ケイサン9574さんへ

若冲ブームは、インターネットの発達時期に起こりました。カラフルで緻密で、訴求力があって、今でいう「インスタ映え」するので、ブームになったといえそうです。


(2021/05/29 05:24:21 PM)

ワルディーの京都案内

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2021/05/27
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テーマ: 京都。(6435)
カテゴリ: 若冲と応挙
【2021年5月27日(木)】

 今日は、もともとは修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセルとなり在宅でした。会の月イチの集まりに向けての準備に時間を費やしました。


 「奇想の画家 若冲と応挙」の13回目です。今日は老年期の若冲です。




2-8 老年期の若冲


 前々回、若冲の一番の代表作群 「動植綵絵」 について述べました。若冲55歳のとき、明和7年(1770)に父親の三十三回忌が営まれ、それまでに相国寺への「動植綵絵」全30幅の寄進が完了しました。若冲はその後も、ずっと作画三昧の生活を送ったであろうと信じられてきました。

 ところが、比較的最近、それを覆す発見がもたらされ、若冲研究者を驚かせました。滋賀大学の経済学者・ 宇佐美英樹 氏が1989年に 「京都錦高倉青物市場の公認を巡って」 という論文を書きました。 「京都錦小路青物市場記録」 (京都大学蔵)(右図)に記された、明和6年(1771)から安永3年(1774)にかけての錦高倉青物市場の動向について研究したものです。若冲がこの論文に登場するのですが、長らくこの論文は美術史研究者に知られることはなく、ようやく2008年になって大阪大学・ 奥平俊六

『若冲は枡源の主人は隠退していたが、高倉四条上ル町(帯屋町)の町年寄に就任していた。ライバルの五条問屋町市場が多額の冥加金を奉行所に納めるなどして働きかけ、錦高倉市場の営業停止を企んだ。ついに奉行所は錦高倉市場の市を停止させた。錦高倉市場は、若冲の住む帯屋町を含め4つの町の商人が商売をしていた。五条問屋町市場の使いが若冲のところに来て、もし帯屋町だけが五条から市の権利を借り受けるようにするなら世話をするという。若冲はこの取り崩し工作を拒絶し、4つの町全体での市場再開を模索する。錦高倉市場も冥加金を納めて一旦市場は再開するが、再び差し止めになる。若冲は精力的に活動をし、取引きする壬生村などの百姓に市場の必要性を訴えさせたり、自ら江戸表に訴える決意までしたりした。こういった努力が実を結び、錦高倉市場の再開が許された。五条問屋町市場との闘争が始まった後、解決までに足掛け4年の歳月を要した。』

 このように、若冲は枡源主人引退後も、社会に背を向けて絵を描くことだけに没頭したわけではなく、いざとなれば命もかえりみず、社会的な行動をしていたことが分かります。若冲56歳から59歳までの出来事でした。


 この騒動のさなか、若冲は安永3年(1773)の夏、58歳のとき、 萬福寺 住持の 伯珣照浩 (はくじゅんしょうこう)に会いにいっています。萬福寺は黄檗宗の大本山です。若冲と交流のあった重要人物の一人として後述する 売茶翁 も元黄檗宗の僧で、臨済宗の僧、 大典顕常 と交流がありました。黄檗宗も臨済宗も禅宗です。その禅宗繋がりがあって、若冲は伯珣照浩にまみえることができたのかもしれません。そのときの様子が. 伯珣照浩の 「革叟偈頌(かくそうげじゅ)」 (右図)の中に書かれています。次のような意味の文です。

「若冲が今年の夏、萬福寺に来て私は初めて若冲に会った。若冲は言う『絵画の仕事は既に達成した。自分はいつまでも世俗に混じって生きるべきではない』と。新しい名前と僧衣を与えて欲しいという。それゆえ革叟(かくそう)という僧号を与え、自分の衣を脱いで与えた。」

ここで「革叟」とは「革命的な老人」というような意味です。若冲は、僧号と僧衣を与えられ、事実上の出家をしたわけです。

 若冲が伯珣に出会った後に描いた 「猿猴摘桃図(えんこうできとうず)」 (下図)には伯珣の賛が入っています。






石峰寺 (せきほうじ)に 五百羅漢石像群 の奉納を始めます。石峰寺は黄檗宗の寺院ですので、前述の伯珣が間に入って実現したのでしょう。

 若冲自身が石像を彫ったわけではありません。若冲が下絵を描き、石工が彫るという分業です。石工に彫ってもらうためには、多額の費用が必要です。そこで若冲は、略筆の墨絵を多く描き、それで代金を得て、費用を捻出をしたのです。若冲の絵といえば「動植綵絵」のような細密な彩色画が有名ですが、軽妙な水墨略画もたくさん残っています。ただ若冲の落款がありながら、弟子の絵と思しき作品も混在しています。石像群を完成させるために、水墨画を量産する必要があったからでしょう。

 なぜ、この石像群が造られ始めたのが、安永5年(1776)頃と分かるのでしょうか。大典が若冲のことを記した、「藤景和画記」は若冲45歳のとき、「寿蔵碣銘」は若冲51歳のときに書かれています。もはやこれら2つの史料に頼ることはできません。

 実は、江戸時代にはすでに観光ガイドブック的な本が発刊されていました。その一つ 「拾遺都名所図圖會(しゅういみやこめいしょずえ)」 秋里籬島 {あきさとりとう]著)にこうあります。

「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、・・・ (中略)・・・近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」

安永は10年までですから、安永5年頃に、石像群が造られ始めたと特定できるわけです。
 その前年にやはり秋里籬島によって刊行された 「都名所圖會」 天明6年再版(下図)には、挿絵の中に五百羅漢が登場しています。






 明治時代の廃仏毀釈の影響などもあって、石像の数は少なくなっていますが、今も多くの石像群を拝観することが可能です。石峰寺は京阪電車龍谷大前深草駅の東方約400メートルにあります。五百羅漢像は、釈迦の一生を表わしています。以前は、写真撮影可能でしたが、今は禁止になっています。下の写真は、撮影可能だったときに撮ったものです。







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最終更新日  2021/06/03 12:24:28 PM
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Re:【若冲と応挙】#13 若冲人気(05/27)  
親知らずは、難航した時点で、抜くのが普通ですが、残す理由が有るのでしょうか。抜くのは、外科手術の一つでどこの歯科医でもできないようです。

若冲が、大衆的にブームへの火つけが、2000年の展覧会だったのは知りませんでした。
京都の多くの著名な寺院の襖絵や、掛軸にあちこち存在するから、力のあった絵師であった事は自明です。
大衆的な火つけで、広める例を、知るにつけ、まだまだ、埋もれた天才はいるのでしょうね。 (2021/05/29 01:59:33 PM)

Re[1]:【若冲と応挙】#13 若冲人気(05/27)  

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