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8月頭より、 今年度のミュージカル練習が 本格的に始動する。 練習初日。 写真屋さんが撮影され、 個々人で注文していた写真が 配られる。『 スタッフ 』 なので、ステージに上がらない私は先生からメンバー から次々に 矢継ぎ早に 責められる。。。。それもまた有難いことなのだと 思い直し。めでたいことに、今年はカムバックした有力メンバーが3名。また、小学校低学年の子どもたちも 新しく6名。中学生も2名、高校生1名が増え、嬉しい賑やかさ。こんなに増えたことは なかった由にて「 それもこれも、今春の公演が素晴らしかったから 」と、主宰者さんが喜んでいらして、何より。『 夢の代金 』月の黴菌たちが、かぐや姫に 「 3つの願いを叶えよう 」 と甘く囁く場面である。 「 姫の 恋しいおじいさんと おばあさんに逢わせてあげよう 」「 不老不死の薬も思いのまま 」「 3人で 未来永劫、倖せに暮らせるぞ 」そんな甘い言の葉に釣られ、姫は下界へと堕ちてゆく。「 それって 何か 違わない? 」「 もっと大事なことって あるでしょう? 」姫を懸命にとどめようとして失敗する友人の宇宙人たちは姫を守るため 一緒に堕ちてゆく。堕ちて 守れず ただの傍観者になりさがる。 結成10周年目の今年は、太平洋戦争がテーマであり、8月6日に 皆が消えて行く重たい大作となった。練習初日から、既に 8回目。踊りの振り付けもつき、厳しい演技指導が始まり、現在のところ、私は することもなく、居場所もなく。傍観者然と 客席から 先生からの諸注意、気付きをぎっしりと台本に書き込みながら。私の3つの願いは。私の 夢の 代金は ――
2010.08.31
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8月14日。 実家の父の祥月命日。 この世で 一番 私の悲しかった日である。 今回、母が父の25回忌法要を営むことにしたのは、 8年後となる、33回忌法要を営む自信がないから、とのことであった。 弟も私も、 何をおバカなことを、と一笑に付し、 33回忌も きっと 皆 元気で迎えられるし、 親不孝の極致ではあれど、 おかあさんが 私たちを看取ってくれそうに思ってるよ! そんな風に受け流したのだったが、母の決意は固く、 この日を迎えることになったのだった。 内々の法要で、母と弟と私。 父が妹のように思い、私が姉のように慕っている私の従姉のみ。 うちの少年たちも来てくれると嬉しいな、と呟く母に 当たり前ぢゃん、引きずっても連れて行くよ! と 早くから少年たちに調整をお願いしての この日。 起きられない下の少年 を 叩き起こし、 お寺さんが お帰りになられたら、すぐ眠っていいから、と 寝ぼけ顔な彼をそのまま Fitの後部座席に突っ込み、 そのままそこで寝かせよう、と 上の少年を助手席に乗せて、実家へ向かう。 いつもなら、Fitのエンジン音で、転がるように 外に飛び出して 満面の笑顔で 私たちを迎えてくれる母が 出て来ない。 弟とふたりで、手が離せない程のご馳走をつくってる? 車庫入れ前に 先に下ろした少年たちが いつもなら いそいそと 勝手知ったる「 大好きなばぁちゃんち 」へ上がり込むハズなのに、 玄関の前で固まっている。 「 ん? なんで入らんのん? 」 「 だって、誰かおってんぢゃもん。。。 」 お年頃 の シャイなボーイズは、 外に漏れ聞こえてる 機関銃のやうな「 おばちゃん 」の話し声に 畏れている様子。 、、、あぁ、なるほど。 毎年、父の祥月命日にお参り下さり、 定年を迎えられてからは 散歩がてらに 毎月の命日にお参り下さる、 父の幼馴染であり、職場の同僚でもある「 おじさん 」が、 夫婦でおいでなのだった。 父の大親友である 上品で温厚な「 おじさん 」を 私たちは大好きなのであるが、 大阪の旧家のご出身でいらっしゃる 「 おばさん 」は、 広島人となられて60年を越えておられる今も関西弁で、 息つく暇もなくお喋りになる御方で、悪い御方ではないし、 私など、とても可愛がっていただいたものではあるが、 なんでも ずけずけと 歯に衣を着せずおっしゃり、 殊に私たちの大好きな「 おじさん 」を悪し様におっしゃるので、 この御方とお別れした後は、暫く座り込んでしまうほど、 神経をすり減らされ、私たちは、苦手としているのであった。 このおばさんに 耐性のない少年たちは、 挨拶もそこそこに、早々と隣の部屋へ逃げ込んだのであったが、 私はそういう訳には行かず、長い長い時を過ごす。 昔話に勝手に大輪の花を咲かせ始めたおばさんは、 乳児だった私が、「 生さぬ仲 」 である母に、 今日まで どれ程、慈しんで貰ったか。 その恩を絶対に忘れてはならない、とか、 「 生さぬ仲 」 の 母が、慣れぬ育児に どれ程、苦労したか、その恩を絶対に忘れてはならない、とか、 その「 生さぬ仲 」である娘の長男を 高2高3と難しい時期に、この家に下宿させ、 育てて貰った恩、京大に合格させて貰った恩、 どんなに感謝しても 恩返ししても 返し尽くせるものではない、とか、 少々お歳も取られたために、それらが声高にエンドレスで繰り返され、 母と私とのことを、まだ少年たちに話していない私は、 隣室の彼らの耳に届くのではないか、 こんな形で、彼らが識ることを1番怖れていたのに、と はらはら し通しで、すっかり消耗してしまい。 ぎしぎしと こころが軋み、悲鳴をあげかけたとき、 ピンポンとチャイムがなり、従姉が来てくれる。 従姉は、少年たちと逢えたことに とても喜んでくれたのだったが、 下の少年の酷い状態に息を飲み、 「 仁ちゃんの方がハンサムだと思ってたけど、これではね… 」 痛ましそうに、紡がれた言の葉に 母が顔色を変え、仁を引き寄せて涙をこぼす。 何気ない 従姉の言の葉は 上の少年のこころを抉り 下の少年を 抉り、 そして、母のこころをも 抉る。 その場の空気を緩めたく、ただ 私は へらへらと笑うだけ。 最愛の父の25回忌に。 1番近しい私たちが集まり、父を偲び 手を合わせ、 来し方、行く末、と 遺された互いのこころ を あたためあう日となるはずだった。 なのに それぞれのこころに 思いがけない波風を立てられ、 あげくに、繰り返された 父の手術の是非、 葬儀のときのあれこれの是非。 ―― とうに 母と私の間では 自分たちを納得させ こころ 鎮めて クリアしてきた事柄であったのに。 どうして こんなことになってしまったか。 夜、おいで下さった方々を丁重にお見送りし、 夫の職場へ Fitで夫を迎えに行く。 母と弟が、腕によりをかけてつくってくれた夕食を 母と弟と 私たち一家 の 水入らずな雰囲気で 共にいただき、 その和やかな空気に やっと こころが和み、ほっと一息入れて、 翌15日も出勤である夫や、 広島で友人たちと逢う予定の少年たちを残し、私だけ、自宅へ戻る。 泊まらない、と 義母に約束をしていたから。 独り 戻る 車のなかで、 耐え難い哀しみが襲ってくる。 結局 私は また 誰も守れなかった。 母も、少年たちも、 私自身をも。 そして、そんな非力な私が、実家を後にし、 独り、この地へ義母を守りに帰ろうとしている、 この皮肉さ加減に 嗤えて来る。 ただ 倖せなのは。 私抜きでも、夫は私の実家に在れる、母と夫の双方のこころ。 少年たちが 私の母をとても愛し、信頼していること。 それが 私の宝なのだと。 母が 私の宝なのだと。 改めて気付かされ、 だから、私は 私の なすべきことを。 母の在り方を 胸に、なすべきことを。 ふぁいとふぁいと > ぢぶん
2010.08.15
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…… ということで、 義母宅の母屋+納屋の 瓦葺き替え見積もりが出る。 その金額程度はトーゼン掛かるだろうと 覚悟してた義母に比べ、 全く覚悟の出来ていなかった私は ひっくり返る。 母屋+納屋 で 430万( 税抜 )。 他、納屋の屋根の 「 眉毛 」と呼ばれる部分が「 別途 」。 樋の全面やり替えで 97万( 税込 )。 どうかすると 総額600万越え?? 地元の工務店さんなので、 皆さん 昼食はお帰りになられるとの由だが、 麦茶を大量に用意。 カキ氷用容器で麦茶を凍らそう。 10時3時にはお茶菓子の用意。 …… 施工期間 最短20日。 車の乗り入れのできない 小さな坂にある家のため、 瓦の撤去、搬出、土降ろし、瓦搬入、と、 近隣の方々に 何かとご迷惑をお掛けするので、 工事前に 近隣の方々への挨拶周り、物品用意。 母屋と納屋の全室、全押入れに ビニールシートで覆うため、 シートの買出しと覆い作業。 お金はともかく、諸々手配を 誰がするんですか? 私ですか、そうですか。( ┬_┬) 私のペースでちゃっちゃと進めちゃってイイですか。 … ダメですか、そうですか。( ┬_┬)
2010.07.30
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わ~ぃ\(^o^)/☆ 懐かしい写真を見つけたぞっ!!( ただいま、思いっきり 現実逃避中 )。て いうか 時間ないのに、引き出し や ファイルの中身を片付け、掃除しててどーする (-_-) > ぢぶんジャ~ン♪ これ、県東部大会で優勝だったとき、ぢゃないかなぁ。。。。。。まさか、この数ヶ月後に一生、バレーが出来なくなるとゎ。。。(──┬──__──┬──)あら、懸命にテンションあげやうとしてるのに、逆効果だったわ ^o^;。しかも、現在より かなり細いし(悲)。(-_-)。。。。。 掃除しよっと。
2009.04.29
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8月に長義兄のところに初孫が生まれる。 ( といっても 巣立って、生まれるところは関東 ) 義母にとっては 1番大切な長義兄の、 そのまた1番愛しい初孫の子 であるので、 毎日のように、悪阻はどんな感じだろうとか、 広島で出産してくれないだろうか、とか あれやこれやと 心配しつつ、楽しみにしているのだったが。 「 実は あんたに 相談があるのぢゃが 」 と、思い余ったような口調。 出た! こんなときの義母の「 相談 」とは、 義母のなかでは はっきりと方針は決まっており、 それを押し通すために、 「 りうさんも、そう言ってる 」という形を取りたいとき、なのである。(-_-) どうぞ とんでもないことでありませんように、と祈りながら義母宅へ。 したらば、長義兄宅に 赤ちゃんを迎えるにあたり、 どんなに小さいものでもいいから仏壇を用意しろ、と言いたいのだが、 あんたからも口添えをして欲しい。 というもの。 義母曰く、長義兄の子どもたちにとって、 長義兄宅が、「 本家 」となって行くのだから、 長義兄の子の連れ合いが帰省してきたら、お仏壇に手を合わせるべきだし、 今度は赤ちゃんが生まれるのだから、お仏壇の前で祝わねばならないし、 何より仏さまのご加護を願わねばならない。 子どもたちのこころの教育のためにも、お仏壇は絶対に必要だから、 赤ちゃんが生まれるまでに買わねばならないのだ、と。 そして 「 そのうち あんたのところも、の 」。 げ、げ~ん。 つ、つひに、来た。。。。。。orz.... 信仰深い義父母とは異なり、夫三兄弟は、 お仏壇の前できちんと手を合わせ、読経にも付き合い、墓参も厭わないが、 実のところは長義兄を筆頭に 徹底した【 無宗教 】なのである(滝汗)。 夫など、結婚時に、イエの宗教を尋ねたとき、 自分のイエが何宗なのか、答えられなかった程。 ^o^;。 、、夫が全くこだわらないのをいいことに、 私は自分の生まれ育った環境で、 私自身が素直に手を合わせることのできる宗派を大事に思い、 少年たちにも、私が通って 素晴らしい想い出ばかりのある、 お寺さんの幼稚園へ行かせたのだった。 んだから、少年たちには、お仏壇の前で手を合わせること、、には、 比較的抵抗がなく、義母宅でも私の実家でも、 行けば必ず、自然にまずはお仏壇に手を合わせるのだが。 正直、私は、夫のイエの宗派が嫌い(゚゜)\バキ☆であり、 この地に来て、義父を見送り、その前後のあれやこれやで、 この地のお寺さんのことも心底イヤになっている(汗)。 義父母宅のお仏壇のお世話をこれからして行くにしても、 我が家の仏間へ、新たに、夫のイエの宗派のお仏壇を、 買いたくはありません(゚゜)\バキ☆ 言えないけど。 、、、とはいへ、宗派を問わず、 何かに向かって、手を合わせる――感謝する、ということ。 自分たちが 今 生きて在れることに感謝する、ということ。 そのこころは、確かにとっても大切なことだと思う。 '06年に、再発した癌を抱えた妻とその夫と保育園児2人の家族の物語で、 5歳の少年とその父親との 宇宙や生命をめぐる哲学入門書といったような 『 てのひらの中の宇宙 』という本が出版されたが、 元々、手を合わせる、ということそのものが 自分の内的宇宙と向き合うことなんだそうなのである。 こころ静かに 手を合わせ、今生きて在る自分と向き合う時間――。 今の時代だからこそ、宗派を超え、そんな時間を大切に持っていて欲しい、と思う。 んでも、そのことの強制はできないし、 まして、ひとつの宗派、という狭いセクト的な枠にはめることを 強制しては ならないんぢゃなかろうか。。。。 子どもたちには、願わくば、手を合わせるひとびとの後姿に学び、 来し方、行く末、自分が自分の力だけで生きて在る、のではなく、 何か大いなるものに、自分たちが生かされ、或いは守られて在るのだ、と、 そんなような謙虚のこころ、感謝のこころを持っていて欲しい、けれど。 んで、それは私の願いであって、 信仰深い義父母の後姿をずっと観て来たハズでも、 きっぱり「 無宗教 」のスタンスでいる長義兄には、 長義兄の、考え、願いがあるはずで。 お願いだから、そんなところに 「 【 三男の嫁 】もそう言ってた 」 という形で、 義母の長義兄への願いに 私を登場させないで欲しい。。。(;;)。> 義母
2009.03.02
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28日。 この日は職場の後輩のご成婚内輪パーティであったのだが、 年末の嫁稼業、必殺お餅つきの日であり、申し訳ないながら私は欠席。 えーん。 行きたかったよーーーヽ(`Д´)ノ。 早朝より、山ほどの義母のいつもの愚痴話にお付き合いしながら、 とにもかくにも、山ほどのお餅を搗いて仕上げて、片付けて。 そろそろ陽も翳るという頃、 この日を仕事納めにされている、 件の駐車場用整地工事を請け負って下さってた地元の業者さんちへ、 お詫びと御礼を兼ねて、ビールを1ケース持って行く。 事務所ではなく、社長さん宅へ持参したい、という義母も乗せ、 地図とにらめっこしながら、車1台がギリギリという狭い山道を登る。 右は崖、左は溝からすぐ山の急な斜面。 まだまだ上ぢゃ、という母の言の葉に従い、登っていくが、 道の舗装がなくなり、どんどんと狭くなる。 、、、これはどー考えても 違うんぢゃないの? 危機感を覚え、たまたま左の急斜面で竹を切ってらした男性にお訊ねすると やはり行き過ぎ、との由。 (o_ _)oポテッ 方向転換する余地もなく、このまま、恐ろしく急な坂をバックで戻らねばならない。 右はところどころお手製の棒が目印に立ててあるだけの崖。 左は十分脱輪できる溝、そして山。 ( ┬_┬)。 左の窓から義母に脱輪しないよう見てて貰い、 ゆっくりゆっくりバックし、カーブを切り。。。 半泣きになり始めた頃、左側に1台軽トラックが停めてある場所があり、 もう1台横に駐車できそうな位の空きがあったので、 そこで方向転換しようと試みたのだったが、これが甘かった。 その場所は、入り口が短いながらも急な坂になっており、 ゆるゆるとしたバックでは上がらない。 アクセルを踏み込めば、その坂を上がった反動で、 停まっている軽トラにぶつけるかも知れず。 やっぱりこのままバックで降りよう、、、 いや、なんとか、方向転換できるか??? と、そこに、これ以上進めない、と私が断念した道の上から、 小さな軽自動車が降りてくる 。 バックのままか、方向転換するか、の一瞬の迷いと、 このままでは、軽自動車の邪魔になる、という焦りが、 ハンドルを切るタイミングを失わせ、 愛車Fitは、小さな道を塞いで横向きに、 前は崖、右横は空き地に入るための坂を仕切る岩、 後ろは駐車している軽トラ、という、 後10cmも前進してしまったら、崖底に落ち、 後5cmも右に寄れば、ドアを岩で擦り、 そのままバックすれば、ひとさまの軽トラックにぶつけてしまう、 にっちもさっちも行かない場所にハマってしまった。 くー。 ブレーキを踏む足が震える。 ハンドル握る手が震える。 どーしやう、どーしやう~~~~~!! 軽自動車を運転されてた御方は、 訪問する予定だった、社長さんちのおとうさま( 元社長さん )で、 竹を切ってらした男性に応援を頼んで下さり。 「 ここに1台入っとったら、儂でも方向転換は無理ぢゃわ 」 と笑っておっしゃるその男性は、 お若い頃、自動車教習所の教官をしてらした由にて、 元社長さんとふたりで、前のタイヤのところ( 崖ギリギリ )に石を置かれ、 「 ハンドルを右にきって。 ニュートラルにして、サイドブレーキを引き、足を離して! 」 おっしゃる通りにして、運転を代わっていただく。 まさに右の岩との間1cmもないような感じで バックされ、 停まっていた軽トラと山の斜面との間スレスレに入れていただき、 無事に方向転換終了~~~~~~~~~~~(──┬──__──┬──)。 ほんとに天の助けで、思わず両手を合わせて感謝する。 この方々がいらっしゃらなかったら、 私は義母とあの状態で一夜を明かすことになったかも(;;)☆ その御方に運転を代わっていただくまでに、 右のドアの下側をちょっと擦った(;;)。 上の少年の後始末をやっと直したところだったのに、、 ヘコみつつも、これだけで済んだのは僥倖だと思い直し。 元社長さんちへビールをお届けして、 もうこの道は2度と通りたくないよーと心中では泣きながら、 心身よれよれのズタボロになって帰宅、、、、途中に。 「 あの助けてくれたひとのところにも、御礼を持って行かんにゃぁのぅ 」 と義母。 (──┬──__──┬──) ぃゃ、おっしゃる通りです。 助けていただいて、本当に感謝しております。 けれど、あの御方は社長さんちのお隣だった。。。( ┬_┬) 、、、、今日はもう、勘弁して下さいぃぃ(;;)
2008.12.28
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も~~~~~!!! ヽ(`Д´)ノ (怒) (怒) (怒)。 書いても 書いても 入力エラー。 直しても 直しても 入力エラー。 日記本文はもちろんのこと、コメントをお返しするにもエラー、エラー。 毎日毎日、これでどんなに時間を費やさされていることか。 ・ ユーザが禁止設定をしている文字列が含まれています そんな訳、ないぢゃんヽ(`Д´)ノ 私が設定しているのは、アダルト関係サイト撃退のためのものだけ。 「 ユーザ 」ではなく 「 楽天が 」と書いて下さい。 ブログ主には、ひっかかった文字列を提示して下さい。 心当たりが何もないままに、ありとあらゆる文言を置き換え、 書き換えても書き換えてもエラーが出ると、 めちゃくちゃ消耗するし、もぉ、何も 書けませんヽ(`Д´)ノ 楽天スタッフ側で、そんなに文字列規制を掛けていらっしゃっても、 毎日毎日のアダルト関係書き込みは、目を覆わんばかり。 単語狩りをしても意味は余りありませんよね? 規制文字列設定は、各ブログ主に任せて下さい。 そして、それは現在の30語分くらいでは、到底足りません。 エラーが出る度、 最初は、語彙力が増えるかも、、って 思うようにしたけれど、限界近し>ぢぶん
2008.07.02
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今年のX'masは、 もしかしたら、下の少年と過ごす、最後のX'masになるのに、 忙しさにかまけ、ちっともX'masの実感の湧かないまま、 イヴ当日を迎えてしまった。(o_ _)oポテッ ツリーも出せず、チキンを照り焼きする漬け込みもできず、 ジンジャークッキーも焼けず、あっという間にイヴの昼下がり。 塾も今日は午後8時までだから、夕食は自宅で食べられる。 。。とにもかくにも、ケーキは焼こう。 何枚も仕込むピザはもう面倒なので(゚゜)\バキ☆、グラタンにしよう。 手早くスポンジを焼きながら、スーパーに駆け込み、生クリームを買う。 飾りの苺は、イイ苺は売り切れていて、 なんだかもう、傷み始めているような苺が、それでも高い。 苺はヤめて、頂き物の桃の缶詰でデコレーションしよう。 チキンは国産手羽元が安かったので、つい買い求め、 グラタンの海老も高いので、 半額になっていた(汗)お刺身用の帆立の貝柱にする。 駆け戻ってスポンジを冷やし、ホワイトソースをつくり、 手羽元に大蒜を潰して塗りつけ、塩胡椒をし。 少年の帰って来る時刻に合わせ、グラタンをオーブンに入れ、 手羽元はグリルで、炙り焼きにし、 クリームをホイップして桃の缶詰を開ける。 んーーーーーー。 この桃缶、ビミョー。 古そうだし。 かといって蜜柑やオレンジを剥いて飾り付けするのも時間はないし、 めちゃ面倒(゚゜)\バキ☆。 。。。いいよね、クリームだけで(汗)。 帰宅して来た少年。 食卓について元気に囀る。 わーぃ グラタンんんんん ちゃんとピザ用チーズだから、美味しいね。 ( ↑ 彼はピザ用チーズしか食べられない ) 。。。でも、ピザの方が嬉しかったかも~~。 ヽ(`Д´)ノ あ、このグラタン、海老ぢゃないしぃ。 でも、ツナにしては美味しいよね? ツナだよね? (高い)貝柱なハズ、ないし。 ヽ(`Д´)ノ え"~~? このチキン、形だけ、やん。 ヽ(`Д´)ノ 工エエェェ(´д`)ェェエエ工工。 ケーキはクリームだけ?? もしかしてスポンジは出来合いのを買ったん? ヽ(`Д´)ノ ヽ(`Д´)ノ ヽ(`Д´)ノ ヽ(`Д´)ノ 。。。くぅぅ( ┬_┬) そりゃさ、手抜きした私が悪かったよ。 んでも、さりげに全~部、却下かぃヽ(`Д´)ノ。 忙しかったんだってば! だってば、だってばよ!! 、、、自分に言い訳しながらも、ヤっつけ仕事だった自分にヘコんで来る。 彼が、さり気にケチをつけたのは、何かしら期待してくれていたからこそ。 少年たちが幼かった頃、ツリーはもとより、家中に飾り付けをし、 玄関にはリースを飾り、一緒にサンタさんを楽しみに楽しみにして来たよね。 イヴの夜は、何日も前から献立を考えて、 シャンメリーもコメットも買って、3人で楽しいパーティをして来たよね。 サンタさんが居ないって判ってからも、 それでも君たちにはサンタさんが来て、きゃぃきゃぃと楽しんで来たよね。 中高と、全てがバスケットクラブを中心に回る生活となり、 練習、遠征、練試、試合に明け暮れる日々。 お盆もお正月もなく、ましてやX'masなど。 。。。もう、X'masって歳でもないよね、と勝手に決めたのは私。 忙しさにかまけ、X'masの飾りを1つ減らし2つ減らして来たのは私。 優しい君たちは、何ひとつ文句を言うでもなく、 可愛い小学生から、バスケット少年へと変身して行った。 高2で市内の祖母の家から高校へ通うことにし、 自宅を出て、着々と自分のペースで成長していった上の少年はまだしも、 ちっとも家に居ない母の分だけ、兄にべったりだった下の少年は、 常に3年先を行く上の少年の生活ペースに引き摺られ、引き離され。 不本意な想いも数多く味わったことだろう。 下の少年と過ごす、最後のX'masだったかも知れない夜。 ほんの少しの手間と、こころを惜しんだばかりに、 私は、きっと、ずっと この夜を思い出しては、 ちくちくとこころ痛め、 こころ苦しく抱えていくに違いない。 (o_ _)oポテッ 早くも、ちくちく痛むこころを抱え、 翌日の義母との餅搗きを控え、6合の小豆を餡に煮詰める夜。
2007.12.26
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朝、お弁当をつくり、下の少年を送り出し、 洗濯機を回しながら、炬燵のなかで撃沈、、、しかけたところに 電話が鳴り、そのまま義母の相手を90分。 なけなしの気力体力が吸い取られ、洗濯機が止まったのに動けず、 そのまま炬燵に潜り込む。 土、日と、格段何をした訳でもなく、 ただ、姉にこころを寄せただけであったのに、動けない。 本調子ではないのだと、こんなときに思い知らされる。 母はといえば、 この日は朝から、癌闘病中の母の2番目の姉の介助に詰めている。 く~~。 母より若く、母より動かなかった私でさえ、 こんなに土日のダメージを受けているのに。 後からどっと疲れが出ませんように。 お願いだから、大事にして欲しい。 今日は姉は独りでいるのだと、今更ながらそう思い、 諸手続に忙しくしているかも、と、午後から姉にメールをしておく。 夕刻、義母の来訪。 夜は電話。。。。。 何も考えたくない。 何も 聞きたくない。 早く翌日になり、出社できるように祈る。
2007.12.17
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8月14日。 父の逝った、この世で1番悲しかった日に、また今年もこの地に在る。 内容は 昨年とほぼ同様 なこと。 昨年より こころが落ち着いているのは、 12日 に 少しは実家に在れて、墓参も済ませており、 母の顔をみることができて、元気を充電できたから。 それに、16日には私の実家で過ごす下の少年を送るために、 また実家へと行くことができるから。 そんな現金な気分とともに、 何処で手を合わせても、父にはきっと通じてる、と思える、から。 最愛のおとうさん。 あなたが逝って、もう21年が経ちました。 後2年で、私は、あなたが逝ったときの母の歳に、 なろうとしています。 嘘みたい。 嘘だ と言って欲しい。 あなたが生きて在れば、 どんなに頑固で我儘じぃさんになってたことか。 どんなに孫たちを愛し、甘やかす じぃじ になっていたことか。 あなたが天で護ってくれているお蔭で 少年たちは、元気に大きく育ちました。 私も なんとか 頑張れて います。 もう少し、頑張るから。 あなたのもとに行ったとき、 「 さすが、僕の自慢の娘だ 」 と あなたにたくさん褒めて貰えるように。 あなたに喜んで貰えるように。 んだから、も少し 待っててね。 できれば、母と 一緒に 逝きたい な。
2007.08.14
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せっかく、キャンドルナイトで、温かなこころもちが続いていたのに。 何年ぶりかのとっておきの『 シェンブルナトルテ 』を焼こうとする 元気も出て来ていたのに。 うまくデコができたら、画像もアップして、レシピもアップして。。。 デスクトップの方のPCを立ち上げ、 バッハ聴きながら、るんたったで材料を用意し。 何気なく夫が鋤いたばかりの休耕田をみて、血の気が引く。 転居して5年目。 こころがささくれ立っていたときに、 キッチンに立つ私の視界に入るように、夫が桔梗の球根を植えてくれた。 その年、綺麗な花を咲かせ、そしてしっかり根付き。 毎年少しずつ株を増やして来ていた場所。 、、、そこを全部義母が掘り起こし、春採り大根の種を蒔いていた。 義父母には、毎年、毎年。 そこは桔梗があるから触らないでくれ、とお願いし続けていたのに( ┬_┬)。 抗議する気も失せ、ケーキを焼く気力も失せ。 気付かぬふりをして、外には出ない。 今、出て行ったら、とても笑顔で挨拶なんてできない。 、、、、はい。 そこまで好きな花なら、田んぼではなく、庭に植えろ。 球根を買うなり、咲いてる鉢植えを買うなり、好きにしろ、ですよね。 はぃはぃはぃ。 そう言われることは判ってます。 いいんです。 おっしゃる通りだし、 おかあさんが元気で、畑仕事をされること。 それが、何よりの、私へのプレゼントですから。 ( ┬_┬)。 でも、私が哀しいのは、桔梗のことだけじゃない。 朝顔にしても何にしても、こと、植物のことに関しては、 いつも、一言もご相談がないことです。 つまらんことには 日に何度もご相談の電話や来訪攻撃をされるのに。 おかあさんは、農作物育てのプロだけど、 「 良かれ 」とされるのも判ってるけど、 だからといって、1つ1つのお花への私の想いを 踏みにじっていいことにはならないよね。 ~~~~反面教師にすべし>ぢぶん ケーキは、フツーのショコラケーキにしよ。( ┬_┬) 追記) さすがプロの義母は、球根を掘り当て、 慌てて、義母が(勝手に)たくさん植えている、 小菊の横に再び埋めてくれたらしい。 来年、どうか芽を出しますように。
2006.12.24
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ぴんぽ~ん。 ドアを開けると区長さん。 手には茶封筒と、赤い羽根の束と領収書の冊子。 え"~~。 去年は 月番で、赤い羽根を配ったのに、今年は班長がするの~~? また私ぢゃ~~ん! orz.... またまた領収書に、各世帯主の氏名を記入し、 赤い羽根と共に、各戸訪問してお渡しして歩かねばならない。 昨年悩みぬいた仕様で、批判がましいことは耳に入って来ていないので、 羽根が傷まないよう、またまたジッパ付きの透明ビニル袋にひとつひとつ入れなくては。 しかも班長だから、各戸一律料金×戸数分を金融機関からおろしに行き、 区長さんちへ持参しなくては。 え? また、一律料金を変更されるんですか? あ"~。 それもいちいち説明して歩けと? ほよよ~~。 もうひとつの茶封筒は、国土交通省からの 【 JR○○線 利用促進に関するアンケート調査 】だった。 これは我が家で書き込めば済むのだが、内容がかなり面倒くさい。 え~ん。 実は、明日は夜まで広島で仕事なのだが、非常に責任重大な任務で緊張している。 とっても気が重いので、気力体力の充電したい、と切望しつつ、 土曜日は、義父のちょっと早めの一周忌の法要・会食を行うため、 本日と金曜日は、墓地の清掃から、仏壇周り、お花の手配、 お寺さんへの確認、お布施の準備、 会食手配の確認、お茶の子手配、その他、めちゃくちゃ忙しいのである。 え~~ん。 せめて、この作業量で痩せないかなぁ(゚゜)\バキ☆ お返事がたまっていますが、しばしご猶予をm(__)m
2006.10.18
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えーん。 今日という今日は、このカテゴリで書いてやるぅぅ。 、、、、その前に、少しでも気分を落ち着かせよう>ぢぶん。 5月に、マメツゲの木が満開 だと記した。 それから、ずっと咲き乱れ、 さすがに猛暑の間は、数輪しか咲いてなかったのに、 ここへ来て、お花が盛り返し、秋も春なみに咲いてくれるマメツゲに感謝してた。 大好きな朝顔も競演し、 朝顔の花の斜め左下には、ちょこっとアイビーも顔を出し、 炎の指の私でも、こんな風に頑張って咲いてくれて、嬉しかった。。。。 17日に、ここ数日間 義母の抱えたトラブル をちょこっと記したが、 毎日毎日、朝に昼に晩に、愚図愚図と妹さんの悪口を聞かされても、私に成す術なし。 一応は義母の味方ではあるけれども、所詮、姉妹喧嘩。 ここまで拗れれば、どっちもどっち、と言いたいし、 まさか、私が義母と一緒になって義叔母の悪口を言う訳にもいかないではないか。 イライラとずっとご機嫌斜めの義母は、昨日は、ずっと我が家の裏の休耕田の畑。 少し付き合って草取りをしたが、その間も妹さんの悪口ばかり。 ひとの悪口は聞きたくないので、仕事を口実に、いい加減で切り上げた。 「 仕事を辞めんけん、ストレスが、血圧が、、云々 」 また始まった~~~。 貴女を傷つけたくないから、仕事を口実にしたのに。 冷たい麦茶を持って行ってあげて、後はもう放っぽいて家に入る。 義母は長時間、何やらゴソゴソやっていたが、 夕方、やっとお帰りになられるとのことで、やれやれと見送りに出て硬直する。 朝顔が、、、、ない、、、、 あれだけ家のぐるりを咲き誇っていた朝顔が、きれいに、ない。 義母は、長時間かけて朝顔を抜いていたのか。 義母曰く、裏口にある散水用の蛇口に朝顔が巻きついていた。 ひとが見たら嗤うてぢゃ。 もう夏も終わったのに、いつまでも咲かせておくもんじゃない。 ひどぃ。 私は、この朝顔をとってもとってもとっても愛してるのに。 何でひとこと、声を掛けてくれない? 朝顔抜くなら、雑草抜いてよ~( ┬_┬)。 敬老の日だから、お赤飯を炊く準備をしてた。 、、、やめた(゚゜)\バキ☆ でも、もち米はかしてしまってたし、小豆を炊いてしまったから。 今日は、炊いて持って行くけど。 きっと、笑顔を貼り付けて行くんだろうな>ぢぶん 今朝は、失われた朝顔に半ベソをかきつつ、庭の草取りをした。 犬の散歩で通りかかった、うちの班の長老が、 「 昨日の敬老会、ご苦労さん 」 と声を掛けて下さった。 恐縮しつつ、区で一軒しか出席されないので、 この区の班長は、手伝わなくてもいいと言われた、というと、 みるみる顔色が変わり、 「 手伝わんでもええ、と言われても、 それでも行って手伝うもんぢゃ! なんと気のきかん。 そんなことでは、この班の名折れぢゃ! 」 もぉ、イヤぢゃ~~~~~~~~ヽ(`Д´)ノ
2006.09.19
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以前愚痴った とある神社 のお祭りについて。 私は氏子ではないし、子ども会で散々お世話をさせていただいた。 卒業できて嬉しいな(゚゜)\バキ☆、と思うことのひとつであったのだが、 思いもよらず、本日は、この祭りの「世話役」をめぐる騒動で、 朝から夕方まで、東奔西走することになった。 orz.... 朝、激昂したZさん(私より2歳年上)より電話。 ● 2週間前に、神社から 「今年はお宅が祭りの世話役だから○日の打ち合わせに来るように」という葉書が来たが、 そんなことは、誰からも何も聞いていないし、 班長はりうりうだし、何かの間違い、だと思って行かなかった。 ● 昨夜、神社から電話があり、 「何故、無断で来なかったのか。 お宅の班だけ出席者がおらず、他の地域の方々に迷惑をかけた。 きちんと責任を果たして貰わねば困る。 ついては、そちらの班の割り当てを伝えるので△日に来るように」と叱られた。 ● いったい全体、どうなっているのか。 班長が一切のことをするのではないのか、非常に迷惑だ。 班長から神社へ事情を説明し、△日には班長が行って欲しい。 寝耳に水。 何が何だかさっぱり判らない。 まず、神社から訳の判らない葉書が来たら、 フツー、その時点で神社に問い合わせたり、 近隣の長老格なお宅にでも訊ねて、何のことかを確認しないか? それをしないまま、どうして無断で欠席できるのか? 神社から叱責の電話を貰ったのなら、 そこで、何故自分に葉書が来たのか、どうして確認しないのか? 班長はりうりうだから、文句はそちらに言ってくれ、とどうして言える? ぐぐっとムカつきを抑えつつ、とりあえず、班長の引継ぎ事項のなかには、 神社の祭りの役については、何も言及されていなかったことを伝えたが、、、、 結局、私が動くことになる。 orz.... とにもかくにも、まずは神社に連絡し、 うちの班がご迷惑をお掛けしたお詫びを申し上げ、 うちの班の担当となる諸々の作業を聞き取り、 たちまち動かねばならないこと、前日、夜頃、当日の準備、手伝い。。。 何より、神社の不手際で、夜頃にいつも県北からお招きする神楽団をキープできず、 神楽がなくなり、カラオケ大会となった、 というのは非常にショック。 いまやこの神社のお祭りは、この神楽で持ってるのに たちまち、すぐにしなくてはならないのが、 寄附金(班費から一括支払、3500円×全世帯(1世帯を除く))の お札とお礼状を一軒一軒配ることと、 カラオケ大会の出場者を募る(各班で2組以上)。 げぇん。 げっそりしつつ、うちの班における、このお祭りの世話役は、 本当のところは誰であり、どうして混乱するに至ったかの糾明に走った。 あちらこちらでお話を聞き、結局、 お祭りの世話役は、月番の逆順に回っている。 ということが判り(初耳!)、 世話役は1軒が2年続けてやり、今年はZさんち であることも判った。 なんのことはない、Zさんちの隣のYさんが、 「 2年務めたから今年はZさんだよ 」と 引き継いで下されば良かっただけのこと。 ( Yさんは、自分が2年ヤったのは、皆が識っているはずだ。 神社からは、まず葉書が来るし、当然Zさんも識っているだとうと思っていた。 、、、、とのことである )。 ということで、一件落着。 私が、識り得た一切と資料を持って 「 やはりお宅が、お世話役のようですよ?(に~っこり)」 と Zさんちへ 熨斗つけて お返ししたのは、夕方5時を回っていた。 orz.... なんという1日。 ( お勉強にはなったけど ) それにしても神社の持つ強制力、上からの物言いって凄い。長老格の御方が、ぼそっと「 2年連続でのお祭りの役は辛いけれど、まぁ60年に1回ぢゃけん 」と言われたのが、非常にショッキング、というか、こころに残った。そ、そりゃそうだ。。。(我が家に来るまであと7年)
2006.09.07
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業者さんから、恐怖の給水管引込工事の見積額が出た。 「 りうりうさん、儲けがないほど、サービスしたけん 」 おそるおそる封書から見積書を出して開く。 税抜価格で 334,000円 也。 我が家の工事は、道路の給水管から、農業用水路(溝)の下を潜らせ 我が家の敷地内に止水栓を設けて引き込み、 そのままキッチンの外まで這わせて、屋内へ入れる。 シンクタンクに穴を開けて、1つ水道水専用の蛇口をつける。 温水器には繋がない。 農業用水路を潜らせる手間と、玄関前のコンクリートを剥がす手間、 家の外壁から屋内へ水道管を入れる手間、シンクタンクに穴を開ける手間。。。。 「 サービスしたけん 」 と 言っていただいても、 詳細な見積書を見ても、素人にはどんなもんか、ちっとも判らない。 いのち を つなぐ水を引き込むのに30数万。 安いもの、、、、なんだよね、きっと。 ただ、33万円要るのだと。 それとは別に、市への上納金56,500円。 ほぼ40万円を用意しなくちゃいけないことだけが頭をぐるぐる回る。 愚痴でしかないが、井戸の打ち抜きをする際、掛かった100万円のことも ついでに一緒にぐるぐる回る。 、、、、何処から捻り出そう。。。。( ┬_┬)。 だが、今回、屋内の水を全て水道に切り替え、 浄化槽も整えて水洗仕様にされる家では、400万近く掛かる由。 また、最後まで揉めている1軒は、 お宅が水道管より15m上の土地に在るために、 蛇口をキッチン1箇所にするだけでも50万を越える、という。 強制なんて、とてもできない。 例え、そのお宅の井戸水が、いつどうなるか判らないのだとしても。 これからのことと、今たちまちの50万とを そのお宅が考え、決定されること。 班長は、そこまで「 班の意思 」「 班の決定 」を振りかざし、 「 とりまとめ 」なくてはならないものだろうか? それが班長の責任だって? 、、、あり得ないでしょーに。 だいたい 「 班の意思 」? 「 班の決定 」? 誰が 何のために どんな権限のもとに どうやって決めたっちゅうね~ん!! ヽ(`Д´)ノ
2006.09.05
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広島県議会議員選挙は来年の4月に執行されるが、 議員の定数と選挙区を6月の県定例会で議決されたらしく、 俄然、各陣営とも、動きが目立って来始めていた。 また、嫌な想いをするのか、と正直憂鬱であったが、ついに義母より電話。 「 ○○ちゃんが世話役だから、△△議員の後援会へ入るように 」 んげげ。 自民党やん。 いつものように、言質を取られないよう、 夫にその旨、伝える、と言い、電話を切ろうとしたら、義母が激怒する。 夫が入るのは当たり前。 私は、あんたに電話をしている。 今回は、何がどうでも、入らないと許さない、と。 ○○ちゃんにどれだけ世話になっていると思っているのか。 ○○ちゃんの顔を潰すことは許さない、と。 ヽ(`Д´)ノ 「 わかりました。 それでは お義母さんの 顔を潰さないため、 後援会には入りますが、この御方に投票するかどうかは判りませんよ? 」 えーーーん。 心臓ばくばく。 私にしては、すご~~~~ぃ最大級の抵抗である。 ぜぃぜい。 、、、しかし敵もさるもの。 暫く沈黙していたが、 入るからには、演説会等々、全てに出席して貰う、と。 そして、聞きかじった△△議員の功績から始まり、 お得意の、△△議員の血縁、地縁。 その誰々、誰々、誰々、さんたちと義母宅との関わりを、とうとうと語る。 、、、、功績以外は△△議員と関係ないぢゃん? ヽ(`Д´)ノ 告示されれば、 宣伝カーが来たら、外に飛び出して手を振り、 握手を貰いに、「 行け 」と言われたところに行き、 笑顔を貼り付けて回る日々。。。。 んでもって、他の議員の説明会には出席できない。 これって、最高級の人権蹂躙、だと思うんだけれど。
2006.08.23
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盆嫁稼業が祟り、まだまだ身体の芯がだるーーーーーーーぃ。 頭痛もひどーーーーーぃ。 ヽ(`Д´)ノ ゴロゴロゴロゴロ、ずぅぅっと、ぐーたらしていたいよん。 でもでも本日午後3時までの仕事が溜まってたので、必死で仕上げたなり。 メールで送って、電話で確認して、ようやく終わって、 さぁぁぁ、寝るべ、と横になった途端に無情のドアフォンが鳴る。 明朝、上水道設置のための配管チェックのため、 業者さんが、キッチンに入られる由。 て~へんだ、て~へんだ、て~~~へんだぁああああ!!!! ここんとこ、我が家のキッチンなんて放っぽいてたよ? そりゃ、近々には来られるとは思ってたけど、 なんで、なんで明日なの?? それも朝いち? 。。。。これから、シンク下を整理し、 換気扇も掃除して、シンク磨いて、 床もワックスかけよう。。。。 徹夜ぢゃん。。ヽ(`Д´)ノ
2006.08.17
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終わり ま す た 。 。 。 明朝、長義兄夫婦を見送ったら、全て終了の予定。 本日は、終戦記念日。悲惨極まりないこの戦争で、亡くなられた多くの方々の犠牲のうえに 今の私たちが在ること。決して忘れず、次代に伝えていきます。
2006.08.15
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お盆嫁稼業の初日がなんとか終わり、 この地に来て、1番嬉しいことは、夜は自宅で休めることだよな、と 立ち通しで、パンパンにむくんだ足をさすりさすり、 こころからほっとして帰ろうとしたら。 義母から、 りうりうは、とても疲れた顔をしているし、病気なんだし、 次義兄嫁がいるから、明日は来なくていい、 今日も本当は来なくても良かったのに。 明日はゆっくり休め。 と。 昼食と夕食のときに呼ぶから、と。 それは有難いけれど、うちの少年たちは帰して貰えないし、 次義兄のつれあいさんに、おんぶに抱っこでは申し訳ない。 義母と次義兄嫁がてんてこまいしてつくった食事を いただきに行くだけ、なんて、こころが休まらない。 行きたくない。 ヽ(`Д´)ノ んで、今日も別に私の手は要らなかった、というくらいなら、 なんで、もう一声、 「 こっちは大丈夫だから、たまには実家へお参りにでも 」と 昨日から言ってくれないかな、と、ちょっと思う。 義父の初盆。 メイン行事は15日の明日。 15日だけ、朝からびっしりお手伝いする、 、、、、という訳にはいかなかったものか。(まず有り得ないが) 今日14日は、父の祥月命日なのに。 母は、毎年、この日をひとり、で迎えるのだ。 。。。。。。 父母のもとへ、こころ飛ばせつつ、 さきほどは、義母宅へ差し入れとして、牛乳かんをつくった。 お昼までに、これから、いつも大好評のかぼちゃの餃子を作ろう。 揚餃子にするから、200個つくればいいよね。
2006.08.14
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今日も真夏日。 残り2軒 を終了し、 シャワーを浴びようと汗で張り付いたTシャツをやっと脱いだ途端、電話が鳴る。 先日急逝された 前区長の奥さま からだった。 ぅにょ~ん。 な、なにごと??? 私、何か失敗したっけ? 何も、してない、はず。 、、、ということは、、、 あの、世にも恐ろしい 『 女性会 』 なるもののお誘い? 、、、それしかない??? ヤだ~~~~~~~~!! 絶対ヤだ~~~~!! ヽ(`Д´)ノ 一瞬のうちにそれだけ脳裡をめぐり、汗が噴き出す。 どきどきどき。 「 私、簡易保険に 毎月 ○ 円の定額で月掛けしておりますのですが。。 」 郵便局への間違い電話か~ぃ。 ヽ(`Д´)ノ めっちゃ、心臓に悪いし。
2006.07.31
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今日は可燃物のゴミの日。 往復に10分近くかかるゴミ収集場から見える我が家を、 思わず持ってた携帯で、 いっぱいいっぱいの望遠で撮ってみる。(画像は後で削除します) う"~ん。。。。 築12年、さすがにくたびれて来てるなぁ。 手前のコンクリは、河川の堤防。 その奥が休耕田の畑。 その奥が、草刈のできていない休耕田。 ( ヨモギやセイタカアワダチが2mを越す・怒 ) 左奥にちょこっと映ってるのが、隣家の元班長の彼女宅。 我が家と彼女宅の間に、車が1台やっと通れる道があり、 その道が、12mの国道となる。 で、我が家側が、ごっぽり、その道にかかっている。 奥の山の一部が義母の山であり、 この度の 墓騒動 の主役となった。 最初に立ち退きの話が出たのが、築3年目。 まだまだ家はぴっかぴかで、家も自分も不憫な想いに囚われたものだ。 それから、今日まで。 何度も何度も、立ち退きの話が出ては消え、その度に振り回され、 落ち着かない日々を過ごした。 なんだかなぁ。。。。 この12年の、この地での奮闘(としか言い様がない)の日々が脳裡をかけめぐる。 小学生だった少年たちの駆け回る姿が、どうしても切り離せない。 バスケゴールを見つめるうちに、ぐぐぐと感傷的になってしまった。 私は今すぐにだって、飛んで広島へ還りたい。 んでも、この家自体に、思い入れがない訳では、、、ない。 1F:2間続きの和室を含め3室、LD、独立キッチン。 2F:4室、オープンルーム(読書室とマリンバ、キーボード)。 将来的に義父母を1Fへと、仏間もつくり、外廊下をつくり、 バリアフリーとし、オール電化とした。 今は、あふれた物に埋もれている(゚゜)\バキ☆が、 当初は広々と、心地よい家だった。 どの部屋からも少年たちの声が飛び交い、 伸び伸びと、元気いっぱいに育っていった。 小中とこの地に在った少年たちはどうなのか。 2人とも、今は都会へ都会へとこころが向いているのは間違いないが。 想いが千路に乱れる、ってこゆ感じなのかなぁ。昨日は道路の説明に市役所から来られる、ということで、緊張して待ってたのに、夕方に電話。「8月2日午後2時になりました」だと(怒)。
2006.07.28
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えーーん。 やっと冷蔵庫がすっきりきれいになった のに、 もぉ夏野菜でいっぱいになり、入りきれない野菜が玄関へゴロゴロゴロ。 有難いことなんだけれど、 私と下の少年2人だけで、これをどうやって消費せよと ?? 下ごしらえして、冷凍しようにも、冷凍庫もぱんぱん状態なり。 昨日は、待ちに待った、私の愛するキャプテン・ジャック・スパロウに逢いに行き、 久々の隣の彼女とのデートもそこそこに、 ディーラーのところで愛車のメンテをし、 急いで帰宅して、下の少年の夕食の支度をし、 午後7時からの上水道布設工事についての説明会へ。 班長であるため、先に会場に行って座布団を出すとか、 あれこれの用事があるかも、と6時半には出発する。 あーんなことやこーんなことがあり(後日記述予定)、 午後8時半帰宅。 リビングにひっくり返って、あれこれ想いをめぐらせていると マナーモードにしていた携帯が震え、 チェックしてみれば、メール以外では滅多にない実家の母からの留守電が5件。 何ごと?? 胸が騒ぎ、電話をしようと起き上がった途端、義母からの電話。 がっくり、一度に疲れが噴き出すのを感じつつ、受話器を取れば、 もの凄い剣幕で、怒鳴られる。 曰く、 早朝から野菜のあれこれを採り、届けに行ったのに居ない。 ベランダのところに置いておいたから、早く冷蔵庫に入れて欲しいのに、 何度電話しても居ない。(義母からの留守電は、12回に及んでいた) 夜になっても不在。 何処かで倒れているのかと心配で心配で、あちらこちらに電話した。 こんなことでは、私の方が血圧が上がり倒れてしまう。 いったい何処で何をしていたのか!! との由。 今日は、夕方から水道の説明会だと、土曜日から、ずっと毎日伝えておいたのに、 朝から居なかったために、逆上された模様。 朝の8時から、何処で誰と何をしていたか、 1時間ごとの義母が納得いくだけの詳細な説明を求められて閉口する。 、、、それもこれも、病を持ってしまった私を案じてのことなんだ、と 私が義母を逆上させたんだ、と 自分に言い聞かせながら、襲ってきた眩暈と頭痛を我慢する。 私がもし。 何処かで倒れ、ものも言えず、何も判らなくなっていたら、 夫より実家の母より、1番に義母のところへ連絡が行くようにしておくから、 どうぞ、心配しないで欲しい、と何度も何度も何度も言って、やっと電話を切らせて貰う。 通話時間、46分30秒。 気を取り直して、実家の母に心配を掛け、巻き込んでしまったことを詫びる電話をする。 …立ち退きになったら、 その幾らかのお金を貰って、戻っておいで、と ぽろっと母が言う。 、、、がんばりどき?
2006.07.27
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20日以降のアクセスカウンターの不具合ったら、目に余りますが、 今日は今日で、愕然としました。 管理ページでの【アクセス推移】。 アクセス推移 7/18 : 0 7/19 : 299 7/20 : 224 7/21 : 245 7/22 : 192 7/23 : 183 7/24 : 181 7/25 : 135 18日分がゼロになってるやん! 遡って数字をいじくってどうする? これまでの1日の平均アクセス数は 300になろうとしていて、 ここのところはずっと400前後。 多い日は、500を越える毎日でした。 私がヘコんだときには、その数字がぐっと上がり、 例えコメントはいただかなくても、残された足跡や、 アクセス推移の数字そのものは、とても私に励ましを与えてくれるものでした。 ところが、20日以降、激減し、そのなかみもよく判らない。 なんとなしにがっくりさせられています。 数じゃない、なかみなんだって判ってるし、 ● 管理者の足跡はつかない。 ● 24時間以内に再訪されたひとやリロード分はカウントしない。 それが徹底してるのなら、 カウンターの数字が「延べ」ではなく、【実質来訪者】ということで意味があります。 が、 ● 同一来訪者とみられるひとの足跡が連打されてたり、 ● いつもおいで下さる方々のHNの足跡は見当たらないのに、コメントはいただいてる。 ● 足跡、といえば、ログアウトさんやゲストさん、 ● そして、例の長~~ぃHNの御方や、アダルト関係な方々の足跡ばかり。 非常に不快だし、哀しいし、アダルト関係な方々の足跡には、なんだか情けない。 クッキーの設定で左右されるのかもしれませんが、 カウンターがもはやカウンターでない。 そんな不確かなものを、右上に堂々表示したくない、と思います。 * 今回の仕様変更について、 キリ番、カウプレ反対の方々が歓迎されているのを読みました。 そうなの? そのために仕様変更になったの? キリ番、カウプレにまつわるトラブルは、 それぞれのブログ管理者にお任せすればいいことなのではないでしょうか? え? サーバーの負担を軽くするため? それでどれだけ軽くなったんでしょう? 20日以降、異様に重たく、フリーズしたり、 @infoseekのメールが開けなかったりするのは何故? 笑うに笑えません。 とにもかくにも、一定のルールに基づき、 きちんとカウントしてくれないカウンターは、 イライラさせられるだけで、意味がない、と考えます。 また、あちらこちらで、 またも 「 カウンタがゼロになった! 今回は修正ボタンがない! 」 という悲鳴を目にし、 1度ゼロになったことのある私としては、 自分のページにアクセスすることが少し怖かったりします。 無料で楽しませていただいているのですから、 与えられた環境のなかで、できるだけエンジョイさせていただこうと思うのですが、 。。。。。お引っ越しどき?
2006.07.25
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ふぅ。 うちの小学校区では、うちの班 だけ 上水道が来ていない。 現在は見る影もなく寂れた、町内でも1番のメインストリートだった地域の 北側に川が流れ、その川向こうの山すそまでの 元々がまるっきり水田地帯だった地域である。 この班では、これまで何度か上水道をつけて貰うように町へ請願していたが、 1度、それでは付けよう、となったときに、 班内全戸に強制で上水道設置を義務付けられたために、 班内の大半が反発し、ぽしゃってしまった歴史を持つ。 だもんで、その後の請願は却下されてばかりだと聞いている。 この地に転居して3年目に、 この班を縦断する、側溝を入れれば幅12mにもなる 国道 がつくこととなり、 なかでも 我が家のみ が転居を余儀なくさせられた。 (「(よそもんが)(女が)身の程知らずにも、副会長なんぞするからだ」と 揶揄されたものである ) ところが、元々のこの班の方々が道路を希望していたルートではないし、 今の位置より3mも高くなるところも出る、との構想を聞いて、 田んぼや墓地が当たってしまった家々や、 3mもの道路下に置かれてしまう家々がこぞって反対をされ、 道路建設了承の印鑑を捺印されなかった。 (我が家は、唯一、家がかかっているために、 皆さんの捺印の後に、1番最後に捺印する、ということになっていた)。 かくして、国道として國にも通り、予算が下りていた道路は中断となり、 上水道の工事中断と並んで、町の不興をかっている(らしい)。 しかし、安芸灘地震で、 大きく井戸水の水質が変わってしまったお宅が数軒出て、 班として上水道設置の請願を行うことになり、1度その説明会が行われた。 結論は、中断している国道と並行して上水道をつけるというものだった。 上下水道を餌に、捺印拒否をしている家々から捺印を得ようという魂胆がみえみえで、 反対のお宅には班外の方々も多かったためか、依然として道路建設は進まず。 結局、町は、そのまま國からおりた1億円分だけの工事を行い、 まるで嫌がらせのように、捺印を終えた家の傍と、 我が家のまん前までの凸凹の何の意味もないでかい道となって、今日まで来た。 道路建設となれば、転居を余儀なくされる災難の塊のような我が家へは、 表立った非難はないが、「班のために賛成するように」という圧力は何度となくあったし、 水面下では、道路建設派と道路反対派で、班内がかなり二分化されているようである。 が、いよいよ、水質の悪いお宅では困って来られ、 「簡易上水道でいいから」と、この度も請願を行うこととなり、 「 この度は、絶対に上水道工事を拒否しない 」という念書 を 班長が、取ってまわることになったのである。 これについての説明会は、この26日水曜、午後7時より。 回覧せよ、との文書が回って来たが、 大切な説明会開催の通達文書が、回覧では回り切らない可能性もあるため、 (反対派とみられているらしい)私が、1軒1軒説明して回ることとなった。 次から次へ、頭が痛い。。。。
2006.07.22
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午前中に、長義兄夫婦が休みを取って義母宅へ来て下さる。 土曜日の義父のお墓の開眼法要の準備のため、である。 義母と三兄弟家族(夫は仕事)だけで行うため、大規模にはならないが、 それでもやはりあれこれと大変だった。 義母は昨日から、大ご馳走の用意である。 長義兄が夫婦で休みまで取って今日から入って下さるのは、 墓地の草刈等があるからである。 お墓周りは、コンクリートを打ち、玉砂利を敷き詰めたため、 草の心配はないが、広い敷地内には、柚子の木もあり、やはり山野の様相。 放っておけば、すぐに草木が繁る。 また、墓地までは山道であり、 敷地内は新しく道をつくったために歩きやすく、草もないが、 そこまでの山道は、細い未舗装のまさに山道。 その山道をも草刈する予定であったのだった。 が、この大雨。 雨で、道はずるずる滑り、私たちでも登りにくいのに、 小児麻痺で両脚が不自由であられるお坊さまを 2人並んで歩けない山道で、 どうフォローさせていただくか、に、頭を悩ませている。 ともあれ、今日明日、と、長義兄夫婦や義母、お坊さまが お墓から近い我が家のトイレ等を遣われる可能性が高いため、 玄関からトイレ周り、洗面室等、大掃除 しなくては、と 思っていた。 それなのに、早朝から私が手をつけたのは、まず冷蔵庫である。 日曜の班内一斉清掃の後にお出しするペットボトルのお茶、30本を 冷やしておかねばならないからである。 我が家の冷蔵庫はデカい。 ペットボトル30本など、苦もなく入るハズだが、 そのデカい冷蔵庫は、 当然 満杯なのである。。。。 まず毎日の義母からの山ほどの夏野菜とスイカが大半を占め、 麦茶、温泉水、豆乳、牛乳、ヨーグルトの類。 卵、納豆、塩蔵わかめ、豆腐、ドレッシング類、 板こんにゃく、糸こんにゃく、各種漬物類、マリネ類他、常備菜。 半生麺、韓国麺類。 少年と夫のためのグレープフルーツ。 。。。。大切に大切にしてた、大吟醸の酒粕。 この日に備えて、早くから消費して行こうと思っていたが、 あっという間に日が経った。 目を閉じて、えいやっと処分する。 ひぇええ。。。。バチが当たるよぉ。 、、、、。 棚を外し、ポケットを外し、きれいに洗う。洗う。洗う 仕上げに消毒用アルコールで丁寧に拭いて終了。 ぜぃぜぃ。 御蔭で食中毒警報の出ているこの時季に 冷蔵庫がとことんきれいになったこと、を、感謝するべし>ぢぶん 、、ぃゃ、冷凍庫とチルド室は手付かずだよ~~ん(゚゜)\バキ☆ さーーーーー。 これから、玄関、トイレ、洗面室周りだ~~~~!!! 、、、、なんで、切羽詰らないとしない?>ぢぶん
2006.07.21
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昨日、3つ目に書くつもりだったが、パワー切れなり。 朝、新・自治会長さんが来訪され、 7月末までに、敬老会へ参加するひとの申し込みを受け、 名簿にまとめて提出して欲しい、との由。 (当日までの準備、当日のお手伝いも勿論、 班長 。) 町地区社協の会長名と「 敬老会事業推進部会 」の 部長名 の連名文書を受け取る。 ( 市社協からは、町地区社協へ補助金が出るんだろうか?? ) B4の浅黄用紙の左側に要項が書かれ、 右側に、出席、欠席と分け、氏名と年齢を記入して敬老会出席者名簿とし、 町の地域振興センター宛提出するようになっている。 要項には、 ● 今年の対象者 満75歳以上 (1931年9月30日以前出生) ● 記念品は、当日の出欠の返事を書いたひとに後日、届ける。 等々、あれこれと書いてあったが、 個人情報保護法により、もちろん当該者の名簿はない。 1軒、1軒、 「 お宅に、1931年9月30日以前に出生された御方がいらっしゃいますか? 」 と、訊ねて回れと? ヽ(`Д´)ノ 昨年、同様のことをしたであろう、 隣家の元班長の彼女にだいたいの顔ぶれは聞けても、 今年から資格を得たひと。 見た目、ビミョーな方々については、判らない。 新・自治会長さん宅へ、泣きつくしかない、と私は思うけど、 「 個人情報漏洩になるから、名簿は出せない 」 とか、 「 以前在ったものは、全部廃棄されたらしい 」 とか 言われちゃったら、アウトなりよ~~。ヽ(`Д´)ノ んでもって、私が聞き取り調査をしたとして、 その結果の名簿を、来年の班長さんのために、とっておいてあげたら、 それも個人情報漏洩になっちゃう? なんだかなぁ。。。。ん~~~~、、、、、持ち回りの班長が、毎年、地域のご高齢者を訪ね歩き、お名前や年齢をきちんと識っておくことはいいことかも。そういうことにしておこう。
2006.07.15
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これまでも、 楽天スタッフさんの思いつきのような改善、改悪(゚゜)\バキ☆に、 ぶぃぶぃ言いながら(思いながら)も、 無料でこんなに楽しませていただいてるんだし、と、 感謝しつつ、なんとかついて来たし、 スタッフさんも、より遣いやすい、より愛される楽天広場を目指して、 【 フレキシブル 】なんだよね、きっと。 と、良い方へ良い方へ思うようにして来た。 んだけど、今回のこれは、、、、狙ってる意味がわからない。 これまではジャンルのカテゴリの上部に、 他のカテゴリがインデックスとして常に在ったので、 どのジャンルからもジャンプでき、自分のテーマを絞れて行った。 けど、今回ってば、、、、、一瞬、迷子になったなりよ。 何が何でも必ずトップに戻らなくちゃならないし、 ジャンルを選んだら、いきなりジャンル全体の記事が並んでるし。 これって、自分がよく出入りするテーマは、 自力で「お気に入り」にマークしとけ!ってことやん? たくさんあるから、困ったなぁ。 、、、、なんだかなぁ。。。 2手間3手間、4手間増えたことが、とても苦痛に思える私が余裕がないの? んでも、これって、 ますます、重複、同類テーマが乱立してしまうだけ、のような気がするなぁ。 もひとつついでに。 以前から困ってるのは、テーマ検索機能がない ために、 投稿数が少ないテーマで書きたい場合、非常に困るということ。 例えば、エイクマンさんがつくって下さった、 【 町内会(自治会)の役員レポート 】というテーマを 【 PTAの役員・委員レポート 】と同様に、 大切に育てて行きたいって思ってるんだけど、 まだまだ投稿数が少なくて、表面まで上がってこないテーマだから、 自分の過去ファイルか、エイクマンさんやrain27jpさんのファイルから 自力でジャンプして、テーマ投稿しないとならない。 んでもって、この技は絶対当日付の日記ぢゃなくちゃならないから、 凄い縛りがかかるんである。 これまで3度、思う日付でこのテーマを書きたいために、 ダミーの日記をアップしてすぐに削除することで、 管理画面の『今までに使ったテーマ』にテーマを出させ、 そこから改めて日記をアップする手段をとらせていただいた。 最新日記が削除となってしまうために、 いつもおいで下さる方々にひどくご心配をかけてしまい、 もう、この手段はとりたくない。 (「日記」なんだから、当日書くべし、と言われればそれまで、なんだけど) 以前、ありのみさんから、ユーザーさんが作られたという、 テーマ検索機能のことを教えていただき、大喜びでお邪魔し、 (『 けむしろうの部屋別館 楽天ブログのテーマ検索機能を作りました 』) 早速トライしてみたが、 残念ながら、【 町内会(自治会)の役員レポート 】というテーマではヒットせず。 ● トップに戻らなければ他ジャンルのカテゴリへジャンプできない。 ● テーマ検索機能がない。 ● 管理画面の「今までに使ったテーマ」が5つしか出ないのは不便。 この3点。 是非是非、再考とご検討をいただきたい。 せっかく、ジャンル別のなかの、テーマ別という、 皆が熱くて濃ゆい交流が持てる素敵なシステムな楽天ブログなのに、 これじゃ、テーマ投稿、するなって言ってるようで、もったいないなって思う。 あ、迷惑トラバや迷惑書き込みの規制、 30でも足りなくなりました。。。orz.... 追記) 少し直った!!! PM5時10分現在、 1つのテーマから、【 全てのジャンル 】に戻れるようになり、 そこから、あちらこちらに飛べるようになったなりよ~!! \(^o^)/☆ 思い切って書いて良かった! 皆さん、有難う☆☆
2006.07.14
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夫の異動を最初に聞いたときには、 すわ左遷か、更迭か! とビビったけれど、 社内ネットを読む限りではそうで も ないらしい。 ずっと本部に籍を置いていたものとしては、青天の霹靂であるが、 これも、夫の更なるステップアップの糧と考えよう。 夫は、殺人的スケジュールから少し解放され、 精神的には楽になったという。 ( 楽? …糧になるのか、それで ) だが、通勤はとても無理だ。 広島の私の実家から、、とも考えたが、それでも無理。 だもんで、寮に入れてもらうことにした。 これで、夫の通勤は楽になるが、 寮費、食費、カッターのクリーニング代等々、 ざっと計算してみて暗澹とする。 今、三重生活になることは、非常にキツい。 ( 2年後なら喜んで、この地を捨て、 嬉々として付いて行ったのになぁ(゚゜)\バキ☆ ) んでもって、義母の全てが私に託されたことを感じ、 めちゃくちゃ気が重い。 今までだって、家に居る時間は、正味4時間強くらいのものだったが、 全く居ない、となると とっても気楽、のようで、楽でないことに気付く。 昨日から、荷造りでドタバタ。 入院してなくて良かった、とつくづく思う。 「 テレビが欲しいんだけど、贅沢かなぁ 」 ぃへぃへ、テレビぐらい買いましょう。 W杯も大詰めだもん、 19800円のテレビデオ、上の少年とお揃いだね。 1年半後には、下の少年が持って行ってくれるでしょう。 布団などを送るのは家財引越便となって大変なので、 金曜日に私が搬入することにした。 で。 夫に持たせるお客さま用布団のカバーを剥いで、干してたら。。。。 鳥さんが、フンしたなりよ~~~~~!!! 金曜日は是非とも晴れて欲しいぞ!……という訳で、一足お先に>てんてこmyさん
2006.06.28
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あーぁ。考えられないミス。それが生じた理由は、言い訳がましくも3つもあるんだけど、それでも、私の確認不足であったことは否めない。後で気付いてヤりなおしたけれど、既にネットで配信しちゃってるんで、リアルで読んでた数店舗の方々に迷惑かけちゃって。そのフォローにあくせくして、クリアし、やっと落ち着いたところに社内メールが来てるのに気付く。まだ20代の後輩から。 「 …………略、 ○○ し忘れ ではありませんか? こちらで登録していいものか分からずメールを差し上げました。 お忙しい所申し訳ございませんが もし お忘れのようでしたら、登録をお願い致します。 」あーーーーーーん 。私に大変な気を遣いながらも、私のミスの指摘メールだった。殊更、太字部分が身にこたえる。メールのタイムを見ると、まさに私自身がフォローし始めた時間。入れ違いとはいえ、情けなーい。 んで、なんとなぁく、悔し~ぃ(゚゜)\バキ☆後輩がそのように育ってくれたことは嬉しい。でも、情けないぞ>ぢぶん。 う"? もしかして、ミスそのものより、 その後輩からのメールでヘコんでるの?>ぢぶん。 そんなプライドは、百害あって一利なし!!>ぢぶん。 え~~ん。 、、、こんな日も、あるよね?
2006.05.23
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13日夕刻より急展開。すみません、余りのことに、何を書くか判らないので日記を自主規制致しますm(__)m。私は立会いを拒否し、義母との対峙は夫に丸投げ。墓石セットは、3~400万円になる見込み。(呆)削除予定ですので、メッセージをお入れになられませんようお願い申し上げますm(__)m。 ※ 『 お墓問題 』 『 続 ・ お墓問題 』
2006.03.13
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不動産で持っている山林の一部を、自分たちの墓所にしたいと、ふもと部分を拓いて、毎年草刈をして、ずっと守ってきた義父母。この度、百ヵ日法要を無事済ませ、義父の墓を建立しようとしているが。義母が市役所に電話を掛けて問い合わせ、実地検分に来た市役所の担当者と 後日電話で大喧嘩。息子たちの誰かが、市役所と法務局へ出向き、諸手続を始めなくてはならない。 三兄弟の財産放棄、不動産の義母相続、山林→墓所への文筆。 半径100m以内の地主、住居人の同意書。 地図、墓所の見取り図、墓石業者の見積から墓石の姿図。。。。最低4~5回は市役所に通わないといけないらしく、面倒極まりない、と、毎日、愚痴ばかりの義母に業を煮やし、司法書士さんのところへ相談しに行こうと、定休だった夫がついに動いた。ひとりで聞くよりは、ふたり、と私も借り出され、ふたりで、町の司法書士さんのところへ予約を取って行く。この山林→墓所への文筆、というのが大変だった。山林をきちんと測量し、墓所分だけを分けて番地を取らねばならず、文筆登記料は、数百万掛かる由。 す、数百万んんんんんんんんん? @@ この山林を売ったって、そんなにならんと思うぞ… どーするんでしょう。 これから。 へらへら。 ↑ ペンちゃん、既にひとごと(笑)(゚゜)\バキ☆
2006.03.09
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昨夜、興奮醒めやらぬ様子で義母から電話が掛かってきた。昼間、市役所から電話が掛かって来て、大喧嘩をした、というのである。ことは、義父の墓所つくりに関して。前々から、ずっとごしゃごしゃしていたので、いい加減げんなりしていたが、義母の剣幕に、 「 そうか、とうとう爆発したか、1時間じゃ済みそうにないな 」と諦め、眩暈がするので、炬燵に入って聴く体勢に入る。 ◆ ◆ ◆義父母は分家初代なので、自分たちが新しく墓を建てねばならない。本家の墓所は、本家つながりの墓石でいっぱいであるし、義母には、本家に山ほど恨みもあり、一緒の墓所には建てたくない想いもあり、本家から相続した、我が家の建つ田んぼの北方に位置する山のふもとの一部を自分たちの墓所と決め、地を均し、毎年ずっと草刈をしながら守ってきた。この地では、分家は、自分で(赤瓦の)家を建て、そして墓を建てて一人前、なのである。( ※ 赤い瓦は、黒灰色の瓦に比べて高価で、耐雪度や雪を振り落とす力が強い。 だもんで、この地で、赤瓦でない家は、軽蔑される。 我が家を建てるとき、 この地の大工さんを使い、昔ながらの和式の家を建てることを強いられたが、 私は、泣いて拒否し、 私が一目惚れした大手メーカーの2×4で、スレート屋根にした。 義母がどんなに嘆き、腹立しく想い、恥辱の想いにのたうったことか )墓所に関しても、なかなかに面倒で、広い敷地に外柵(境界石)を廻らせ、化粧砂利をまき、墓誌から、灯篭、卒塔婆立て、手水鉢、物置台まで備えて一人前。 はぅぅ。但し、当然、余程のことがない限り、本家の規模を超えては角が立ち、「身の丈」にあっていない豪華な墓所もまた、ひとから嗤いものとなるために、自分たちで建てねばならない義母は、ひとの目が気になり、早くから自分たちが納得いくものを建ててしまいたい、と義父をつついていた。が、義父は、「 もう死に仕度かぃ 」と嫌がり、頑として建てようとしなかった。義父の内心は、判らない。でも私は、墓所までこのようなことに囚われることを義父は厭い、実質、その墓を守っていく?世代に生きる三兄弟たちに任せたい、と考えていたのではないか、と思ったりしている。で、本題。この地は、古い土地なので、共同墓地というのではなく、みな、個々人が自分たちの土地を整地し、自分たちが建てている。といっても、家の敷地内というのは、さすがに少なく、多くは山の斜面や高台であるが。勿論、墓理法に則って、申請して許可を受ける。が、これまで、この地では当たり前のように古い墓が地域内に多いため、問題になったことを耳にしたことがない。新しく墓所を拓くにしても、昨年までは町政であったから、県知事の許可を受けるにしても通りやすかった感がある。が、昨春より市となり、なかなかに厳しくなったようである。まず、不動産であるので、またまた三兄弟の相続放棄の作業が不可欠であるし、墓所認定にあたり、墓所に隣接する土地のひとは勿論、我が家が属する地域班のひと全員に了承、同意を得てくれ、との由。「 何月何日、誰々にどう説明し、同意を得た 」という覚書を提出せよ、と。とにもかくにも、息子と一緒に市役所まで出向け、ということで、押印念書をいただいて回らなくて済むだけでもラッキー、と私は思っているが、実は義母は、これがとても不満なのである。 曰く、 地域の北側の斜面で、自分たち以外は誰も踏み込むところでない。 人目に触れて、嫌な想いをさせることもないはずである。 土地に隣接する地主の家々や、 工事その他で迷惑を掛けるであろう道を共有する家々には、 勿論ご挨拶に回り、それなりのことをさせて貰う(!)が、 地域の東端の家々には、なんの差し障りもないハズであるし、 地域に墓所を持っている家もたくさんあるではないか。 墓所を拓いていいか、墓を建てるぞ、と 何の関係もない家々に触れて歩くのは、耐え難い。 絶対イヤだ、と。どうも、最初に回った家々のうち、2、3軒の家から、 あんたの土地なんじゃけん、勝手にすりゃぁええが? わざわざうちにまで言いにきんさる(来られる)とは、 よっぽど、ええ墓を建てなさるんでしょうなぁ。 えらいおめでたいことで。と、イヤミっぽく言われたらしい。で、どんな墓を建てるのか、衆目を集めたような気になり、非常なプレッシャーを感じたようである。昨日の市役所からの電話では、その近隣の同意の覚書の提出を催促し、市として、下見に行ったところ、 これから新しく墓地を拓くのは、あまり好ましくない。 ご自宅より、川を隔てて離れておられることだし、 菩提寺があるのだから、お寺のなかに建てられては?と言われた由。これで、義母がぶち切れたらしい。 家から遠い言うても、三男がおる家からはすぐじゃ! ( え~ん ) 結婚して60年。 あの土地をうちらの墓所と思うて、ずっと守ってきた。 なんで、役所がダメと言えるんかがわからん。 み~んなが好き勝手なところに建ててきたのに、なんでうちがダメなんか。 おとうさんが、はよう建てんかったけん、いけんのんじゃ!!!う"~。 おかあさん。 おかあさんのお気持ちはとってもよく判ります。 んでも、残念ながら、それもこれも全~部こちらの勝手な都合であって、 受ける側の市役所としては、そう言われるしかないですよ。 改めて、みなさんに同意をいただいて回り、OKを貰いましょう。 ヘタに向こうを怒らせて、本当にダメと言われたら、建てられませんよ?そう伝えてみたが、 あんたまで、そがぁなことを言う!と怒って切られてしまった。んで、また血圧が上がるのかなぁ。。。。長義兄に全部、任せたいよぉ。うちの地域班は、良水に恵まれており、(んだから上水道がまだ来ない)義母が墓所としてきちんと整地しようとしているところは、時折、山から鉄砲水が出るところから近いので、私は、それを案じている。地盤検査をきちんとしていただきたいところだが。。。。それでも、何十年後かでも、墓所とした辺りから、鉄砲水が出ない、という保証はない。あのイエが墓所で拓いたけんじゃ、ということにならないだろうか。お墓問題。 まだまだまだまだ続きそう。 orz....
2006.02.28
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早いもので、20日は義父の百ヶ日だった。それにともないお墓の件とか、ここ数週間、連日あれこれあって、私のストレスも最高潮に達していたが。。。18日土曜に、百ヶ日法要のためお寺へ行く予定を私だけキャンセル。長義兄夫婦が帰省してくれて、助けていただいた。 感謝。 ◆ ◆ ◆夕方4時半、義母より電話が入る。5時までに町外れのヤマト運輸へ原稿を持って行かねばならなかったため、うんざりしながら(゚゜)\バキ☆、電話を取る。 本日、近くの自治会館で、健康教室があり、 近隣の皆さんが誘って下さったので、 軽い体操と生活習慣病についてのレクチャーのため、 私のため に参加したところ、 そこで血圧測定したら 210 あった。でぇええええ!!普段から「健康教室」に限らず、自治会館での催しものなどに出掛けることのない義母であったので、とても良いことだ、とふんふん聞いていたのに、「私のため」と言うので、ちょっと眩暈がし、そして、最後のオチに驚愕した。義母は元々、高血圧のひとであったが、それでも最高値は180。ずっと降圧剤を飲み続けていたのに、2年前に難病指定の病に伏し、血小板交換をしてから、ずっと血圧が健康状態に戻っていたのである。 すわ、再発? 私が心配を掛けたから?義母は、頭痛も眩暈もしない、と言うが、明日は、その義母の2ヶ月に1度の総合病院への健診でK市中央へ出なくてはならず、いつものように、私が運転して連れて行き、私が付き添うことができないので、ひとりで電車で出掛けるのがとても心配だ、と言う。5時までにヤマトさんへ行かねばならないため、血圧計を持って行くから、自宅で待つように言って電話を切る。ドタバタと車に原稿と送り状、血圧計を乗せ、眩暈を堪えて発進!原稿を発送し、返す刀ですぐさま義母宅へ急ぐ。既に5時半近く。 近所の義母の主治医は6時まで。焦るこころを抑え、義母と共に深呼吸を何度もして、義母の血圧を測ると、我が家の血圧計では 『220』 を記録した。すぐに主治医に電話を掛け、診ていただけるようお願いし、義母を連れて行く。医院でも暫く時間を置き、何度も深呼吸して先生に測っていただく。 「 174 」。4度測り直され、その度に義母の血圧は下がっていく。先生と会話し、こころが安心、安定していくのか。 「 150 」。結局、150ということで、少し胸を撫で下ろした。150でも高いのは高いので、軽いお薬を1週間分いただく。これで様子をみましょう、とのことだった。義母はこれで、明日は安心してひとりで電車に乗ってK市中央まで出掛けていく。なんだか、申し訳なく、涙が出た。義父母のために、と、この地へ泣く泣くやって来た私。その義母に、こんなストレスを与えて、どうするのだ>ぢぶん。
2006.02.21
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今年、正。来年副、と2年間に渡って、我が家が、地域班(地域自治体の1番小さな単位)の【班長】(持ち回り)となった。この町は、小さなムラが合併を繰り返し、広大な面積を擁する町となり、昨春、隣の市へ吸収合併されている。現在の私の自宅の在る地域は、旧態然とした町のなかでも、殊に古い地域(←夫の実家がある)のなかで、水田地帯を埋め立て、分家が独立したり、宅地として購入され家を建てられた、比較的、新しい地域である。夫の実家での半年間の同居を経て、小川を越え、この地域にヤって来た私は、男衆、女衆の鵜の目鷹の目からやっと逃れることができ、ほっと一息ついたものだった。。。。。が、それもまた、幻想であったこと。恐ろしい敵?は、意外にも50代の、私たちの次に若い奥さま方であったことを昨年、仲良しの元・班長の彼女のSOSから、識ることになる。もう、下の少年も高校生になった。私には、何も失うものがない。怖いものなんて、もぉ、なぁんにもないっ!理不尽なことには、決して屈さない!……そんなような哀しい(笑)決意をもって、先日、彼女から班長を受け継いだ。といっても、受け取ったものは、 班としての貯金通帳と印鑑。(名義変更のこと) 地域内の街灯電気代の引き落とし通知書。(名義変更のこと) '70年代からの領収書を貼り付けた手書きの出納簿(大学ノート)。 これまで、地域内で回された文書の原本(道路について、上水道についての嘆願書)。う"~ん。。。班としての歩み? は、全然見えてこない。女性会なるものに、班がかかわり、ヤって来たこと。女性会の代わりに班長が、各税金を徴収し、得てきた手数料。その会計が、班に何人かいる蔭の大物のひとりであり、いつのまにか、その会計を降りられたこと。 etc.ちらり、ちらりと風の噂で耳にするだけ。本当のところ、いったい何があって、どういう風になっていて、んでもって、【班長】なるものは、一体何をどうすればいいのか。ぜ~~~~んぜん 判んない。何かこと、起きたとき、何処へ相談へ行き、アドバイスを受け、何をどうしたらいいのか。ぜ~~~んぜん、判んない。昨年、市との合併により、何かと問題が起き、おたおたする元・班長の彼女が、前・班長だった彼女の隣家の50代のAさんに相談しては、 「 あんたが班長なんだから、あんたが決めればいいんよ。 私はもう関係ないし 」と突き放され、そのくせ、後から後から、不手際を責められて泣いていた。彼女の1年間に起きた事柄については、彼女に訊ねることができる。だが、もっと違うことが起きたら、私は誰に相談すればいいんだろう。 ええぃ、なるようにしかならんしぃ。。。。と思ってた矢先、私はいきなり、50代のBさんから怒鳴り込まれることになる。ことは、「自治会費」の徴収 について、だった。これまで、自治会費は、持ち回りの「月番」が各家庭を徴収して回っていた。月額500円なり。私も何度も集めて回った。だが、不在のお宅も多く、月番で回られる方々がご高齢のお宅も多いことから、段々と、1年分として、一括6000円なりを、1月の月番が徴収するようになっていった。が、これは、強制ではないし、あくまで自発的なものであったため、徐々に徐々に切り替わって行き、ここ数年は、1世帯だけが毎月払うご家庭で、毎月の月番は、このご家庭だけを集めて回れば良かったのだった。しかし、昨年、このご家庭も年払を選択されたため、今年から、自治会費徴収は、1月の月番が集めれば済むことになったのである。で、Bさん曰く、 「 1月も20日を過ぎたのに、 自治会費を集めて下さい、という挨拶が、班長からない。 ひとからは、まだ集めんのか、6000円は大きいのに、とイヤミを言われる。 あんたは、そんなに私に挨拶をするのが嫌なのか。 もう待てんけん、主人にお願いして、名簿をコピーして貰い、 封筒も自分で出して、こうして集めて回った。 大金を集める役をなんだと思っているのか。 封筒やらをきちっと準備してから、頭を下げに来るのが普通でしょうが!! 」でぇぇえ???? なんじゃ、それは?……おそらく、私は鳩に豆鉄砲の顔をしていたのだと思う。Bさんは、すぐさま萎縮、恐縮しない私に、「班長としてのきちんとした引継ぎがなされていない」と感じたらしく、怒りの矛先は、元・班長の彼女に向かって行った。慌てて、 おそらく、彼女も識らなかったことだと思うこと。 そして、これまでは月番が、自動的に会費を徴収していたことから、 この度、班長の挨拶云々が必要だとは露にも思わなかったこと。 それによって、Bさんが不快な想いをされたことにはお詫びを申し上げる。 会費徴収が遅れたことで、ご迷惑をおかけしたり、 ご意見を出されたところへは、私の責任だとお詫びに行くので、 そのお宅を教えて欲しい、と。そう、懸命に申し上げると、なにやら急にもごもごと口篭もられ、 近年、どうも班長が、班長としての役目を果たしてない。 そういえば、○○さん(4年前の班長・地元のひとではない・一昨年ご逝去)が 班長になってからだ。との由。ぅぬぅ。 そんなのは、聞く耳持たんど!!! ごめんなさい、私には特別感じられません。 まだまだ新参者で、至らないところ満載なので、 どうぞ、私についてのお気づきのところをこれからも聞かせて下さい。 今回は申し訳ありませんでした。 徴収いただいた会費は、私のを合わせ、本日中に必ず入金致します。と丁重に丁重にお引取りいただいたが。。。。。。。 あ~~~~ひゃっひゃっ! その「本日」って、土曜日だったなりよ~~~ orz....波乱の幕開け?? やっぱりぃ???
2006.02.04
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現金なもので、秋以来の毎日の偏頭痛と時折襲うめまい、年末からの間断ない吐き気のうち、これらの症状が、おそらく血圧が高いことによるもの、と判明してから、吐き気がほぼ、収まったことに驚いている。どうも精神的に弱いので、あれやこれやの症状から、自分で追い詰めて行っていたのだろうか。しかし、頭痛とめまいは、続いている。これまで起き上がれないほどの頭痛でなければ、えいやっと起きて動いていたのだが、すっかり怖くなってしまった。めまいが来ると、このまま、脳の何処かでぷっつんしたらどうしよう、と、怖い。とにもかくにも、このままでは恥ずかしくて、ぷっつんできないので、少しずつ、家のなかの整理を始めている。(例によって、手をつけなければ良かった状態)。 ◆ ◆ ◆義母には、内緒にしきれず、つい血圧が「高め」だと言った。言ったとたん、臍をかむ。そうでなくても、私の体重増加に、私の顔をみれば「油物を食べるな」「肉を食べるな」と煩く煩く言われ、いい加減胃が痛くなっていたが、一挙にそれに拍車がかかる。毎日毎日、朝昼晩の電話。 そして訪問。何を食べたのか。それではだめだ。 魚を持っていく。煮〆を炊いたから持っていく。酢のものが足りない。 つくったから持っていく。野菜が足りない。あんたは、ストレスが多すぎる。早く仕事をやめ、中学校からも足を洗え。 etc.etc.。だぁ~~~~~~っ!!お願いだから、放っておいてほしい。これで、いつも胃を壊し、こころを壊すのだ。心配をかける私が悪いのは、判っている。でも、私のストレスは、この地に在ること。 おかあさんそのものなのに。なんで、判ってくれないのだろう。。。。。
2006.01.21
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、、、このあたりに、ちょっとこっそり書いてしまおう(王様の耳は~。。。。)この地に大きな神社が在る。小さなムラが町として合併され、その町がまた合併されて面積の広い町となり、そして昨春、隣の市と合併になったのだが。この町にはたくさんの神社や祠があるが、まず、規模も栄光の歴史も段違いの大きな神社である。この神社の狛犬は、ちょっと変わっており、狛犬にまつわる逸話もなかなか面白い。昔は、境内敷地も大きく、氏子の数も非常に多かった、ということである。現在も、井戸を掘るとき、家を建てるときなど、必ずこの神社が地鎮祭を行い、秋祭りには、前夜祭で県北の神楽団を招聘するのが恒例であり、夜通し行われる神楽のなかで、恵比寿さまが餅をまくときが最高潮。一時は、千人もの人々が集まったという。翌日の祭礼には、地域地域に点在する子ども会が連合となって、行列に参加する。しかし。年々、この神社は寂れ行く一方で、4年前より、前夜祭での神楽の場所が、外の能舞台へと移った。私たちは、晩秋の夜を、外で震えながら青いビニールシートの上に座って神楽を観る。毎年、神楽を楽しみにしていた義父母も、風邪をひいてはつまらないから、と行かなくなり、ご近所のご年配の方々も一斉に行くのをやめられた。能舞台といえば聞こえがいいが、日頃から全く手入れがなされていないため、日の光のもとでは、いつ床が抜けるのか、はらはらしてしまうような状態なのである。それなのにどうして、そこへ神楽を移したのか?……屋内の状態よりマシに見えるから。外から、ライトアップすれば、誤魔化せるから。由緒在る、立派な神社であったそうなのに、どうしてここまで落ちぶれてしまったか。神社に対して申し訳ないが、【 平生往生 】 という言の葉しか浮かばない。先代宮司さんから宮司職を受け継いだ、現宮司である先代の息子さんは、京都の大学に学ばれ、受け継ぐ直前まで京都に居を構えておられ、受け継ぐために、ご家族と共に帰って来られた。最初にされたのは、神社の傍に、真っ白な洋館を建てられたこと。まずこれで、近隣の方々や氏子さんがヒいた。そして、奥さまは、決して表に出ず、氏子さんたちと話をすることもない。(「神社に嫁に来た訳ではない」という論理は、 私もこの地で「イエに嫁いだのではない」と苦しんでるので、 つい頷いてしまいそうになるが、 でも、宮司が夫の生業であり、自分もそれを識ってここに来たんだもんね? と思ってしまう)続いて宮司さんは、学習塾を経営され、その後町議へと打って出て、落選。2度目の挑戦で最下位当選を果たし、現在は市議選を狙っている。町議会へ行ってみれば、彼は教育問題しか語らないが、それにしては、彼が町の小学校や中学校へ足を運ぶのは、入卒式だけ。宮司職はいかにも嫌々ながらのご様子で、祭りでお手伝いをしても、頭ひとつ下げられない。「氏子がするのが当たり前」。お膳立ては全部して貰って、自分は祝詞をあげるだけ。ひとから、畏敬されて当たり前。う"~ん。。。。。。大いなる勘違い。例えば、10数年前、神社の瓦の葺き替えのため、氏子中心に、多額の寄付金を集めなくてはならなくなったとき、ある氏子さんが、 「 神社さんが、皆に頭を下げて回るのは辛かろう。 氏子もそうそう動けない。 自分が田を寄進するから、これで大丈夫のはず 」と、広大な田を寄付され、皆が感じ入り、今でも語り草である。ところが、この田は、寄進者が亡くなられるのを待っていたかのように、一昨年、そのまま瀟洒な賃貸マンションとなり、宮司さんの月々の家賃収入となったため、あちらこちらで非難が炸裂している。大晦日と正月、祭り、七五三の日以外は、いつ行っても神社は閉まっており、ご本人や氏子さんが掃除される姿など、見たこともない。民草のこころは、既にこの神社から離れていることを知らないのか。破魔矢や御守が売られるのは、大晦日と元旦の2日間。バイトの巫女さんがおられるが、頼まねば、御守を紙袋に入れて貰えない。4つ買っても、1枚の紙袋を別に渡され、自分で入れろ。御守には、神社の銘が入っていない。全国何処にでもあるような神社銘であるのだが(゚゜)\バキ☆紙袋もないと、何処の神社の御守が判らない。ここまでくると、本当に、お祓いをして下さってるのか、疑いたくなってくる。 ◆ ◆ ◆昨年にも衝撃的な大事件があったのだが、この度、余りにも情けなく思い、ついに書いてしまったのは以下の事件。敬虔な氏子さんというのは、有難く、それでも年越しのため、一升餅や、鯛、お酒等々を神社に寄進されるのが恒例。昨年、時ならぬときに神社境内から煙があがったため、不審に思った近隣の御方が神社にあがってみると、奥さまが、その氏子さんたちから、寄進された餅やごちそうを、火にくべて焼いていた、というのである。立派な一升餅はカビだらけ、ごちそうは見るからに傷んでいた由。寄進されたものは、神さまにお供えし、自分たちがお下がりをいただき、或いは氏子さんたちに、「神さまのお下がりです」とお分けするものではないのか?あまりのことに、その目撃談を疑う訳ではないが、今年も捨てられ焼かれてしまうのかどうか、皆で交替で見張り、真偽を確かめよう、というのである。我が家は、この神社の氏子ではない。転居当時、お誘いを受けたが、「とてもお世話ができないから」と勇気を振り絞ってお断りした。よって、まるっきりの野次馬でしかないが、交替で見張る側、見張られる側、なんとも情けない話だと思う。神社さんを見張らねばならない、氏子さんたちが1番情けないことであろうが、氏子でない私だって、地域住民として情けない。我が家の井戸や家の地鎮祭時の宮司さんも彼である。私は神仏を信仰するものではないが、神社仏閣には、人並みにこころ寄せて来たものであるし、宗教社会学を学んで来たものとしても、こうした神社さんの体たらくは、哀しい限り。私がブログにお邪魔しているなかに、過疎地の神社の宮司さんに嫁がれたぴぴずさんちがある。毎日早朝から境内を掃き清められ、氏子さんたちも共にお掃除される。常に氏子総代さんをたてられ、氏子の皆さんと共に在ろうとされる宮司さんの真摯なお姿に、町のひとびとは、神、神社を敬い、自然に宮司さんに頭を垂れる。過日、お祖母さまが逝去され、氏子さんたちが総力をあげ、通夜祭、葬場祭、五十日祭をバックアップ。そしてそのまま天長祭、年越しへ。ぴぴずさんは、1歳5ヶ月の長女さんを抱え、第二子をご懐妊中でもあり、大変な毎日でいらしたことと思うが、常に氏子さんへの感謝のこころをお持ちでいらっしゃった。ぴぴずさんの日記を読ませていただく度に、心洗われるようで、日々のご努力が有難く、嬉しくて。当然、いつも、この地のでっかい神社さんのことを思う。お祭のお世話をする子ども会の役員さんたち。毎年、嫌な想いをし、雰囲気が悪いから、各地域ごとの連携も悪い。子どもたちの参加が年々減っているのは、少子化のせいだけではないだろう。子ども会の役員は、「お祭があるから嫌だ」で皆が敬遠しなり手がいない。子ども会の役員で疲れ果て、「中学校のPTAは勘弁して! 人間不信なの」肝心の宮司さんは、市議選目指して本日も飛び回り中。先日の地鎮祭では、宮司さんの衣装の肩部分がほつれており、宮司さんが祓いをする度に衣装の肩がずるずると下がり、それを片手で抑えながらの祓い。せっかくの地鎮祭にケチがつくような、なんとも侘しいものになったと聞く。誰か、このひとに鉄槌を下せるひとは居ないのだろうか。
2006.01.11
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稲刈りが終わると、翌年の田植えの時期まで、うちの地域班では、毎月第一日曜午後1時より、各世帯から1名を出して、皆で溝掃除をするのが決まりとなっている。男性と女性の比率は、ちょうど半々。溝掃除といっても、我が家の周りをちょちょいとやって終わるのではなく、皆で1列に並んで、川からの農業用水路の取水口から、川への排出口まで。ざっと400m位の長さの溝を、長靴を履き、軍手をし、草を取り、砂利を浚い、竹箒やデッキブラシなどで、底面までこすってきれいにしていく。これが、ずっと中腰。蟹の横歩きをしながら行うため、なかなかキツい。腰に来る。 膝に来る。力を入れてこすり続ければ、眩暈がしてくる。終了したときには、膝はわらい、汗で背中にTシャツが張り付く。年配の方々が多いため、若い者が頑張らねば、と思い、 (…私と班長の彼女が1番【若い】(爆))いつも頑張るのだが。しかし。私たちの次に若いはずの50代のおふたり。シャカシャカと、いつも箒の音だけさせて、上手におサボりになる。その技術は、真横の位置に来ないと判らないほど。この方々を目にする度に、「 ズルい! 」 と感じて、不快になる自分が嫌で、月1回のこの溝掃除の日は憂鬱である。60代の方々が、額に汗して、息を弾ませていらっしゃるのに。私だって、膝を固定して。終了後にはアイシングが必要な膝で頑張ってるのにな。などなど。でも、もう考えない。 思わない。いいもーん。その分、私は汗かいて、脂肪燃焼だもーーーーん。 ◆ ◆ ◆うちの地域班の方々からも、お香典をたくさんいただいていたため、前日に香典帳をチェックして、それぞれにご挨拶をする。極力目立たないようにしたつもりであったが、が、「 知らなかった! ご無礼しました 」 等々と後から、自宅へお香典を持って来られた御方がおふたり。う"~ん。。。義父の葬儀以後、初めてお逢いする方々に何もご挨拶しない訳にはいかなかったのだから、いじいじ気にするのは、、、、やめよう。 ◆ ◆ ◆うちの地域班は、元々山のふもとの川沿いの水田地帯で、分家筋のものたちが、田を自宅用に宅地に造成しては、少しずつ住み着いていった地域だと聞いている。かくいう私たちも、同居からの独立にあたっては、町と地域の「農業委員会」の承認を受けた後、近隣の方々の承認印をいただいてから、義父母の田を百坪ほど造成し、家を建てさせていただけたのだった。我が家を取り囲む東西南北のよそさまの田に蔭をつくらないよう、配慮して設計し、塀や車庫も諦めた。下水道はともかく、上水道が来ていないことを知ったのは、いざ、家を建てることが決まってからである。「井戸掘り名人さん」を順番待ちしてお呼びして、掘っていただくことになり、これにも目を見張って驚いたあの日が、遠い昔のことに思える。この地域班では、各家庭の汚水は、農業用水路を使用させてもらっている。だもんで、田に水が張られないこの時期に、自分たちの汚水の流れる溝を感謝を込めて掃除するのである。この期間は、汚水はそのまま、川へと流れて行く。お米つくりの期間は、自分たちの流す水がそのまま、目視できる形で溝を流れ、隣の田へと流れ込んで行く。でき得る限り、水を汚さないよう、心掛けて来た。合成洗剤は決して使わない。食事を残さないよう。 汁物類は1滴たりとも残さないよう。この地に転居してより、排水というものに対して常に向き合わされ、神経を遣う日々で、慣れるまでは、正直キツかった。それまでも、ずっと心掛けて来たつもりだった。でも、下水道の存在は、やはり有難かった。こころの何処かで、「これぐらいなら」という甘えがあった。それに気付けたこと。常に自分に厳しくあれること。有難いことだった、と思う。水を守ることは、まわりまわって、自分たちを守るということ。私たちのいのちの水は、地球と雨雲の間を循環しているだけなのだから。
2005.12.04
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いつも通り、義父の病室へ入室しようとしたら、部屋が真っ暗なので急変したのかとビビる。よくみると、違うひとの氏名と「面会謝絶」のプレートが。安堵しつつ、慌てて、義父のプレートを探して廊下をうろうろしていたらいらだっている様子の義母の声が聞こえてきた。義父は6人部屋へ転室しており、左の廊下側で食事中だった。右側の3つのベッドは全て塞がっているが、左側は義父だけである。ベッドをぎりぎりまで隣にずらして下さっており、ご配慮をいただいてはいるが、昨日までの個室に比べれば、なんといっても狭い。これで、食事を介助するのは、互いに息が詰まりそうだ。義母が口を開けない義父に、怒っている。 「 口を開けなさい 」 「 もぐもぐ噛みなさい 」 「 少しはこっちも食べんと 」、、、食事を開始して既に1時間。おかずや汁物には手付かずで、お粥のみ、やっと3分の1を食べたところのようであった。聞けば、この20分は、ずっと口を開けないままなんだそうである。3名の同室の方々は、ベッドに横たわられて、テレビを観ておられたが、当然のようにうんざりしたお顔で時折大きなため息が聞こえてくる。義母に小声で「 もう切り上げましょう 」と伝える。 お粥3分の1では、夜中におなかが空いてしまう。 かわいそうだ、 眠れないに違いない、 風邪気味なのにもっと体調が崩れてしまう。。。。あれこれと「NO」を述べたてる義母に、20分も頑として口を開けないというのが、義父の意思表示ではないか、と伝え、看護師さんに、残った食事の量を観てもらい、夜中の義父をそれなりに注意して観ていただくようにお願いするから、と説得し、そのようにする。その後、義父が口を開けなかったのは、入れ歯の不具合が原因であったことが後で判るのだが、それにしてもあの狭い空間で、1時間も互いにドアップで、一口毎にやいのやいのと義母に世話を焼かれるのは、義父にとっても苦痛ではなかろうか。そして同室の方々には、、、。 ほんとに申し訳ない。入院中は、食事が唯一の節目節目の行事であり、楽しみでもあるのに。午後7時。面会時間を過ぎ、義父に「 抑制 」をして貰ったのを確かめて、「 お騒がせを致しました 」と挨拶して退室したが、3人の方々は、誰ひとり、応えて下さらず。ぷいっと横を向かれた御方も在った。帰る道々、義母と話をする。やはり義父は、部屋が変わったことに慣れず、拒否反応を起こしているらしい。鬱の状態に入っているような感じがする。ともあれ、このまま大事なければ、来週中には退院できそうである由。あともう少し! なんとか乗り切ろう。ふぁいとーーー>お義父さんふぁいとーーー>お義母さん
2005.10.28
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24日夜、病院からの帰り道、義母から26日に義父が退院になると言われる。だもんで、25日中に主治医への御礼(金封)。看護師さんたちへの御礼(菓子折)。手術・入院費の用意。大量の紙オムツ を用意しておいて欲しい、と。穿頭手術だったとはいえ、左脳を蔽い、脳幹を歪めてしまうほどの硬膜下血腫だった。まだ、もうひとつ足元おぼつかず、距離感覚も戻って来ていないようなのに、もう退院とは、えらい早いなぁと思うと同時に、脳外科の個人病院ではあるし、義父の手術は時期こそ重篤状態ではあったけれど、術法そのものは、そんなに大変な手術ではないし、傷口さえ癒えれば、手が掛かるばかりのアルツハイマーの患者は迷惑なのだろうか?等々、あれこれ思いつつ、ドタバタした。主治医への謝礼金については、2年前の義母の入院時に、あれこれやりとりをして懲りたので、言われるままに用意する。義父の寝具を整え、ついでにタオルやシーツを大量におろし、下洗いしておいた。……結局、26日はCT検査と抜糸であっただけで、検査の結果で、退院日のメドを立てる、ということだったらしく、26日当日は気が抜けることになる。看護師さんへの御礼の菓子折は無駄になってしまったが、検査の結果は良好。義父退院への心積もりのリハーサルができた、ということで良し、にしよう☆☆(26日) 抜糸時に、糸の位置が攣れて固まっており、 表層の血管が傷ついた由にて、またそこを縫われたとのこと。 その折の麻酔の影響か、義父の瞳の色合いが非常に薄くなり、 30分置き位にお漏らし。 パジャマ3組がダメになった。 殆ど歩けず、車椅子でトイレに行くのだが間に合わない。 ひとこともくちをきかない。 バリアフリーである我が家と異なり、 夫の実家は段差だらけの家であり、トイレは外! う"~ん。。。。不安!
2005.10.25
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夜、NHK教育にて、私の愛してやまないうちの会社が紹介された。深夜帰宅した夫と共に録画していたのを観る。オフィスにもカメラが入り、私のデスクも映った。もう2年、出社していない。でも、そこに、私の席は変わらず在った。皆も、 いた。夫もちらりと映った。悲しかった。若いひとたちが、伸びていた。日々、楽しそうに仕事をしているのが伝わって、それは、嬉しかった。「 仕える仕事 」ではなく、「 志した事 」として、毎日を楽しんでいた。その日々のなんと遠いこと。これまで抑え付けていた、何もかもに 仕えている ことへの怒りや置いていかれる焦燥が一気に膨れ上がりそうで、慌ててCDを取りに車へ行く。現在、車のBGMはBACH。病院への片道40分強。 ガンガン鳴らして行く。久々にヘッドフォンで、朝まで『管弦樂組曲第3番ニ長調(BWV1068)』を聴く。最後に、第2曲を繰り返し繰り返し聴いて、深呼吸。よーーーーし、本日もふぁいとぉ!!!!
2005.10.21
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術後、父の眼の色が活き活きしていたのに驚いた。「 春霞が取れたようだ 」としっかりした口調で言う。どんなに不自由な想いをしていたことだろう。もっと早くに気がついてあげれば良かった、と後悔の念が大きいが、それでもいのちを助けていただいて、幸運だったと思うようにしよう、と決める。迷っていた私たちに、この脳外科病院を教えて下さり、背中を押して下さった近隣の御方にこころから感謝を。ICUは、ベッドの位置が高いので、万一転落しては、、と、義父の病室は、ナースセンターのまん前の個室となった。アルツハイマーであり、耳も遠く、同室者がおられては大迷惑となるため、1日3000円の個室代は、痛いけれど、個室でむしろ有難い。夜中、導尿しているのに、トイレに行きたがるのに閉口した。ほぼ5分間隔である。薬で眠らせるにはリスクを伴うため、痛み止めしか処方されない。これはとても有難いことだと思いつつ、看護師さんたちに申し訳ない。義母も休む暇がない。早朝、とりあえず、私だけ自宅に戻り、夫と下の少年、和風仕様の義母のお弁当をつくり、色々と義父の入院支度を整え、義母の衣類も持ってまた病院へ引き返す。「 抑制 」を解かれ、導尿官を解かれた父は、早速 「 トイレに行く 」と言って義母を困らせ、ナースコールを押しても看護師さんが来られなかったため、義父の手を離して、病室の扉のところまで行った隙に。待ちきれず、いらだった義父はベッドの柵に足を乗せ、柵を乗り越える形で、頭から転落した。。。。そうである。すぐにCTを取っていただき、今のところ脳内出血はないようであるが、今後、どのようになるか、おそらく腫れてくるのではないか、との由。熱は7度5分。この手術の後の発熱としては、高い方ではないが、できるたけ出ないほうが脳のために良いという。義母は、心配を通りこして、義父に対して怒っている。義父は元気で、すぐにも家に帰る、と言って聞かない。どうして自分が病院に要るのかも判らない。怪我で、手術したために、治るまで入院するのだ、と説明するのだが、次の瞬間には忘れている。その度に、ここは何処か、何故居るのか、を説明する。 「 儂はもう治った。 点滴も要らん。 帰る! 」点滴も、引き抜いてしまうため、ずっと手を握っていなくてはならないが、凄い力で、手を振り解き、点滴を剥ぎ取ろうとする。そして、、、、。老人ホームに入れられたのではないか、と疑いを持ち、私を睨む。その言の葉は、、、、記したくない。排尿は自分でしたがり、そのために間に合わず、失敗して衣類が間に合わない。一応、紙おむつとパッドはしているのだが、トイレの前に、自分でそれを外すので、失敗するのである。借りている車椅子も、ベッドも、ぐしょぐしょ。病とはいえ、義母も私も、縮こまるような想いで、いたたまれない。義父も、義母が叱り付けるように言うため、納得するが、嫁の私の言うことは絶対に聞かない。看護師さんにもずっとついていただく訳には当然行かない。だが、これからもずっとこの調子で、義母がついていなければならないのなら、早晩、義母が倒れてしまう。義母も80歳。 四肢麻痺の難病に倒れたのは2年前。2年掛かって、やっとここまで回復して来たのである。、、、私が徐々に義母ととって代わり、私の言うことを聞いて貰わねばならないのだが。 ◆ ◆ ◆皆さんには、大変ご心配をおかけしました。こちらや、私書箱、メール等々、たくさんのあたたかなメッセージをいただき、澱のような疲れを皆さんにほんわか包んでいただいているようです。有難うございました。とりあえずは、なんとかかんとかやっております。このまま、父が肺炎を起こしたり、なんらかの感染症等を起こさねば、2週間をメドに退院できる、ということでしたのですが、ベッドからの転落事件で、少し先が見えなくなりました。現在は、義母を病院へ送り(泊まらなくても良くなりました!)自宅の分と義父の分、ひととおりの洗濯を済ませて、珈琲タイム☆☆☆これから、夕飯の差し入れをつくって、義父のパジャマ類を買って病院です。また、落ち着きましたら、ゆっくりご挨拶させていただきますm(__)m取り急ぎ、 > さきさん0208さん スポーツマンは、老若男女かかわらず、 常になんらかの故障、異常を抱えながら、 自分でうまくやりくりし、付き合っていくものですが、 やはり、その状態を正しくしっかり本人が把握していることが 前提になるだろうなぁ、と思いますです。 ( 私たちバレーおばさんなどは、まずもって日々筋力、体力が衰えていることを 自覚し、それと向き合うことからですが。。。) 万々万が一、深刻な異常だったら、 殊に青少年の場合は、後悔しても追いつかないので、 ご本人であるお嬢さんが余りに気になさるようでしたら、 検査だけはされた方が良いかも、です。。。 検査結果の先は、ご本人が自分の調子、様子と 先輩たちの体験談を聞きながら、うまく付き合っていかれることでしょう。 うちの下の少年も、バスケの職業病だと思っていた腰痛が、深刻な急性ヘルニア。 膝痛は、先天的な軟骨肥大でしたですぅ。(手術で軟骨を削らねば治らないorz.....)
2005.10.20
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11月6日、K市市長選。4選を目指す70歳現職と、2回目挑戦の58歳新人の一騎討ちの模様で、既に8月終わり頃から、あれこれと、いろんな名前の団体が動いている。挑戦者の母校は、夫と下の少年の高校と同じであるため、高校同窓生有志からの郵便物やら電話やら、かなり凄い。で、うちの町では、日曜夜に挑戦者さんの講演会がある、ということで早くから宣伝ポスティングがなされていた。夕刻、ピンポンと我が家のチャイムが鳴る。出てみると、来年から2年間、我が家とともに、この地域班の班長となるお宅の世帯主さん。この地域班のおそらく顔役のひとりである、ある御方が、挑戦者の世話人、であるため、この挑戦者の講演会に是非参加して欲しい、との由。 「 講演会に、この地域班から数人しか参加していないようでは、 この地域班のメンツが立たない。 その御方の顔を潰す 」。【 現職の太鼓持ち 】 ではなく、【 対抗勢力 】 というところが、これまでの形と大きく違って興味深いが、私は、今月、月番。来年、班長。だからって、動員かけられて、行かねばならないのか?「NO」と言えば、来年から、共に班長をしていただく、この世帯主さんのお顔を私が潰すこととなる。う"~。。。などと悩まず、その場ではあっさり(上手に?)断った私(爆)。しかし、断った後になって、胸にしこりが残る。この世帯主さんのお顔を潰しただけでなく、投票に行くからには、両者の言い分を識り、判断しなくてはならない。せっかくの良いチャンスを、私は自分の意地で逃したか?でも、あんな形での動員に、にっこり笑って「はい」とは言いたくない。しこりが残ること自体に、イライラと腹が立つ。やだなぁ、もぉ。あ、郵政民営化法、参院を34票差で可決だし。※ 今週の読了本メモ 『竜王伝説1』『 同 2』(「時の車輪」シリーズ 第1部)ロバート・ジョーダン/ハヤカワ文庫(久々に再開したら「真実の剣」シリーズと混乱したので第1部から再読)
2005.10.15
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どうも、今週に入ってから、不調である。心身がだるい。 微熱っぽい。 偏頭痛が酷い。何も考えたくない。 何もしたくない。皆さんへのブログ訪問も滞りがちである。。。ごめんなさい。これは、一連の お仏壇騒動 を、心身が拒否しているからなのか?と思っていたが、夫も下の少年も、軒並みダウン直前。3人とも喉も痛いので、一家で風邪をひいたか? と思っていたが、一昨日、夫の顔がむくみ、私の目が痒くなって気付いた。秋の花粉症の始まりだぁ~~。(号泣)うっかりしてました。ヨモギ(エゾヨモギ)、ブタクサ、アキノキリンソウはもう落ち着き始める頃だが、セイタカアワダチソウがあちらこちらで満開。昨日の東広島市への往復路も、休耕田では、びっしりのまっ黄色だった。これからまた1ヶ月近く、苦しむのね(哀)。レディースディから帰宅した夜、手の甲が痒い。みると、あの恐怖の夜と同じところ に軽い発疹が出ており、一瞬、硬直した。また、あの恐怖の再来なのか、と。塩水をすり込んだら、すぐに枯れて事無きを得た。日焼けと花粉に反応したらしい。もう、2年になったよーーーー。 もう後戻りしたくないよーーー。
2005.10.14
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夫の実家のお仏壇は、縁在って、何代か前の町長さん宅のお下がりをいただいた由にて、百数十年を経た、大きな立派なものである。しかし、元々?手入れが余りなされておらず、古い家の普請の歪みにも呼応して、数年前から、お仏壇の天井部分が崩れかけて来ていた。修理に出すとしても、金箔も漆も剥げた部分が多く、何百万単位となりそうなのは、素人目でも判る。加えて、仏間には、常に隙間風が入ってくるために、灯明がすぐに消える。義母はこれらのことを、ずっと苦にして来た。そして、2年前に難病に倒れて以来、義母は、お仏壇を買い替えようとこころに固く決めていたようである。先日、親類の大きな法事があり、出席した義母のこころに火がついた。このお仏壇を大切にして来た義父や、宗教的儀礼はナンセンスだと思う義兄たちの反対を予測し、それに対決していくために、「りうりうちゃんとも相談したんじゃが」と言うため、連日、私の【賛成】言質を取ろうと、日に何時間も粘られる。私が万一、言質を取られたら、義兄たちと対立する形になってしまうのが怖く、何度も何度も「 私では判りません。 おにいさんたちと、相談なさって下さい 」と言うのだが、義母は一切聞く耳を持たない。その度に、いちから、 仏壇が崩れそう。 お供え物をきちんと供えられない。 ろうそくの火が消える、電気のろうそくがいい。 死んでから、この仏壇の前で毎回お経を上げられるのはさえん、ふうが悪い。 あんたもそう思うじゃろう? ↓ 崩れないように、金具で補強できる。 お供え物は、脇に小さな机を置けば、きれいに飾れる。 電気のろうそくだけを買える。 敷物を変えて、磨けば、まだまだ見事な仏壇だ。この無限ループ。そのうち、「 あんたには判るまいが、死に支度は、何かと大変なんじゃ。 今からきちんとしとかんにゃ、死んでも死に切れん。 こんな仏壇で、ひとに参って欲しゅうない。 おとうさんはあてにはならんし、ここで決めるんじゃ。 まずは仏壇からよ 」(お墓も待っている)その度にぐぐっと詰まる。連日の義母の攻めには、私もぐったり疲れてしまい、段々と、仏壇も院号も、欲しいのは義母であり、買うのも義母。それで、義母の魂が安らぐなら、三男嫁の私が「NO」という権利はない。もう、どーでもいーや、という気になってくる。しかし、義母の次の一声で涙が出そうになる。「 新しい仏壇は、おとうさんと私が死んだら、 あんたの家で守って貰わんにゃならんけん、仏間の寸法を今そこで測りんさい 」げぇ~~ん。信心深い夫の両親に全く影響を受けず、3人の息子たちは、見事に無宗教。夫など、結婚のときに宗派を訊ねたら、「知らん」と答えた(驚愕)。私は逆に、信心深い両親の影響を受け、宗教というものに多大な興味を持っていた。私にとって、決定的だったのは、中学時代に遠藤周作氏の『 沈黙 』に出逢ったことである。遠藤氏の描く、無力なイエスに惹かれ、父と一戦交える覚悟で、洗礼を受けたい、と申し出た。勉学を重ね、僧籍を持つほどであった父は、自分を論破できたら洗礼を受けてもよい、と答え、ならば、父を超えてみせよう、と、私も懸命に勉学したものである(無謀)。私は、神とか仏とかいう存在を信じてはいないが、大きななにものかに、常に生かされている、という感はずっと持ち続け、宗教社会学を学び、大学4年間の夏を京都に過ごし、ある宗派の原点回帰運動について、卒論を書き上げた。だもんで、私のなかには、幾つかの特定宗派に対するこだわり、が厳然として在る。夫の実家は、その、私の余り好きでない宗派であった。結婚時は、夫が無宗派であったこともあり、それが余り深く関わって来ることもあるまいと想い、お気楽に過ごしてきたが、この地に転居するにあたり、無視できないものになって来た。少年たちには、その宗派のお数珠を買い与えられ、その宗派の経文を読ませられる。その都度、私は、実家の宗派の経文が恋しくてならない。毎夜、お仏壇に手を合わせ、家族で読経してきたのである。私は、未だに空で幾つもの経文をあげることができる。ともあれ、夫の実家の宗派のお仏壇が、我が家に来る??嫌だもーん。しかし、この週末に長義兄が帰省して来たために急転直下。あれやこれやとあり、ついに義母の粘り勝ち。本日、義母は意気揚揚と私を従え、私のバレーのチームメイトの婚家である仏壇屋さんへ行き、お友だち価格でかなり安くしていただいて、本日めでたく?購入なさいました。11日の大安吉日に、入佛式。お坊さまやお膳の手配、お披露目、手土産その他、忙しくなります。。。。。。。。。。。。。
2005.10.05
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毎年、朝から晩まで座る暇なく おさんどん な お盆。さんざん迷ったが、長義兄家族は帰省しない由だし、我が家の人員も殆ど居ないので、今年は不調を理由に、ゆっくりさせていただいた。お盆に、自宅でゆっくりするなんて、結婚以来初めてのこと。だがその分、当然ながら気ばかり遣って、しっかり胃痛の日々だった。「何をつくろう、どうしよう」と、あれこれと朝昼晩に電話があり、つくった食事を私の分まで用意して、持って来られる。恐縮で胃が縮む。こちらからは、蕨餅と抹茶のババロアを大量につくって、下の少年に持って行かせた。ゆっくりさせて貰って、おかずまでお裾分けして貰い、義母や次嫂さんに有難く思わねば、バチが当たる、、と思いながらも 「 私が居なくても、回るぢゃん 」。 ひとたび、そう思ってしまうと、想いは一気に、亡き父のもとに飛んでいく。居なくて回るものだったのなら、せめて父の命日である14日だけでも、毎年、母の傍に在りたかった。「命日だから帰っておいで」などと、言われてみたかった。(大甘)自宅でゆっくりする位なら、今年は帰らせて貰えば良かった、と。今年は、20回忌となる。14日に実家に電話をしてみた。毎年、盆行事が落ち着くまでは、帰宅するのは真夜中過ぎるため、とても電話もできなかったのである。お坊さまをはじめ、たくさんお参り下さったようで、幼い頃にお世話になった、思いがけないひとと話もできた。その御方から、何故、帰って来れないのか、と叱られる。真宗では、みな仏になっておられる訳であるから、盂蘭盆会に、特別なお供えをしたり、ナスやキュウリの動物、迎え火、送り火、精霊流し、などはしないのだけど、仏壇やお墓をきれいにして、皆、お参りはするのです。叱られて、「ごめんなさい」と言いつつ、涙がこぼれる。こんな風に年上の懐かしい御方に、子ども時代のように名前に「ちゃん」を付けて呼ばれ、温かく叱られて、素直にごめんなさいが言えて、甘えた涙がこぼれる、なんて、10数年ぶりではなかろうか。電話線の向こうは、「嫁」ではない、「私」が「私」で在る世界。幼いときから「私」を見つめ、育み、愛してくれた世界。電話線のこちらは。あいたたたっ。。。 私としたことが、ホームシックだ~~ぃ!!こだわるものには、とことんこだわる父は、生前に子どもたちにお墓で苦労かけまいと、そして、何より、自分が気に入り納得できる墓を建てたかったため、私の大学卒業後から(←金食い虫で本当にごめん!!)母と懸命にお金を貯め、自宅近くの墓地に建てた。決して裕福でない我が家に見合った、墓石も極々シンプルで小さなものだが、自らも達筆である父は、字だけにはこだわり、何人もの彫師さんを訪ねて歩き、これは、というひとにお願いしたのである。お気に入りの墓が建ち、自分の父と母の骨を本家に分骨して貰いに出掛け、一握りの土くれと化したものを「土に還るのがほんとだから」と骨壷に入れず、そのまま納骨堂に納めて。そして、父も逝き、父の願い通りに骨壷に入れず、土の上に置いた。あの日以来、母は、毎日のように散歩がてら墓参し、父と共に土に還る日をずっと待ちわびている。私もそこへ行きたい。私も父母に抱かれて同じ土に還りたい!!昨年より、ことあるごとに強烈にそう願う自分に戸惑っている。夫の両親が、そろそろ自分たちの墓を、と言い始めたからかも知れない。私はこの地に骨を埋めたくない!と 強烈に想うからかもしれない。夫の実家と宗派が違うのも、自分のなかで消化しきれない。夫自身は無宗教ではあるのだが。こだわるから、苦しい?のみこめないから、消化不良になる?死んでしまえば、骨など、墓など、何の意味も無く、『千の風』になるのであるのに。父がなくなったとき。母は立派な「おとな」であり「母」だった。「 今後、私がいつ、どのような形で逝くことになっても決して悲しまないで。 どうか、私のために喜んで。 私は、1日も早く、おとうさんのところに行きたいのだから 」そう、きっぱりと言ったひとだった。つい先日、「当時の母は52歳だったのだ」と気付いて愕然とした。現在の私とそんなに変わらないって、どゆこと??……あまりに進歩のない、成長してない自分にがっくり。以前、日記に、母は私の(越えられない)目標だ、と記したが、全然ダメぢゃん>ぢぶん。
2005.08.16
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はひはひ。つい先日、会社用のノートPCが新しくなって、設定に時間を取られたばかり。無線LANがどうもうまく行かなかったのだ。なのに、度々辞書が壊れ、フォントも壊れ、フリーズしまくりの再起動かけまくりの、だましだまし仲良くしていた私の私用PC(デスクトップ・98)もついにボロボロ・爆発寸前となったために、新しく購入を決意し、本日、到着なり!!10GBが一気に160GB。(一昔前では考えられない)メモリも1024MBに増やした☆一式買った方が楽だし、安かったけれど、これまでのモニターはお気に入りのSONYのトリニトロン(18インチ)。薄さで、液晶モニターにとっても惹かれたけれど、SONYのモニターを処分するにはしのびなく、本体だけ購入することにして、いまどきのMOやらなんやらも全部引き継ぐことにして。午後からはずっと、旧PC、会社用のノートPC、新PCと3台並べて、データ移動から何から、てんてこまいである。。。やはり、無線LAN、エアステーションで躓くなぁ。。。仕事部屋のお掃除もまだ途中だというのに、と時間に追われ、イライラ、汗みずく。加えて、お盆が近付き、例によってのおさんどん。3日間の献立のあれこれを計画、準備するために先々週から、朝昼晩と義母からの電話&訪問攻撃。……現金な私の体調は、ちょっと悪化の傾向なり。辛いので、今年は免除して貰うつもりだが、う"~ん。。。。なまじ、復調しているため、厳しいかも。愛する父の命日は、8月14日であるのだが、1周忌と3回忌しか、帰らせて貰えず。ず~~~~っとお盆のおさんどんだったもの。今年も無理かなぁ。。。。(泣)。。。ええ~ぃ!! お盆にはお盆の風が吹く!今は、新PCの設定、整理に集中ぢゃ~~~!
2005.08.11
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広島時代では、ずっと夫と共に仕事をしてきた。10年前、この地に泣く泣く転居して来て、夫はJR電車通勤。広島を9時台に出る電車が最終となるため、まず夫はそれには乗れない。だもんで、週のほぼ全部。午前0時40分に、下の少年の高校がある町の駅に最終で着く夫を私が車で迎えに行くことになるか、翌朝が早い場合は、広島の私の実家に泊まることになる。同居中は、車がなかったため、週の殆どを私の実家に泊まっていた夫。何故、私が夫の実家に在り、夫が私の実家に泊まるのだ?広島が恋しくて、泣いてばかりの私には、とても理不尽に感じられることだった。転居にともない、私はフレックス出勤として貰い、週に2~3日の通勤。後は、自宅にてイントラネットを駆使して仕事をしてきた。同居中は、午後8時半が消灯だったので、部屋中まっくらにして、PCの電気が外に漏れないよう、座布団でモニターをできるだけ覆って仕事をした。近居となって、会社は、自宅を会社の分室として認めてくれ、キッチン横の私の仕事部屋に、会社の電話とPC、FAXを設置してくれた。ネット上の出勤簿に自分の業務時間を10分単位で自己申告する。どうしても必要な打ち合わせがあるときのみ、出社した。だから、PTA役員として、めいっぱい行動することもでき、義父母の介護生活も、私自身が不調に倒れても、仕事ができた。とてもとても有難く、会社には感謝している。 ◆◆◆◆◆で、「 大変だっ!! 」 のなかみであるが( 前振り長っ )、昨年から、うちの組織はIP電話を導入した。んで、この度、自宅の会社電話やFAXもIPにしたいから、近々、簡単な工事が入る、というのである。どぇええええ!! 今、自宅は、どの部屋も足の踏み場がないよぉん。仕事部屋なんて、本と書類と(書類は、会社関係ではなく、殆どPTAだ)、本と本と本と本とで、殆ど開かずの間に等しい。家事で何に手を抜くか、と言ったら、掃除だもん。加えて、ここのところずっと伏せってたから、幽霊屋敷に等しい。どーするんだ、どーするんだ、どーするんだ!!>私。 んんんん~~~。いつかこんな日が来ると思ってたけど、今か~ぃ。 シンプルライフ、整理整頓へ良い機会を貰ったと感謝して、 まだ、あんまり動けないんだけど、そんなこと言ってる場合ぢゃない。 ヤルしかないよね。とりあえず、仕事部屋のものを全部、仏間の隣の部屋へ移そう。。。。orz.話はそれからだ。。。。。あぅぅぅ>自業自得。
2005.07.28
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25日。 8月8日の晩に帰省する、と上の少年から連絡あり。明け方、久々に上の少年の夢を見る。久しぶりなのに、遠くで俯いてて、顔を見せてくれない。散々名前を呼んで、やっと顔を上げてくれたかと思ったら、私と同じように、顔が腫れ上がり、ドロドロの肌になっていた。 「 うそっ!! なんで 君がっ?? 」自分の悲鳴で目が覚めた。目尻が濡れてた。 気分、最悪~~。
2005.07.26
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『脱ステ』されて225日目になられるドラゴメスさんから、 ご質問をいただき、お返事してましたら、例によって凄いことに、、、(汗)。 だもんで、こちらの方にアップさせていただきます。ドラゴメスさん、私のブログにお越し下さり、有難うございました。『第2次リバウンドだ~!』と嘆いている私のブログが、せっかく頑張っていらっしゃるところに、水を差してしまった形となりましたでしょうか。。。不安な想いをおさせして申し訳ありません。これまでの考え方では、『第2次リバウンド』『再リバウンド』の有無について、個人差、ということでうやむやにされてきたきらいがあったようですが、ここ半年ほどで、これについて、すっきりまとめられて来ています。そんななかで、私は、安易に『第2次』『再』という言の葉を遣ってしまいました。誠に申し訳ありませんんんん!私は、1年半、2ちゃんねる他、たくさんのサイトでいわゆる『脱ステ』された方のコメントを読み続けて来ました。そこには、例外なく「汁地獄」「落屑地獄」を経て、大きなアップダウンを繰り返しながら良くなっていかれる皆さんの姿が浮き彫りにされていました。そして、「治った~!」と嬉しい宣言をされ、皆に祝福され、『脱ステ』掲示板から卒業された方々が、また数ヵ月後に、「再リバウンドだ~(泣)」と、ヘコんで戻って来られるのでした。その方々の殆どが、私のように、ステ歴が長いひと。肝機能、腎機能がダメになっているひと、のように記憶しております。私自身、「再リバウンド」という言の葉をどんなに恐れていたことでしょう。でも、反面、脱ステ後のアップダウンの「ダウン」の激しいときを指して、「再リバウンド」「「第○次リバウンド」というのかも知れないとも感じていました。私の場合、『脱ステ』後、半年間は汁地獄。 それから落屑地獄。この2つの地獄の間を行ったり来たりしながら、黒い大きな鱗のような皮の落屑から、最後は白い粉状の皮へ。私の歩いた後がわかるほど、皮の道ができました。以降は、3歩進んで2歩下がるといった調子で、3歩進んで2歩下がる程度の私の「アップダウン」ならば、これぐらいの「ダウン」なら、これが「再リバウンド」なら、まだまだ大丈夫、私は頑張れる、と思っていました。しかし今回、「脱ステ」してもう少しで2年を迎えようという今になって、また脱ステ当初と全く同じ、浸出液+血膿地獄に引き戻りましたから、「ダウン」なんてものではありません。んで、「あぁ、これが【再リバウンド】だったのだ」、と悲嘆にくれたのです。でもこれは、間違いでした。ステロイド離脱後の皮膚の状態には、大きく分けて3つあるそうです。1)【 ステロイドのリバウンドによる皮膚の状態 】 ステロイドの長期連用を中止した時に現れる、急激かつ重篤な炎症。2)【 ステロイドの副作用の後遺症 】 ステロイドの副作用によって生じた、長期的または半永久的な皮膚の損傷や、 その他の身体機能(時に内臓や免疫系、ホルモンの機能も含む)の障害。3)【 単なるアトピーによる皮膚の状態 】 単なる、通常のアトピー性皮膚炎の症状。 明らかなステロイドの影響下におけるリバウンドは「2年がメド」というのが定説で、その後は、ステ使用歴によって、後遺症がどのくらい残るか、ということのようです。副腎抑制の内分泌異常に加えて、副腎の再生への時間を考慮すると、離脱後の肌の状態、体力に、個人差は無視できません。で、● 私の場合、厳密には、まだ丸2年を迎えていない。(1年10ヶ月)● 幾ら私の肌がアトピー体質で、時折、入院を勧められるほど悪化したことはあっても、 「脱ステ」直後のような状態(浸出液がぽたぽた流れ落ちる、異常な浮腫、 発熱、寒気、喉の渇き、落屑)には、これまでなったことはない。● 今回も、以前とは部位は違ってはいたが、それと全く同じ症状である。● 通算すれば30余年、体内外にステロイドを投与し続けて来ている。よって、私は(1)の「ダウン」最低状態、である、と思いました。大きく譲って(2)。 これは(3)ではあり得ない。と。『脱ステ』は、アトピー症状の対処療法として長期連用されたステロイドに依存してしまった自分の腎肝機能を取り戻し、自力で自分の皮膚の正常な状態を取り戻すためのはじめの一歩なんですよね。『脱ステ』して、ステロイド皮膚炎が完治したとしても、アトピー症状は残っている。アトピー症状は薬では治らない。生活習慣病と同義であるから、生活改善をしなければ治らない。んだから、日々の小さな摂生を積み重ね、試行錯誤しつつ、腸を整え、少しでも自分を望ましいコンディションに近づけ、IgE抗体を減らしていく。何のために『脱ステ』をしたのか。「喉元過ぎれば…」で、こうした不断の努力を怠り、なにかにつけ、日頃の不摂生を自分に言い訳をしているようでは、なかなか前には進めない、という当たり前のことに、今回、痛烈に反省致しました。 > りうりうさんは苦手な季節とかありました? > 得意な季節で悪化することとかあるのでしょうか? > あといったん完璧に治癒したこととかありました?私の苦手な季節は、やはり第一に夏。日光にやられ、砂塵の砂にやられ、自分の汗にやられます。次に春。 スギやヒノキの花粉にやられ、サクラ草等の花々にやられ。次に冬。 乾燥にやられます。 従って、得意な季節は秋です。脱ステ前には、秋を中心に、ステなしでも完璧に症状が出ない時期はありました。けれども、私が『脱ステ』を決心したのは秋。以後の季節は私には、全く関係ありませんでした。とにもかくにも壮絶にアップダウンを繰り返しながら、月単位で「先月よりはまし」といった感じで、良くなって行きました。そして、日単位(情けない)で、何日かは完璧に症状がなくなっていた日が続いてた矢先でしたです。ドラゴメスさんは、毎日、汗をかくようになさっておられますから、残存ステロイドを早く排出され、快復もお早いのでは、と拝察致します。脱ステ後、汗かきの私が一切汗をかけなくなって、怖かった時期がありました。人一倍暑がりだった私が、夏に寒い。 そして悪い患部は熱い。脱ステして1年経過して、ラーメンを食べ、初めて汗が出た日の嬉しさを忘れられません。ドラゴメスさんは、冬が良くないとの由。保湿剤依存にならないためにも、基本は、脱保湿、脱軟膏だと思います。自分自身の皮膚の正常な機能を取り戻すためですもんね。薄皮が張ったばかりの皮膚にとって、冬の乾燥はとても厳しい状況ですけれども、なるべく皮膚を日常の様々な刺激や乾燥に晒し、この刺激に対するバリア機能を取り戻していけるように。んでも、今年の冬は大事な時期ですよね。極力多用しないよう、ピンポイント的に保湿剤を使い、アレルゲンを体内に入れないよう、IgE抗体をこれ以上増やさないよう、工夫してみられると違って来られるのではないでしょうか。私が安易に「第2次リバウンド」と書いてしまったせいで、ご心配をおかけ致しました。本当にごめんなさい。【追記】 これをアップしようとアクセスしましたら、 ありのみさんからコメントをいただいておりました。 > 日本では「ステロイド・アレルギー」のせいで、 > 喘息発作のときのステロイドスプレーの普及が今でもすごく遅れています。 > 気管支拡張剤スプレーを常用した結果、働き盛りで急死された人何人か知ってます。 > ステロイドのスプレーを使っていたなら > 今でも元気でお仕事されていた方たちです。 これについては、私も思うことろが多々あります。 というのは、『 何故、ステロイド・アレルギーがこれほど深刻になったか 』 ということを踏まえたうえで、だからこそ、 未だに安易に何の説明もなく、ステロイドをアトピー患者に処方する 皮膚科医に対してのものなのですが。 また、おいおいに改めて書かせてくださいませ。 「再リバウンド」「第2次リバウンド」なる書き方は、 これは、私がとても安易でした。 皆さん、ごめんなさい。 arue718さん、プロトピックという文字を見て、悶々としておりました。 すぐに多羅尾先生のHPに飛んでいただき、本当に有難うございます☆☆
2005.07.16
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生来の肌の弱さから、今でいうアトピー症状で、母は、幼い私を抱えて途方にくれていた。あそこの皮膚科が良い、と聞けば、何時間掛かってもそこへ私を連れていき、ここの皮膚科が良い、と聞けば、また何時間かけてもそこへ私を連れて行く。幼稚園までは包帯だらけの私であったが、お蔭で幼稚園から大学までは、カサカサ体質、何にでもカブレやすい、汗疹や蚊に刺されると腫れあがり、時には膿んでしまう、台所用洗剤などが使えない、という程度で過ごせて来た。常にハンドクリームを塗っていなければ、指先からすぐにひび割れてきて、関節部分がぱっくりと口を開けてしまう。皮膚科から処方される塗り薬を片時も手放せず、異常を感じれば、すぐに塗っていた。 それを怠ると重篤な湿疹状態となり、膿んで、じくじくリンパ液がたれるという、悲惨な状態になるからである。(ここで、それは何故か、と気付かねばならなかった!)要は、水仕事等を一切せず、ハンドクリームをすりこみ、「お姫さま」でいれば、私の肌は安泰だった。しかし、結婚してから、そうは行かなくなった。台所用のゴム手袋やビニル手袋にもかぶれてしまうので、いつも綿100%の手袋をしてから、ゴム手袋をはめる。洗物はそれで良い、としても、料理を作るときにはそんな訳にいかない。野菜ものを洗い、ゆでこぼし、切ってお浸しにするだけでも手が腫れあがる。魚のシゴ、エビ殻のシゴ、、、1週間は腫れが引かない。台ふきを濯ぎ、テーブルを拭くにも、綿手袋+ビニール手袋。「 いいや、これくらい 」と素手でしようものなら、2時間後くらいから、指の間に水泡ができて痒くなったり、指先が割れ始め、関節部分に亀裂が入り始める。一時が万時こんな風で、「膠原病では?」という診断もなかにはあったが、だいたいが、「 主婦湿疹 」 「 接触性皮膚炎 」という診断を受け、ずっと皮膚科の薬を塗り続けて来た。しかし、この薬は、症状を抑える薬であって、「治す」薬ではない。使えば、魔法のように効いてくれて、楽になるのであるが、常用すれば、段々と、段々と効かなくなってきて、どんどん強い薬になってくる。 そして、当然、副作用、がある。この地に来て、激しいストレスと、農作業が加わり、私の肌は荒れていった。皮膚科から処方される薬をネットで調べると、副腎皮質ホルモン(ステロイド)の最強クラスのものだった。噂では、これは怖い薬なのだ、と知っていた。でも背に腹をかえられず、使って来ていた。「 毎日、ではないから、いいよね 」 「 少量だから、いいよね 」と自分に言い聞かせて。しかし、「最強」クラスのステロイドがあまり効かない、となってくると、私はどうなるのだ?愕然として、それからネットで随分と調べ、恐怖におののいた。自分で塗る回数を減らし、量を減らし、ワセリンを足して希釈した。「 毎日、ではないから、いいよね 」 「 少量だから、いいよね 」と呪文のように繰り返しながら。2年前、夫の両親の介護生活突入と同時に、自分の通院どころではなくなり、義母の退院を機会にと、ステロイド離脱をはかった。それから、あっという間にリバウンドがやってくる。下半身中心に、皮膚がなくなり、赤身の出たゾンビ状態で、リンパ液まみれ。包帯ではどうにもならないため、少年たちのときに活躍したドビー織の布オムツをガーゼがわりにあてて、テープで止める。すぐにぐっしょりと塗れ、日に何枚も取り替える。身体は灼熱感に覆われ、痒く、痛い。熱も40度を超える。ぞわぞわと全身の肉を蛆虫が這いまわり食いちぎっているような感触と、落雷のような、脳を突き破るような痒み。肉の底の骨が、痒い。もう、殺して、と転げまわりながら、泣く。真冬にアイスノンを2つ抱えて横になる。 布団から蒸気があがる。半年間、リンパ液と血液でドロドロ生活で、その後の半年は一進一退。1ヶ月単位で「良くなってる」感じに支えられ、シャンプーや石鹸とも縁を切り、塩浴・にがり・竹酢液療法で頑張って来た。そして先日まで。肌身につけるものを綿100%にしておくことと、未だ、ドビー織りのオムツをあててショーツを履いておく以外は、ほぼ日常生活に戻っていたのに。5月の粗大ゴミの日に、リンパ液と血液でドロドロになった汚い布団をやっと処分できて、ひとりで祝杯をあげたのに。先週から、日焼けの後が少し腫れ、痒くなっていた。1日の映画の日の夜、汗疹のようになった手の甲を掻いたら。皮が ずるっと むけた。!!!それから、あっという間に、首に、耳に、顔に。顔!!!ゾンビ状態で転げまわっていたときも、私がなんとか正気を保っていたのは、顔にだけは出なかったから。患部は、下半身中心に「隠れた」ところだったために、発熱と腫れが引いてからは、ガーゼや包帯代わりのドビー織のオムツを当てて、ミイラ状態でも外出できた。買い物にも出掛けられた。泊り込みの温泉治療にも出向くことができ、半年間休ませて貰った、PTAにも復帰することができた。ここへ来て、第2次リバウンド。 2年も経過していたのに。それも、ついに、顔。…やっぱりダメージでっかい。昨日は、左目は腫れた上下瞼のため、潰れてしまった。今日は、右目もヤバいです。このままだと なにも みえなく なっちゃう。、、ということで、こちらは、しばらくお休み致します。明日から、気持ち悪い愚痴しか書けそうにありませんから。今の私は、10日の一斉清掃ができないであろうことと、水曜のP連バレーの最後の練習、10日の試合。そろそろ印刷にかかる文化部の新聞が一番気がかり。でも、どうしようもない。痒くて痛くて、つゆだく状態の顔では、一歩も外へ出られません。左手もパンパンに腫れあがって、指があまり動きません。自宅で悶々としつつ、これらのことが終わったら、本格的にヘコんでいくような気が致します。だもんで、比較的、元気な時には、皆さんのブログを見せていただきに参ります。これからも、どうぞよろしく一緒に遊んで下さいね☆☆☆ふぁいと~~~>ぢぶん。
2005.07.04
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