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五島観光協会さんの「キリシタン物語 奈留島、久賀島ツアー」に参加しました。集合場所の福江港に到着奈留島の江上天主堂久賀島の牢屋の窄記念教会・旧五輪教会を巡るツアーで地元ガイドが同行1回の参加者は最大定員8名~9名の為直ぐに予約が締め切られる人気ツアー10月1日の時点で10月分の半分以上が予約で満席福江港から奈留島から久賀島から福江港のコース奈留島へは大型フェリーで移動40分で奈留島へ到着、大型タクシーで移動最初の目的地は奈留島の世界遺産ガイダンスセンター潜伏キリシタン関連遺産の説明や江上天主堂に関する資料が展示されている江上天主堂の屋根に使われていた瓦奈留島の江上集落は18世紀から19世紀にかけて大村藩であった外海地区から移住してきた人々によって開拓された集落。(潜伏キリシタン)明治に入り信仰が自由になると集落全体でカトリックへ復帰しました。最初は小さな小屋でミサを行っていたが1918年にきびなご漁でためた資金で江上天主堂を建立しました。現在の江上集落の写真民家も学校などもなくなり江上天主堂のみ残されているかくれキリシタンとは明治時代に入り宗教の自由となった後も潜伏キリシタン時代に行ってきた信仰を続けた人々の事。自由化になった後もカトリックに復帰せず神社やお寺(仏教)を信仰する人も存在した地域によって信仰に使われた道具も違う信仰に使われた現存する信心具ガイダンスセンターから車で10分江上集落へ到着集落の跡は綺麗に整地されて住民の姿や民家は確認できない。奈留島に移住した人々はキリスト教の信仰の為に敢えて人が住みやすいエリアから離れた厳しい土地を探し開拓しました。今となっては不便な立地の為、住民は他の地域に移りました。天主堂だけが残され、週末のミサなどに集落の人々は集まるそうです。世界遺産の江上天主堂1873年の解禁後に集落の人々はカトリックに復帰1918年きびなご漁でたくわえた資金で天主堂が建てられる教会建設の名工、鉄川与助によって設計施工された写真には写っていないが多くの観光客が大型バスで訪問しています、島の貴重な観光資源。教会内の見学も可能、町の職員かボランティアの方が2名厳しく入館者をチェックこの日は雨だったので濡れたままの衣服を綺麗に拭いて入るように全員指導される湿気対策で高床式になっているのは大きな特徴建物の裏側十字架の飾り晴れ間には光の十字架が浮かぶ続いて奈留島から久賀島へチャーター船で移動久賀島の旧五輪教会に到着集落の波止場から上陸この集落も民家はわずかな漁業の街島の中心部から車で来れるような大きな道もない世界遺産の旧五輪教会堂国指定重要文化財旧五輪教会は久賀島の別地域にあった浜脇教会の建て替え時に五輪地区に譲りうけた教会明治14年に建てられ昭和6年に現在の場所に移された五輪地区の信仰のよりどころでしたが、老朽化の為昭和60年すぐ横に五輪教会が新築され役目を終えました。その時点で解体の話もありましたが、信者やそれ以外の多くの方々の協力により解体の危機を逃れ現在は五島市の所有に代わり建物の保存管理・一般公開されています。外から見ると木造の和風建築ですが内部は本格的な洋風教会の造り窓からは綺麗な入り江波が高い時は潮が入ってくるくらいの距離ゴシック風の祭壇聖ヨセフの像偶然か大きなヤモリが聖ヨセフの後ろに隣に建っている五輪教会現在信徒たちはこちらを使われている久賀島のキリシタンたちは明治の宗教自由化以降カトリックに復帰し各地で教会を建てた教会全景次の団体客がやはり海からボートで上陸タクシー(車)の合流ポイントまで歩きます山道を歩くとこ10分タクシーに合流久賀島の中心部にある牢屋の窄(殉教の地)にやってきました牢屋の跡明治元年に久賀島のキリシタン200名が捕らえられ12畳ほどの狭い牢に押し込められた。畳1枚の中に17人といゆ狭さで、横になる事も出来ず排泄もその場で行った想像を絶する惨状であった。キリシタンたちは8カ月の間閉じ込められ飢えや病い拷問の為39名の命が失われました。出獄後に3名を加えると42名のキリシタンが命を落とした場所。牢やは見晴らしの良い高台に建てられた対岸には仏教徒や神道の方々が住んでおり見世物にさらされていた。明治時代に入ってもキリシタンたちの自由はなかった。宗教の自由化は外国の圧力により明治6年にようやくキリスト教が解禁される。牢屋の窄記念教会殉教者を顕著する為に昭和44年に教会が建てられその後老朽化により現在の場所に昭和59年に建てられた教会の横の高台には牢やの監視所跡殉教者の石碑牢屋はこのような建物であった教会の下には無人販売所島特産の椿油と石に書かれた椿の絵久賀島から福江港に帰ります(定期船)定期船ですが下には海中が見えるようになってる(観光船を使用)4時間ぐらいのツアーでしたが内容が充実しています各教会は不便な場所にありますので個人手配で行く事は困難です、島在住のガイドさんも同行するので色んな情報を聞くこともでき貴重な体験でした。分かりやすい漫画がありました長崎県世界遺産課 資料参照カトリックのイエスズ会所属のザビエルが鹿児島に上陸全てはここから始まった。ザビエルは鹿児島・平戸・山口・京都・大分経由で布教活動実施。九州の有名なキリシタン大名この時代に4人の少年を天正遣欧使節団としてヨーロッパに派遣。帰国後に印刷機械や楽器など高度な文明、文化を伝え自らも司祭となり布教活動を行うが秀吉のキリスト教弾圧が始まる。キリシタン大名の許しを得て布教活動が活発になる秀吉による宣教師の追放令秀吉による長崎西坂での26人聖人殉教事件家康による禁教令と鎖国体制の確立潜伏キリシタン時代の活動幕府や地方の役所による取り調べもあった厳しい所ももちろんあったが、地方の役人も自分の任期中にキリシタンを検挙したくなかったので、「宗門心得違い」として抜け道を作って大事にならないようにした。大村藩から五島藩に多くの移住者(キリシタン)が移り潜伏活動を続けた。キリシタンだけの集落を作るため厳しい条件の土地を開墾し集落を形成した。明治に入り宣教師が再び入国多くの潜伏キリシタンがカトリックに復帰した明治に入ってもキリスト教は禁止されており各地でキリシタンへの弾圧が行われた。外国の圧力により明治6年にキリスト教は解禁される、これ以降各地で教会は建てられた。
2023.10.05
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五島 堂崎教会福江港のレンタカー屋さんで原付を借りて堂崎教会を目指します海沿いの162号線を通ったつもりが384号線を走っていましたのどかな風景が続く途中で間違いに気づき(どんどん渕)方面の細い道を通り堂崎教会に向かう昼でも暗い山道、対向車もなく寂しいどころか少し怖かったが、風景は綺麗戸岐大橋ここまでくると民家もある近畿大学の完全養殖マグロの生け簀がこの辺りにあるらしい。ごみ一つ落ちてない砂浜海岸線沿いに堂崎教会がありました堂崎教会1873年(明治6年)禁教の高札撤去後、フレノー師が来島し堂崎の周辺で五島初のクリスマスミサが捧げられた。1877年には司祭が常駐するようになり、堂崎は五島キリシタン復活後の重要拠点としての役割を果たした。1907年(明治40年)に現在の教会が建てられた聖ヨハネ五島日本26聖人の一人、五島のキリシタンの家に生まれ迫害は強まり長崎に移り12歳の時からセミナリヨやコレジオで学ぶ、スペイン人のモレホン神父に付いて大坂に行ったが、秀吉による逮捕命令が出たとき自ら申し出て神父の身代わりとなり長崎、西坂の地で処刑された、19歳の時。五島のキリスト教はザビエルが来日した1549年から17年後の1566年であった、ポルトガル人の宣教師で医師であったルイス・アルメイダと平戸生まれの日本人修道士ロレンソが五島で布教活動を行った堂崎教会のルルド潮風や台風にも耐える立派な造り内部ではヨハネ五島の遺骨西坂で殉教した26人の遺骨は宣教師によってマカオに送られたが、そこで国外追放になりマカオに渡ったモレホン神父が遺骨となったヨハネ五島と再会を果たした。1865年の信徒発見後、プティジャン神父がローマからの帰りにマカオにより聖骨から分骨して堂崎教会に納められている。教会の先には資料館も併設とにかく綺麗な海福江市内に帰ります遠くにみえるのは五島のシンボル「鬼岳」途中五島うどんの製造直売所も賑わってました。昼からは潜伏キリシタン関連遺産ツアーに参加します。(福江港発)
2023.09.06
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五島 JAごとう産直市この日の五島は雨のち曇り福江港の近く池田レンタカーさん島内観光にレンタカーを借りる事にしました料金表オーナーのおばあちゃんと娘さんが真心接客笑顔に癒されますサービスドリンクこの飲み切りサイズがありがたいその後荷物を預けたり、返却に寄る度に頂いた。バイクでのんびり観光に決定1日3300円(まだ新しい)最初に訪れたのはJAごとう産直市果菜類や果物の最盛期多くのお客さんで賑わっています地元の銘菓「かんころ餅」五島美豚(島そだち)五島牛古くから農耕用に牛が飼われていた五島海沿いに農場があり潮風にあたりながらミネラル豊富な飼料で育ったいます本土に向けての出荷も多く、五島では今も大きな産業の一つ新鮮なレバー、ご当地ならではこれは滞在中にどちらも食べなければSPF豚特定の病原菌を持たない豚お客さんには伝わらない、違う訴求の方が売れるのでは?最近若鶏より親鳥をよく食べている地物名産のお茶五島の焼酎(芋・麦)ワインも五島産日本最西端のワイナリー館内には農家レストランも併設五島牛焼肉定食がありますしかも900円激安価格その他のメニューは産直や農家は感じない豚も五島産なのか訴求していないのでわからない野菜バイキング付き五島牛の焼肉定食900円切り落とし肉ではあったがたっぷりの量筋っぽくない柔らかいお肉でした昨日地鶏もたべたので、鶏、牛クリア五島豚をどこかで食べなければ原付観光を続けます。
2023.09.02
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五島 福江島 焼き鳥 とりせんこの日の宿は「三国」さん受付はベトナム人留学生のアルバイトさんが担当コンパクトな部屋寝るだけなら十分シャンプーはこだわりの「TSUBAKI」?夕食は商店街の「とりせん」さん炭火焼き鳥のお店なぜか大将は常に背中を向けて焼いています(対面の意味があるのか)かなり広い厨房でいろんなメニューに対応良心的な価格ほとんどのお客さんが地元の人居酒屋メニューも充実五島うどんも有島の焼き鳥屋さんは刺し身も充実突き出しは烏賊煮美味しそうな焼き色の串1本からオーダー出来る椿のお皿も地元愛長寿の心得百歳でもまだまだ良い心得ですね女将さんのおすすめ地鶏の肝串たまにしか登場しない逸品だそうですこちらは地鶏のハツ(心臓)女将さんに焼いていただくこれがこの日一番の美味しい串女将さんには色々五島の事を教えていただいた。締めは「地獄炊きうどん」出汁玉子でいただくごちそうさまでした
2023.09.01
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五島市内観光歴史資料館から武家屋敷跡方面に散策福江城跡石垣は綺麗に保存されている一部に庭園がのこされており、天守部分は五島高校歴代藩主途中から五島性に変えている武家屋敷通り石垣や道幅は当時のままお城にも近く上級武士の館が並んでいた石垣の上には綺麗に丸石が積んである海岸から集めてきたのか?加工したのか?これらの石はすべて置いてあるだけ地震などすくないのか?屋敷は残っていないが、道に面した部分は整備されている。武家屋敷通りにある山本二三美術館山本二三さん1953年五島市出身東京の美術専門学校時代からアニメーションの背景画の仕事を始める。「天空の城ラピュタ」や「火垂るの墓」「もののけ姫」など美術監督として数々の名作に携わる。五島市ふるさと大使先日新聞を読んでいて驚いた8月19日に亡くなられました、享年70歳(美術館訪問は7月)資料館の中にある背景画はどれも圧巻館内で絵葉書を購入ばらも凧五島の伝統凧で子供の健康を願う美術館の全景絵五島らしい風景画二三雲も描かれているご冥福をお祈りいたします。
2023.08.25
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五島観光歴史資料館五島の商店街を歩いていたら陶器屋さん五島名物椿が入った陶器各種色鮮やかで目を引きます店主の方が奥から出てきて色々と説明していただきました・TVドラマで五島ロケ地になりドラマの中で 実際に使われた茶碗があり販売している その茶碗は五島在住の作家さんの作品 飾ってある写真がそのシーン、その前に あるのが使われた茶碗お店の奥まで案内され色々と器について教えていただいた柿右衛門(有田)の器(写し)メルカリなどでチェックして購入するそうです1時間ほど話し込む、勉強になった。後日茶碗と小皿(椿柄)を購入福江城の堀に建つ「五島観光歴史資料館」館内は五島の歴史と世界遺産にもなった潜伏キリシタンの展示があります。五島歴史年表・2万年前に人が暮らし始める・804年空海ら遣唐使船が渡唐(五島経由)・806年空海帰国、大宝寺を真言宗に改宗・1187年この地を治める五島家の祖、家盛が上陸・1540年明人「王直」来航、通商開始(唐人街、六角井戸、明人堂)・1566年キリスト教布教始まる・1614年キリスト教追放・1797年長崎大村外海地区から農民移住する(3000人)・1863年福江城完成(幕末に完成、10年後の明治5年に解体)・1868年久賀島、奥浦等でキリシタンが迫害される・1879年堂崎教会建立・1900年福江城本丸跡に建立五島中学校建立・2004年五島市発足江戸時代の福江の街並五島家は甲斐武田の家柄幕末に至るまで五島家が続いたので様々な品が残っている倭寇13世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸沿岸東アジア地域において活動した海賊、私貿易、商貿易を行った人たちの朝鮮人や中国人が付けた称呼。主に日本人が朝鮮、中国の沿岸を荒らした遣唐使日本が唐に派遣した使節渡った有名な人物、安倍仲麻呂、空海、最澄など唐からはみかんや薬、仏教の経典などが伝わった遣唐使のルート(五島経由)キリシタン関連資料構成遺産を時系列に並べた表1797年長崎の外海地区から3000人の農民が離島に移住し人が寄り付かない厳しい環境に集落を作るなどして信仰を守った(潜伏)1549年キリスト教伝来(鹿児島)大友宗麟、有馬晴信、大村純忠などのキリシタン大名こうした大名の領地では当然キリスト信仰が広まった大名たちは宣教師たちの繋がりにより南蛮貿易の拡大で武器や西洋の先進技術を手に入れた秀吉の伴天連追放令はあまり効果がなかった1597年長崎西坂での26聖人が処刑された家康の禁教令宣教師も国外へ追放したが国内のキリシタン、特に九州の長崎では大勢存在した。キリシタンへの迫害が決定的になる「島原の乱」死を恐れないキリシタンたちは幕府にとって恐怖であった。鎖国体制の確立基本的のオランダとの貿易のみ行ったオランダはキリスト教だがプロテスタント潜伏キリシタンの活動開始幕府からの取り締まりは厳しく踏絵など各地で行われたキリシタンが多かった地域宣教師がいない為独自の信仰が始まる長崎平戸には今も当時のままの信仰が伝わっている鮑の貝殻をマリア像に見立てて信仰自然の石や木なども信仰の対象物になった1797年長崎外海地区の農民3000人が五島の離島に移住この人々も潜伏キリシタン敢えて誰も開拓しなかった土地で集落を作った離島なので幕府の厳しい取り締まりは少ない人気のない所を開拓通常は仏教、神道を信仰各地域で独自の信仰文化が生まれた日本の開港により宣教師によって禁教令以降初めて建てられた教会1865年信徒発見200年以上にわたりキリシタンが潜伏していたことが世界中に伝わった。明治になっても禁教令は続いており信徒たちは再び悲劇の始まりとなった各地でキリシタンたちへの弾圧が続いた明治5年になり自由な信仰ができるようになる潜伏キリシタンから正式なカトリックに戻った人たち潜伏キリシタンの信仰を継続した人たち潜伏キリシタンから改宗した人たち昔はかくれキリシタンとして括られたいたが現在かくれキリシタンとは潜伏キリシタンの信仰形態を守り継続している人の事。城内の二之丸跡にある城山神社宮司を務めるのは第35代五島家当主五島典昭さん主祭神は保食神(うけもちのかみ)鳥居の「城山宮」の石碑がカーブしてます福江城(跡)は今でもご当主の個人所有の城続いて市内観光に行きます
2023.08.23
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長崎 五島列島 福江島明日は五島列島の福江島に行く予定この日の宿泊はグラバー園すぐのANAクラウンプラザホテル古い建物ですが大きい部屋もゆったりとしたつくりトイレ・バスも広め窓の外は大浦天主堂長崎市内最後の夜はホテル近くの「椿屋」さん五島うどんと居酒屋メニューがあるやはり五島ご当地の名物は「地獄炊きうどん」カンパチ刺身きびなご天締めは地獄炊きうどん「あごだしつゆ」と「玉子」で食べる五島の郷土料理翌朝五島の福江に向かいます長崎港福江訪問の目的①世界遺産の潜伏キリシタン関連施設訪問②五島のスーパーマーケット視察③福江島の歴史④福江(五島)グルメ⑤男はつらいよ(寅さん)ロケ地訪問わくわく乗船券を利用往復の運賃プラス100円で8000円のクーポン付(島での観光に使える)九州商船のジェットフォイル長崎・福江間を80分で結びます夏休みでほぼ満席あっという間に福江港に到着五島のシンボル「椿」わくわく乗船券で8000円のクーポンと福江島で宿泊すると日数×5000円のクーポンがさらにもらえます。2泊するので10000円つまり五島に観光に行くと8000円+宿泊日数×5000円という大変お得なキャンペーン中でした。福江港の様子福江市内(旧市街)を徒歩で観光します⑤⑥番の六角井戸と明人堂から最初にこの日のホテルに向かい荷物を預けます福江市の商店街大型のショッピング店舗は郊外にあるので懐かしい昭和感のあるお店が並ぶこの日の宿「上の家」さん誰もいなかったので荷物だけおいて出発後程電話しました城下町の名残の石垣上にのっている丸い石は置いているだけで固定されていない。カトリック「福江教会」五島には1566年イギリスの宣教師が入島宣教が始まる、1587年秀吉の伴天連追放令徳川幕府の禁教令により五島での信仰が表面的には消える。1914年堂崎小教区から独立して福江小教区として建立された。ルルドのマリア像六角井戸1540年中国から来た王直が通商を要求当時の領主がこの辺りに唐人街(中華街)を作り貿易が開始された。この井戸は中国式の井戸井戸の中まで六角形長崎県平戸でも同じ様な六角井戸があるどこも港町で中国との貿易があった町(訪問時撮影)唐人町にある明人堂(みんじんどう)当時の中国人たちが航海の安全を祈る場所として建立された。彼らは倭寇と呼ばれていたが、海賊行為だけでなく密貿易も行っていら。当時の船貿易商として活躍した王直当時の唐人町昼食は近くの「心誠」さん街一番の有名店刺身釜飯定食2000円具たくさんの釜飯、刺身も地物で鮮度良い開店と同時に満席になる人気店福江観光に続く
2023.08.20
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長崎市内観光浜屋百貨店創業1937年(昭和14年)の長崎唯一の老舗百貨店地方の百貨店が苦境に立たされている中、お客様で店内は賑わっていました。推定年商100億円(コロナ前実績)立地も良い、長崎市浜町にある「浜町アーケード」は長崎一と言われる繁華街、約700軒が集まる長崎最大の商店街の中心に位置している。2012年からは九州の地場百貨店同士で業務提携を実施し催事や商品開発、共同仕入れなど新たな協業の取り組みを実施。1階フロアーは今も化粧品先日訪問した愛媛松山の三越では1階を改装し地元の有名な飲食店を集めたフードコートを作るなど今までにない店舗造りを行っている。地下の食料品売り場競合であるスーパーマーケットとの差別化が図れる果物売り場、旬の果物の最高級品が品揃えされる。長崎和牛地元産のこだわり海に面している県の魚売り場は魚種の多くスーパーマーケット並の価格で販売地元専門店コーナーおむすび屋さんおかずが入っている弁当に注文後に作りたてのむすびが入る良いアイデア、弁当も安い大村寿司大村市に伝わる郷土料理室町時代から伝わる伝統料理2020年には「砂糖文化を広めた長崎街道(シュガーロード)」の構成文化財として日本遺産に登録された天ぷら専門店地元のお店でリーズナブルな価格創業140年の老舗地元のうなぎ専門店宮崎・鹿児島のうなぎを使用機械焼きの中国産でも1500円する時代国産の手焼きで3000円は特価全国展開されているRF1さん商品の盛り付けや見せ方(照明)など商品が売れるプロセスを細部まで徹底している企業ここまで出来ると全国制覇できるという事このフロアーで一番の明るさ、輝き放ってました床まで眩しい地元の名店「吉宗」さん角煮も真空パックで日持ちフードロス削減にも役立っている名物茶碗蒸しは家庭で作るキット商品茶碗蒸しは固形分が少なくスープに近い食感の茶碗蒸し、横には蒸し寿司地元の和菓子屋さん桃カステラが気になった次に向かったのは「坂本龍馬の亀山社中」街を見下ろす丘(山)の上にあるので浜屋からタクシーを利用長崎の街はこんな斜面に沿って住宅街が広がる年配の方には暮らし厳しい、途中で空き家が何軒もありました。亀山社中薩摩藩や長崎の豪商たちの援助で、坂本龍馬たちが結成した日本発の商社で後の海援隊です。坂本龍馬の服と靴(複製品)亀山社中①倒幕を目的に活動②グラバーたちから武器を購入販売③物資の輸送や航海訓練を実施④薩長同盟の締結に大きな役割果たす龍馬のピストル(複製)この場所の地名が「亀山」仲間を意味する「社中」を組み合わせた部屋の中には龍馬が背もたれに使用した柱があり(実物)撮影スポットになっている麓まで降りて唐寺「興福寺」1620年に建てられた日本最初の唐寺有名な隠元和尚江戸時代初期に中国より入国当時の中国における文化や文物を伝えた日本における煎茶道の開祖ともされるインゲン豆を中国から伝えたのも隠元和尚次に向かった西坂長崎駅から歩いて5分豊臣秀吉によってカトリック信者と宣教師26人が1597年京都から長崎まで護送されこの地で処刑された。1862年にローマ教皇は26人を聖人に列した。聖人とは生存中にキリストの模範に忠実し従いその教えを完全に実行した人の事、そのために命を捧げる殉教もその証明となる、現在世界中で約10000名認定されている。キリシタンが多かった長崎で処刑京都から長崎の間で改宗を宣言すれば助かったが彼らは最後までキリストに従った。26人の中には子供もローマ教皇の2人も来訪している世界に13億人以上いるカトリック信者の最高指導者がローマ教皇、色んな国の大統領や首相、独裁者より影響力がある。観光終了ホテルに向かいます
2023.08.13
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軍艦島クルーズホテルでの朝食は前日購入したカットフルーツ桃、西瓜、パイナップル、コーヒーゼリーどれも150円から200円良心的価格で美味しい軍艦島クルーズは周遊のクルーズは出来るが島に上陸するのは難易度が高い、軍艦島は元々岩礁に過ぎず外洋にさらされて常に波が高い状態の為、船が接岸出来ないらしい。上陸するには付近の波高が0.5m以下が条件因みに下の表は本日の長崎波高の状況です(8月5日)20分毎に状況が表示される。2m近く波がありとても上陸できない8月1日から4日までの各社の状況島の周遊はできていますが、上陸できていない軍艦島へのツアー会社は5社ほどありますが6月中旬から7月19日まで欠航や周遊クルーズのみです。7月20日に長崎入りして、もし上陸出来るならツアーに申し込みを行う予定でした。奇跡的に7月20日は1カ月ぶりに上陸できたようでしたその情報を得て、20日の夜から常に波の状況確認実施21日の朝には波が0.3mや計測不能(0m)の状態上陸出来る事を確信して21日の午後便を予約しました。下の表は各社7月の上陸率の様子、上陸できたのは6日間参加したのは高島海上交通さんのツアー他社比較で料金の安く、軍艦島だけでなく途中に高島にも寄港し高島資料館で軍艦島の丁寧な説明を受ける事が出来る。ブラックダイヤモンド号眺めの良い2階席がおすすめ特に向かって左側は軍艦島のベストショットが撮影できます。港出港すてすぐに世界遺産の三菱ジャイアントカンチレバークレーンコロナ渦では世間を賑わした豪華客船ダイヤモンドプリンセスが寄港中この巨大船もここ長崎で建造された三菱重工長崎造船所戦艦武蔵、夕顔丸、空母天城など明治から昭和時代の民間、海軍の生産拠点、現在も自衛隊艦を建造。世界遺産の占勝閣もこの辺りに建っている世界遺産三菱造船第三船渠NTTの船海底ケーブルを設置後日乗る長崎・五島を結ぶ高速船元三菱造船所跡、現在は他社に売却数年前から三菱は大型船の建造から事業撤退してそうです。スリーダイヤモンドのマークが消されている大型クレーン、ここでダイヤモンドプリンセス号も建造された。約20分でまず高島に到着南国らしいハイビスカス炭鉱資料館でガイドさんから軍艦島の説明を受けます海底炭鉱の様子真下も600mエレベータで下り、採掘区域まで台車移動、地下1000mに達した。気温30度、湿度95%劣悪な環境での仕事江戸時代にも石炭が見つかっていたが、本格的には1890年に三菱が経営権を確保し操業が開始された。最初は大きな岩礁に過ぎなかった住宅地も整備され始める2000人位が暮らしていたこの当時3000人が暮らしていた1960年最盛期の軍艦島では5000人が暮らしていたその後は石油にエネルギー源が代わり石炭産業は一気に衰退、1974年1月に閉山し4月には無人島になった。島の左右で住居区域と生産区域が分かれている命懸けの仕事給与も優遇され、テレビなど高価な電化製品も購入できた。世界一の人口密度となった軍艦島では屋上も有効活用(教育)した水や電気など離島ならの苦労はあったが景気は良かった為食料品、日用品は購入できた。映画館やパチンコ屋もあった貴重な水の配給最終的には他島から水道管が繋がる炭鉱の仕事は24時間稼働2交代、3交代制で住宅街が静かになる事はなかった昼夜問わず常に生活音が響いていた島だった。建築家や研究家はこの鉄筋のアパートが100年経過しどの様に崩壊していくか注目している。安定した水源確保は昭和32年になって人、石炭を運んだトロッコ階段は今でも遠くから見る事ができます住民同士の挨拶は「こんにちは」ではなく「ごあんぜんに」でした。命懸けの仕事であった(実際事故も多かった)現在ならば企業存続にかかわる大問題高島にある軍艦島の模型手前は校舎とグランド、奥に住宅街石炭の積み出し三菱の祖岩崎弥太郎高島を出港し10分軍艦島が見えてきました学校が見えます上層階は崩落してます病院もありました、驚くことにその当時に隔離病棟まで設置されていた。岸壁に近い建物は波避けにもなっていた台風事には島の中ほどまで波が届いたこの位置からが軍艦らしいベストショット釣り人も上陸料払っているのか?(310円)こちらでも釣り船の接岸上陸です遠くにみえるのは学校跡手前は石炭を積みだす場所岩礁の上に建つのは幹部社員の住居部屋も広く、各家庭に風呂場もあった。軍艦島は建物が世界遺産ではない(大正時代など比較的あたらしい為)護岸となっている部分が明治期のものでここが世界遺産煉瓦の建物跡白くなっているのは波をかぶり塩が付いている炭鉱作業の為エレベータに繋がる階段階段は今でも黒くなっているのが確認できる日本で最初の鉄筋コンクリート造り30号棟最近崩落のスピードが速くなっている(大正5年の建物)端島神社の祠約30分の上陸後長崎港に向けて帰りました海上から見たグラバー園の様子港近くの食堂ちゃんぽんやはり具たくさんのあっさり味軍艦島上陸ツアーおすすめです波の状況確認して直前予約がベスト
2023.08.06
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長崎歴史文化博物館 眼鏡橋お昼にトルコライス食べた後は市内散策最初に眼鏡橋この川にはたくさんの石橋がありますこの中島川沿いの散歩両サイドには飲食店お土産屋さんアイスクリーム屋台など土台が高い石橋増水に備えて敢えて高くしてある。長崎歴史文化博物館奉行所をイメージして造られた展示スペース広くテーマも色々なのでしっかり見るには時間かかる1549年カトリックの宣教師ザビエルの鹿児島上陸以降、九州にはキリスト教が広まった天正遣欧使節団日本の少年4人はヨーロッパに渡りローマではローマ教皇の謁見する伊東マンショの肖像画日本からは銅・銀や器などの工芸品が輸出された島原の乱これ以降キリスト禁教令と幕府による信者に対し弾圧が激しくなる同じキリスト教(プロテスタント)のオランダは幕府軍として原城を海上から砲弾で攻撃した。これ以降オランダは長崎出島で独占的な貿易が始まる。貴重な資料江戸時代の貿易体制薩摩藩(鹿児島)は琉球を通して貿易体制を確立(幕府には内密)この事が幕末に大きな力となる。海外から持ち込まれた貴重品の中には砂糖もあり長崎から江戸に向かう道のりをシュガーロードと呼ばれた。長崎にはカステラをはじめとするスイーツが当時から食べられていた。豊臣秀吉の伴天連追放令長崎の西坂では26人のキリシタンが処刑された(後日訪問)見せしめの為京都から長崎まで連れて行きキリシタンが多い長崎で処刑する26人は1862年にカトリックのローマ教皇ピウス9世により聖人に列聖された。日本にカトリックを広めたザビエルも聖人徳川幕府と禁教令島原の乱以降、さらにキリシタンへの取り調べ(踏絵)など厳しくなる。禁教令の高札潜伏とかくれキリシタンの違い不思議な事に明治7年に禁教令が撤廃された後潜伏キリシタンの一部には仏教や神道へ改宗する人もいた。潜伏キリシタンがもっていた絵聖母マリアが描かれている明治になってもキリシタンへの弾圧が続いた五島列島の久賀島にある「牢屋の窄」では42人が亡くなった。(後日訪問)信徒発見の奇跡かくれキリシタンと潜伏キリシタン平戸地方の一部では今でもかくれキリシタンの信仰が続いている。大浦天主堂は世界遺産茶碗蒸し、蒸し寿司で有名な吉宗さん(ヨッソーと読む)暖簾をくぐると番頭さんが待機名前を告げると拍子木を打ってくれます2階の大広間に通されました他の椅子席などもあり江戸時代から続くお店150年以上の歴史基本の茶碗蒸し卓袱料理の各種本日は卓袱料理のコース最初は吸い物からスタート十六寸煮豆(金箔付き)酢の物焼き物、揚物かわいい鮑鱧湯引きお造り5点盛り和洋中の折衷料理器も昔風をあえて使用している専門店では円卓で提供される角煮(甘さ控えめでとろとろ)名物の茶碗蒸しと蒸し寿司デザートのオレンジ水菓子(ぜんざい)茶碗蒸しと卓袱料理の名物を同時に食べる事ができるお店食事する回数が限られる旅行者にはありがたいコースごちそうさまでした。帰り道10月に行われる長崎くんちの練習風景諏訪神社のお祭り7月から練習開始、見た目でも和風だけでなく中国などの影響を受けている事がわかる唐人船の曳物ホテルに飾られている龍これも祭りで使用するくんちの語源は祭りの時期が9月9日「くにち」が「くんち」なった説が有名明日は軍艦島クルーズの予定
2023.08.03
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オランダ坂・フルーツポンチグラバー園からの帰りは園の一番上の出口から出ますグラバースカイロードを通り石橋(電停)に抜けますスカイロードは無料のエレベーターなどに乗り下だる事が出来便利で景色も良いのでおすすめ石橋電停の所で果物屋さん発見今どきめずらしい果物専門店カットフルーツコーナー一番人気のフルーツポンチ新鮮な果物を使用したシロップ漬け寒天を使った自家製ゼリーこのボリュームで350円他のカットフルーツも150円や200円と安い近所の方々が買いに来られます(スーパーで買うより断然安く新鮮)お店の前のテーブルでいただきました果物屋さんの前オランダ坂通りに入ります中国文化の入った建物が多く見られます近くにはキリスト教会もある懐かしい昭和時代の銭湯今も営業中?オランダ坂日本三大がっかり名所として逆に有名たしかに他の観光客は見かけなかった。昔は外国の領事館などが立ち並んだ通り海星高校もこの通り沿いカトリック系の学校日本の道100選にも選ばれた日本に最初に入ったのはザビエルなのでカトリックが広まったが、その後オランダなどプロテスタントも日本に入り広まる。日本人は今も昔もあまり抵抗なく宗教を受け入れた。明治や立教もプロテスタント系の学校ですが入学者の何%が意識して入学するのか?オランダ坂通りに面している活水女子大学はプロテスタント系ここでオランダ坂は終わり観光名所とはいかないが歴史を調べれば面白い通り長崎市役所の横「松翁軒」長崎では歴史ある有名なカステラ製造販売店五三焼き通常のカステラより高級バージョンらしい玉子、砂糖を多く使用しコク深くしっとり仕上げ地域クーポン券で購入(長崎は7月21日まで発券)長崎駅の電車で戻りました駅前から駅や電車乗り場へは歩道橋でしか方法がない、エスカレーターなどもない(一部ある)ので不便右は海岸線、左は市役所方面この日のホテルセントラルヒル長崎丘の上のホテルでも眺めは良くない長崎駅には近いが、坂道あり市内中心部土佐藩の会社「土佐商会」三菱を作る岩崎弥太郎の前身会社この地から三菱が始まったこの当時から現在まで日本有数の会社一番賑わっていた商店街アーケードになっており、両サイドのお店からは冷房が外にまで排出され涼しい。お昼はトルコライスで有名な「ツル茶ん」メニュー表かなり強気の価格設定(観光客価格)周りのお客さん全員観光客でしたミルクセーキも有名芸能人のサインで一杯トルコライス1580円美味しいけど高い気がするお店の外には石碑中華民国を建立した孫文も長崎を訪れた山手のある八坂神社御祭神はスサノオノミコト近くには崇福寺中国系のお寺長崎は和洋中折衷の街和寺、中華寺、神社、教会などが並んで建っている中にも立派な建物(朱色)が並ぶ崇福寺の近くとんかつ屋さんがオープンされていますとんかつも2000円代の時代物価が上がったのか、世界と比較して低すぎたのか?浜勝のお店こちらにはとんかつはなく卓袱料理を中心とした高級料理店近くには浜勝の本店この地から全国に広がった残念ながらこのお店は閉店されます創業店舗が無くなるのは寂しいちなみにこのお店の前に長崎来る度に通っている居酒屋さんがあります。市内観光続く
2023.08.03
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大浦天主堂・グラバー園前日の宿ホテルモントレ長崎観光に向かいますホテルから歩いて3分電停大浦天主堂前長崎を歩いているとこのような石碑がたくさんあるこの辺りは外国人居留地であった。後ろはANAクラウンホテルこの坂を登れば大浦天主堂・グラバー園世界遺産の大浦天主堂1864年幕末に外国人居留地であったこの地にフランス人の為に教会が建てられた。1865年に日本人の潜伏キリシタンが聖堂内で神父に「ワタシノムネアナタトオナジ」の告白を受け徳川幕府の禁教令から1639年の宣教師追放され200年以上日本にはキリスト信仰が途絶えたと思っていた宣教師からは「信徒発見の奇跡」として世界中に伝わった。禁教令の撤廃は1873年(明治6年)幕末から明治初期にかけてキリシタンの人々は再び苦難の時となる長崎県には①「明治日本の産業革命遺産・製鉄・製鋼・造船・石炭産業」②「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の2つの世界遺産群があります。大浦天主堂の隣にある大浦教会大浦天主堂の横にはグラバー園エスカレーターで丘の上まで上がります三菱の造船所が今も稼働、ここにも世界遺産が多くあります、三菱の歴史もここ長崎から始まった。明治初期の長崎港日本にやってきたトーマス・グラバー最も有名になった(イギリス人)武器商人として幕末の日本で活躍(大儲け)明治以降も日本の近代化に大きな役割を果たした。三菱とも関係も深く、炭鉱やキリンビールなどの経営にも関わった。高知県安芸市出身三菱の創始者「岩崎弥太郎」甲斐武田家の末裔と伝えられ、先祖が四国に島流し(政治犯)になり、安芸では安芸氏や長宗我部氏、山内氏に仕えた。明治4年(1871年)に九十九商会(三菱商会)の前身会社の経営者となる、2021年は創業150周年として三菱商事等グループの主要企業では様々な取り組みされた。キリンビールは三菱系企業ちなみに小岩井乳業も三菱系の会社世界遺産今も残る三菱長崎造船所「ジャイアント・カンチレバークレーン」明治42年に建造された電動クレーン世界遺産三菱造船所第三船渠運河の様に海水を入れて進水する世界遺産三菱長崎造船所占勝閣三菱所有の貴賓館、1904年に造船所長の邸宅として建設されたが邸宅としたは使用されず英国人建築家コンドルの弟子である曾根達蔵が設計現在も三菱の祝賀会や接待に使用される(非公開)三菱の社員も普段は入る事が出来ないが定年を迎えた社員は占勝閣に招待されるようですウォーカー住宅明治31年にウォーカー商会を建ち揚げ様々な商売を行った贅を尽くしたバンザイ飲料の立ち上げ成功を収めた日本人が起こした最初の西洋料理店「自由亭」日本で最初に西洋料理店を立ち上げた草野丈吉さん長崎にも存在したフリーメイソンフリーメイソンのマークメインのグラバー邸日本に存在する最古の木造洋館水栓トイレ、上に水をためるタンクがある角はシャワースペース?トイレ②男性用明治時代にこんな便器があったのかこれも輸入品?立派な厨房豪華な料理は使用人が担当した外には馬小屋が来客用の広い食堂家族用は別の部屋温室長州ファイブの面々もグラバーとは親交があった伊藤博文はグラバー邸を何度も訪ねた。イギリスへの密航もグラバーの助けがあったとされるグラバーの家系ツルさん方の子孫は今も健在景色(対岸の世界遺産見える)が良い現在でも通用する立派な邸宅は必見です。市内中心部に移動します
2023.08.01
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仕事終わり、そのまま広島駅へ長崎に向かいます、博多まで新幹線博多からは高速バスで長崎へ今回の旅の目的①グルメ(土地の物)②歴史(貿易、宗教、食文化など)③量販店の視察1時間チョットで博多に到着こんな売り場を見ると博多に来た実感わきますいろんなお土産ありますがこれが一番喜ばれる「博多通りもん」博多駅で夕食もつ鍋にしました駅地下直結のお店もつ鍋「一慶」さん一度西中州のお店に行った事があり好印象だった為このお店に決定炙りもつ鍋を注文いつもしょうゆなので今回は味噌味一品料理も充実必須アイテム「酢もつ」と白菜漬け明太子炙りもつ鍋みそ味テーブルのコンロで煮込みます炙ったホルモンは香ばしく旨み増す感じ色んな部位が入っていました味噌より醤油味の方が好み博多からはバスで長崎へ地下道直結でバスターミナルまで約2時間で博多長崎間を結びます料金は2900円だいたいJR料金の半額程度22時20分長崎駅前到着充電差し込み口やWIFIもあり快適電車でホテルまで向かいます長崎の路面電車は乗り換えが少し面倒だいぶ後に気付いたが市内移動はバスの方がかなり便利で快適でした。便も多いので待ち時間がほぼなく、席に座ることもできる。電車より目的地近くまで行くことができるなどまたほとんどの車両は1両編成なのでピーク時には満員状態が続く。長崎最初のグルメはちゃんぽん繁華街中心部にある「思案橋ラーメン」さん地元の人に愛されているお店で有名人も来店される為、壁には沢山のサイン特製ちゃんぽん1000円少し太目の丸麺ちゃんぽん独特の食感豚骨ベースですが魚介や野菜など見た目より凄くあっさりしたちゃんぽんです。具が多い為麺は少し少な目ですが全体のバランスは丁度良い量です。宿泊したホテルモントレ長崎グラバー園などに近く観光に便利繁華街には少し遠い(歩いて10分)コンビニは近くにある、五島うどんの居酒屋さんがありました。リゾートタイプのホテル部屋は広いアメニティも充実中庭もありヨーロッパ辺りのホテルをイメージか?今回は朝食を付けなかったが、このホテルグループの朝食はレベルが高い食べる物の質や種類も豊富、従業員の接客も一流です。小さな教会(風)もあり挙式もできるようです床も石畳み風になっており小さな所もでこだわったホテルです。グラバー園に向かいます
2023.07.30
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長崎 平戸 生月島平戸市内中心部から生月島に向かいます1550年にザビエルが平戸で布教活動を行いますその後ここ生月島にもキリスト教が広まり住民の大多数がキリスト教に改宗していきますその後の禁教令で生月島は殉教の島となった市内から車で30分生月島博物館「島の館」隠れキリシタンの歴史とこの地域で盛んであった捕鯨や漁業についての博物館捕鯨の解体作業縄文時代からつづいている日本捕鯨の最大の特徴は全ての部位を使い切り無駄にしない事。他国の捕鯨は油だけ採取して肉の部位は捨てる国がほとんどだった。世界で捕鯨が行われていて採取されたのがクジラの肉ではなくこの鯨油鯨の生殖器(哺乳類最大サイズ)博物館2階が隠れキリシタンに関する展示隠れキリシタンとは禁教時代に信仰を密かに続けた人を「潜伏キリシタン」禁教が解かれた後もそれまでの信仰のしかたを継承した人たちを「隠れキリシタン」豊臣秀吉の伴天連追放により一時的に宣教師がこの生月島にあつまる。コレジオ、セミナリオもこの島に移った。コレジオ・セミナリオとは 宣教師がカトリック教会の司祭を教育する学校 セミナリオは10歳から18歳の中等教育機関 コレジオは優秀な学生が入学対象になった大学キリシタン禁令の高札1868年洗礼の儀式儀式に使う水は近くにある中江ノ島(無人島)から水を集める中江ノ島でのお水取隠れキリシタン信者の家には色んな神が祀られていた仏壇や神棚も置かれていたがほとんどの家は納戸にキリストの絵や聖水の瓶などを隠し密かにオラジョを唱えて信仰を続けたちょんまげ姿の神様も納戸にあった事から納戸神とも呼ばれた平戸の聖地(世界遺産)殉教地・ガスパル様ガスパルとはこの地の代官 西玄可の洗礼名この地で殉教した遠くに見える島が中江ノ島ガスパル様の記念碑生月島の山田教会本体はレンガ造りで入口のみ木造の珍しい教会長崎26聖人トマス西の記念碑もある生月島で昼食てらだ食堂さん長崎の食堂メニュー皿うどん750円野菜をはじめ具材多め麺はもっちり魚介の出汁が良く効いて旨い平戸島に戻り春日集落この地域も隠れキリシタン文化が残る貴重な所年々後継者も少なくなりキリシタンの習慣が残る地域が激減しています。丸尾山かつては頂上に十字架が立っていた山今は石祠があります。棚田の風景は何百年も変わらない綺麗な風景平戸瀬戸市場砂糖も海外からの貿易でえた商品カスドースはカステラのシロップ漬けのような甘いお菓子一口食べるとシロップが口に溶け出す感じの甘い甘い食べ物長崎名物うちわえび可食部は少ないですが伊勢海老よりも美味しいと評判、珍しい亀の手もありました平戸名物ひらめ魚種は多めの売り場ですが値段は普通のスーパーで買う値段より高めの設定、観光客価格、鮮度は良い平戸の旅は終わり福岡に向かいます
2021.04.25
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平戸 オランダ商館と街歩き平戸港から徒歩5分「平戸オランダ商館」1609年に設置される、その後貿易額も増え、石造りの倉庫を建設する事になり、その中で最大の建築物が1639年建築の石蔵倉庫。その倉庫が再現されています1609年に初めてオランダの船が平戸に来航平戸の松浦家や徳川家康と謁見して貿易の許可を得る。徳川家康の朱印状オランダの船に対しての寄港許可証1700年ごろの世界地図松浦家所蔵品1640年完成間もない倉庫の破壊が命令される倉庫に写真のように西暦年号が使用されていた為また当時は「島原の乱」1637年の後であり幕府も神経をとがらせていた。その後はポルトガルとの貿易の拠点であった長崎の出島へと移っていく。当時のヨーロッパ人の服装を日本人が描いた物アジアの主要都市には各国の商館があった問題の西暦の入ったオランダ東インド会社のマークオランダ埠頭荷物の積み下ろしを行っていた場所奥の白い建物が倉庫オランダ井戸大小2つの井戸があり水汲み用と調理用に分けられていたオランダ塀商館の敷地と街家を隔てる30mの塀で防犯・防災などの目的で造られた当時のままの姿で残る貴重な資料フランシスコ・ザビエル記念碑オランダ商館から丘を登った所にあるザビエルは鹿児島に上陸後、ポルトガル船が平戸に来航したことを聞き平戸に向かいます1550年に平戸に到着したザビエルは20日間という短い滞在の間にも領主の許可を得て布教活動を開始数百人の信者を得る、合計で3度平戸を訪れている。ザビエルの視線の先はエルサレムを向いている三浦按針の墓ザビエル記念碑からさらに登る事10分の所にあります三浦按針は初めて日本に来たイギリス人ウイリアム・アダムスの事を言う、徳川家康に外交顧問として重用された。1620年平戸で病死する。平戸の街が一望できるスポット全て徒歩で街歩き観光ができる範囲に全てあります港の横にある駐車場は2時間無料なのでここに車を置いて街歩きが出来ます。松浦資料博物館平戸藩主松浦家の所蔵品を展示六角井戸日本式でないので中国式が伝来されたのではないかと言われている巨大蘇鉄樹齢400年以上江戸時代から平戸を見守っている平戸ザビエル記念教会昭和6年に建築された教会現在は残念ながら拝観できないザビエル像平戸には日本滞在中に三回訪れた有名なカメラスポット教会とお寺が重なっている平戸城松浦家の居城として1704年に築城天守閣からの眺めは絶景城から平戸の街並み平戸 幸橋(さいわいばし)1702年にオランダ商館の建築に携わった石工から伝授された技法を用いられた事からオランダ橋とも言われる。平戸から車で10分上神崎教会平戸にはたくさんの教会があり地区毎に一つはあります、お寺の数より多い現在コロナの為中は拝観できないこの日お世話になるホテルホテル 彩陽さん昭和の旅館風和室は今となっては貴重な部屋温泉の大浴場もあり部屋からは平戸城や海まで見えます夕食はもちろんチャンポン平戸はあご出汁チャンポンが名物らしいあごだしチャンポン850円これだけで1日分の野菜が摂れます麺はつるつるの太麺で量も多い250g以上あご出汁スープはあっさり上品普段あまりチャンポン食べない人はやはりベーシックながっつり豚骨スープがおすすめホテルに帰って晩酌セット旬鮮館の刺身持ち帰り500円スーパーエレナで購入した丼398円茶碗の中身は白ワインごちそうさまでした。
2021.04.24
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平戸市 旬鮮館長崎市内から平戸に向けて移動します現在長崎駅は改装中のためホームまでかなり距離がありますバス移動も考えましたが、丁度良い時刻がなかったので今回は電車で佐世保まで移動して佐世保からはレンタカーで平戸に向かいます電車内はカラフルで明るく色んなタイプの席がある途中の駅で20分の停車車掌さんが外にいたので色々と質問別の列車との連絡や連結で停まっているのですかの問いに対して、この駅では何もなくただ停まっているだけとの事、理由はわからないらしい。ただし佐世保駅に近ずくと他の路線と合流するのでその調整ではないか?列車の運行時刻を決める時には最優先は特急次に快速、次に普通列車や貨物列車、臨時列車の事まで考慮して決める為にこのような調整の時間が発生する。急ぐなら特急に乗れと言うこと写真の列車は珍しいディーゼル列車、煙を上げています、もう少しで引退するようで鉄道ファンの方が大勢写真を撮りに来られるそうです。途中にあるハウステンボス駅も通貨1時間30分くらいで佐世保に到着レンタカーで平戸に向います、明日の夕方に戻ってくるスケジュール。平戸大橋を渡ると平戸市内佐世保から約1時間平戸城もはっきり見える小さな港町昼時なのでまず向かったのはこちらの地元平戸漁港さんが運営している「旬鮮館」観光センターで案内パンフレットを探していると複数の観光客の方がセンターの職員におすすめのレストランを聞いていましたが、職員の方も全員が「旬鮮館」推しでした。平戸は平目を名物にしている街運営は昼の間だけで漁師の方が魚を捌いて刺身にして盛り付けて漁師の女将さん達がご飯と味噌汁をセットして提供する感じ手書きメニューが逆に美味しそう獲れたての活きた魚をその場で調理します厨房(作業場?)で刺身に加工中メニュー写真も素人感が出ているそれも良い天然平目は1800円水槽にあった貝や魚は追加でオーダーできます長崎刺身盛り定食800円これ以上の鮮度はないくらいのコリコリ感は久しぶりの食感。イカ、平目、カンパチ、アジ、鯛、スズキの豪華盛り合わせ、少し甘口の九州醤油にも合う味噌汁も魚の出汁が効いていて旨いこれで800円はお得な定食。夜は平戸牛を食べようと決めてましたが、持ち帰りの刺身を追加で注文刺身単品は500円でした。さらに追加でサザエ刺身300円魚やさんで普通に買っても300円はする大きなサザエ大満足でした、ごちそうさまでした。
2021.04.23
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長崎 軍艦島クルーズ炭鉱の島(世界遺産)の軍艦島(端島)のツアーに参加しました。数社がツアーを行っていますが、今回は軍艦島クルーズさんのツアーを選びました、このツアーの特徴は途中で高島港によって高島炭鉱と軍艦島(端島)炭鉱の資料館があり事前の予備知識にもなります。ツアー代金 大人1名3600円長崎港を出港すると港のあちこちにも世界遺産が点在していました。三菱造船所の巨大クレーンや日本発の近代的ドックやグラバー邸などを丁寧に船の中から案内されます。長崎には三菱の造船所が数か所で展開されており下の写真は3台並んだ巨大クレーン長さは991m大型タンカーが同時に3隻造船できる規模昨年話題になったダイヤモンドプリンセスもこのドックで誕生した。途中の高島炭鉱に寄ります1868年高島炭鉱は最初佐賀藩とグラバー商会が共同経営を開始後に土佐の後藤象二郎による経営に代わったが経営不振により岩崎弥太郎(三菱創業者)が買い取り経営することとなる資料館の前に設置してある軍艦島100分の1模型元々は中央にあるただの岩礁であったが石炭が発見され埋め立てこの形になった。島の半分は住民のクラスエリアこの狭い中で5300人の住民がくらしてた。島の反対側が石炭採掘入口と石炭を集積、出荷するスペースとなった。工場側の高い建物は学校7階建て4階までが小学校5階からが中学校炭坑内で使用されていた岩崎弥太郎も後藤象二郎も土佐(高知)の出身土佐・長州・薩摩の一部の人は明治維新により莫大な利権と収入を得る。石炭コークス日本で採掘された石炭高島炭鉱の坑道日産300トンの石炭採掘されていたが1876年に海水の侵入などにより廃坑となった端島が軍艦島端島(軍艦島)は1890年に三菱資本となり本格的な採掘がはじまる。最盛期の1960年には人口も5300人になり東京都の人口密度の9倍まで達した。エネルギー革命により石炭から石油に移った事で産出量も人口も減り1974年1月に閉山4月には無人島になりました。軍艦島の水最初は海水を蒸留していましたが後に給水船で運ばれるようになる、昭和32年に海底送水管が設置される。それまでは風呂は共同浴場で海水を使用、最後の流し湯のみ真水を使用軍艦島の電機最初は自家発電を利用していたが人口の増加に伴い大正7年に海底ケーブルにより高島から送電されるようになった。軍艦島の火力昭和30年からはプロパンガスを使用それまではカマドを使用していた為各家庭には煙突があった。緑がなかった事からビルの屋上に菜園などが造られた娯楽施設であるパチンコ屋や散髪屋さんなど賑わっていたようですこの炭鉱は三菱の社員さんたちです給与も今と同じで収入は他業種の平均よりかなり多かったようです。岩崎弥太郎の像高知県安芸市出身海運業から造船、炭鉱と財閥の基礎をきずいた高島を出港して15分軍艦島が見えてきましたまずは住居側から病院なども当然ありましたが、当時めずらしい隔離病棟も確保されていた。人工密集している地域で伝染病や今回の感染症などの対策もとられていた。よく見ると堤防は真っ直ぐではなく折れたり曲がったり波の勢いを弱める工夫このアングルが一番軍艦島らしい1枚約30分の上陸この辺りの天候や波は変化が激しく上陸できない事も多い、この日はラッキーでひと月前までは台風で桟橋が破壊されて当分上陸できなかった。この前の建物は住民のアパート大正5年に建てられ105年経っている鉄筋コンクリート造で日本最古の建物。現在世界で注目されているこれだけ古い建物が自然に朽ちて倒壊するのは世界初、建築学会の方たちに注目されている。何も補強などがされていないため年々倒壊が進んでいる。軍艦島の全てが世界遺産ではないほとんどの建物が昭和や大正に建てられている世界遺産に認定されている部分は写真の堤防の石垣の部分、この部分は明治に堤防を作った当時の姿が残っておりこの部分が認定された白色はレンガの色ではない台風などで大波が島の中央部分まで被るため塩が付き白くなっている、雨が降れば元のレンガ色に戻るという。島の建物で唯一補強されている第二竪坑入抗桟橋跡この階段を鉱員たちが通って上の踊り場で身体検査(火の元チェック)を済ませて地下666mまで降下してさらに沖に向かって2.5kmそれから斜めに450m進んだ先が採掘現場であった、現場は気温40度の中戦前は1日12時間、戦後は1日8時間命がけで働いた。階段に残っている黒色は靴についていた石炭が付いた跡働きに行くときは必ず家族全員でお父さんを見送ったとそうです。また住民同士の挨拶は「こんにちは」ではなく「ごあんぜんに」が挨拶であった。週末になると元の島民の方もツアーに参加される方が多いそうです。その方たちの感想は「こんなに静かな島ではなかった」当時1日24時間だれかの声が必ず聞こえていた、当時の賑わかだった風景をいつも思い出すそうです。約30分の上陸でした、長崎港に戻りますホテルに帰り路百貨店のはまやさんとんかつ浜勝本店ここから浜かつやリンガーハットが始まった地トルコライスの名店 「ツル茶ン」次回訪問時のお楽しみツル茶ンの隣で発見歴史上のビックネームが色んな場所で登場する街夕食はホテルはまやさんで購入した鶏飯明日は平戸に向かいます
2021.04.22
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長崎 出島1636年長崎の岬の先端に出島が増築されました街の中で暮らしていたポルトガル人を収容して貿易の掌握とキリスト教の広まりを防ぐ仕組み1637年に島原の一揆が起こりポルトガル船の来航が禁止になると、その代わりに平戸で貿易を行っていたオランドの商館が出島に移されました世界地図のオランダ当時は最近事後があったスエズ運河もなかったので当然南アフリカを周るコースで日本まではかなりの距離と時間がかかった。その間の中間地点であるインドのゴアやマレーシアのマラッカやジャカルタなどが世界の貿易港としてにぎわった島の半分は当時の建物が再現されている砂糖も代表的な輸入品の一つ日本からは銀や銅などが出荷された長崎名物カステラなど甘い名物が多いシュガーロード(砂糖の道)日本の商人や役人も常駐して積み荷の検査など行った現在の出島(航空写真)埋め立ての為原型はとどめていない。約10年前の出島当時は入口も違っていた、建物の復元も少し現在の出島橋も架けられて正面からは出島らしくなった当時の建物牛小屋や豚小屋なども敷地内に設置船長の部屋当時は夏になると2隻の船が来航して11月にオランダに向けて出港する(その間暮らす部屋)家具なども含め豪華な造りオランダの商館員が暮らした部屋こちらも広い当時の帆船禁教令徳川家康は最初キリスト教の布教を認めていましたがやがて布教の禁止を強化します。多くの宣教師たちを国外追放し中国以外の貿易を出島(ポルトガル)と平戸(オランダ)の2港に限定します。料理部屋浦上で発見された青銅製大砲(1640年ごろ)オランダ東インド会社の社章ビリヤードや当時の娯楽設備も完備食堂狭い敷地内で暮らす中でも大きな楽しみの一つが食事大広間での食事クリスマスのディナーの再現豚、牛、鶏、パンやワインなどい現在にも通用する豪華メニューローストビーフに魚のフライ商館には日本人遊女の姿も描かれておりいつの世や時代でも変わらない風景敷地内にあるミニチュア模型日本から輸出された銅日本から輸出された銅や銀はコインなどに加工されたオランダが出島で貿易相手に選ばれた理由は諸説ありプロテスタントであるオランダはカトリックとは違う事を当時の幕府に主張した、その証拠に島原の乱では幕府側について海から原城に立てこもったカトリックのキリシタンたちを艦船の大砲で攻撃した。また出島ではシーボルトなども商館医として着任して西洋医学(蘭学)を沢山の日本人に広めた。植物学の権威でもあり日本の様々な植物についても研究を進めた。ちなみにシーボルトはドイツ人。1859年以降は通商条約に基づき横浜や函館でも貿易が行なわれる事になり、長崎でも出島からグラバーやリンガー達の外国人居留地が貿易の中心となり時代の役割を終えた出島は埋め立てと同時に都市の中に埋没していきました。第二次世界大戦後の1951年に出島の復興計画が動き出し2000年に第1期の工事が完成し、現在第3期16棟の街並みが再現されている。
2021.04.21
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長崎 大浦天主堂とグラバー園路面電車に乗って向います各種ICカードも使えて便利、路線図や乗り換え方法を覚えると観光がさらに楽になりました。大浦天主堂とグラバー園へはこの坂道を上りますお土産物屋さんが並びますが時代とともに販売されている商品が違ったりお店自体が変わっていました。見えてきたのが大浦天主堂世界遺産にもなっている日本最古の教会で250年間潜伏していた信者が神父に信仰を告白した「信徒発見」の場所1864年幕末に建てられた教会正式名は「日本二十六聖殉教者聖堂」建物は殉教地である長崎市西坂に向けて建っている。1945年の原爆にも倒壊を免れた。入館料1000円現在は観光客向けの施設として運営されていて毎日のミサなどは隣に建っている教会で行っている教会にはどんな人も受け入れる場所の認識でしたがここだは1000円をもっていないと入れない教会違和感を感じて入場せず大浦天主堂の隣にあるグラバー園長いエレベーターで一番上まで登ります登った先で受付と入場料を支払いますが受付の方から「現在グラバー邸は工事中で見れない」との事、ここまで登ってくる前に案内が欲しかった。今回はグラバー邸以外に見学目的があったので入りましたが、その他のお客さんはここまで来たのでしぶしぶ料金を払っている感じでした。グラバー園の一番頂上からは三菱の長崎造船所が見えます、三菱の造船所は長崎に複数あり三菱の創業者である岩崎弥太郎にとって事業の要となる。岩崎弥太郎(1835年~1885年 享年50歳)高知県安芸市生まれ、三菱の創業者キリンビールは三菱の顧問であったグラバーが直接関係し重役として醸造所を立ち上げ本場のドイツに負けない純国産のビールを開発した。このキリンマークもグラバーの発案トーマス・グレーク・グラバー海外から武器や戦艦、食品などの輸入や仲介業を行っていた貿易商人。日本の若い志士たちの育成にも関与して多くの若者たちの海外勉学の道を開いた。日本の産業拡大にも尽力し造船、炭鉱、ビール、鉄鋼などの産業にもかかわった。旧リンガー邸グラバー商会で貿易を担当していた長崎ちゃんぽんでお馴染みの飲食店「リンガーハット」はこのリンガーが由来です。来園の目的でもあったフリーメイソンロッジの門明治時代の日本にもフリーメイソンは存在したグラバー園に移設されただけでグラバーたちがメンバーではなかったようですフリーメイソンのシンボルオルト邸イギリス商品のオルトメインのグラバー邸は工事中普段は見えない屋根や工事風景が見れるグラバー邸だけがグラバー園ではないですが、グラバー園の入り口に「グラバー邸工事中の案内」を告知すべき、料金所は最初の入り口よりかなり登った場所にある為。次は出島に向かいます
2021.04.20
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長崎 街歩き今日は徒歩で長崎市内を巡りますホテルは商店街直結の便利な立地新しいホテルなので清潔感が増します角部屋なので窓も大きく明るいバスルームも部屋との段差もなく水圧も問題なし、小さな事ですが歯ブラシや髭そりも使い易い。土佐商会跡土佐藩(高知)の貿易関係の役所跡最初は後藤象二郎が主任となりその後岩崎弥太郎が主任を務めた、目的は弾薬や大砲などを仕入れ仕入れのお金は土佐の鰹などを売却した。後の坂本龍馬率いる海援隊の運用資金も調達した今は路面電車のホーム横分かり難い所にある岩崎弥太郎にとって土佐商会は九十九商会や三菱設立の原動力となった。岩崎弥太郎の生家(高知県安芸市)高知市内から車で1時間(2019年訪問)再建された生家九十九商会から会社設立150周年を迎えて三菱のエリート社員たちが多く訪れている岩崎家の先祖は甲斐の国出身何かの罪によりこの地に島流しにあった当時は重罪は佐渡や八丈島の遠方に島流しで政治犯などは四国が島流しの対象になった。現在の三菱ダイヤモンドマークは甲斐の武田菱、岩崎家の三階菱、山内家の三つ葉柏紋が合わさって出来たと言われている。続いて亀山社中跡亀山社中は1865年に坂本龍馬とその同志が薩摩藩や長崎の豪商小曾根家の援助を受けて設立された結社。江戸幕府の倒幕を目的とした活動を行い船の回送や運輸業、銃器のあっせんなど現在の商社のような活動を行った。亀山は地名、社中は人の集まりの事現在は資料館として再現されています。坂本龍馬と仲間たち長崎から日本の写真技術も発信している眼鏡橋水面との反射で眼鏡に見える為この名がつけられた中国から伝わった石橋の技術、九州の各地で今も橋がいくつも残っている。沖縄の中城グスクでも中国の石工技術が使われた(2021年訪問時)続いて長崎歴史文化博物館を訪問江戸時代の奉行所のイメージ長崎の定番スポットの紹介と資料が展示されています奉行所の裁定が下される場所を再現遠山の金さんの場面眼鏡橋と石工技術中国から技術が伝わった幕末から明治時代にかけて活躍した日本で最初のカメラマン(写真家)坂本龍馬や高杉晋作など若き志士や高官などを撮影した。長崎で自身の写真館も設立して多くの弟子も育て日本各地に広まっていく。当時のカメラフィルムに焼き付ける時間がかかる数分間動かずポーズを決める必要ありカトリックの弾圧についても資料あり踏絵を実施する時の名簿とチェックと認証印踏絵(複製)次はグラバー邸に向かいます。
2021.04.18
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鹿児島 旅行⑬ 島原城・雲仙小浜温泉を出発し車で10分雲仙温泉街に着きました通過する予定でしたが、湯煎餅の看板につられて寄道雲仙の温泉水を使用した煎餅職人が毎日手作業で焼いています、1枚80円その場でいただきました、焼きたてはパリパリで温かく香りもあり最高においしい。雲仙展望台左の山が普賢岳、右の山が噴火した平成新山平成新山から噴火した火砕流や土石流の跡が未だに残っています。1990年に山頂より噴火、その後も噴火活動が続き1991年6月3日に大火砕流が発生43名の死者を出した火山災害が発生した。ロープウェイで近くまで行く予定でしたが運休していました。登山ルートもありたくさんの登山客が上っていました。火砕流や土石流が襲った麓の街麓に移動し撮影、いまだに立ち入り禁止区域があります。みずなし本陣「道の駅」この道の駅では通常のお土産売り場やレストラン以外に火砕流の体験館や土石流被災家屋保存公園もあります。噴火時の平成新山の写真当時のままで保存しています。土石流の脅威が伝わります島原城1618年松倉重政によって7年の歳月をかけて完成4万石の大名には過分な城ですが、この地が海外貿易の拠点として栄えていた証拠です。1637年の島原の乱では一揆勢の猛攻をしのぎ、その後の地震や津波などにも耐えました。アスファルト舗装は残念城の中は郷土資料館やキリシタン展など企画展示が色々ありました。島原 武家屋敷島原城の西面に下級武士の住まいがあり長さ400mの屋敷町で基盤の目のようにきれいに並び足軽・鉄砲組が住んでいました。今も数件当時のままで保存されています町筋の中央に流れる清水は今も流れている、昔は飲料水として使われ水奉行を置き厳重に管理されていた。島原の名物「かんざらし」白玉粉で作った団子を「島原の湧き水」で冷やし特製の蜜をかけたもの水都さんでいただきました味は想像通りですが、湧き水を眺めながらの団子は清涼感があります。旅も終わりに近づきました島原から熊本まで高速フェリーで移動します。巨大は高速艇で車やトラックも運べます。所要時間30分とフェリーの約半分で到着③のルート「オーシャンアロー号」高速で走行するためかなり揺れます港から熊本市内までは30分修復中の熊本城を遠くから見ることができました新幹線熊本駅隣のホームにたくさんの撮影者がよく見るとピクサー塗装の新幹線でこの日が初お目見え社内のドアにも綺麗な社内です残念ながら乗客はゼロでしたこちらのドアにも通常の九州新幹線で帰りましたコロナの影響で海外旅行などは難しいですがGoToキャンペーンを利用してお得に旅する事ができました、今回鹿児島では予定していないザビエルの情報など得る事ができました、次の旅行にも繋げて行きたい(山口もザビエルが滞在している)、沖縄など戦争の史跡も予定しています。10月以降は共通クーポンも付きさらにお得になりコロナに注意しながら旅を続けます。
2020.10.06
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鹿児島 旅行⑫ 島原 小浜温泉 旅館 富士屋今夜の宿は島原半島の小浜温泉に宿泊です小浜温泉は塩湯温泉で源泉は110℃にもなります。雲仙温泉もここから車で10分にあります雲仙は硫黄温泉です。好みの問題ですが景色や名物ちゃんぽんなどいつも小浜温泉に宿泊しています。部屋からは橘湾が広がります。歩いて5分の所には足湯「ほっとふっと105」もあり105mの足湯(日本一)が楽しめます。夕食食前酒、前菜とお造り前菜は一つ一つに工夫がありますお造り4点盛烏賊には細工、季節のあしらい蒸し物豚の蒸籠蒸し豚の甘味が引き立ちます鮑の踊り焼き小ぶりな鮑ですが味は濃厚バターでシンプルにいただきます。焼き目はレアで。揚げ物季節の野菜を中心に、薄衣で素材を引き立てる煮物豚の角煮色は濃い目ですが味はあっさり食べやすい食事炊き立てご飯が美味しい、鱧汁季節の巨峰と梨時間をかけて食事は提供されます。出来立て揚げたてを提供の細かいサービスがありがたい品数やボリュームも満足、味付けも濃くなく素材を活かした味付けで美味しかった、ごちそうさまでした。翌日の朝食この旅館の貸し切り露天風呂は源泉を自分で直接入れる仕組みになっており100℃以上の源泉とお水を自分の好みで調整して入ります。温泉・食事共に大満足の旅館でした。この次は雲仙、島原城をめぐります、今回ちゃんぽんを食べるのを忘れました。次回の楽しみに
2020.10.05
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最終回 熊本城と三池炭鉱跡と三池港熊本市内に到着、路面電車は小さめホテルアスコットさんに宿泊当日予約でも対応いただきました、昨年度オープンの新しいホテル朝食付きプランで破格価格でしたので朝食はあまり期待していなかったですがこの内容、大満足修復中の熊本城に向かいます。現在月に何度かは天守の一般公開ができるまでに工事が進んでいますが外観は写真の通り。城の横にある加藤神社に向かいます。平成15年に復元された櫓の写真現在の櫓改修は大掛かりで外堀の石垣など修復必要箇所が至る所にありますが現在は天守閣を最優先で改修されています。加藤神社この日は2月3日節分でした参拝したお客さんに節分豆を配っています。加藤神社からの眺めと募金箱皆さん協力されていました城内の一角には工事用の倉庫や作業場が設けられており、崩れた石垣や木材などが置かれています、それらをまず修復して元の場所に正確に戻す作業なので大変な労力と時間がかかるそうです。今回の旅の最終目的地三井三池炭鉱跡明治の産業革命を支えた石炭、ここ三池では国内外へ石炭の需要を支えました。また三池港に大型船が着岸できるでは島原の口之津港が石炭の出荷基地港になっていた。万田抗を訪れましたが、お休みでした。福岡県大牟田市・三池郡高田町および熊本県荒尾市に抗口を持っていた炭鉱。江戸時代から採掘されていたが、1889年三井財閥に払い下げられた、日本の近代化を支えたが1997年3月30日に閉山した。万田坑第2堅抗巻揚機室と第2堅抗櫓(国の重要文化財)煙突跡根本のみ残っています。定休日なので全て施設の外から撮影1873年明治政府の官営事業のころは監獄の囚人を使役として抗外の石炭運搬や抗内の業務に当たらせ、明治中期頃まで周辺各県の囚人が三池炭鉱で使役させられた。1876年三井物産が官営三池炭鉱を一手に取り扱った。1898年宮原抗で操業開始1908年三池港開口1891年三池横須から七浦抗に石炭運搬用の鉄道が開通三池港にある旧長崎税関三池税務支署中の様子最後に三池港を訪ねました。1908年に完成。昔石炭で栄えた港も今は、釣り人が数人いる公園化にされていました。以上で長崎 島原・熊本天草の旅は終わりました。①島原・天草の海岸線の美しさ②島原・天草の優良な温泉③島原 雲仙の火山噴火歴史④島原グルメ チャンポン、具ぞうに、そうめん⑤島原・原城跡(島原・天草一揆)⑥島原 口之津歴史民俗資料館(からゆきさん)⑦天草 富岡城(島原・天草一揆)⑧大江教会・崎津教会(キリシタン史)⑨熊本城・三池炭鉱跡教科書に掲載されている歴史もありましたが現地ならではの情報が得られとても興味深い事が数多くありました。悲しい歴史も多くありましたが、どれも暗く悲しい歴史を乗り越えて進化発展し未来に受け継(言い伝え)いでいるようでした。今回訪れた事で点と点がつながる事も多かった時間があれば今回の様に小さい資料館や色々な風景を見る旅を続けていきたいです。次回は沖縄訪問の予定
2020.02.27
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天草 大江教会と崎津教会を訪ねます。宿泊していた苓北(富岡城跡)を出発してきれいな海岸線(国道389)を走ります。天草最古の下田温泉を過ぎると、天草を代表する景勝地「妙見浦」に到着奇岩や入り江など変化に富んだ美しい景観が広がっています。国指定名所、海の沈む夕陽を眺める絶景スポット夕陽は次回の楽しみに。この国道には夕陽の有名なスポットがたくさんあり「天草西海岸サンセットライン」と呼ばれています。日本の夕陽100選にも選ばれました。富岡を出発して約30分で大江教会へ到着昭和8年、フランス人宣教師ガルニエ神父が地元協力者と協力して建てた美しい白亜の教会北原白秋をはじめとする5足の靴も訪れています。日本に最初にキリスト教を伝えたのはフランシスコ、ザビエル。天草にキリスト教を伝えたのはイエズス会のルイス・アルメイダである。彼は1566年に志岐に入り宣教したその後キリスト教に入信する人が増え1591年にはコレジオ(神学校)が天草に移されました。その後280年近くに及んだ苦難に満ちた禁教の時代、外国人宣教師も追放され、1614年にはアダム荒川が富岡城で殉教した。教会としての組織は存在しなかったがキリシタンは隠れ部屋で祈りを唱え、潜伏しながら信仰を守り伝えていった。*アダム荒川は2008年11月24日、ローマ教皇 ベネディクト16世によって福者にあげられた。昨年2019年ローマ教皇が来日され広島、長崎も訪問されましたが、長崎については被爆地としてだけでなくカトリックの歴史が深い長崎を訪問する意味があったのではないでしょうか。明治の時代になっても禁教は続きましたしかし西洋諸国の強い圧力により明治政府は1873年禁教の高札を撤去しました。弾圧ら開放されたキリシタンたちは、洗礼を受けカトリックに復帰し、各地に次々と教会堂が建設されました。1892年にガルニエ神父が来島した彼は約49年間大江教会の主任司祭をつとめ(崎津教会と兼任)貧しい人、弱き者の友としてキリストの愛を生きた(教会内撮影禁止、パンフレットより)ガルニエ神父像ガルニエ神父は来日以降、故郷フランスの土を一度も踏むことなく1941年82歳の生涯を終えた。正面からの大江教会集落の中心の小高い丘の中腹に建っています今でもこのエリアの信者の教会としてミサなど行事が行われています、それ以外の時間は拝観可能です。(9:00~17:00)次に車で15分の所にある世界文化遺産「天草の津崎集落」に行きました。崎津では教会が有名ですが、実は厳しい禁教化に日本の伝統宗教とキリスト教が共存しながら信仰を継続した潜伏キリシタンの集落として高く評価されています。崎津教会は昭和9年に建てられたゴシック様式の教会で内部は日本でもめずらしい畳敷き。ハルブ神父1927年に崎津教会へ司祭として着任禁教期に厳しい絵踏みが行われていた庄屋役宅跡を買い取り、教会の建築に献身、1945年1月81歳で永眠豊臣秀吉から始まった禁教政策は江戸時代にさらに強化され1614年全国に禁教令が出されます。これにより教会破壊、宣教師の国外追放、キリシタンに対する厳しい弾圧と探索により多くの信者が殉教しました。長崎、天草地方では、1617年から1644年までに宣教師75人が処刑されています。1637年島原、天草では重税や弾圧に苦しんだ人々が「島原・天草一揆」を起こしました。3万7千人の領民たちは島原の原城に立てこもりましたが88日間の戦いの末、女性や子供まで皆殺しになりました。毎年、住民全員が絵踏をさせられ、踏めない者はキリシタンとされていました。これにより発覚したキリシタンは仏教への改宗を強要させられました。崎津では現在の教会が建っている場所に庄屋役宅があり、その庭先で絵踏が行われていました。幕府による厳しい弾圧の中キリシタンたちは250年以上にわたり密かに信仰を守り続けました。信者たちは鏡や貝殻などの模様をマリヤ様に見立てたり、家の柱の中に十字架などを隠しました。対岸から見る崎津集落と教会1873年禁教の高札を撤去しました。弾圧ら開放されたキリシタンたちは、洗礼を受けカトリックに復帰し、各地に次々と教会堂が建設されました。崎津地区から移動して天草市にはいりました。昼時になったため、熊本名物味千ラーメンを頂きます。黒マ―油の豚軟骨ラーメン定食ボリューム満点近くのスーパーの駐車場では移動販売のピザ屋さんが営業されていました。焼き鳥屋さんはよく見かけますが、ピザははじめて、しかも焼き窯で火を焚き本格的に焼いています。買い物の前に注文買い物帰りには焼きたてができているというよい仕組み。少しこぶりの1枚1000円位で販売昼食の後、天草市にある天草キリシタン館を訪問入館料300円1566年天草にキリスト教が伝来してからの南蛮文化、島原天草の一揆、潜伏キリシタンなど天草でのキリシタン史を紹介館内は撮影禁止天草四郎陣中旗が一番の見どこ天草四郎像天草最後の訪問は上天草市にある天草四郎ミュージアム入館料600円こちらも撮影禁止天草キリシタン館と内容は特に変わらずどちらか近い方に行けばよい感じです。島原・天草の旅は終了です、本日はこのまま熊本市内まで移動し宿泊。明日は大牟田市の三池炭鉱跡に行く予定です。
2020.02.25
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島原半島から天草へ移動口之津民俗資料館から夕刻口之津港よりフェリーで天草に渡ります。島鉄フェリーさんが運航1時間に一本位で島原・天草間を運航されています。この日は最終便17:45分島原発に乗船本日の最終目的地の苓北町のホテルに向かいます富岡城の麓にあります。ホテルの周りには飲食店がないので苓北町のスーパーで夕食の買い出し地元の生産者の野菜出荷日と生産者の名前入り鮮度と安心感が生まれます、又地元への貢献にもなりますので、この売場はありがたい生産者の方も中間マージンが省かれ収入は増え消費者の声も聴けるので互いにウインウイン。地元ならではの野菜や生産者のこだわり野菜、めずらしい野菜もありさすが九州の売場です。麺売場の一番メインはちゃんぽん麺ちゃんぽんスープや専用具材も品揃え九州ならではの売場明日訪問する崎津で製造された練り物練り物コーナーの下段に陳列じゃこ天、アジ天、えそ天など種類も豊富このフードパックが雰囲気出します通常売場の下段には全国大手メーカーの商品が陣取りますが、地元メーカーの商品を陳列はお店の姿勢も感じとても好感持てます。ドライ商品売場では醤油売場の下段も地元の醤油メーカーさんの商品を陳列大きいサイズの商品も多くこの地域では外食ではなく家で調理食事する家庭が多いのでしょう。ほとんど九州のメーカーの醤油乾燥麺のコーナーではうまかっちゃんこの種類を品揃えはさすが九州地元売り場に収納できていない位です。棒ラーメンも九州推しこのラーメンお土産に買いました。20時頃にホテルに到着あまくさ温泉ホテル四季咲館さんシンプルな作り、清潔感はありました。風呂場もコンパクトこの日の夕食、天草はもう熊本ということで馬刺し2品アジ天ひれかつ弁当馬刺しは霜降りまでではなかったですが臭みもなくうす切りでやわらかく美味しいこの日の一番はあじ天澱粉などが少ない為か風味や歯ごたえが抜群によく大きさも丁度よい。次の日の朝、部屋からの眺めホテル全景上の階の突き出た部分が温泉風呂です。ホテルは海の目の前夏には海水浴客で賑わいます。よく見ると遠くで人影が若いカっプルが撮影会をしていました。海の反対側には小高い山の上に富岡城が見えます。本来は予定になかったですが寄ってみることに。駐車場から出てまずみえるのが4体の銅像です。最初の2人は1641年初代代官として赴任した鈴木重成とその兄の鈴木正三です。鈴木重成は島原の一揆の後、兄の正三の意見を取り入れ、神社仏閣を復興しました。また、一揆の原因の一つであった石高4万2千石が高すぎるとして幕府に半減を要請し認められ農民の暮らしが改善されました。兄正三は関ケ原の戦いなどで活躍し旗本になるが、42歳の時に重成に家督を譲り出家しました、その後重成の要請で3年間重成を補佐、神社仏閣の復興に努めました。富岡藩肥後国天草の北西岸に築かれた富岡城を拠点とする小藩であった、唐津藩主・寺沢家の圧政によって「島原の乱」が勃発したが、歴代代官、城主の努力で復興を遂げ、幕領として幕末を迎えた。頼山陽と勝海舟の銅像頼山陽がこの地で読んだ漢詩泊 天 草 洋(大意)あれに見えるのは雲であろうか、山であろうか、それとも中国の呉の地か、越の地か水と空があたかも青い髪の毛をひっぱったように一線を画して連なっている。はるばる京洛より来て、この天草洋に船泊まりすれば夕もやは静かに船の小窓をこめて、太陽はしだいに西の海にしずんでいく。おりしも、大きな魚が、とつぜん波間にはねるのを見た。空には宵の明星が出て、船を照らしており、まるで月のようにあかるい。勝海舟は1856年に長崎海軍伝習所の訓練中に富岡に来航し、その時に宿泊した鎮道寺の柱に「日本海軍指揮官 勝 麟太郎」と落書きします。当時彼は訓練生に過ぎず、若くして日本の将来を担う気構えを示したものと思われる。翌年に訪問した際も落書きをしています。勝海舟の落書き富岡城①島原の乱で戦場になった城②キリシタンへの弾圧や不当な年貢 を徴収していた③島原の乱以降、代官 鈴木重成・正三 兄弟による民衆により沿った治世により 復興を果たした。④勝海舟や頼山陽など著名人も立ち寄った地城跡内にある歴史資料館 入場料100円天草四郎時貞率いる一揆軍の猛攻にも耐えた難攻不落の富岡城。富岡半島地図地理的特徴から外国からの船舶監視や防御の役割もあった。天草四郎時貞の戦場時の姿服装を再現されたした天草四郎時貞顔は美男子、15歳時富岡藩のあった天草は肥後の国南西部に位置し温暖な気候と豊かな海産物にめぐまれた地域、戦国時代にキリスト教が広まり多くの人々がキリシタンとなった。江戸時代初期には重税とキリシタンへの弾圧により「島原の乱」が勃発、富岡城もその舞台となった。乱後、富岡城を名城に改築した山崎家治、命をかけて石高半減を嘆願して天草の復興をめざした名代官鈴木成重と養子・重辰、領民の負担を減らすために廃城を決めた戸田忠昌など歴史に名を残す偉人たちを輩出した。頼山陽の著書「日本外史」戦国時代に大名や庶民に広がったキリスト教。天草には1566年にルイス・アルメイダによって伝えられた天草本ポルトガル式ローマ字で書かれているグーデンベルグ印刷機宣教師養成を目的とする大学「コレジオ」が天草に7年間移されるまで多くの神父や学生や高度の授業を受け印刷機で天草本(キリシタン本)を印刷しました。富岡城跡から見た景色3方向の海が見渡せます。乱は天草から始まり富岡城から島原の原城に戦場が移ります。富岡観光は以上で終了。次は海岸沿いに大江教会と崎津教会を訪ねます。苓北町の外れにある九州電力の火力発電所、このような施設は必ず人が住んでいない町外れにあるのは危険だからでしょうか?
2020.02.23
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島原半島 原城跡・口之津歴史民俗資料館島原半島の旅も残す所2か所原城跡と口之津民俗資料館に向かいます。1周できなかったのは残念ですが次回の楽しみに口之津からはフェリーで天草にわたります。道の駅から車で30分くらいで原城跡に到着です海に突き出た高台に城を立てた天然の要塞です原城は肥全有馬氏の本城であった日野江城の支城として1598年から1604年にかけて有馬晴信が築いた城郭です●昭和13年5月30日国史跡指定●平成30年7月4日「長崎と天草地方の潜伏キリシタン 関連遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録現在は本丸の一帯が残っていますが2の丸、3の丸は畑になっていますが地形は分かります。近くの臨時駐車場から無料バスで本丸付近まで送迎していただきました。有馬氏がこの地を去って一時天領地になりましたがその後1618年の島原城築城開始に伴って原城は廃城となりました。(1国1城令により)松倉氏の支配その後1637年島原・天草の一揆では、廃城となっていた原城が一揆勢の籠城の拠点となりました。1612年の徳川幕府の禁教令発布により、国内のキリシタンに対する取り締まりが強化されました。それまでこの地をおさめていた有馬直純は領民に対する良心をさいなまれ、自ら願い出て延岡へ転封になったと伝えられます。1616年に入城した松倉氏の治世化では幕府の指示もありキリシタンへの弾圧が激しさを増します。飢饉も相次ぎ年貢が納められない領民に対し拷問や処刑が繰り返されました。1637年10月末領民の不満は一揆となり島原城を攻めましたが落城には至らず退却します。この一揆は天草地方の領民と示し合わせたものでやがて島原と天草の一揆勢は合流し、廃城となっていた原城に籠城します。その数は2万数千人であり少年の天草四郎時貞を総大将としました。天草四郎像天草四郎時貞の墓碑と十字架その向こうは海若干15歳にして一揆軍の総大将として幕府軍と戦いました。一揆は約4カ月にもおよびましたが、最後は12万5千もの幕府軍の総攻撃にあい一揆軍は全滅し天草四郎時貞も原城で殺されます。この世界遺産は17世紀から19世紀の禁教令政策化において、2世紀を超える宣教師不在の中、外国人指導者を失った国内の潜伏キリシタンが神道や仏教など日本の在来宗教の信者を装い、一般社会とも関わりながら、世界に類を見ない独特な宗教的伝統を育んだ、その証となる遺産。原城を主戦場とした島原・天草一揆の影響で禁教はさらに強まり、国内のキリシタンは人目につかない集落などへ移り住む事を余儀なくされました、長期の潜伏の中で独特な宗教的伝統が生まれました、原城跡はこうした伝統が生まれるきっかけとなった始まりの場所として位置づけられています。幕府の要請を受けオランダの軍艦が海からも攻撃しました。島原・天草一揆は江戸時代における最大の一揆であり、一揆以降鎖国政策が確立するなど、幕府の支配政策にも大きな影響を与えました。島原からの一揆についてはここまで、明日から天草に渡るので資料館を周り詳しく見ていきます。口之津歴史民俗資料館本日最後の目的地です、この後口之津港からフェリーで天草に渡ります、最終の17時45分に乗る予定。ここでは1時間30分時間を取りました。からゆきさんについての展示があると聞いてここまで来ました。入場料200円この日は平日でお客さんはいませんでした係の方があわてて館内照明とエアコンを入れて頂きました。口之津港では三池炭鉱から運んだ石炭を大型貨物船に乗せて運んでました。三池は浅瀬の為大型船が接岸できなかった為。手で積み込みを行っていた。この辺りでは一大産業となった。1876年石炭を口之津から積出する1888年このころからからゆきさんが港より海外へ1906年口之津からの石炭輸出量がマックスとなる1909年三池港の完成により口之津港の利用が激減する三池の石炭は三井が独占で扱い三池炭鉱周辺にはさまざまな三井の施設が現在も残っています。明治40年を堺いに石炭の輸出量も減少していく①石炭資源が減りコストが上がった②代替え燃料(石油)の台頭石炭全盛期には口之津も栄華を極めた各時代の石炭運搬船栄華を極めた口之津港では遊郭なども存在し成功者たちが毎晩のように通っていたそうです。こういった資料が揃っているのが民俗資料館の良い所、リアルです。当時の請求書食事代、お菓子代、女性サービス代金額とただしがき歴史民俗資料館は明治11年開設した、長崎税関口之津支庁が明治32年新築されたものを昭和55年、国より払い下げを受け室内の改装を実施し民俗資料を展示。明治・大正の商家当時の100美人時代が変わってもやってる事は変わりません。お菓子を焼いていた型昔の冷蔵庫上の段に氷を入れて、下の段に冷やす物を入れていた。商家の番台昔の計り(升)からゆきさん19世紀後半に、東アジア、東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性の事。「からゆきさん」とは唐(中国)へ行く女性の意味だが、江戸末期から明治、大正を通じて外国へ出稼ぎに行く女性を指し、特に明治大正期にあっては要蚕にならぶ隠れた外貨獲得の先兵となっていた。中国をはじめシンガポールやマレーシアなどに多くの女性が渡った、又、特に貧しい地区であった島原・天草の女性が多かったそうです。からゆきさんが使用していたカバン名前は消されていますアジア各地で日本人墓地が存在しその中には日本に帰れなかったからゆきさんたちのお墓もあります。ボルネオ島のサンダカンにもからゆきさんの墓地が発見され山崎朋子さんの「サンダカン8番娼館」にも書かれていますそのお墓は日本に背を向けて建っているそうです。からゆきさんの事が記録してある数少ない書籍からゆきさんの労働条件娼婦の取り分は稼ぎの50%、その内借金返済分が25%、残りから服代など雑費もだす必要があった。少しお金が出来ると日本に里帰りするからゆきさんもいましたが、日本では仕事もなく借金の返済もできない為、ほとんどは元の仕事場に帰りました。現地の富豪と結婚して仕事から離れて普通の暮らしができた人もいたそうですがほとんど稀なケースでした。小さな子供の時につれて行かれてある日突然娼婦の仕事につかされます。借金もあり彼女たちは断ることもできなかった。アジアに行くからゆきさんが多かったですが遠くはアフリカやアメリカまで渡った人もホテルを経営したり、自分の娼館を持ち経営するからゆきさんんもいました。海外から故郷の神社などへ多額の寄付島原・天草地方の漁民や農民の子供たちが女衒(ぜげん)と呼ばれる斡旋業者たちに海外で奉公させるとだまされて連れていかれるのがほとんどだったそいうです。今でいうパスポート申請書のようなものからゆきさんたちは、石炭船なんどの船底などに閉じ込められて密航させられていた、中には途中で亡くなる人もいたようです。海外で亡くなった方と墓地からゆきさんコーナーの中には資料映像のビデオも見れます。閉館前でしたが見させていただきました女衒本人貧しい村々を廻って若い娘を買っていきました。からゆきさん本人の証言も国土の狭いシンガポールでお墓を立てて存続させるのは大変な事です、まして身内のないからゆきさんのお墓の維持も各方面の努力で維持管理されています。マレーシアのボルネオ島で自身もからゆきさんで最後は娼館を経営していた木下クニさんも天草の出身。今回読んだ本映画も見ました。大正の時代になると国際的に人身売買に対する批判が高まり昭和初期には日本人娼館は姿を消すからゆきさんたちは日本に引き揚げたが、現地に残った人もたくさんいたそうです。島原での観光は終わりです、この後口之津港からフェリーで天草に渡り宿泊明日から天草を巡ります。
2020.02.18
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島原半島 がまだすドーム・道の駅みずなし本陣ふかえ島原城から車で20分「がまだすドーム」に着きました1990年11月より約5年間におよぶ雲仙普賢岳の噴火この地で何が起き、人々はどのように乗り越えてきたか。自然の驚異と災害の教訓を風化させる事なく後世へ残しながら、火山や防災、ジオパークまで、幅広く学ぶ事ができる「がまだすドーム」としてオープン入場料1000円がまだすとは方言で「頑張る」の意味駐車場には車が少しはるか向こうに普賢岳が見えます館内入口にある土石流の跡(模型)1991年6月3日大火砕流では多くのマスコミ関係者や消防団員の方など43名の方が亡くなりました。火砕流は時速100km、温度は摂氏700度火山は災害でけではなく温泉など自然の恵の部分もあります。がまだすドームについて①テーマやポイントが絞れていない②お客さんより従業員の方が多く、接客的に説明を する事もない③写真撮影がほとんど不可、持ち帰れる資料やパンフレット も用意されていない。④ディズニーランドやUSJのようにお土産屋さんと 食堂を経由しないと外に出られない、無神経。建物などのハードは立派ですがソフトの部分が不十分な感じです、この後による道の駅の方がよほど火山や災害につて学ぶ事ができる施設で無料公開です。次に向かったのはがまだすドームから車で5分道の駅 みずなし本陣ふかえさんこちらの道の駅では①お土産物や食事どころ②土石流被災家屋保存公園③大火砕流体験館(原城の資料もあり)道の駅の機能と火砕流、土石流の災害を知ることができます。駐車場から見た普賢岳このエリアまで土石流が流れてきました。道の駅お土産屋さんと食堂が並びます南島原はそうめんの生産地全国に出荷されています。お土産屋さんの奥に進むと天草四郎が最後を迎えた原城の資料館南島原にあります。原城は有馬晴信が築城した城で1603年に完成1616年に島原城を有馬氏の代わりに島原藩の藩主となった松倉重政が築城。その後幕府の一国一城令もあり原城は廃城となった。1637年10月島原・天草の人々が「自由と平等」を訴え一斉に立ち上がりました。島原の乱は島原・天草を戦場として天草四郎率いる一揆軍が最後に立てこもった城が原城です。一揆軍総勢37000名の内、原城には2万数千人が立てこもり最後は幕府軍に一人残らず殺された場所。一揆の原因は①年貢の取り立てが不公正であった (測量がいい加減)②キリシタンの弾圧こうした中で飢饉が続き追い詰められた農民たちが立ち上げりました。寛永14(1638年)年2月28日、原城で討ち取られた天草四郎はこの地で生涯を終えます。半分を海に面した高台に建設海上からもオランダ軍からの攻撃を受けた1637年の12月に発起軍の全軍が原城に入城原城を修復して立てこもるこの狭いエリアに2万人以上が立て籠り期間は3ケ月に及んだ。幕府軍はその間兵糧攻めを実施総大将の天草四郎は「四郎法度書」を発して団結を呼びかけます。落城までの3月間、落伍者はほとんどでませんでした。当初は通常の戦闘だったが幕府軍の被害も多かった為、兵糧攻めに切り替わった。兵糧攻めの合間には相互に弓矢での手紙のやり取りがあった。1638年2月27日、28日の幕府軍12万5千人による総攻撃を行います。一揆軍の中には女性や子供老人もいましたが1人(山田右衛門作という南蛮絵師)を除いて皆殺しにされてしまいました。1990年に起こった普賢岳の火山噴火噴火により火砕流・土石流に襲われた土石流は家屋・道路・畑あらゆるものを飲む込み海にまで達した。赤丸の被災家屋がそのままの状態で保存されています。火砕流被災こんな大きい噴石がとんできた資料館の奥には土石流被災家屋の保存公園があります。屋根の高さまで土石流が入り込んでいる土石流の仕組み保存家屋の一部は屋根付きのドームの中に当時の姿のまま保存されています。1階部分は完全に埋まっている大きな石も多いこのような道の駅は初めてでした原城・火砕流の資料館や被災家屋が保存など島原の災害や歴史を学ぶ事ができました。道の駅を出発して次は天草四郎最後の地、原城と口之津民俗資料館を訪れます。
2020.02.17
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長崎 島原半島 雲仙・島原市編宿泊した小浜温泉を朝出発し雲仙・島原市を目指します。やはり町中で湯気が上がってます車で15分山道を走ると雲仙温泉街に到着たくさんのホテルとお土産屋さんが並びます硫黄の臭いが強い観光名所の雲仙地獄駐車して見学する予定でしたが57号線沿いにあり車から様子が見えるので車窓観光に切り替え温泉街を抜けると雲仙カントリークラブ大正2年創業のパブリックゴルフ場この景色の中でのプレイは最高でしょう。標高も高いので夏場のゴルフにはもってこい雲仙の仁田峠展望台普賢岳と平成新山を目指します第二展望台からの眺め雲がかかっている山が平成新山1990年11月からの普賢岳噴火で生まれた平成新山噴火時の火砕流や土石流は小浜温泉や雲仙温泉の反対斜面である島原市側に流れていった跡が未だに残っています。火山活動は5年間続いたそうです。平成新山全景仁田峠の第一展望台に着きましたここにはロープウェイが設置してあり普賢岳や平成新山を近くから見る事ができます。ロープウェイから見た雲仙ゴルフ場おしどりの池小浜温泉方向には橘湾まじかで見る普賢岳と平成新山2月初めでまだ雪が残っています手前が普賢岳、奥が平成新山帰りもロープウェイで戻ります麓から登山をされる登山客もたくさんいました。モミ天然林雲仙から島原市に移動します。約30分で島原城に到着しました。昼前になったので先に昼食を頂きます島原名物 具雑煮専門店「姫松屋」さんです。天草四郎が一揆の際食糧として大量の餅を備蓄していたと言われています。戦の時の食事であった蓋を開けた瞬間に三つ葉と春菊の良い香りが広がり食欲がわきます具雑煮並み 980円餅に山や海から集めた具材で10種類以上たっぷり大き目の具が入っています。昭和39年に復元された天守閣中にはキリシタン史料、郷土史料、民族史料が展示されています、入場料550円駐車場がお城周りにあります、これを見てお城の中に入るのを止めました。島原城の歴史島原の乱や津波にも耐えたお城お堀の外からの天守閣は見ごたえありお城の近くにある武家屋敷島原武士の屋敷跡鉄砲を主力とした徒士部隊の住居だったことから鉄砲町と呼ばれている。街には石垣が続いており、島原の湧水を利用した生活用水が道の中央を今も昔と変わらず流れている。島田邸、篠塚邸、山本邸の3軒は無料で一般公開れています。島原湧水群も見る事ができますので迫力もあります、お城よりこちらの方がおすすめです、次はがまだすドームジオと火山の体験ミュージアムです。
2020.02.16
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長崎 島原半島 小浜温泉街千々石展望台から車で15分で小浜温泉に到着街のいたる所から湯気が雰囲気だしてます。小さな温泉街ですので、歩いて観光可能小浜温泉ポイント①温泉源泉は105度高温②温泉成分は塩を含んでいる③高温なので蒸し料理が名物④ちゃんぽんも独自で発展し名物に日本一熱い温泉105度(水以外の成分が多い)日本一の足湯「ほっとふっと」(無料)105メートルの長さ夕陽(橘湾)を眺めながらの足湯は最高 隣には蒸し釜籠に食材を入れて蒸します。かなりの熱さ。蒸し時間の目安食材は各自スーパーなどで調達蒸し釜の使用料は無料ですが、専用の籠を使う必要があります、1籠200円小浜歴史資料館に向かいます。この資料館は島原藩藩主より温泉の取締りと管理を任命された本多家と小浜温泉の歴史を紹介した資料館。敷地内の源泉105度の高温小浜では至る所で温泉が湧いています。島原半島では色々な温泉街がありますが、地質の違いからそれぞれの泉質も異なる小浜では塩分を含んでいる、雲仙温泉は硫黄分を多くふくんでいるなど。昔から湯治場として全国的に有名だった有名人も多く訪問しています。本多家が湯大夫として任命され代々受け継がれている9代目の湯大夫である西男は埋め立てを行い安定して温泉が供給できるように整備しその後の小浜温泉の発展に大きく貢献した本多西男埋め立て工事の写真自動車会社も本多家が設立埋め立て後の小浜温泉鉄道も敷かれましたが昭和初期にバスなど自動車の台頭で廃止になります。船での輸送は現在でも続く交通の要小浜温泉から雲仙へ上るためのかごチャーカゴ(英語の椅子とカゴ)の意味明治から大正にかけて主に外国人観光客に向けてのサービス。明治なり多くの外国人が観光に来ているのも驚きですが、少し前まで鎖国していた日本人も外人相手にサービス(商売)を考えるのも感心します。これは2人で担ぐタイプ小浜でも島原の乱の影響があった。湯治客は自炊しながら湯治するのが普通だった宿は火をたく薪台を宿代として払っていた。このような宿を木賃宿を言った。ロシアのバルチック艦隊の兵士も利用小浜温泉全景有名人も多く訪れました。資料館を出ると夕方にやはり至る所で湯気本日のホテルこじんまりした感じのホテル家族で経営されていてアットホームな接客が良いホテル客室、こたつもあり我が家の感じサウナも完備温泉は別館にて24時間入り放題、広くはないですが、高温と低温の風呂が2つとても良い湯加減でした、湯冷めしにくいそうです。近くにも公営温泉があり150円で入れますのでそちらを利用することもできます。宿からの眺め(橘湾)が望めますホテルの近くのちゃんぽん屋さんで食事昭和の雰囲気 万福食堂さんです。餃子となまこ(なまこはサービス)をつまみに大ビールちゃんぽんはあっさり目の潮(海鮮)の旨みがでているちゃんぽん、生玉子がコクを加えますホテルに帰って地元のアジと太刀魚でさらに飲みます。日本3大ちゃんぽんの一つ小浜は独特のちゃんぽんです通る際は必食です。1日小浜温泉を満喫しました明日は雲仙から島原市に入ります。
2020.02.11
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長崎 島原半島・熊本 天草 旅行①島原半島編4日間の日程で九州を旅行する事に今回はまだ行ったことがない長崎の島原半島と隣の天草を訪ねる旅を計画、初日の宿だけ予約し出発、最初の訪問は長崎街道鈴田峠道の駅で休憩です。長崎街道鎖国の中、長崎にあったヨーロッパの情報をいち早く江戸に伝えるための街道。日本の文化や情報も長崎から発信された。城下街大村の観光案内1563年この地をおさめていた大村純忠は洗礼を受けて日本最初のキリシタン大名になり、1582年には同じくキリシタン大名大友宗麟、有馬晴信と共に「天正遣欧少年使節」をローマに派遣しました。少年使節は8年5ケ月の旅行の末、活字印刷機などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り日本の文化に貢献しました。道の駅物産館久しぶりに見ましたもみ殻何に使うかは不明わらも販売されています。わら草履でもつくるのでしょうか、用途は不明地元のとれたて野菜出荷日と生産者の名前は入っています、鮮度が良い今年は暖冬などで野菜の価格が安い広い店内、木のぬくもりを感じます大きな白菜も150円位大手の量販店にはない品揃えや惣菜商品がうれしいポップにも味があります。白菜漬けも108円安い。海にも近いので海産物もありました。手つくりのかす巻きカステラの生地の中にあんこが入っていますどっしりと重量感ありザラメがたくさんついています島原半島でつくったカステラたくさんのメーカーがカステラを作っていますがそれぞれ味が違い個性がある16世紀にはポルトガルから砂糖が輸入され、長崎街道を通り全国に運ばれました、長崎街道は別名「シュガーロード」とも呼ばれています。砂糖を使った南蛮菓子など長崎独自の食文化が生まれたそうです。果物はポンカンや不知火(デコポン)などがメインで販売レモンやゆずなどもとなりには観光案内所もあり親切に対応していただきましたパンフレットや資料、グルメスポットなども教えて頂きました。道の駅を出発し本日の宿島原小浜温泉へ向かいます。島原半島に入ってすぐに千々石展望台(ちじわ)で休憩一番高い山が雲仙の平成新山と橘湾平成新山と普賢岳ジオパーク科学的に重要な岩石、地形といった大地の遺産を主な見どころにする大地の公園。島原ではその地域にある宝を知り、守り未来へ引き継ぐ事を目的に色々な活動をされています。島原半島は昔から雲仙温泉、小浜温泉での湯治や外国との貿易の拠点となる港があったことから勝海舟や坂本龍馬なども訪れました。観光センターでは各種お土産、メーカー直営のカステラなどが販売されています。この後本日の宿小浜温泉に向けて出発しました。
2020.02.09
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