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武蔵野航海記
日出ずる処の天子
以前「邪馬台国」のところで、3世紀初めの日本には国家と言えるようなものは無く、チャイナとの貿易によって成り立っている小国家が多数あったという話をしました。
ヒミコが使いを送った魏が晋に滅ぼされると、ヒミコの後継者が間髪を入れずに使いを晋に遣わします。
邪馬台国と言う商社は、チャイナの商業ネットワークの東の端にいましたから、情報がどんどん入っていたのでしょうね。
王朝が交代したらすばやく使いを送るとはさすがに商社ですね。
しかしこの頼みの綱の晋が、お家騒動で瓦解してしまいます。
内乱に乗じて北から騎馬民族が攻め込み、チャイナ北部は大混乱になってしまったのです。
生き残ったチャイニーズは南に逃げました。この頃からチャイナの中心が北から南に移動します。
北部は日本との貿易どころではありません。利権を失った邪馬台国商社は、消えていきました。
そのころから、日本とコリアでは自立した国家形成に向います。
日本の小国家で働いていたチャイニーズの官吏が多くいたので、チャイナ文化と原日本人の文化が習合して日本文化も出来上がります。
1700年前にはチャイナ文化という共通なものを持っていましたから、今でもチャイナやコレアと日本は理解し合えると誤解している日本人が多くいます。
しかしその後の発展の方向が全く違うので、お互い到底理解しあえなくなってしまっているのが現実です。
4世紀末には有力氏族の連合体が畿内に出来、その連合体が日本全体を支配するという状態になりました。
その時々の最有力氏族の本拠地から、河内王朝、播磨王朝、越前王朝などと名づけられています。
日本書紀は、それぞれの王に天皇を当てはめ、一族の関係であるとしていますが、作為の跡があります。
特に「越前王朝」の初代である継体天皇は畿内から外れた北陸出身で、前王朝である「播磨王朝」とは男系の先祖を別にする全くの別系統です。
この継体天皇が越前から畿内に進出したのは6世紀半ばですが、その後の天皇家の系図も粉飾されています。
聖徳太子は、日本書紀によれば継体天皇のひ孫で伯母にあたる推古天皇の摂政をしていたことになっています。
608年(推古16年)聖徳太子が隋に使いを使わしたと日本書紀に書いてあります。
この時の手紙が有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す つつが無きや」というものです。
日本とチャイナが対等だと主張する手紙ですね。
これに対応する「隋書」には607年(一年ずれています)倭国から使いが来たとなっています。
この隋書では、倭王(日本の天子と手紙で名乗っているのに、倭王と書いています)とその家族を紹介しています。
倭王の名は アメ・タリシヒコ 称号はオオキミ
倭王の妻の名前は キミ
倭王のハーレムに女が六百人ほどいる
太子の名前は リカミタフリ
この記述をおかしいと思いませんか。
日本書紀では、当時の天皇は女帝の推古天皇としています。
ところが王には、妻もハーレムの多くの女性もいると隋書は書いています。
この倭王からの使いの翌年に、隋の方から使者が日本に行き倭王と会っているのだから、やはり倭王は男なのです。
チャイナの史書にはいい加減なのが多いのですが、別に女を男と嘘をつく動機がありません。
晋の時代の倭王がヒミコという女王だったことは承知の事実だったので、隋書がわざわざ男だと書いているのです。
もうひとつ変なことがあります。
隋書には、この前の600年にも同じアメ・タリシヒコが使いを送ってきたと書いてあります。
ところが、日本書紀はこの600年の使いのことは何も書いていません。
チャイナに使いを送ることは重大事のはずで、記録しないはずがありません。
これは日本書紀を書いた朝廷には、隋に使いを送った記録がなかったと考えるしかありません。
日本書紀は、天皇家が昔から日本を支配していると主張するために書かれたものです。
従って、チャイナへの使いも天皇家が出したことにしなければなりません。
そこで辻褄を合わせるために、日本書紀の編纂者は隋書を見たのですが、600年の使いのことを見落とたしか考えられません。
607年の使いの記載も一年ずれています。
日本史の歴史書は、600年の使いを日本書紀が書いていないことを指摘していません。
日本で出版されている世界史の本は、さすがにこのことを指摘しています。
しかし、アメ・タリシヒコが聖徳太子であることを当然のこととしています。
どちらもこの矛盾をさらっと説明して、読者がおかしいと思わないように工夫しています。
事実を事実と書けないような事情があるのでしょうか。
607年の段階では、聖徳太子・推古天皇とは別の有力な一族が、日本の天子だったのです。
隋もアメ・タリシヒコが日本の王であることを疑っていません。
そして、隋の使いは日本を訪れてそのことを確認しているのです。
隋の使いである裴世清が日本に来たのですが、この旅行のことを隋書が書いています。
一行は対馬・壱岐を経て筑紫に到着します。この筑紫とは博多のことですが、さらに東に行って「秦王国」に着いたのです。
ここの住民は「夏華に同じ」、即ちチャイニーズでした。そしてこんなところになんでチャイニーズの国があるか分らないと書いています。
瀬戸内海のどこかにあったチャイニーズの商人たちの拠点だったのかもしれませんね。
「秦王国」から十数カ国を経て倭国の海岸(大阪湾)に着きました。「筑紫より東は倭に附庸している」としています。
附庸とは小国が大国に外交を委託している状態を言います。現在でもこういう例はいくつかあります。
リヒテンシュタイン公国はスイスに、ブータン王国はインドに附庸しています。倭国はまだ日本を統一しておらず、諸国連合の段階だったのです。
さらに、壱岐対馬は倭国とは別でした。南九州も別だった可能性があります。又、チャイニーズの国もあったわけで、7世紀初めの日本はまだ雑然とした状態だったのです。
そして、この時の日本の天子(アメ・タリシヒコ)と後の天皇家とは、外交文書の記録も共有していないほど疎遠な関係だったということです。
7世紀はじめでさえ、日本書紀の内容は信用できないのです。
このアメ・タリシヒコの王家が何故断絶したのかその理由はわかりません。しかし推定は出来ます。
アメ・タリシヒコが使いを送った607年より56年後の663年に、日本は白村江の戦いで見事に負けてしまいました。
この敗戦の影響は、日露戦争で日本が負けたら受けただろうダメージより深刻なはずです。
当時は万世一系の神話もないので、敗戦の責任を追及されてこの王家が消滅したと考えると無理がありません。
アメ・タリシヒコの王家と白村江の敗戦後に天皇になった天智天皇は赤の他人です。
又、兄弟とされている天智天皇と天武天皇も赤の他人です。
このように7世紀までの日本の支配者は何回となく、滅ぼされて断絶しています。
日本書紀は天武天皇の命令によって編纂されたものです。
この本の編纂目的は、天武天皇が正統な日本の支配者であることを証明することです。
この日本人向けに書かれた歴史書では、天照大神から繋がっている血統であるとして、正統性を主張しています。
一方、チャイナやコリアなどの外国に対しては、チャイナの原則によって正統性を主張しています。
即ち、天から新しい家系に日本を統治せよという命令を受けたという、
易姓革命を主張しているのです。
血統の異なる新しい王朝だから、国の名前も変えています。
倭から日本への変更です。
天武天皇の主張は、ダブルスタンダードなのです。
もう一つ重大なことをしています。
日本の独立を宣言したのです。
天皇という称号を採用し、チャイナの皇帝と同格であり、従属国ではないと宣言したのです。
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