綴

綴

2006年10月23日
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カテゴリ: -本編- [第1部]
 ぼんやりとした湯気に視界を阻まれて、ただでさえ儚く危うげな朔夜の様子に拍車がかかって見えた。蜃気楼のようにゆらゆらと揺れる朔夜の顔は、どこか寝起きのせいか虚ろで、消えてしまいそうな錯覚に陥いる。   
 緋深のこの言いようも無い不安を辛うじて表に出さないのは、腕にかかる朔夜の以前より軽くなっている重みと、低い体温があるからだった。
(………これじゃあ、華奢を通り越して、病的一歩手前だ)
 こくり、と汁物を朔夜が危うげに飲み込むことに安堵しつつも、白湯の時よりも咀嚼が遅いことが気にかかる。燃費が良い、とは朔夜は言えない体質なので正直なところ、こんな小振りの碗一杯よりも、もっと沢山食べて欲しいと願う。だが、必死に飲み込んでいることはよく分かっているので、せかしかねない要求の言葉を無理矢理喉の奥へと押し込んだ。
 茶碗一杯ほどの大きさである小ぶりの碗に浪波と注がれていた汁物をようやく半分ほどまで飲み干すと、朔夜は心底申し訳ない顔をしながらも、嫌だ、と小さく意思表明するかのように首をゆるりと横に軽く振った。
「……朔夜」
 荒々しく波打つ激情を押さえ、小さな音で、そして優しさをふんだんに込め名前を呼ぶと、少し腕にかかる朔夜の身体が一瞬震えた。
 罪悪感にさいなまれ、見捨てられるのを恐がっている子犬のような朔夜の表情を見ると、わがままを通してやってもいいか、と言う誘惑にかられるが、緋深はあえて優しく、だが残酷に朔夜の淡い願いを打ち砕いた。
「食べて」

「朔夜?」
「…………」
 朔夜は瞳を惑わせつつ、何度か口を薄く開ける。だが、そこから何も声はでなかった。朔夜が、一言でも拒絶の言葉を吐けば、緋深は無理強いできない。朔夜はそれを承知なはずであった。だが、その一言が言えないのであろう。どうすべきか、と軽い困惑に陥っていることは端から見れば一目瞭然な姿に、緋深は軽く笑った。
 紅い瞳を穏やかに細め、椀を持っていない右手を動かした。右腕と肩に上半身を預けている朔夜が、その動きにつられるように微かに揺れる。
 やはり、軽い。緋深は朔夜にばれないよう一瞬眉を顰めた。
(………やっぱ、無理にでも食べささなきゃな)
 緋深は右手の人差し指を、朔夜の唇に触れさせた。朔夜は驚きに目を瞠りつつも、それでも口元を閉ざしている。その様子に軽くため息をつきつつも、緋深は強硬手段に出ることをあっさりと決めた。
「朔夜…自分で、きちんと食べる気になったら、言えよ?」
「……?」
 緋深は小さな唇に軽く触れていた指に力を込めた。さして労せず人差し指を口内に進入させることに成功する。軽く歯を叩くと唖然としていた朔夜が、反論しようとして上下の歯の間に隙間ができた。
「莫迦だな……嫌なら、噛み締めていれば良かったのに」

 緋深は問答無用に朔夜の口に碗をあて、だが加減を充分すぎるほど配慮した速度で、汁物を流し込んだ。喉に滑りこんでくる食物に朔夜は必死に飲み込んだ。緋深の指が邪魔をするので咀嚼はできない。だが、もともと病人食なのであろう汁物は、咀嚼をせずにも飲み込めるようなものである。特に大きく咳き込むことなく、汁物は朔夜は喉の奥に通った。
 やっと碗半分の量が消えたことを確認し、緋深は一度朔夜の口から碗を外し、床に置いた。唇の端に微かについてしまった汁物を指でぐっ、と拭ってやる。
 小さくこほこほ、と咳き込みつつ、なお抵抗を開始した朔夜に、緋深は苦笑する。
「これ、嫌か…なら自分で喰うか?」
 朔夜は一瞬頷きかけたが、眉を顰め小さく首を振った。

 透明度の強い紫色の瞳大きく見開かれ、困惑したように顔を歪めた。
 緋深はその反応ににこりと笑った。予想的中の反応である。朔夜にそんなことはできない、と踏んで言ったのだからその分かり易い反応は、次に話しをとてももっていきやすい。
「後で吐いてしまっても、いい。取りあえず胃に何かいれるんだ…飲んでくれ」
 朔夜の胃は弱っている。無理に流しこんで食べさせても後で吐いてしまいかねない。そこまで認識していても緋深は朔夜に食べることを強要した。
 もちろん、いいわけがない、と朔夜は瞳で訴えてくる。だから、諦めて。だがら、もう食べなくていいでしょう。そう言いたいであろう朔夜の気持ちは、手で水を汲み取るよりよほど容易にできた。
「いいんだ」
 きっぱりと告げた、その言葉に一切の嘘は無かった。緋深からすれば、本当に構わないのだ。
 吐けば、いい。胃にものをいれられるだけいれ、後で吐いてしまえばいいのだ。
 胃にものを入れれば入れるだけ胃壁との接触面積が増え、少しは栄養は吸収される。詰め込めれられるだけ詰め込めば、しぼみかけている胃袋は拡張される。
(吐けば、汚れる。けど、そんなものあとで洗えばいい。清めればいい)
 “そんなこと”で躊躇し、弱らせてしまうことより、よほどいい。
 助けてくれた人の家で、迷惑をかけることになるが、そんな責ならばいくらでも緋深は負う覚悟は、今更用意しなくても有り余るほどある。
「……朔夜。“また”食べられなくなるだろう?」
「っ!」
 驚いたように紫色の瞳を瞠り、何故知っているのか、という無言の問いかけに、緋深は苦笑にも似た表情で答えた。
 朔夜は一時、摂食障害に陥っていた。いたらしい、というのが正確である。その現状を緋深は見たわけではないのだ。だが、かなり酷かったんだな、と話を聞いただけでも思うほどだった。
 血色の悪い痩けた顔、骨が浮かび上がった身体、ふらつく足取り、か細い声。
 そんな姿を想像するだけで緋深は臓器がまるで凍ったかのように、ぞわぞわと体中に悪寒が走った。朔夜は、摂食障害になる『引き金』と言ってもよい元凶と出会ってしまっている。引き金は、すでに引かれてしまっているのではないか。その不安が緋深に強行な態度を取らせていた。
「どうする?自分で食べる、か?」
 戸惑うように、だが小さく頷いた姿に、緋深は優しい笑みを浮かべた。



 字数制限上、一旦区切ります
 珍しく朔夜に対して強気の緋深です。
 けど、続きを読んで貰えればわかりますが、一瞬芸だったようです(苦笑)





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最終更新日  2006年10月23日 20時12分12秒
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