ワルディーの京都案内

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2015/08/01
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テーマ: 京都。(6132)
【京都検定】第8回 問題1 解答(1級過去問題レビュー)

■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載

◆は関連する「お勉強」

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【問題1】次の問いに答えなさい。
                                  (10問×2点=20点)

(1)長岡京から平安京への遷都事業において、初代造宮大夫となったのは誰か。


■藤原小黒麻呂 ◎

◆・山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設
 ・東西4.5km、南北5.2km
 ・唐の都長安城を意識して造られた
 ・日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく・・・・」という桓武天皇の勅語が残っている。





(2)平安時代に、織部司がおかれた地で織られ、現在の西陣織の基礎ともなった鎌倉時代から
  室町時代にかけての先染めの絹織物といえば何か。


■錦織 【正解】大宮絹

◆平安初期の律令制のもとでは,大蔵省に属した織部司(おりべのつかさ)が最高級の織物を生産して
 いた。しかし,律令体制の崩壊にともなって,平安末期あたりから朝廷は工房を維持することが
 難しくなってきた。そこで織工達は大舎人町に移り住み,宋の綾織技法を模倣した唐綾を,貴族の
 装飾用に製作しました。これが,民業による製織のはじまり。南北朝期に成立した『庭訓往来』
 (ていきんおうらい)からは,「大舎人綾」や「大宮絹」が京の名産として有名であったことが
 わかる。



(3)「小倉百人一首」で有名な大納言藤原公任の「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流
  れてなほ聞こえけれ」に詠まれた滝を何というか。


■名古曽の滝(名古曽滝) ◎

◆・平安時代初期の庭園
   ・桓武天皇の神泉苑
   ・嵯峨天皇の嵯峨院(現在の大覚寺)・朱雀院など天皇の離宮や御所

   ・これらは唐の禁苑がモデル
   ・大沢池は中国の洞庭湖をなぞらえた。
   ・名古曽滝は後宇多上皇の御所造営に伴って改修された。
 ・平安中期の庭園
   ・藤原良房邸に始まり

    藤原基経が創建しのちに堀河天皇の里内裏にもなった堀河院
    藤原頼通の高陽院
    この時期の庭園は「寝殿造庭園」儀式空間であるとともに名所の風景を写しこんだもの
    「源氏物語」などの文学や絵巻物にうかがうことができる。
   ・藤原頼通の息子 橘俊綱が「作庭記」を編纂




(4)藤原信頼や源義朝らが、後白河上皇の三条殿を焼いたことから勃発したとされる、一連の
  乱を何というか。


■保元の乱 【正解】平治の乱

◆保元の乱
平安時代末期1156年,皇位をめぐる争いと藤原氏内部の勢力争いとがむすびついておきた戦乱。
鳥羽法皇の死後,後白河天皇・藤原忠通の天皇方と,崇徳上皇・藤原頼長(忠通の弟)の上皇方との
争いがおきたが,どちらも源氏・平氏の武士を集めて京都市内でたたかった。
天皇方が夜襲によって勝利をおさめたが,この戦いで武士がその実力を示し,平清盛・源義朝らが
中央政界に進出するきっかけとなった。

◆平治の乱
平安時代末期1159。保元の乱のあと,平清盛と源義朝みなもとのよしともの勢力争いに院の近臣
らの争いがからんで戦乱となった。清盛が勝利をおさめ,義朝はころされ,その子頼朝は伊豆に
流されて源氏は力をうしない,平氏が政治の実権をにぎった。
平治の乱…源氏は平治で日々困苦(1159)




(5)天正19年(1591)、豊臣秀吉が建段を始めた京都を囲むための御土居は当時、何と祢され
  ていたか。

■京廻りの堤(京廻ノ堤) ◎

◆京の七口
御土居に出入口が7つであったともいわれるが、建造当時の出入口は『三藐院記』によると十口と
あり、また、現在では京の七口として数えられていない部分にも出入口があった。
「七」は数を示すのではなく、古代の日本の行政区画概念である「五畿七道」の中心にあり、
その「七道」すなわち地方諸国へつながっていることを表すというのがルーツであるとする説が
有力。
畿内五国:山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国
七道:東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道
代表的な京の七口:鞍馬口、大原口、荒神口、三条口(粟田口)、五条口(伏見口)
         竹田口、東寺口(鳥羽口)、丹波口、長坂口
『三藐院記』~近衛信尹(のぶただ)の日記




(6)徳川家康が豊臣家を滅ぼすために「大坂冬の陣」のロ火に利用したといわれる、方広寺の
  梵鐘(重文)に刻まれている8文字の字句は何か。


■豊国臣下 国家安康 【正解】君臣豊楽 国家安康

◆方広寺
・蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺の敷地に建てられた。
 佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転。
・秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。
 大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉
 の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五條大橋を六条坊門に移し京外への出口とすると
 ともに大仏への参詣の便とした。
・梵鐘の銘文は東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作
・東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したもの。




(7)大堰川や高瀬川の開削など、河川開発事業で京都の発展に大きく貢献し、嵐山の千光寺を
  建立した江戸初期の豪商は誰か。


■角倉了以 ◎

◆角倉了以
・安南国(ベトナム)との海外貿易で富を得る。
・高瀬川は方広寺大仏殿再建のために開削
・大悲閣(千光寺)は掘削作業の犠牲者を弔うために建てられた。自らも隠棲。
 そこの木造等身坐像は素庵作という
・常寂光寺の地は、了以らの寄進によるという。
・二尊院の総門は、伏見城の薬医門を了以が移築したという。了以の墓は二尊院にある。
・荒廃した豊臣秀次らの墓石を発掘し、堂宇を建立したのが瑞泉寺の始まりという
・京の三長者(江戸時代)~茶屋四郎次郎、角倉了以、後藤庄三郎



(8)岩倉具視や西郷隆盛などと共に王政復古のクーデターを断行した一人で、河原町御池の北
  東に銅像が立つ人物は誰か。


■桂小五郎(木戸孝允) ◎

◆桂小五郎
・明治維新三傑~大久保利通、西郷隆盛、桂小五郎
・吉田松蔭門下。坂本龍馬の尽力で、西郷隆盛らと薩長連合の盟約に成功。
・墓は松子とともに京都霊山護国神社。
・大和屋旅館(旧吉田屋)に隠れ部屋、地下道があったという。
 ここは立命館大学発祥の地でもある。



(9)明治2年(1869)、現在の京都御苑内にあった私邸に私塾立命館を開設し、のちに内閣総
  理大臣にもなった人物は誰か。


■西園寺公望 ◎

◆立命館大学、西園寺公望
・西園寺公望が京都御所内の私邸に「私塾立命館」を創設。
・それが閉鎖後、中川小十郎が京都法政学校を設立
 、設立当時は満足な校地も学舎も用意する余裕はなく、上京区東三本木通にあった料亭
 「清輝楼(旧・吉田屋)」の二階および三階部分を間借りして講義を行っていた。
・「清風荘」は西園寺公望の別邸。現在は京都大学が所有。
 小川治兵衛による日本庭園と「数寄屋造り」の主屋、茶室等の付属建物から成る。



(10)蹴上インクラインの下に南禅寺の通じるレンガ造りのトンネルがあるが、強度を増すた
  めに、らせん状にレンガを積んでいる。このトンネルを通称何というか。


■ねじりまんぼう(ねじりまんぼ)◎

◆琵琶湖疏水と河田小龍
・河田小龍は高知生まれの画家。
 狩野永岳に師事。二条城の襖絵を修理したという。
 北垣国道の招かれ、京都府事務取扱に就任、琵琶湖疏水工事進展の状況を詳細にスケッチ、
 「琵琶湖疏水図誌」を残した。




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推定得点 20点中 14点

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最終更新日  2018/05/07 02:44:42 AM
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