ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2020/02/06
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テーマ: 京都。(6437)
カテゴリ: 京都案内
【 2020年 2月6日(木)】

 「京の冬の旅」光照院勤務の10日目でした。朝起きたら、道路の向こうの屋根が真っ白、1センチ以下でしょうが、今シーズン初めて雪を見ました。今年は暖冬で、雪を見ないかもと思っていたので、ついに降ったかという感じです。私の自宅は標高の高いところなので、雪が積もりましたが、京都市内は積もっていませんでした。でも、ほぼ終日雪がチラホラして、ようやく冬という感じの中での光照院でした。この「冬旅」で初めてカイロが必要と感じた日でもありました。本堂前に梅の古木がありますが、薄紅の小さな花を咲かせてキレイです。

 新型肺炎でマスクをできるだけ着用するようにとの指示が出て2回目の光照院。今日は拝観者は少なかったです。少し前までは、平日でももっと多かったのですが。もともと中国人の方は全くというほど来ないところなので、中国人旅行客の減少は影響ないのですが、日本人も人混みを避けるでしょうから、日本人旅行客も減少しているのではないかと思います。

 また、今日マスクが配布されました。備蓄があったようです。我が家の在庫は底をつきかけ、店も品切れでどうしたものかと困っていたのですが、少なくとも「冬の旅」が終わるまでの枚数は対応できるようです。


 前回、南北朝に至る、「両党迭立」について記しました( こちら )。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。

 前回記したように、2つの家系から交互に天皇が即位する両統迭立が行われることとなりましたが、持明院統の花園天皇から譲位され徳治3年(1308)に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は両統迭立に対し、不満を持っていました。後醍醐天皇は両統迭立を承認する鎌倉幕府を打倒する計画を企てます。しかしこの討幕計画は正中元年(1324)に発覚し、後醍醐天皇の側近・日野資朝らが処分される事態となりました。

 後醍醐天皇はその後も討幕計画を企てますが、再び側近の密告によって発覚することなり、元弘元年(1331)後醍醐天皇は天皇即位の際に必要となる三種の神器とともに京都を脱出します。幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王(光厳天皇)を即位させます。そして後醍醐天皇は、幕府方に捕らえられ翌年、隠岐島へと流されることなりました。その後、名和長年ら名和一族の助けもあり元弘3年(1333)隠岐島を脱出します。



 こうして鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は自ら新政を開始します。これを「建武の新政」といいます。しかしその新政は革新的な政策ばかりであったため、公家や武士たちは新政に失望し、後醍醐天皇に代わる次の天皇を求めるようになりました。これと併行して、鎌倉幕府を共に滅ぼした足利尊氏も後醍醐天皇から離反することとなり、多くの武士たちが後醍醐天皇から離れていくこととなります。

 これに対し、後醍醐天皇は新田義貞や北畠顕家に足利尊氏の討伐を命じ、建武3年(1886)多々良浜の戦い、湊川の戦いが勃発しました。しかし、後醍醐天皇は足利尊氏方に押されることになり、後醍醐天皇は足利尊氏と和睦し、京都を脱出し現在の奈良県である吉野へと逃れました。和睦の際、後醍醐天皇は持っていた三種の神器を朝廷に返したとされています。

 こうして京都から後醍醐天皇が去ると足利尊氏は建武3年(1336)持明院統の光明天皇(北朝)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。

 続きます。








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最終更新日  2021/01/20 01:14:41 AMコメント(0) | コメントを書く


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