綴

綴

2005年12月05日
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カテゴリ: side story [紅の邂逅]
 長い睫毛が頬に影を描いたのがふいに消えた。
 朔夜が急に深く俯いてしまったのだ。緋深は朔夜の旋毛しか見えなくなり、どうしたのか、と怪訝に思い視線をずらした。
 朔夜が瞳をそっと閉じていている。一瞬最悪の事態が脳裏を過ぎるが、微かに息をしているのがか細い呼吸音でわかり、気付かれないように安堵の息をついた。
 だが、頬のところどころ雪がこびりついている姿に一度は緩んだ眉が、また顰められた。それは緋深の気に入っている柔らかな色を灯す手触りの良い銀灰色の髪も、幾度も降り注ぐ雪で凍り普段より冷たい色に彩られ固まっているのも原因の一因を担っている。
 朔夜の髪は、見る者に不自然さを感じさせるものであった。右半分では、風に揺られ肩をくすぐっているのに対し、左半分は背中まで銀糸の束のようになめらかな線を描いている。
 右半分の髪を、不揃いになるほど乱暴に切りさったのは緋深であった。悪意あってのことではなく、咄嗟の機転をきかせたとき、どうしても避けられなかったのだ。事態を良いほうに転ばせた代償であった。
 緋深はこの行いに後悔はしていない。ただ、やはり罪悪感はあった。朔夜の髪は、いずれ伸びる。わかっていても、切ってしまったことがもったいない、と思う。緋深は、朔夜の髪に触るのが好きだったからだ。
 緋深は朔夜を背中から身体を包むように抱きしめていた。腕の中にいる朔夜は力無く、全てを預けるようにもたれ掛かっている。糸の切れた操り人形の如く、身体の力という力が抜けていた。
 朔夜が精神的にも、肉体的にも疲れているのことを緋深も理解していたので、眠らせてあげたい、と言う気持ちが顔を見れば見るほどじわじわと沸き上がり、つい叶えたくなる。だが眠らせることで朔夜の体温が下がらせれば、この自然の猛威の中、最悪の場合凍死さえ考えられるのだ。あえて優しくしてやりたい、と言う気持ちから生まれた想いを押し殺し、声をかけた。

 声に誘われ開かれた、透明感のある紫の瞳に、緋深は一瞬魅入った。
 緋深は、この透き通った綺麗な瞳が好きだった。紫色など、以前の緋深にとっては、貴族が好んで着る色という認識であり、嫌悪する、とまでいかなくてもどうやっても好ましい色ではなかった。だが朔夜に出会ってすぐ、と言うわけではないが-出会った当初はどう言葉を言いつくろっても仲が良いとは言えなかったのだ-同じ時間を共有していくうちに、例外的扱いではあるが、紫色はある意味合いを持つようになった。
「……緋、深」 
 小さい、雪の音しか聞こえない静寂に支配権を委ねている山の中でさえ、聞き逃してしまいそうな声が、かろうじて緋深の鼓膜にまで届いた。その寒さからくる震えが隠しきれていないか細い声は、耳の奥で儚く消えるのに、無意識に舌打ちをしかけ、緋深は慌てて止めた。
 今舌打ちなんてしたら、朔夜は自分を責めるに違いはない。巻き込んでしまった、と。緋深には自信ではなく、確信があった。
 驚き呆れるほど相手を尊重する、と言えば聞こえがいいが、自身を大切に思っていないどころか、己を疫病神とさえ思いこんでいるのではないか、といつも疑いたくなる人間が、朔夜なのである。
 朔夜は今、どれほどの罪悪感を抱いているのだろう、と考えるだけで緋深は悔しさから生まれた自身へ対しての怒りはまるで業火のようで、燃やし尽くされてしまいそうだった。
(違うのに)
 緋深は、奥歯をきつく噛み締めた。
 巻き込まれた、など微塵も緋深は思ってなかった。脳裏にほんの十数時間の光景が過ぎる。
 朔夜に《あいつ》の指が、銀灰色の髪に触れ梳いたのを視界に入れた瞬間、心の奥で激しく火花が弾けた。

 生きた彫刻のように固まっていた細い身体が、震えだした。
 声も出せないほどの恐怖に捕らえられ、泣き出しそうだった。
 その姿だけで、充分すぎである。緋深にとって《あいつ》を敵とみなすには。
(---朔夜が傷つけられたっ!!)
 火花は冷静さを加熱し溶かしきり、火花の燃え後から生じた白い煙は思考を浸食し、気付けば、思わず朔夜の手を引き、走りだしていた。

 火花の余韻が消え去ったときには、人気のないところへ、の一心で山の方に、とっさに逃げている時だった。
 『木を隠すなら森』と言う。追っ手にとって大勢人がいれば、いるほどこちらは認識しにくい。逃げ込める隠れ家があるわけでもなければ、確実に撒ける道をしらなかった。ならなおのこと人混みに紛れるべきだった、と冷静になった頭脳は緋深を指摘し、非難する。
 緋深は、わざわざ足跡を一つ見つけられれば、追う者からすれば追っている者だと瞬時判断できるような場所に自ら飛び込んでしまったのだ。追っ手をまくことの困難さを知り尽くしている、とどこかで自負していた緋深からすれば、こんな愚直な手段を取った自分が信じられなかった。
 その結果が、つけが、朔夜を凍えさせている。
 単衣の上に、厚い生地とは言えない薄花色の着物を纏っただけなのだから
凍えるのもしょうがないとも言える。綿入れの一つも掴んでこなかった自分の思慮の浅はかさ、余裕のなさが尚いっそ悔やまれた。
 …そう言う緋深も、厚着とは決していえない格好である-厚着であったらとっくに朔夜に着せていた-が、朔夜は寒さに対しまったく免疫がないのに対し、多少はあるのでまだ耐えられいた。
(………くそっ)
 内心自身に悪態をつきつつも、青く染まった唇を、震えながら開けようとするのを止めるため、そっと冷え切った指で朔夜の口を覆った。体温がとっくに失われた指で触れることに躊躇いがなかったわけでもないが、口を開けると、冷気の大きな固まりが、直接肺を突く。肺を傷つけることは阻止すべきだ、と躊躇いを押し殺す。
「喋らなくていいから…」
 安心を少しでも与えられるよう、努めて平然と聞こえるように注意しつつ、言葉の隅々まで優しさを織り込み、穏やかさをかろうじて保ちつつ、言い聞かせる。己の中のあちこちに散らばっていた辛抱強さ総動員して、やっとだった。穏やかさ、を保つことがが一番何より困難だったからだ。
 緋深は、無力すぎる自身を憎みさえしていた。それが外に漏れ出さないようにかなり腐心しなければならないほど、それは苛烈だった。
 もともとはどちらかと言えば白いと言える朔夜の肌が、更に白さが増し、淡く青味を帯びている。瞳が隠れれば、生きている人間、と言うよりは人形のようにも見え、緋深は背筋に悪寒が走ったのを感じた。己の罪状をまざまざと目の前に突きつけられた罪人に似た恐れと、朔夜を失うのではないか、と言う恐れは、恐怖の二重奏となり、緋深の中で鳴り響いている。
 普段の朔夜は、喜怒哀楽が激しいわけではない。むしろ喜んだり、柔らかな笑顔は希少とさえ言ってもいい。だがそれに反比例してぼんやりしたり、困惑した表情などは多かった。
 けれどどんなものであっても、必ず朔夜の顔にはいつも感情が見ることができた。感情を良くも悪くも偽る方法を知らない朔夜だからだ。どんな時も素直すぎるほどで、純粋すぎる感情をくみ取れるのは安易だった。
(大丈夫、だよな?)
 不安に突き動かされ、緋深は朔夜を強く抱きしめた。
 一瞬強張るかと思った身体は、一度ぴくりと動いただけだった。それに少しだけ喜びを-朔夜は他人との接触は、慣れた人意外拒絶してしまいがちだったから-覚えつつも、壊してしまわないように力加減をしつつも、抱きしめることを止めなかった。
 腕のなかに朔夜の存在を感じられたことに、崩れ落ちてしまいそうなほどの安心にようやく不安は霧散する。
(朔夜は、ここに、いる。俺の、傍に)
 一言一言を噛み締め、意味を吟味するように確かめ、ようやく腕の力を抜くことができた。
 時々緋深は、こうした不安に襲われる。
 朔夜は儚い印象もあるが、弱いわけではない。見ようによっては弱々しい外見に反して高い戦闘能力を秘めているのだ。
 何故、不安になるか。それは、もし仮に繋いでいた手を興味本位で振り解けば二度とその手は繋ぐことは不可能になることを緋深は知っていたからだ。手の力を緩めても、するりと繋いだ手は解けることもだ。そうなれば朔夜はこちらを振り向かず、走り出し消えてしまうのだ。そしてもう二度と出会えなくなる。
 誰かに教えられたわけでもない。朔夜がそう言ったのでもない。
 だが、緋深は、肌でそれを感じ取っていた。
 いつか緋深より小さく、細い指が解けてしまうときを考えるだけで、莫大な不安に駆られる。未だ不安を押し殺すことも、押さえつけることさえできない己の未熟さに嗤いながらも、緋深は確かめずにはいられなくなるのだった。虚空にただ一人うち捨てられるのに似たそれは、すでに恐怖の域にさえ達する。
(朔夜は、ここに、いる)
 もう一度心で呟き、緋深はいつの間にかきつく瞑っていた目をほどいた。
腕の中で凍える朔夜を見つめていると、いつ息絶えてるか分からない喉をかみ切られた草食動物が連想されるほど、弱々しい。
(何故、肩代わりできないのだろう)
 不可能な願いだと分かっていても、馬鹿げていると思っても、緋深は願ってしまう。
 今、朔夜を苦しめるものを肩代わりしても、全て引き受けても、一向にかまわなかった。凍えている空の下で、雪にまみれることなど自身には慣れきったことだからだ。正直、慣れても辛いところがないとは言えない。それでも緋深は仮に無茶な願いが叶うとしたら、一瞬も躊躇ったりすることは皆無と言い切れた。身を切るような冷たさに耐えることで、腕の中にいる朔夜を守れるのなら、躊躇う理由はなかった。
 昔と同じ色をした凍えた空の下でも、今は腕の中に確かな暖かな存在がある。昔耐えられたのに、今耐えられない訳など何処にもないではないか。掛け替えのない腕の中の、大切すぎる存在を守るためなら、何でも耐えれるだろう。例えそれが他人から錯覚だ、と言われても、緋深には関係ないと言い切れた。
(朔夜を、護る……絶対に)
 何度も己に課した誓いにも似た、決意をもう一度心の中で呟いた。何故なら、敵が近づいてきている。雪を踏み分ける音は、確実にこちらに近づいてきてたのを先ほどから緋深は聴覚していた。
(どこまでやれるか?)
 緋深は、力を正確に把握している人間だった。
 今どれだけの力が自分が使え、敵との力を正確に図れるだけの訓練を積んでいた。慣れているとはいえ、自然の驚異に晒された身体でどれだけ闘えるだろうか。 
 弱い敵ならいい、と思う。
(ま、人生そうそううまくいかないし…)
 最悪の親友は同等の最悪である。連鎖反応のように物事が起こっていく以上、緋深より強い敵が出てきてもなんらおかしくない。
(誰がきても、朔夜を、『あいつ』にだけは渡さない)
 緋深は朔夜から視線を外し、静かに面を上げた。
 深紅の炎にも似た瞳に、相反した冷たすぎる鋭い光が過ぎった。





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最終更新日  2006年11月15日 21時44分56秒
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