December 28, 2005
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今日は母が朝鮮にいたときの話を聞いた。

母が朝鮮にいたことがあるのを知ったのは中3のことだった。

何かの拍子に母の学歴を書いたものを見た。

そこには「京城女子師範卒」とあった。京城とはソウルのことである。

そのころは無知だったから、実は母は朝鮮人なのかもしれないと思った。

父は台湾生まれだったから、中国系なのかもしれないとも思った。

友人に両親の出身を話したら、何人かは去っていったという経験もある。

自分は日本人ではないのかもしれないと短い期間だが思ったのは自立心を養う上でよかった気がする。とはいえ、歴史を勉強して、1945年まで台湾も朝鮮も「日本」だったことを知って変な話だが安堵したものである。

母が朝鮮に渡ったのは19歳のころらしい。昭和19年というと、かなり敗戦色が濃くなってきたころだ。



敗戦後、植民地にいた日本人は、アメリカ軍の指導の下にかなり整然と帰国した。

大邱医学校の宮下医師とソウル大医学部の某医師が、GHQと交渉して朝鮮からの帰国民の防疫や健康管理に尽力。母はソウルでそれを手伝ったのち、プサンに移動したのだそうだ。無給で、衣食住が保証されるだけの4ヶ月だったという。


毎日、何百人もの引き揚げ者にDDTを振りかけたりしていたのだ。

朝鮮からの引き揚げ者、特にプサンから引き揚げた人の多くは母にDDTを噴霧されたはずだ。

悲惨だったのは旧満州からの引き揚げ者だったらしい。

女性は男装し、食うや食わずでソウルもしくはプサンまでたどり着いた人たちがほとんどで、みな顔は土気色だったという。

満州だか朝鮮で収容所生活を送り、命からがら帰国した郷里の同級生がいて、その同級生からは今年も年賀状が来て「同級生で生きているのは、ぼくとあなたの二人だけになりました」とあったという。

マコトという名のその小学校しか出ていない同級生は、戦後、岩手県警のトップになった。

帰郷したとき、ちょうど彼の母は畑に出ていた。顔をくしゃくしゃにし「マコトか、マコトか」と泣きながら走り寄ってきたという。

60年前のちょうど今ごろ、引き揚げ者が少なくなり、20歳の母は釜山発福岡行きの巡洋艦で日本に引き揚げてきた。

日本兵の中には、現地の女性と親しくなり、日本を捨てた人も少なくなかったようだ。






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最終更新日  February 6, 2010 01:41:34 AM
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