンドを走り回りながら、男子の半分以上を一人で倒したが、雪に足をとられた隙に猛襲にあって、倒れた……。

多人数を相手にする場合、スペースの広さは重要である。狭いスペースでは5人が限界だったが、グラウンドのような広いスペースでは、走り回りながら戦うことができる。ちなみに俺は小学校6年生の時は、学年で一番、足が速かった。広いスペースで走りながらの戦いになると、例え相手が20人いても、瞬間瞬間の勝負は1対1になる。だから、半分以上倒せたのだ。もし、真冬でなく雪に足をとられていなかったら、今でも20人全員倒していただろうと、思っている。

西野中学校にはいってからは柔道部に所属していた。三年生の時、顧問の羽賀先生から、

「寝技では札幌市で松尾が一番強い」というお墨付きをいただいた。ただし中学校柔道とは型の柔道であるから、立ち技では、際立って強くなかった。型から外れた柔道はタブーだったのである。率直に言って、俺は腕力が異常なほど強かった。喧嘩では、アームロックをかけて、そのまま柔道でいう袈裟固めのマウントに持ち込めば無敵だった。しかし、アームロックなど、型の柔道ではタブーである。最終的には中体連の西区の大会では優勝したが、札幌市の大会では、六位だったが、同じ相手との喧嘩では無論、負ける訳がないと自然な感情として、確信していた。ただ、中学柔道では寝技の型を学んだことだけは生きたと思っている。寝技に関しては、百人以上と対戦したが、負けなしだった。寝技オンリーの乱どりでは20人抜きをしたこともある。

高校に進学して、当時、団体戦でオール北海道6連覇を達成していたレスリング部に入ったが、母親からの強硬な反対にあって、短期間で退部した。レスリング部で学んだことは、一つだけ。戦いに入る直前の「構え方」である。スタイルである。いかに隙のない構え方のスタイルを習得することは、柔道で言えば受け身の取り方が基本であるように、レスリングの入門編だということを学んで退部。文芸部に転向。

高校一年生の時は、札幌市内でも一番の喧嘩自慢が集まる学校であったが、やはり、

「松尾が一番、学年で喧嘩つよい」

と、一部では囁かれていた。年に一度の柔道大会での各クラスからの力自慢を集めた試合で、常に秒殺だったのを、みんな、見ていたからだ。高校二年生となりクラスがえがあり、美術の時間、すっかり文芸部員と化していた俺に、弱い者虐めする感覚でちょっかいを出してきた喧嘩自慢のクラスメイトがいた。馬鹿にした態度だったし、先方から軽く手を出してきたから、アームロックをかけてマウントに持ち込み、馬乗りになり、顔面に張り手の嵐を食らわせた。所要時間、約15秒だった。クラス替えになって間もない頃で、彼は不覚にも俺の評判を知らなかったのだ。張り手にしたのは、手加減する為であった。あれがパンチだったら、彼、血だるまになっていたから。

レスリング部を短期間で退部した頃の俺の体格だが、身長は179センチ。身長というものは朝と夜では、若干違う。朝方は身長180センチだった。体重は変動はあったが、65キロから70キロ。背筋力は250キロ前後。握力は、70キロ。肺活量は6000から7000だった。特にに肺活量にかんしては、

「そんな訳がない」

と体育の教師に二回、計り直されたが、結果は同じだった。腕力に関しては数値としては、残っていないが、俺の肉体的パーツの中で、腕力は、一番自信のあるところだった。特に右腕の腕力にかんしては、背筋力に換算するとしたら、楽に300は超えていただろう。握力に関しては、なぜか生まれつき、よわかったが……。高校二年生の時の美術の時間の中休みのあの15秒間が、おもえば、俺の少年時代最後の喧嘩だった。大学に進学してからも文芸部に入り、以来、十年以上、喧嘩というものには縁がなかったのだが……。

28歳で社労士事務所を開業してから、ススキノでの酒と女と喧嘩の日々が始まった。三十代の前半まで、つづいた。

俺は基本的に遊び仲間とつるんで放蕩するよりも、単独行動が好きだった。仲間と飲みに行く時には、遊び仲間の中には女の子も沢山いたし、格好わるいから、一切、喧嘩しなかったが、単独行動の時には、ストレス発散の為だったのか、アルコール依存症で頭がいかれていたためか、相手構わす喧嘩していた。そういえば、日本人男性と喧嘩したことは無い。ヤクザは恫喝が上手いだけで、相手にもならなかったし、チーマーのたぐいは、俺は眼力が凄かったらしいから、ひと睨みで蜘蛛の子のように散らばって道をあけていた。黒人男性は、謙虚な、いい奴が多く、おれは好きだった。

残りは白人男性である。白人男性でもヨーロッパ西側の比較的文化レベルの高い方々や、アメリカ人やオーストラリア人は、あまり挑発に乗ってこない場合が多かった。例外も多かった。貧困国の白人男性がやはり、凶暴だった。

例えば、外国人のグループに、英語で道を訊かれたことがあった。

「日本に来たなら日本語で質問しろッ!」

と俺が怒鳴りつけると、三人グループの中の一人が、殴りかかってきた。

俺は挑発はしても、いかなる場合も先手を打つことはなかった。松尾流格闘術に先手は無いのである。率直に言って、正当防衛を成立させる為と相手がナイフ等を所持している場合を想定して、であった。「空手に先手無し」というような深い発想ではなかった。いきなりナイフを懐から取り出すような人間は、いない。

外国人というものは例外はあろうが、徴兵をうけて、何年間かはファイトの訓練をしているものであるが、なぜかみんな、喧嘩になるとボクシングスタイルになる。顔面を狙ってくる。最初はやはり防御しながら、ダメージを抑えて一発なぐらせる傾向にあったように思う。どうせ打撃でくるならば、おれは下半身が極端に細く、足首を手のひらで握ると中指と親指の先端が接触するほど、足が細く、上半身は逆三角形の痩せ型・ブルースリー体型であった。だから、ローキックを打ち込まれたら、弱い訳だが、外国人はなぜか足の打撃技を使う者は皆無であった。

防御しながら最初になぐなせるのが基本だったから、前歯を何本か失ってしまった。今でも時々歯医者にいくが、人口の歯というものは弱い。おれはコマイの燻製等かたい食べ物がすきだから、人口の歯は直ぐに取れてしまう。だから今でも、前歯はボロボロだ。

ダメージを極力セーブしながら一発なぐらせたら、あとはこちらのもの。二発目以降のパンチは、両手でかわしながら、相手の体につかみかかる。マウントに持ち込む為である。手首だろうが腕だろうが襟だろうが、首だろうが、捕まえられた相手は、もうおしまいだ。ナイフを出す隙はない。マウントに持ち込む場合、柔道の立ち技等、無視していた。つづく。





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Last updated  2010.06.25 03:37:48


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