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この映画は、2000年前後、アメリカ系企業の侵略と支配にボリビアの市民が抵抗し勝利した「実話」に基づいて作られているようだ。だが、そういったドキュメンタリー性を超えて、あるひとつの卓越したアイデアを絡ませることによって近来まれにみる優れた映画になっている。劇場未公開映画だそうで、蠍座での公開が日本初公開。外国映画を観るときは原題に注意を払わなくてはいけない。適切なタイトルがつけられているかどうか、かなり問題のあるケースが散見される。この映画はスペイン・メキシコ合作映画であり、スペイン語でのタイトルを和訳しようと思ったがうまくいかない。スペイン語を英訳したタイトルはEVEN THE RAINであり、直訳すると「雨さえも」ということになるだろうか。映画を観たあとでタイトルを考えてみると、ザ・ウォーター・ウォーという「邦題」には問題がある。水戦争というタイトルは、この映画の内容に対してだけでなく、「雨水を使う権利」を守るために立ち上がった人たちを冒涜している。スペイン人映画スタッフがコロンブスをテーマにした映画の撮影のためにボリビアに入る。制作費節減のために原住民を雇う。たまたま、そこに民営化され水道料金が3倍になり、地域の伝統的な井戸を使った水利用も妨害するという、外国企業と自国政府が一体となった「生活破壊」事件が起きる。この事件に撮影隊も巻き込まれていくのだが、映画の内容とこの事件がオーバーラップしていくように作られているのがこの映画を成功させた卓越したアイデア。特に、反対運動のリーダーが制作中の映画の中でもたまたまスペインの植民地支配に抵抗して処刑される役なのが、500年前と現代が本質的に変わらない時代であることを端的に表しているようで衝撃的。占拠闘争や暴動に巻き込まれていく映画スタッフたちの描き方も秀逸だ。拝金思想どっぷりのプロデューサーやノンポリというより右翼的なアル中俳優がいざというとき腰が座っていたり、左翼インテリ的なスタッフが真っ先に逃げ出すというのは、実際によく見聞することだ。ただ、そうした価値逆転の面白さだけでなく、ある局面では英雄的になった人間も、別の局面では弱腰になるという、人間というもののもろさや弱さをしっかり見つめた作りになっている。ステレオタイプな人間がひとりもいないのがすばらしい。21世紀は水の時代と言われる。モンサントのような企業は、種子ビジネスから水利権ビジネスへと大きく進出し、水による世界支配を狙っている。イスラエルはヨルダン川西岸地区で水による支配を強めている。宣教師と軍隊による直接的な支配ではなく、企業とそのかいらいとなった政府によるソフトな搾取が新植民地主義でありグローバル資本主義の本質である。水資源に恵まれた日本にいてはなかなか理解も想像もしにくいが、「水」もまた植民地支配の道具に使われることを教えてくれる映画である。こうした非娯楽映画が黙々と作られているラテン文化圏には希望を感じる。
July 31, 2013
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January 24, 2021
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いろいろな世代の人と会って感じるのは、1955年より前に生まれた人と後で生まれた人では、はっきりと人間の感触がちがうということだ。そのことに気がついたのは30年ほど前のこと。その理由をずっと考え続けてきた。さしあたっての結論は「物心ついたときにテレビがあったかどうか」で人格が大きく変わる、というものである。白黒テレビの世帯普及率が8割に達したのは1963年ごろだから、1955年以前生まれの人の多くは、子どものころは家にテレビがなかったはずだ。1966年に発売されたカラーテレビの世帯普及率が8割を超えたのは1973年ごろである。1972年2月の「あさま山荘事件」を白黒画面で見た記憶があるから、家にカラーテレビが「来た」のは、その年の春だったと思う。ちょうど高校入学と同時にカラーテレビが来たことになる。高校に入学してまもない日、何気なくつけたテレビに出ている女性に魅了されてしまった。フジテレビでやっていた幼児番組「ママと遊ぼう ピンポンパン」の2代目おねえさん、石毛恭子さんである。いわゆる美人ではないが、笑顔や仕草がチャーミングで、この世にこれほど素晴らしい女性がいるだろうか、と思った。雷に打たれたようになり、ブラウン管の中の彼女にまさしく電撃的に恋をしたのだった。当時はビデオがなかったので、テレビはリアルタイムで見るしかなかった。朝の放送は学校があるので見られない。学校が終わるとまっすぐ帰って夕方の再放送を見るのが日課になった。「同志」も現れた。中学時代からの親友にこの番組のことを教えたら、ぼく以上の熱心なファンになったのだ。彼との会話の8割は、前日に見たおねえさんの動静についての論評になった。ある日、レコード店で「ピンポンパン」のLPを見つけた。そこには石毛恭子さんのプロフィールが書いてあった。出身大学から生年月日、いまでは考えられないが住所まで載っていた。狂喜しながらそのLPを手に入れたぼくは「同志」と話し合った。15歳の「少年」にまだ分別はなく、結論ははやい。東京へ行こう。行っておねえさんに会ってこよう。アルバイトでお金を作り、夏休みに入るとすぐ東京に向かった。当時、フジテレビは新宿にあった。市ヶ谷のユースに宿をとり、毎日、フジテレビに通った。入り口には警備員がいたが、一度もとがめられることはなかった。結論から言うと、たくさんの芸能人を見かけたのに、おねえさんに会うことはできなかった。なぜか、収録スタジオから外へ出ることがなかったからだ。それでも、収録が終わり、二重ドアになっているスタジオの一枚目のドアの外に、子どもたちを送って出てきたことが一度だけあった。厚い防音ドアの小さな窓越しとはいえ、かいま見たおねえさんは息をのむほどに美しかった。テレビの印象とは違って華奢に見えた。テレビではお茶目なキャラクターが愛らしかったが、目の前の彼女は上品で凛とした風格のあるレディに見えた。その日は「同志」と興奮して語り続けた。テレビで見る彼女は非常に身近な感じがしたが、間近で見た彼女は、自分たちと同じ世界に生きているとは思えないほど美しく、手の届かない存在であることを痛切に意識させられた。うれしさと悔しさが入り交じった複雑な感情で眠れない夜を過ごしたのをおぼえている。フジテレビ通いは3日で打ち切り、練馬の実家に向かった。お土産を置いてこようと思ったのである。母親とおぼしき人が出た。嫌な感じではなかったが、とりつく島がなかった。北海道から来た、と言うとたいていは珍しがってくれるものだが、お土産さえ受け取ってもらえず、すごすごと帰路についた。1970年代の高校生はそんなことではめげない。恭子おねえさんの誕生日が6月とわかったので、翌年、誕生日に届くようにスズランの花を送った。去年の夏は家にまでおしかけて失礼しました。フジテレビにも行きました。ドアの前にいたぼくたちを一瞬見てくれた気がするのですが、あの二人のうち背の低い方がぼくで、もうひとりは親友です。いつも番組を見て、歌はテープに録音して何度も聴いています。ぼくたちはクラシックが好きなのですが、クラシック以外で聴くのはおねえさんの歌だけです。アレンジが本格的なのでいつも感心しています。おねえさんは番組でフルートを吹いていましたね。ぼくたちもフルートを吹くのです。大学ではワンダーフォーゲル部に入っていたそうですが、ぼくも登山が好きで、中学のころは同好会に入っていました・・・そんな手紙を添えて、デパートからスズランの鉢植えを送ったのだった。一週間ほどして、ハガキの礼状が届いた。青いインクの万年筆でバランスよく書かれた、書道の素養があるにちがいないと思わせる美しさだった。文面も、テレビで見る彼女の人柄そのままの、優しく心のこもったものだった。しかし、嬉しい一方で距離も感じてしまった。というか、自分の子どもっぽさを感じてしまったのだ。16歳の少年にとって、25歳の女性の手紙は、その内容といい美しい字といい、<おとな>を強く感じさせるもので、自分がまだ子どもであることを否応なく意識させられたのだった。その時思ったことは今もよくおぼえている。よし、恭子おねえさんに会っても恥ずかしくないような人間になろう。立派なおとなになろう。そういう意味では、恭子おねえさんは、原点であり規範であるような存在といえるかもしれない。かなうことなら一度会って、自分が彼女に恥じないだけの一人前のおとなになれたかどうかを検証してみたいものだ。今年60歳になった彼女。あの愛くるしい笑顔は健在だろうか?
June 30, 2008
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