りゅうちゃんミストラル

りゅうちゃんミストラル

2004.10.04
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カテゴリ: スポーツ
内容ではカタールのほうが押していた。
シュート数はカタールが上回っていたし、日本は「判定負け」になってもおかしくないくらいの劣勢だった。
しかし結果は日本が準決勝に進んだ。これがサッカーだ。

シンガポール国境に近いジョホールバール(マレーシア)でのアジアユース選手権準々決勝は、
日本が準決勝に進んで来年オランダで開催されるFIFA世界ユース選手権(20歳以下)出場を6大会連続で決めた。

試合は90分では勝負が決まらず、延長戦でも決まらず、PK戦(5-3)での決着だった。
キーパーの西川周作(大分ユース)は緊張感を切らさずよく耐えた。
PK戦でも3人目まで逆を取られていたが、4人目をよく止めた。
この日の勝利は守備の勝利だ。消耗戦をよく闘った。
ただ一瞬のために耐えるキーパーはヒーローになった。

ジョホールバールと言えば、97年のワールドカップ予選でイランとの死闘が思い出される。
暑くてサッカーの試合をするには過酷な条件だ。
私も97年実際ここに行き、暑さは体験済みだ。

だがこの日の若き日本代表も孤独ではなかった。
多くの日本人がラーキンスタジアムにつめかけていたからだ。
衛星中継でも幼い子どもたちの声援をマイクは拾っていた。
海外でサッカーを観戦する時、在留法人の日本への関心には驚かされる。
海外にいることで日本にいるとき以上に「日本人であること」を感じているのではないか?
頼もしい声援は選手の耳にも届いていることだろう。
若きサムライたちが「もうだめだ!」と走るのをやめそうになった時、声援は再び彼らを走らせるに違いない。

サッカーの試合は選手だけが闘っているわけではない。
97年のアジア第3代表決定戦(対イラン)でも延長戦前、選手だけでなくスタッフ全員が円陣を組んだ。
日本代表の栄養士をしていた女性がその様子を見ていると、選手たちから「君も来い!」と呼ばれた。
栄養士の女性は自分を指差して「私も?」と訊いたが、選手は「そうだ!」と彼女を再び呼んだ。
選手は彼女が円陣に参加するのを待っていた。
彼女が加わった円陣は感動的なシーンだった。

その後岡野のシュートが決まって日本は初のワールドカップ出場を決めた。
素晴らしい「総力戦」だった。

今大会、暑い中での連戦で疲れもあるだろう。
怪我や病気があるとも聞く。もちろん相手も強い。
以前なら実力差があったネパールでさえ、その差はなくなってきている。
かつては楽勝だったアジアの国相手にも、接戦が多くなってきていることはアジアのレベルが上がったということだ。
このことは喜んでもいい。
だがそれは同時に日本が苦戦する確率が上がることも意味している。

アジアユースで日本は過去一度も優勝したことはない。
ベスト4に入って世界への切符を日本はすでにつかんだ。
もう失うものは何もない。
次の試合は日韓戦。相手にとって不足はない。
今回の韓国はイラクに0-3で惨敗した後、イエメンに4-0で勝ったが、
タイと1-1で引き分け、D組2位で辛くも決勝トーナメント(ベスト8)に残った。
アジアサッカー連盟(AFC)のホームページは「韓国がベスト4に進みたいなら、根本的に変わる必要がある」と指摘した。(朝鮮日報の報道から)
このことから考えても日本にチャンスはある。
もうひとつの山は中国とシリア。イラクを破ったシリアは不気味だ。

試合後のインタビューで平山相太(筑波大)は日本の守備を称えていた。
今度は攻撃が守備をカバーしてほしい。
平山、カレン(磐田)、森本(東京V)とタレントが揃って注目されたFWがこのままで終わるわけがない。

準決勝の日韓戦は10月6日。注目しよう。
決勝は9日だそうだ。

場所はクアラルンプール近郊のチェラススタジアム。
私は今でもこのスタジアムを思い出すことができる。

ここはバルセロナオリンピック予選で1992年1月30日、
カタールと試合をしたスタジアムだ。
もう12年前のことだ。この試合も私は実際に観戦していた。
この最終戦を日本は0-1で負けた。

この試合でも日本人が多数応援にかけつけた。
日本人学校の生徒は初戦(中国戦)ではメンバーの名前も知らなくて、私に試合中でも多くの質問していた。
だが、最終戦にもなるとかなりサッカーと若き日本代表のことについては詳しくなっていった。


このバルセロナ予選では日本は一次予選の段階から苦戦が続いた。
今考えても選手は揃っていた。
キーパーに下川健一、ディフェンスに相馬直樹、小村徳男、
名塚善寛、 飯島寿久、 中盤に永山邦夫、原田武男、永井秀樹、
名良橋晃、澤登正朗(キャプテン)、名波浩
フォワードに神野卓哉、三浦文丈、藤吉信次がいた。
監督は山口芳忠。

一次予選、スラバヤでインドネシアに2-1で辛くも勝ち、香港では1-3で負けた。
その後台湾に連勝して日本でのホーム3連戦を勝って最終予選に進んだ。

「独立」という意味を持つムルデカスタジアム(クアラルンプール)が最終予選の場だった。
最終戦は各国が不利にならないように3会場で同時刻にキックオフした。


1992年1月19日の中国戦は原田(早稲田大)のミドルシュートが鋭く決まったが、その後逆転された。苦しいスタートだった。

第2戦のクウェート戦は1-1の引き分け。
小村のヘディングで先制したものの、追いつかれての引き分けは痛かった。
第3戦はバーレーン相手に日本の攻撃が爆発。6-1で勝った。
そして運命の第4戦。当時はライバルですらなかった韓国が相手だった。

韓国人にとってはクラマーは邪魔者だった。
韓国人ジャーナリストは「クラマーが韓国サッカーを壊した」と批判していた。韓国は決して万全ではなかったのだ。

この第4戦、日本は韓国に押されながらよく耐えていた。
もう引き分けかと思われた終了寸前にキムビョンスの当たり損ねのシュートが決まって日本は負けた。
日本から来ていた女性ファンは人目も気にせず泣いていた。
まだこの頃はサッカー観戦のために海外へ行くことが珍しい時代だった。
これは簡単なことだ。長い間同じチームを見ていることにより、
「最後まで観たい」という想いが強くなっていたのだ。
だから彼女は泣いた。私も泣いた。

この敗戦は事実上このチームの終わりを意味していた。
そのことが何より悲しかった。今でも思い出す敗戦だ。
キムビョンスはその後ひざを怪我して選手生命が危ぶまれたが、
何と来日してコスモ石油でプレーした。
日本でキムに会うことも、プレーを見ることになるとも思わなかった。
運命というものは恐ろしいものだ。

そして最終戦。日本はまだバルセロナ行きの可能性を残していたが、それはほとんど不可能に近かった。

バルセロナ予選でカタールは予選に参加した国の中で一位となり韓国とクウェートとともに本大会行きを決めた。
今回の若き日本代表はチェラススタジアムで新たな歴史を作ってほしい。

残念なのは準決勝の一試合、そして決勝と3位決定戦がチェラススタジアムで行われることだ。
(もうひとつの準決勝はイポーで行われる)
確かに私にとっては思いで深いスタジアムではあるが、
クアラルンプールには歴史的なムルデカスタジアムと巨大で美しい、アトランタオリンピックの最終予選が行われたシャーアラムスタジアムがある。
このどちらかで決勝をできなかったものかとも思う。

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最終更新日  2004.10.04 18:12:10
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