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そんな米国式究極の詰め込み研究がどこまで有効か、ときに疑問をかんじる。
メキシコにスカラーシップで勉強にきたひと、いちおう、先輩ということにしておくが、メキシコ革命文学をテーマにしていたと思うが、例によって翌週までに、これまた山のような課題の著作を課される。
ニホンだったらメキシコ革命小説といったら、ペドロ・パラモとかマリアノ・アンスエラ、あるいはアグスティン・ジャニスあたりを思い浮かべるのがせいぜいだろうが、本場ではそのジャンルの厚さに仰天させられるものだ。
そのひと、ただただ圧倒されて仰向けになり天井を眺めながら「参ったなァ」とか呟いていたらしい。
でもほかにすることもなかったので、ある本の一部だけでも読んでクラスに出ていったらしい。
・・・・・
わたしもニホンにいるあいだ、ある地方都市の大きい図書館の開架を眺めていて、あっけにとられて、なにを読んでいいやらわからず、ことばを喪う。
終日、ホテルに引き籠って来る日も来る日も頁をめくるだけの暮らしを夢想する。
それでも、なにかのついでに、という心持で本を取り出してみることにする。
そういえば中島敦の「文字禍」をいまだに読んでいないことを思い出し、全集版をさがすが見当たらず、ちくまの文庫判の「ちくま日本文学」の中島敦の巻を取り出すと、きちんと載っている。
このシリーズ、ただのアンソロジーの一種と思って見くびってきたが、注意深く選択作品群にあたると、かなり考え抜かれた構成になっているし、値段もちょっと高めの文庫判という程度で、持っていても損はないなあ、と合点する。
でも都市の図書館では、学生さんではないのに一日中、図書館にこもっているようなひとも見かける。
ということで、図書館を出て、まだおなかがすいているわけではなかったが、コンビニにて125円の焼きそばサンドをほおばる、こんなものを食べるのはほとんど半世紀ぶりぐらいの印象。
(05 of February, 2009)