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お久しぶりです。私と一緒に仏教を勉強している非常に仲の良い友人が、ホームページを作りました。タイトルは、『市川さんの意見』です。なかなか面白い内容です。彼は、できるだけ多くの人に読んでもらうことを希望しています。ですから、このブログで紹介することにしました。立ち上げたばかりなので、タイトルを検索エンジンに入力してもヒットしません。ホームページアドレスを入力して下さい。 http://sky.geocities.jp/ichikawaiken/ 市川さんの意見
2012年03月01日
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ツイッターなるものに登録しました。ユーザー名は@240115 です。相手になってやってもよいと思う方はメールを下さい。
2012年01月15日
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しばらくぶりでこのサイトを開いたら、リンクしている人からメールが入っていました。返事を書こうと思ったのですが、楽天はメール機能を廃止したのですね。どうしよう?
2012年01月15日
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ご無沙汰してしまいました。夕方、国道を西に向かって歩いていました。真っ赤な夕日に向かって進んでいたわけです。ふと横を見るとなんと「刑事コロンボ」の車がいました。フランス製か否かはわかりませんが、見事なものでした。しばらく見とれていましたが、気がついて撮影しました。堂々と撮影するとからまれるかもしれないので、こっそりとです。道路は渋滞していたので、歩いている私の横をノロノロと進んでいましたが、やがてこの素敵な車は、太陽の輪の中に消えていきました。その二三分後に、70歳は超えていたようなジイサマが、半袖のTシャツを着ただけの真夏の服装で家の前を掃除していたのです。しばらくは唖然としていましたが、われにかえって写真を撮ろうとしました。しかしもう遅く、ジイサマは家に入った後でした。いろいろ変わったものを見たので、すっかり幸せな気持ちになり、そこのスーパーで100グラム39円の鳥の胸肉を1.3キロ買いました。明日、から揚げにしよう。そうして今夜はパリ・オペラ座バレー団のDVDを見ようっと。皆様もいいものを見て、幸せな気持ちになってくださいね。遅くなりましたが、新年おめでとう。
2011年01月10日
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10回以上、マイケルのDVDを見て気がついたことを今まで書いてきました。マイケルは周囲のスタッフに対して、プロとしての技能よりなにかへの「ひたむきさ」を要求するのです。個々の技能より全体がかもし出す「ひたむき」という雰囲気の方が大事だと思っていて、そういう雰囲気を派手な動きのダンス等によって、観客に強烈に印象付けようとしたようです。その「ひたむきさ」はLOVEに対するひたむきさだと私は感じました。皆が愛し合い、人種差別をなくし更には地球を愛そうというのです。単にみんなに心地よいテーマを意図的に選んだという感じでもありません。彼自身が本当にそう考えていて、このテーマを「ひたむき」に追いかけていたようです。このテーマが単に営業用だけのものだったら、彼の人気があんなに長く続くはずもなかったと思います。こういうマイケルのひたむきさが周囲のスタッフをまた感動させるという循環を作り上げたのです。つまり、マイケルは「マイケル・ジャクソン教」の教祖で、周囲のスタッフは熱烈な信者なのです。マイケルと周囲のスタッフがかもし出すLOVEの雰囲気に観客も魅せられたのです。DVDの中でマイケルと一緒に仕事をした連中が、みな「彼は謙虚で一生懸命で、人に優しかった」というのは、本当だったのだろうと思います。マイケルがこういう性格だったからと言って、誰でも彼の信者になるというわけではないでしょう。彼と一緒に仕事をしていたスタッフにWASPはいないようでした。WASPというのは White Anglo Saxon Protestantのことでイギリス直系の白人でプロテスタント信者、すなわちアメリカの中核層のことです。マイケル自身も黒人だし、周囲も黒人や白人でもヒスパニックです。こういうむしろ差別された階層の中でひたむきに差別をなくそうと考えているものたちがマイケル教の信者になったと考えて良いようです。別に白人と対決しようというのではなく、白人と仲良くしたいという考え方です。マイケル自身も白人になろうと整形手術をしたり、皮膚を漂白したりしています。「そういうお前はマイケルジャクソン教の信者か?」と聞かれれば、私は「違う」と答えます。彼の音楽も面白いけれど、わざわざお金を出して買うほどでもありません。私はショパンやモーッアルトの方が好きです.また、彼のいうLOVEというのも少し非現実的だなとも考えます。This is it 終わり
2010年02月07日
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マイケルは必ずしも専門能力でスタッフを選ばないということが、分かってきた段階でもう一度DVDを見ました。そうして分かってきたのは、舞台装置担当、振り付け・衣装、コーラス、楽器などの担当者たちがみな「良い連中」なのです。マイケルの発言に非常に忠実で、自分の意見を主張するということがないのです。要するに意見を持ったプロなのではなく、マイケルの忠実な手足なのです。集団に大きな力を発揮させるリーダーには、個々の才能を引き出して全体としてレベルを上げていくというやりかたを採る者が多いですが、マイケルは違うようです。私は「がんこ寿司」を思い出しました。関西にある寿司のチェーンで、安い価格で旨い寿司を提供するというので非常に流行っています。この社長がテレビに出ていました。がんこ寿司は寿司職人としての経験のある者は雇わないそうです。自分流の寿司の作り方を主張されては、がんこが考えている寿司を実現できないから、という理由です。マイケルも同じで、自分の考えた「音楽」を実現しようと努力し、周囲に細かく注文をつけるというやり方です。だからプロを自認するものはマイケルとは共に仕事ができないだろうと思います。こういうようにマイケルのやり方が分かってきました。
2010年02月05日
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マイケルのロンドン公演のリハーサルを編集したDVDは、ダンサーのオーディションに世界中から集まった若いダンサーへのインタビューから始まります。彼等・彼女等の人生最大の目標はマイケルと一緒に踊ることなのです。彼は「あこがれ」そのものでした。マイケルと一緒に仕事をしたスタッフたちはみな、マイケルは優しくて謙虚で、しかも音楽の天才で努力を惜しまなかったと賞賛しています。「マイケルは純真だった。しかし世間知らずではなかった。世間知らずと純真は違う」といったマネージャーもいました。マイケルの周辺にいた連中は、皆マイケルを常人ではなく、何百年に一度出現する天才だと思っています。マイケルに批判的な者は一人もいませんでした。彼らがあながち、死者に対する礼儀からお世辞を言っているとも思えません。多少は誇張されているかもしれませんが。ヘタクソな歌手と能力不明のギタリストに共通しているものがあります。「一途(いちず)」ということです。若い彼女たちに成熟した大人のプロの風格はありません。確固たる自信があるのではなく、色々なことに対する批判能力があるのでもなく、一途さがあるのです。マイケルの周囲にいたプロたちもマイケルに批判的な者はいないようでした。彼等はみなマイケルを天才だと思い、彼を信頼して団結し、一つのファミリーを作っていたと言っていいでしょう。マイケル自身も周囲に対してものすごく気を使っていました。「僕は怒っているんじゃないよ」、「ありがとう」更には、いい年のおじさんに対して"I love you"とも言っていました。
2010年02月04日
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マイケルとデュエットした女性歌手が決して上手くないということは昨日書きました。オーストラリアから来た女性のエレキギター奏者がいるのですが、彼女は舞台でソロを演じるのでマイケルが非常に気に入っていたということは分かります。彼女の実力がどの程度のものかを判断する能力は私にはありませんが、その表情を見る限りではプロの頑固さというのが感じられません。どうやらマイケルは歌手とギタリストには、高度な専門性を要求していないようです。その一方で、ダンサーについてはプロ根性を求めていたようで、オーディションを大々的に行って6000人の中から上手いのを選んでいます。確かにマイケルのセールスポイントはダンスです。ムーンウォークなど難しいステップをキビキビと踊るところに観客は夢中になるわけです。マイケルは、ダンスだけは上手くなくてはダメだと知っていたのでしょう。マイケルの舞台は、3D影像やクレーン・吹き出るエアー・花火など派手な装置が盛りだくさんです。こういう特殊な装置をこなせるスタッフも彼は抱えていますが、彼らもどうやらプロのようです。電子楽器やドラムといった楽器奏者たちも年季の入ったプロのようでした。つまりマイケルは、ダンスと特殊装置・楽器にはプロを起用し、歌手とギタリストとして舞台でマイケルとデュエットするのは素人というように、使い分けていたみたいなのです。
2010年02月03日
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「マイケル・ジャクソンはプロの言うことを聞かないんじゃないか?」と気がついたのは、リハーサルのDVDを見ている時でした。彼がジュディスという女性歌手と "can't stop loving you" をデュエットするのですが、彼女がヘタクソなのです。調子はずれで、要するに音痴です。マイケルの公演のダンサーを募集したら6000人がオーディションを受けに来たということです。その中から11人が選ばれました。だからマイケルとデュエットする歌手もちゃんとした者はいくらでもいたはずです。私のような素人でも「ひどい」と思うような歌手を選んだというのはマイケルの意向だとしか考えられません。おそらくマイケルとしては、自分とのフィーリングを最優先したということでしょうが、歌手の選択をオルテガなどのマネージャーに任せれば絶対に選ばれなかったはずです。このように、「マイケルは仕事の上でも、私生活でもプロに任せる」ということが出来ない男なのではないか」と思い至り、そういう眼でDVDを見ると様々な場面で納得がいったのです。
2010年02月02日
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マイケル・ジャクソンは、プロの助言をあまり聞かず自分で判断する性格ではないか、と思いました。プロが狭い分野で積んだ経験を信用せず、それよりも自分の直観を信用するのです。こういうタイプはえてして大衆の熱狂的な支持を獲得します。例えば、ヒットラーです。第一次世界大戦での敗戦とその後のアメリカから波及した大恐慌によってドイツがひどい不況に陥った時、ヒットラーはアウトバーンの建設など大規模な公共投資を行いました。このとき首相だったヒットラーに対し、経済の専門家はこぞって反対しました。「借金をしてこんな莫大な投資をしたら、ドイツは破産してしまう」というのです。しかしヒットラーは自分の直観を信用して、公共事業を行い、大規模な需要の創出によって見事にドイツ経済を立て直しました。これによってドイツの国民はヒットラーを完全に信用しました。当時、世界中はドイツの経済復興に眼を見張り、イギリスやアメリカでも「今世紀最大の指導者だ」と賞賛したのです。今の経済学では不況時の公共事業による需要の喚起策を、アメリカのルーズベルト大統領の創案だということになっていますが、これはすっかり悪党になってしまったヒットラーを有能な政治家だと認めたくないからです。またドイツが戦争を始めるに当たり、プロの将軍たちは昔ながらの歩兵と大砲による進撃を進言しました。しかしここでもヒットラーは自分の直観を信用し、航空機による空からの攻撃を行いました。これが「電撃作戦」で大成功し、フランスなどはあっさり降伏してしまいました。自分の直観を信用しプロの進言に従わないということは、当然ながら初歩的なミスを犯すことにもつながります。何年か前にマイケル・ジャクソンは、ネバーランドに遊びに来た少年にわいせつ行為をしたとして訴えられました。そのとき彼は、20億円以上の金を少年に払い和解しました。この当時私は、整形し漂白して奇怪な顔になったマイケルをただのチンピラとしか思わず、少年へのわいせつ行為をやりかねないと思いました。大部分のアメリカ人もそう思ったでしょう。ところが、彼の死後、色々な報道を見聞きしているうちに、彼はそんなに変な男では無いのではないか、と思うようになりました。彼の発言や態度が意外とまともなのです。この件に関し、マイケルは一貫して犯行を否定していますが、和解金を払ったことについてはこう説明しています。「このいやな事件に時間を浪費したくなかった。私には他にやるべきことがあった。だから和解金を払ったがこれは失敗だった」「彼が実際に猥褻行為を行ったから20億円もの大金を払ったに違いない。無実ならそんな金を払うはずが無い」と誰でもが思います。こんな初歩中の初歩はどんなアホーな弁護士でも当然進言します。マイケル・ジャクソンはプロの進言を無視して、ミスをしたのです。彼がわいせつ行為をしたかどうか本当のところは、私には分かりません。しかし今の私には、彼がそんなに変な男だったとは思えません。
2010年02月01日
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マイケル・ジャクソンが昨年夏ロンドンでする予定だった公演の練習風景を編集したThis is it のDVDを見ました。これについて書こうと思います。「そんなことより、この半年以上お前何していたんだ?」というご質問もおありでしょう。私は学問をしていました。ごく初期の仏教から始まって、小乗仏教や様々な流派の大乗仏教、さらにはインドの哲学やサンスクリット語、ギリシャ哲学などの書物を読んでいました。なんでギリシャ哲学など読むのかって?釈迦が死んでから100年ぐらい後に、アレクサンドロス大王がインドに侵入したのです。彼が中東で客死した後も、家来のギリシャ人はインド北部を支配していたのです。だから仏教にはギリシャ哲学が大きな影響を与えているのです。小乗仏教の最大の流派だった説一切有部の教説は、プラトン哲学のコピーだという研究もあります。こんなわけで、「夢中」という感じで書物を読み漁っていました。まだ分からないことが多いのですが、仏教に対するイメージが少しずつ出来てきています。仏教と言うのは、ツギハジだらけのバランスの取れていない思想だと私は思うようになりました。釈迦の言った事を初期の段階で弟子たちが誤解し、辻褄が合わなくなって、いろんな思い付きでツギをあてた結果、なんとも奇妙なものが出来上がったようです。大学院の若い友人たちも「仏教は、時代が下がるにつれて変になっている」と思っているフシがあります。彼等は宗派の中で僧侶として相応の地位を確保したいと願ったり、仏教学者としてやっていこうとしたりと生活がかかっていますので、あまり露骨なことは言いませんが、日頃感じている疑問は隠しきれないようです。ただ、私はまだ仏教に対する考えが整理できていません。これにはまだかなり時間がかかりそうです。さてマイケル・ジャクソンの話に戻ります。最近まで彼のことなど関心がありませんでした。「スリラー」のレコード(ずっと昔のことだから当時はCDはなかったのです)ぐらいは持っていましたが、それだけでした。ところが昨年6月に死んだ後の一連のMJ騒動を見て、「彼は何でこんなに人気があるのだろう」と考えたのです。これが気になってとうとうDVDを買ってしまったというわけです。結論は「MJは才能の豊かな芸人で、ショーを楽しくするために努力を惜しまなかった。それが可能だったのは、彼はこういうことが心底好きだったからだ」ということです。
2010年01月31日
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ご無沙汰しています。明恵上人を書きかけて、一ヵ月半ほったらかしになっています。なかなか書く時間が無くて、ご免なさい。ところでレイ・チャールズのCDを聞きました。レイ・チャールズは私が幼い頃の歌手ですからあまり良くは知らないのです。ところがCDを聞いたら、それらの曲全部が私が幼い頃聞いた曲なのです。特に「Hit The Road Jack 」は私が幼稚園を退学になった頃はやっていた曲で、非常に懐かしかったです。この曲の中で、レイ・チャールズは、「このろくでなし」と連発していまして、「このろくでなし、とは僕のことなのだ」と私は思ったものです。お恥ずかしい話ですが、私は幼稚園を退学になっているのです。
2009年08月09日
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今、日本では出生率が1.2ぐらいまで下がって人口はこれから減少し始めます。これにはいろいろの原因がありますが、良く聞くのは「もっと生みたいが経済的な余裕が無い」という理由です。子供は手間とお金が派手にかかるものなのです。特に高等教育費(塾の費用含む)が大変で、これも出生率低下の大きな要因です。日本以上に子供を大学に行かせる風潮が強い朝鮮や香港では日本より出生率が低いのです。しかし少し昔を振り返ってください。日本には「貧乏人の子沢山」ということわざがあります。以前は経済力の無い家庭ほど子供が多かったのです。今、私の手元に「日本二千年の人口史」という本があります。鬼頭宏が1983年に書いた少し古い本ですが、なかなか面白いです。彼は日本の総人口の推移を推計していますが、縄文時代は20万人、奈良時代は550万人、平安末期で700万人、1600年の関が原の時が1200万人となっていて、着実に増えています。それが120年後の1721年には3100万人と2.5倍になっています。その後伸びが止まり、120年後の1846年には3200万人です。幕末からまた増え始め、1875年(明治7年)3600万人、1920年5600万人、1950年8400万人、1980年11700万人となりまた停滞が始まりました。日本の人口が停滞して増えなくなった時期は、江戸時代の120年と最近30年だけで、2000年間のうち9割以上の間は、子供をたくさん生んで人口も着実に増えていたのです。つまり、我々現代日本人の親子関係というのは、長い歴史のうちで極めて特殊なものだということです。日本人は長い間、貧乏人が子供をたくさん作り人口を増やしてきたのです。
2009年06月27日
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共産主義は人間の本性を変えようとしました。しかも宗教に反対し、哲学的な考察で人間の心を変えようととんでもないことに挑戦したのです。世の中には一生延命働いて多くの収入を得、それを他人のために潔く使う人が多くはありませんがいます。そういう人は自分のためにはお金を使いません。こういう人は、自分が豊かな生活をしようとか、普通の人が持てない様なブランド品を身につけて他人と差をつけるために一生懸命働くのではありません。一生懸命働くのが自分の使命だと思っているのです。キリスト教では、こういう人は「自分は神様からこの仕事を授けられたのだから一生懸命はたらかなければならない」と考えます。日本人であれば、これを「修行」と考えたり「仏行」と考えたりします。いずれにしても宗教的な動機から働くのです。こういう研究を百年ぐらい前のマックスウェーバーというドイツの学者がしているので、興味がある人は読んでください。楽をしようとか贅沢をしようと考える人間はここまで純粋に働くことが出来ないのです。19世紀に産業革命を通過し急速に豊かに強大になっていった民族には、こういう宗教心を持っている人が多く、社会の先頭に立って頑張っていたのです。ところが共産主義はこういうことに気がつかなかったのです。「疎外」を解消すれば、皆喜んで働くと考えたのです。自分が主体性をなくし生活のために仕事をさせられているから「疎外」を感じるというのです。私は未だにこの考え方が分かりません。単純な作業を朝から晩までやって入れば、どんな理屈をつけようと嫌になってしまうのは当然なのです。実際共産主義体制のロシア人も支那人も仕事が嫌で、仕事をサボっていました。豊かな社会を作る基本というのは、マルクス経済学では「土地」「資本」「労働」だといいます。これは間違っているのです。この三要素は大昔からありました。それでも資本主義というのは長い間起りませんでした。人間の長い歴史で資本主義が起きたのはつい300年ほど前のことなのですが、これは「一生懸命に働くことが神の命令なのだ」という非常に真面目な宗教が起きたためです。そうです。宗教改革の結果なのです。日本はキリスト教ではありませんが、同じように労働が尊いという教えが普及したからです。結局、豊かな社会とは、一生懸命働くという精神を持った人がたくさんいる社会のことです。そしてこの精神は宗教によって養われたのです。こういうことを共産主義は分からず「宗教はアヘンだ」と考えて禁止し、「哲学」で人間を働かせることが出来ると勘違いしたわけです。それから共産主義は私有財産も廃止しようとしました。これも人間の本性に反するやり方です。次回はこの私有財産について書こうと思います。
2009年06月25日
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共産主義というのは、はるか昔から貧富の差が無い社会ということで、人間の理想社会の一つになっていました。19世紀になって産業革命が起き労働者と資本家という従来無かった階級が突然発生した時も共産主義が流行りだしました。産業革命以前に存在したのは、商人と職人でした。職人はいわば自営業であって賃金労働者ではありません。また職人のトップであるマイスターは社会的地位が高かったのです。ドイツではいまでも、マイスターは企業の課長クラスより高い収入を得ています。そういう古きよき時代が去り、不熟練賃金労働者が発生し、彼らを雇う資本家が登場したわけです。産業革命が起きてこういう状態になったわけですから、その問題を解決しようとする共産主義も、産業革命が現に起りつつある先進国で流行ったのです。イギリス・フランス・ドイツなどで共産主義思想が起りました。しかしこれらの先進国は問題の深刻さをよく理解し、その対策を講じました。一番熱心だったのがドイツの鉄血宰相ビスマルクで、労働時間を制限したり最低賃金を設定したり、未成年者の労働を制限したりと、労働者の地位向上に努めました。こうしないと労働者が共産主義にいってしまうからです。日本を始め世界中の今の社会政策は、ビスマルクの政策を真似したものです。こういう事情もあって、共産主義は先進国では勢力を伸ばせませんでした。そして今ではこれらの先進国では、純粋の共産主義はほとんど絶滅しています。ところが後進国のロシアは、こういう労働者保護の政策をとる精神的余裕が無かったので、革命が起きてしまいました。支那は労働者などという気の利いたものはいなかったので、百姓が革命を起こしました。支那の場合は、実態は共産主義革命ではなく伝統的な農民反乱で、それを毛沢東が「共産主義革命」と名前を付けただけです。共産主義を実現させる社会的基盤が無いので、革命騒ぎが収まった後に出来た政権は共産主義ではありません。ただそう称しているだけでした。このように共産主義は、その思想が出来た本場では絶滅し、辺境でその名をかたってそのまがいものが栄えました。仏教も同じで、本場であるインドでは絶滅してしまい、東南アジアや日本という辺境で残っています。日本などは仏教が起きた社会的基盤が欠けているので、その仏教もまがいものです。もう一つ共産主義と仏教で似ている点があります。「人間の本性を変えようとした」ということです。
2009年06月17日
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まだ6月だというのに、玄関脇の狭い地面に植えたコスモスが花を咲かせました。
2009年06月17日
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明恵上人がどうしても行きたかったインドでは、仏教は滅びてしまいました。今でも仏教が残っているのは、スリランカ・ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアなどの東南アジアと日本です。シルクロードもかつては栄えていましたが、今は廃墟だけです。支那と朝鮮にはまだ仏教が残っていることは残っているのですが、総人口に占める仏教徒の比率は低く、とても「仏教国」と言える状態ではありません。支那の場合には判断が難しい要素があります。共産主義社会を経験したということで現状が流動的であり把握しにくいという面があります。もう一つは昔からのことなのですが、仏教のお寺と道教のお寺の区別がないのです。同じ敷地に、三国志の英雄で今では道教の神様になっている「関帝」を祭る廟と、阿弥陀堂の両方があるのです。日本でも明治維新以前は、神社とお寺が一緒になっていましたがそれと同じような感じです。「自分は仏教徒だ」と自覚している支那人は多くなく、それよりも道教を信奉していると考えている者のほうが圧倒的に多いのです。「本家本元で廃れてしまい周辺で生き残ったのがぶっきょうなのだなあ」とボヤッと考えていた時に、急に「仏教と共産主義は似ているな」と思いついたのです。
2009年06月15日
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明恵上人は面白いお坊様です。彼はお釈迦様が大好きでした。仏教を創めた偉い人だからとか彼の思想に共鳴して尊敬するとかそういう感じではなく、お釈迦様に「恋をした」という感じなのです。とにかくお釈迦様が好きで好きでたまらないので会いに行こうとしたのです。とはいってもお釈迦様は明恵上人が生まれる1500年前に亡くなってしまったから、せめて彼を偲ぶ遺跡に入ってみようと思ったのです。日本人でインドまでいった人は明治になるまでいなかったのです。何とかいう天皇の息子のなんとか法親王が本気になって行こうとしたのですが、今のベトナムあたりで消息不明になったことはありました。今の日本人の何人かは宇宙に行ったことがありますから、明恵上人の企んだ事は、今で言えば「火星に行こう」とでもいうようなことでした。彼は「大唐西域記」などの旅行記を調べ、「一日七里いけば3年で着く」などと計算していたのです。「明恵上人がインドに行こうとしているらしい」という噂が広がって、皆は心配して思いとどまらせようとしました。最後には神様までが止めに入ったのです。春日明神が、明恵上人の叔母様に取り付いて「行ってはいけない。日本にいて皆を導くのだ」と叫んだのです。こういうことが二度あり、おば様は真っ白い顔になって不思議な良い匂いを漂わせたのです。明恵上人もさすがに春日明神が反対したので行くのを中止しました。1193年、明恵上人が20歳の時、ナーランダー寺院というインド最大のお寺が、イスラム教徒によって破壊され、多くのお坊様が殺害されました。ナーランダー寺院は、教授と学生合わせて数千人が仏教を勉強していた、お寺というより大学だったのです。ナーランダー寺院が破壊された1193年はインドの仏教が滅びた年とされています。明恵上人が苦労してインドに行っても彼を悲しませただけだったでしょうね。
2009年06月08日
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生きている時に有名でも死んだら間もなく忘れられる人と、死んだ後有名になる人がいます。浄土宗を開いた法然上人や浄土真宗を開いた親鸞聖人は死後有名になりました。彼らは新しい大きな宗派を興した創始者だからです。一方の明恵上人は、今は知っている人は少ないですが、生きている時から江戸時代までは非常に有名なお坊さんでした。かつて江戸時代の寺子屋で使っていた教科書が展示されていたのを見たことがあります。「いろは歌」や義経の物語などを書き取りのお手本に使っていました。その中に「明恵上人」の業績を書いた教科書もあったのです。明恵上人がどんなに偉いお坊様だったかを説明した後で、詠んだ歌を紹介していました。彼は有名な「月の歌人」でもあったのです。あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月山の端に われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ寺子屋の教科書に載っていたわけですから、江戸時代の日本人の七割は明恵上人を知っていたことになります。明恵上人と法然上人は同い年だったと思いますが、明恵上人は法然上人をボロクソにけなしています。旧時代の仏教の最高幹部として新興宗教の教祖を非難したのです。親鸞聖人は法然上人の弟子で、年は親子ほど違いますから、明恵上人は親鸞など相手にしていませんでした。明恵上人が生きたのは、源平の争乱から鎌倉幕府創設にかけてで、日本中が大騒ぎをしている時でした。尚、高山寺には国宝で有名な鳥羽僧正の「鳥獣戯画」があります。鮮やかなさすがに見事なものでした。
2009年06月06日
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先日、高山寺に行ってきました。実は高山寺には私は今まで行ったことが無かったのです。京都に引っ越してきてから、早く行かなくてはならないと思いながら、今まで行かなかったのです。高山寺は京都の北西の山の中に在ります。京都の北西の郊外に嵐山がありますが、そこから更に山に分け入っていくのです。四条大宮という中心に近いターミナル駅があってそこからバスで45分かかります。京都は人口150万人の都市で、そんなに大きな町ではありません。ローマやウイーンに行かれた方は、これらの町が意外と小さいことに驚かれたかと思いますが、京都はそれよりもう一回り小さいです。ですからバスで45分というと辺鄙なところというか、本当に山の中です。この辺は、川端康成の「古都」で有名になった北山杉の産地です。両側が山というそのなかをバスが行くのですが、窓から見える山の斜面は、杉、杉、杉です。床柱に使うまっすぐに伸びた幹の杉がヒョロっと立っています。私はひどいスギ花粉症なので、もうすこし時期が早かったら死ぬところだったかもしれません。高山寺は、明恵上人が修行していた寺なのです。私は、明恵上人を手がかりにして日本の仏教に次第に深入りをしてしまったわけで、因縁のあるお坊様なのです。私は明恵上人が大好きなのです。京都の有名なお寺には下品な所も結構ありますが、高山寺は上品で良い寺でした。今年中にもう一度行こうと思っています。皆さんも是非一度見てください。しばらくの間、のんびりとしたベースではありますが、明恵上人と高山寺のことを書いていこうと思っています。そしてインドや日本の仏教のことも。写真は明恵上人が木の股の上で座禅を組んでいる絵です。リスや鳥が近くにいます。携帯の写真ですので良くは撮れていないのですが、有名な絵です。次回に続きます。
2009年06月05日
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私は時々自分でも異常ではないかと思うぐらい疑問に思ったことを納得のいくまで調べるクセがあります。今回は服の着方に関してでした。洋服の場合、男と女で襟の前になる方が左右逆になります。男の場合は、向かって右が前になり、女は左が前です。私は和服の場合も男女逆だと思っていたのですが、和服では男女とも右前です。なんでヨーロッパと日本で違うのかとても不思議になったのです。また「左前」という言葉があり、儒教の聖典に「我、左襟せん(だったっけ?)」というのもあって、その意味も知りたくなりました。そこでこの調査に非常なエネルギーを使いやっと分かりました。洋服の場合、男女で逆になるというのは13世紀にさかのぼる話だそうです。ボタンがヨーロッパに入ったのは13世紀だそうで、ボタンが付いた高級な服を着るのは上流の金持ちでした。紳士は自分で服を着たが、奥方やお嬢様は小間使いが着せました。人間は右利きなので、右手でボタンを扱うほうが、やりやすいということです。女の場合、小間使いは奥方に向かいあって着せるわけで、自分で着る場合と左右が逆になるというわけです。和服の場合、ボタンが無いので男女で違いが起きなかったわけです。死者には「左前」に着せました。日本では、死後の世界は全てが逆の世界だと考えられていたからです。「左前」に着るというのとは、「お前はもうじき死ぬんかい」というわけです。では何故、日本では右前に着たか?これはどうやら支那の習慣が入ってきたらしいです。支那では左の方が右より偉いのです。左大臣は右大臣より偉いです。この関係で、人間は右前に着るようになったらしいのですが、もうひとつ良く分かりません。支那人は「右前」に着ていました。そうして北方の騎馬民族は「左前」に来ていたらしいのです。ですから、自分が野蛮人になってしまうということを、「左襟」といったらしいのです。では何故、騎馬民族は「左前」に着るか?これは今のところ分かりません。もうしばらく調べてみます。
2009年06月01日
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仏教を勉強しに大学院に行きだして二ヶ月ほどが経ちました。「やはり仏教というのは、僕が思っていた通りのものだな」というのが、今の僕の印象です。仏教というのは、「こねくりまわしている」ものです。仏教というのは伝統的に、魂の存在を認めないのです。ところが輪廻転生は認めるのです。普通に考えたら、輪廻転生するのは魂です。こういう単純な問題を仏教の教えは素直に説明できないのです。また、我々はいろいろとものを考えますが、考えるのは「私」のはずです。かのデカルト先生も「我考える。 故に我あり」と悟ったのです。「私」というものがなければ、誰がものを考えるというのでしょう。こういう単純にして明解な疑問になんとか答えようと、学僧たちは二千年以上にわたって考え続けてきました。なんとか回答を得ようと色々努力した結果、仏教の教義が非常に「こねくりまわした」ものになってしまったのです。私は最近、「お釈迦様は、魂が無いなどとはいわなかったのではないか」と思いはじめました。私が大学院で仏教を研究し始めたのは、「どういう経緯で仏教の教義がこんなにこねくりまわしたものになってしまったのか」、「どうすればシンプルなものにできるのか」を知るためです。これだけであれば、「仏教オタク」というだけのことです。しかし、私はこの「こねくりまわした仏教の教理」というのが、今の日本人の精神構造に重大な影響を与えていると確信しています。その影響というのは、決して良いものだけではないのです。悪い影響も与えています。
2009年05月21日
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去年はコスモスを咲かすのに失敗してしまいました。今年は、去年の余った種を鉢に植えたら5本ぐらい芽が出てきました。でもそれだけでは寂しいので、新たに種を買ってきて玄関脇の狭い地面に植えました。そうしたら、70本ぐらい芽が出てきました。これからが楽しみです。
2009年05月21日
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今年の正月に買って来たパンジーですが、すっかり大きくなって鉢に一杯になりました。
2009年05月09日
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去年はコスモスを咲かせるのに失敗しましたが、昨年の経験を生かして何とか咲かせるつもりです。土を多くしたので、コスモスたちはまっすぐに立っています。
2009年05月09日
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ご無沙汰しております。サンスクリット語の勉強や色々な学術書をかなり一所懸命に読んでいまして、ブログ更新をサボっていました。ところが、2~3日前から鼻炎がひどくなったので、休むことにしました。ベッドで休んでいると頭の中をメロディーが駆け巡るのです。よく聞く曲なのですが題名がわかりません。あれこれ調べてもどうしてもわかりません。そこで仕方なく音楽家の友人に電話して、「○×△!¥○」とメロディーを口ずさんだら、相手はさすがにプロです。「モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの第四楽章だ」と即答してくれました。この曲は交響曲みたいなのですが、「セレナーデ」というジャンルの曲なのですね。当時の貴族や富豪が家で演奏させたもので、一種のBGMです。でも、この「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」は単なるBGMといってしまっては失礼なとても素敵な曲です。
2009年04月24日
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サンスクリット語の学習を続けているのですが、簡単な童話なら読めるようになりました。ローマ字に色々な記号をつけることが出来ないので、完全なローマ字表記ではないんですがサンスクリット語というのはこんな感じです。parvatasuya samipe vanam asit山の近くに森がありましたtasmin vane simho 'vasatその森には一頭のライオンが住んでおりましたsa ca diva girau vane paribhraman pasun abhaksayatそのライオンは昼は山で眠り、夜は森をうろついて獣たちを食べていましたkadacit prabhutam citavan ayam simho vrksasya cchayayam nidraya paribhutahある時、多くの食べ物を集めて、このライオンは木陰で眠りに襲われてしまいました。とまあ、こんな感じです。
2009年03月11日
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ここのところ、サンスクリット語の勉強ばかりしています。当たり前の話なのですが、サンスクリット語という古代インドの言葉は、本当にヨーロッパ系の言葉なのですね。名詞に男性・女性・中性という性があり色々な格変化を起します。また数についてもうるさく、単数・両数・複数を厳格に区別します。英語の場合は一人か複数かの区別だけですが、サンスクリット語の場合は、二人と三人の場合まで区別します。時間の感覚も厳密で現在完了・過去完了がありますが、こういうところはアジア系の日本語や支那語と違います。また単語もさすがに英語と語源が同じと分かるのがたくさんあります。兄弟はバラーター(ブラザー)、娘はドシター(ドーター)で母親はマター(マザー)です。一定の方向を表わす接頭語というのもあります。aは方向を指しますがこれは英語やフランス語と全く同じです。a paris はパリの方向ということですが、サンスクリット語もこうなのです。pre や vi など他にも英語やフランス語と同じ接頭語がたくさんあります。全体の印象として英語のように文法がかなり崩れた言葉よりも、規則にうるさいドイツ語やフランス語にサンスクリット語はにています。しかし現代のヨーロッパの言葉より古代ローマの言葉であるラテン語がサンスクリット語に一番近いと思いました。人間は言葉でものを考えます。アラビア人はアラビア語という一定のクセを持った言葉でものを考えるわけで、同じことを目撃してもアメリカ人や日本人と考える内容が違ってくるのです。サンスクリット語というヨーロッパ系の言語によって考え出された仏教というのは、ヨーロッパ系のクセを持っています。そういう思想を、全く異なる言語で考える支那人や日本人が本当に理解するのは無理だなあとつくずく思いました。
2009年03月01日
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サンスクリット語のローマ字表記をワード上にしようとしています。普通のABCの他に、ローマ字の上や下に余計なものが付いた文字もあるのです。例えば、 ・ - / a a m s ・まあ、こういうような点や斜め棒が付いた文字ですどうすれば、こういう文字をワード上に呼び出すことが出来るのでしょう。だれか教えてください。
2009年02月09日
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この春から私は大学院で仏教を勉強することになったと、先日のブログで書きました。老教授が私を呼び出したので、大学に先生に会いに行きました。そうしたら、いきなり怒られました。「君は今何をしているのだ」私は「????」というわけです。「仏教の研究をしようと思ったら、サンスクリット語(古代インドの宗教専用の言葉)を知らなければならないことは分かっておろう。サンスクリット語などは学部で勉強しておくべきものだ。君はサンスクリット語などまるで知らんだろう。だからどういう勉強法が良いか聞きに来るのを待っていたのだが、何の音沙汰もない」と頭から湯気を立てているのです。そしてマンツーマンでいきなりサンスクリット語の講義を始めました。「動詞 現在形 為他語尾の下記を丸暗記しろ SG(単数) DU(両数) PL(複数)一人称 mi vas mas二人称 si thas tha三人称 ti tas anti一種動詞は、√中の短母音がグナしてaを加えるのだ 」私はまた「?????」となりました。これはサンスクリット語の文法の最も基本的なものです。確かに語学というのが理論ではなく習慣ですから、暗記するのが一番早いということも分かります。先生の仰ることはいちいちもっともなのです。「先生、みみずの這ったような文字は覚えなくて良いのですか?」「そんなものを始めたら時間がかかってしょうがない。もっと後で良い!! 辞書を買うのももっと後で良い」ということで、ローマ字表記でとりあえず良さそうで安心しました。学問の基礎を始めるというのは非常にしんどいです。
2009年02月05日
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昨日、パンジーを小さなビニールの鉢から、少し大きい植木鉢に移し変えたのですが、まだ鉢が小さいという指摘を受けました。そこでもっと大きな鉢に移し替えました。私が園芸を全然知らないものですから、パンジーにも余計な苦労をかけてしまい可哀想なことになってしまいました。うまく育つと良いのですが。
2009年01月16日
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親切なアドバイスを頂いたので、それに従ってパンジーを引越しさせました。培養土を買ってきて、それを大き目の植木鉢に入れ、小さなビニールの鉢から移したのです。生き物を飼うといつもこうなりますね。パンジー自体は58円でしたが、土代はそれより高かったです。一年前に交通事故で亡くなった飼い犬タローも、ただで貰ってきたのですが、事故後入院・手術をしたので、獣医への支払いは結構な金額になりました。人間も作る時はあまり考えずに気楽なのですが、出来た後が大変です。
2009年01月15日
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さきほど、郊外型の雑貨店に行ってきました。そこの屋外が園芸の材料屋さんになっていて、花も売っています。植木鉢ともいえないようなビニールの小さな容器に花を咲かせた植物が入っています。二ヶ月前にもここでコスモスを買いました。春に我が家に植えたコスモスが全滅してしまい、その代わりに一鉢買ったのです。百円で、その安さに驚きました。最近生き物が安く売られているのを見ると悲しくなるのです。たくさんの鰯が一皿いくらで売られていて、一匹当たり10円なのです。「鰯よ、お前は10円で売られ食われるために必死で敵から逃げ回って生きてきたのか」とかわいそうになってしまいます。今日もパンジーが売られていました。赤や紫、黄色と可憐に咲いています。寒い風が吹いていて、夜になったら冷え込むと思いますが、このパンジーは寒さに凍えるしかありません。一鉢58円なのです。こんな安い商品を夜になったからといって温かいところに移動させるとは思えません。凍えて枯れてしまっても別に構わないのでしょう。だったらせめて一鉢でも買おうと思ったのです。風が強かったせいか花がすこしねじれていますが、世話をしたらシャンとするかもしれません。
2009年01月11日
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この半年以上、大学院に入るべく色々受験勉強をしていましたが、大体目処がつきつつあります。私は大学院で仏教を研究しようと考えているのです。とりあえず2年間の修士課程を修めようと思っていて、その後博士課程にいくかどうかはまだ白紙の状態です。仏教の僧侶になるために大学院に行くのではなく、仏教を良く知りたいがためです。私は別に仏教の信者というわけではなく、仏教が特に好きというわけでもありません。しかし、「日本人とはなにか」を考え続けてきた結果、仏教を知らなければならないという結論に至ったのです。仏教は非常に宗派が多く、それらは大乗仏教、小乗仏教、密教のいずれかに属しますが、その教えはそれぞれ非常に異なります。小乗仏教と大乗仏教の差に比べれば、キリスト教のカトリックとプロテスタントの差などほんのわずかです。イエスが布教活動をしたのは、2~3年でその教えを自分で聖書に書いたわけではありません。しかしイエスの死後数十年の間に弟子が聖書を編纂し教義の基本が確定したため、それから大きく逸脱することが出来ないのです。釈迦も経典を書いたわけではなく、その死後弟子たちが経典を書いたことではキリスト教と同じです。仏教の経典は「如是我聞」で始まりますが、これは釈迦の弟子が「お釈迦様はこのように仰ったのを聞いた」という意味です。生前のお釈迦様から直接教えを受けた弟子が「如是我聞」と書くのならまだ分かりますが、死後千年以上たって書かれた経典もたくさんあるのです。ですから、経典の内容が千差万別で矛盾だらけなのです。明治になるまでは日本の僧侶はこの辺の事情が分からず、経典は全てお釈迦様の教えを書いたものだと思っていました。そして経典相互の矛盾に悩み、「これはたとえであり本当のお釈迦様の真意は別のところにある」などと考えていました。日本の仏教は、釈迦の没後500年以上経って発生した大乗仏教が基礎になっていますが、それも支那を経由してかなり釈迦の考えから紆余曲折を経たものです。それが日本に入ってさらに日本的な味付けがされています。この日本化した仏教の教えが今の日本人の発想の基にあります。そして私はこの日本式仏教というのがいろいろ問題を抱えていると考えているのです。ですからまずは、日本式仏教が仏教全体の中でどういう位置を占め、どういう教義上の矛盾を抱えているかをはっきりさせる必要を感じたのです。こういうわけで、この春からオッサンの学生になります。皆さんよろしくお願いします。
2009年01月11日
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意味不明の議論のことを「禅問答」といいますが、これは師弟の間で公案に関する議論をすることを言います。この「公案」というのは、「公府的安牘」を縮めたもので、「裁判の判例」という意味だそうです。「公案」に関する偉い禅僧の模範解答のことなのです。修行中の禅僧はこの模範解答を暗記するまで何回も読みます。こうしてこの模範解答が条件反射のように出てくるようになると、応用問題にも対応できるようになります。こうして高僧の思想が血肉化できるというわけです。こういう修行の方法を、私がお話を伺った高僧は、「量質転化」と表現しました。同じことを幾度と無く繰り返す(量)と、レベルが上がるというわけです。「模範解答」という型にはめることで悟りに近づくというやり方で、私は日本人の思考パターンである「型にはめる」ということとの関連を連想しました。この課題は非常に重要だと思っていて、今後時間をかけて考えていこうと思います。
2009年01月10日
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昨日は、臨済宗という禅宗の一派の高僧のお話をうかがいました。私は、禅宗というのは仏教がインドから支那に伝わった後に、支那人がこの教えを自分たちなりに消化して作り上げた仏教だと理解しています。ですから禅宗というのはインドにはないのです。今から1400年前の唐の時代に、支那で興った仏教系の新興宗教が禅宗だ、という言い方も可能だと考えます。昨日の臨済宗の高僧は色々な話をしてくださいました。自力本願というのは、自分は仏になれるのだと信じて、自分の力で悟ろうとするもので禅宗はこの考え方です。一方仏の力に頼ろうというのが他力本願で、念仏を唱えることによって極楽浄土に往生できるという浄土宗や浄土真宗はこの考え方です。今、あなたが急に思い立って、憧れのエーゲ海に行くとします。スーツケースと「地球の歩き方」を持って、あなたはエーゲ海のロードス島の港に上陸しました。とりあえず宿を見つなくてはなりません。「地球の歩き方」を見て設備や値段・場所を検討し、あなたが自分で宿を決めるのが自力本願です。あなたが「地球の歩き方」を読んでいる時に、男がやって来て「ヘイ! ユー ホテル? カムカム」と話しかけてきました。どうやら彼は旅館の客引きのようです。彼はあなたのスーツケースを持って先に歩き始めました。彼の後に付いて行って宿を決めるというのが他力本願です。これを素直に出来る人は少ないでしょう。彼が旅館の客引きではなく、本当は強盗かもしれません。女性など恐怖で素直について行くことなど出来ないでしょう。またその宿が気に入らなかった時はどうしようという心配もあります。だから付いて行くにしても「地球の歩き方」を見ながら腰が引けた状態になるでしょう。その客引きらしき男が阿弥陀様だというのが他力本願なのです。そして自分の力で何とかしようという気持ちを捨て、すべてを阿弥陀様にお任せするのです。「他力本願というのは自力本願より難しい。私などはとても他力本願は出来ない」と、その高僧は仰いました。
2009年01月09日
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西本願寺の墓地である大谷本廟に納骨する場合、いくつかの方法があります。昨日写真を写した無数の墓のように、三尺四方の敷地を百数十万円出して買い、そこに自家の墓を建てて納骨する方法があります。他にお墓のマンションがあってそれを買う方法もあります。更には、一戸建ちやマンションを買うのではなく、親鸞聖人の墓の周辺に骨壷を埋めてもらう方法があります。兄はこの方法で納骨されました。10万円程度でやってくれて永代供養付です。これは独身者など子孫が供養してくれることが期待できない場合などにお勧めで、しかも安価です。ただし、これはその敷地がいっぱいになると古い順に遺骨を掘り出し、遺骨をコンクリートに混ぜて大きな仏像を作ります。毎朝・毎夕僧侶が、地中に埋まっている霊およびコンクリートの仏像になった霊をまとめて回向するのです。このように浄土真宗の信者になれば、その財力に応じて死後の平安な暮らしが保証されます。この完璧な永代供養システムの説明を聞いて、浄土真宗西本願寺派が日本最大の宗派であることももっともだと感心しました。ここの礼拝所で兄の霊に祈りを捧げた(僧侶に頼まず自分だけで祈ったので無料です)後に、無数の墓の見物をしました。メインの通路の両側の目立つところにひときわ立派なお墓が並んでいましたが、これらの多くは戦死者の墓でした。陸軍上等兵だれ野だれ兵衛 勲八等功七級 などと書かれています。一番目立つところにあるのは下士官・兵の墓で将校は少し奥に目立たないようにあります。戦死すると二階級特進するので上記上等兵の場合二等兵で戦死したということです。二等兵と言うのは兵隊の最低で、応召されてすぐに戦場で討ち死にしたのです。二十歳そこそこのこれからという時に戦死したわけで、親兄弟の無念さは大変なものだと思います。そういう心情を斟酌し、その霊に対して最大級の敬意を西本願寺は払っているのです。たしかに西本願寺が日本最大の勢力を維持しているのももっともな話です。
2009年01月02日
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私には兄がいましたが、事故で10歳ぐらいの時に亡くなりました。私は臆病なのですが、兄は花火の火薬をビンに詰めて遊んでいて暴発し怪我をするなど、非常にエキサイティングな性格をしていました。私の家は昔から浄土真宗の信者です。信仰というのは本来個人的なもののはずですが、日本でも他の国でも家が信仰を持つということが往々にしてあります。なくなった本人やその親がクリスチャンなのに、親類縁者が遺骨を代々の寺の墓に埋葬しないと収まらないというようなことが起きたらしいのです。兄の遺骨は、その一部をはるかなたの京都の本山に納められたということを最近知りました。兄の命日が近づいたので、今日思い立って墓参りをしようと思ってでかけました。浄土真宗は戦国時代に信長と戦ってなかなか屈しなかったというほどの武力を持っていましたから、権力者に非常に恐れられた存在でした。その浄土真宗教団が秀吉から徳川家康へ権力が移行するという戦国末期に、御家騒動を起しました。宗祖親鸞聖人の子孫が教団のトップになるという、お釈迦様が聞いたらビックリするような奇妙な習慣を浄土真宗は持っています。戦国末期の浄土真宗の宗家に正妻が生んだ息子と妾が産んだ息子がいて、その両派が跡目を争っていたのです。坊主に妻がいるだけでもおかしいのに、妾が子を産むという現象をお釈迦様はどう解釈するでしょう。この跡目騒動を徳川家康は、浄土真宗の勢力を弱らせるチャンスと考え、浄土真宗を二つに分割してこの争いをおさめたのです。二つの浄土真宗教団は当然ながら非常に仲が悪く、東本願寺は徳川幕府にピッタリと密着していましたが、西本願寺は反徳川でした。だから幕末に西本願寺は討幕運動を大いに援助したため、維新後は西本願寺の方が優勢になりました。私の家はこの勤皇派の西本願寺のほうなのです。そしてこの教団の墓地が東山の清水寺の隣の鳥辺野にあります。鳥辺野は昔から、死者を埋葬する土地で、親鸞聖人の墓地もここにあります。そして親鸞聖人の墓地の近くが教団の墓地になったのです。写真のように山の斜面が無数のお墓で埋まっていて壮観でした。次回に続きます。
2009年01月01日
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私は非常な寒がりですが、暖房にお金をかけるのは嫌で、集中暖房や床暖房などという贅沢は敵です。コタツというのはその点非常に経済的ですが、座るのが苦手だし靴下のくさい臭いもいやなので失格となります。そこで昔から愛用しているのが石油ストーブです。私が使っている石油ストーブは英国アラジン社のブルーフレームというものです。アラジンのストーブは、私が生まれたときから我が家の暖房の主役でした。今私が持っているのは型式番号39の製品なのですが、これも私が子供のときに親が買ってきなものを私が勝手に持ち出したのです。燃焼芯が短くなって取り替えなくてはならなくなりました。そこで改めてこのストーブを見ると安全用の柵はとっくになくなっており、塗装も剥げてみすぼらしい限りです。「新しい石油ストーブを買うか」と思い適当なのを物色したのですが、一万円ちょっと出せば日本製のが色々あります。一方、アラジンの石油ストーブはなんと5万円近くするのです。なんでこんなに値段が違うのでしょう。アラジンの石油ストーブは日本ではブランド品になっているのですね。そういえば、私のアラジンも骨董的価値がありそうです。私は物持ちが良いというか、物に無関心というか結構古いものを持っています。柱時計は60年以上前の振り子時計で、まさに「グランドファーザーズ・クロック」です。結局新しい石油ストーブを買うのは止めて、今年も古い仲間と冬を過ごすことにしました。
2008年12月29日
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みなさん、ご無沙汰していました。先日久しぶりにツタヤでDVDを借りてきました。この間の彼女はまだこの店で働いていました。カウンター越しにおしゃべりをしていたら店長ににらまれてしまいました。ひょっとしたら彼は彼女に気があるのかも知れませんが、彼女の方にはその気は全然ないのが良く分かりました。どこにでもドラマがあるのですね。私は探偵ものが大好きで、ポアロとコロンボ刑事のものを借りました。皆さんご存知と思いますが、ポアロというのは英国の推理小説家アガサクリスティーが書いた探偵ものの主人公です。ベルギー人なのですが、英国に亡命して今では名探偵になっていて難問を次々と解決するという筋書きです。コロンボ刑事はロサンゼルス警察の殺人課の刑事で、犯人とコロンボの駆け引きが非常に面白いです。どちらも登場人物はハイソサイエティーの者ばかりで、貧乏人は登場しません。しかし登場人物の職業がイギリスとアメリカでは違い、上流階級というもののイメージが違うのが良く分かります。また野生動物のドキュメンタリーも三枚借りました。製作者がイギリスのもの、フランスのもの、日本のものです。フランスのものは、人間社会のストーリーを設定して野生動物の行動をその筋書きに無理やり合わせようとするところがありました。例えば、南極の氷の平原をペンギンが群れを作って移動するのですが、仲間からはぐれたら死ぬしかありません。迷子になったペンギンが広大な平原で一羽だけポツンと立っているのを長い時間写すのですが、これを小説の主人公で孤独に耐えかねている男にイメージを重ねるのです。わざとらしく、野生動物の実態も良く描写されているわけではなくつまらなかったです。日本のは、やたらと生まれたての赤ん坊を大写しにして可愛さを強調し、また残酷なシーンが一切無く野生の実態を観客に知らせるという姿勢が感じられませんでした。イギリスのBBC製作のものは、夜の真っ暗な水場でライオンに狙われる象の群れを写し、飢えたライオンが最初は小象に狙いをつけ、それが失敗したら大きな象に三十頭のライオンが群がって倒そうとするシーンを写していました。ライオンと象のどちらも必死の様子が良く分かりました。また餓死寸前の白熊が大きなセイウチの群れを襲い、かえってその長いキバで致命傷を負わされ死んでいく様を描写していました。フランスものも日本ものも製作者のイメージが先行し実態を冷静に見ようという姿勢が無いので、つまらないのです。そこにくるとイギリスものは野生動物の実態を正確に捉えようと努力していることが良く分かりました。正確な情報こそ命だという発想が私にも伝わってきて、あの小さな島国のイギリスが世界を制覇したのももっともだと合点しました。
2008年12月17日
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昨日は、東福寺に紅葉を見に行きました。平日なのでそんなに人は多くないと思ったのですが、それがとんでもない。JRの東福寺駅から人波が東福寺を目指して延々と続いているのです。境内には多くの頭塔(大きなお寺の幹部僧侶の住居であってお寺でもある)があるのですが、その敷地内で饅頭やら漬物やらの店が商売をしているのです。きっと頭塔は彼らから場所代を徴収しているのでしょう。多くの店の中に「焼きおたべ」なるものを売っているのがあって、三個250円でした。それを買って食べました。本堂のところに橋があってそれを渡ると紅葉が非常に美しい場所があります。この橋の通行料が400円でした。私は拝観料というのに我慢が出来ず、めったに払わないのですが、昨日は紅葉見たさに払ってしまいました。中の紅葉は非常に美しかったです。人も多かったです。この後、私の好きな頭塔である「光明院」へ行きました。昭和の庭師が作った枯山水の庭があり、拝観料を徴収せず竹の筒に適当にお金を入れればよいのです。私はいつも100円を入れます。ところが昨日ここに行くと「11月は拝観料300円です」という張り紙があり、庭に通じる通路にはしっかりと番人がいました。馬鹿馬鹿しくなって光明院の庭を見ずに帰りました。年々「拝観料」が高くなります。紅葉の名所の「永観堂」の拝観料は1000円です。宗教施設に入るのに拝観料を取るというのは理屈の上でもおかしいのですね。
2008年11月26日
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今日は所要で嵐山の近くまで行きましたので、ついでに嵐山に行ってきました。さすがに紅葉の名所でとても美しかったです。渡月橋という有名な場所は人が多かったですが、少し大堰川を上流に行けば静かになります。ところでこの大堰川というのは京都を流れる桂川の上流のことです。ここを歩いていたら、碑があってここは離宮があったところで、源氏物語の舞台でもあったというのです。光源氏が若気の至りで派手なことをやって実力派の大臣やその娘で天皇の女御(お妃)になっていた者に嫌われて、播州(兵庫県)の須磨・明石に都落ちします。そこで素敵なお嬢さんと恋に堕ちて(というよりそのお嬢さんの父親に大歓迎されて)しまいます。そのお嬢さんが明石の君で、やがて娘を産みます。ところが都の情勢が光源氏に有利に変わって、彼は母娘を明石に残して京都に帰りどんどん偉くなります。都には紫の上という正妻がいるのです(当時は正妻とか妾という区別は無かったのですが、身分による差別はありました)。紫の上は皇族ですが、明石の君は中流貴族の娘でしかないのです。そこで源氏としても気軽に明石の君を京都に呼ぶわけには行かないのです。生まれた娘を、光源氏は明石の君からとりあげて正妻の養女にします。母親の身分が高い方が幼女の将来にも有利なのです。やがて彼女は紫の上の娘という身分で天皇の中宮(お妃)になり、男子を産みそれが後で天皇になります。このように光源氏のもくろみは当たるのです。幼女を取り上げられた明石の君を光源氏は大堰の山荘に住まわせます。これが嵐山にあったというのです。光源氏というのは、非常にバランス感覚に優れた政治家だったのですね。そういう源氏物語の世界に浸りながら紅葉を見ていました。
2008年11月20日
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「この世に肉体を持って生きているということは仮の姿であってそれがどのような生活であっても大した問題ではなく、本当に大事なのは魂の状態なのだ」と宗教は教えます。これは仏教もキリスト教も同じです。大金持ちで安楽な生活をするのと、強盗に殺されるのとでは、大した違いは無いのだというわけです。しかしこういう説に多くの人は納得できないと思います。仏教が生まれた古代のインド人も納得せず、もっとこの世での生活を重視する仏教であって欲しいと思ったのです。そういう願いによって出てきたのが大乗仏教で、この俗世間で生きていくことが即ち修行なのだと主張したわけです。だから修行の内容も、人里はなれたところで座禅をするのも良いが、もっと簡単に出来ることも効果のある修行法だということになりました。この世で生きていくには仕事をしなければならないし、子供を生み育てなくてはなりません。敵が攻めてきたら、戦って相手を殺さなければなりませんが、これは仏教が禁ずるところの殺生をおこなうということです。こうして、念仏を唱えるなどの簡単な修行で良く、厳格な戒律を守らなくても良いことになっていったのです。こういう簡単な方法で悟りが得られるということを説明するために、「一切衆生悉有仏性」だれでも仏になれるのだという思想が生まれたのです。ところがこの発想は、先ほどの比叡山のようにヤクザに盛大な供養をするということになってしまいます。これを見た子供たちは、「仏教の教えを守らず、人を脅かして豪勢に生活しても極楽にいけるのだ」と思うでしょう。そうして真面目に働かずにヤクザになるわけです。そうしてこの世はヤクザであふれ、この世は非常に過酷な場所になります。この世を少しでも暮らしやすいようにしようと思って出来た大乗仏教が、この世を悲惨なところにしてしまうのです。私が前回の日記で、「どっちを向いているのだ」というのはこういうことです。あの世を向いているのか、この世に眼を向けているのかということです。こういう事態が起きることを予想していたのでしょう。初期の大乗仏教は戒律をしっかり守り善悪のケジメをつけなくてはならない、としていました。しかし厳しい修行が嫌な僧侶は、大乗仏教の一部だけを取り出して戒律・ルールを甘くしていったのです。この問題は非常に複雑で、私もこれからこの辺を調べていこうと考えています。
2008年11月17日
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「一切衆生悉有仏性」の思想に基づいて、比叡山がヤクザ幹部の物故者の供養をしたのは、理論的に一貫しています。しかし、まだ二つの問題が残されています。一つは、「本当に全ての人間は仏になれるのか」という問題です。人間には持って生まれた素性・素質があるのではないかという疑問です。仏教は輪廻転生を認めていますから、どうしようもないヤクザでも気の遠くなるような時間をかけ、何回も転生を繰り返してそのたびに苦労すればいつかは仏になるだろう、という理屈は成立します。しかし、いま問題にしているのは、どうしようもないヤクザがそのまま短時間で仏になれるかどうかということなのです。こういう意味で、全ての人間はすぐに仏になれる、という考えは少数派だと思います。お釈迦様が教えを説いた時にはそのような考えは無かったようですし、大乗仏教の中でも、「どうしようもない連中もいるものだ」という考えもあるのです。ただ天台宗とその分派が日本を宗教的に支配してしまったために、今の日本人の多くがこの「一切衆生悉有仏性」に違和感を持たないだけです。仏教以外の宗教に眼を転じても「全ての人間は天国にいける」という考えは余りないようです。キリスト教は「予定説」で、神は予めその人間が救われるかどうしようもなくなって、暗闇に生滅してしまう人間かを分けています。悪いことをした人間は地獄に堕ちっぱなしだと言うほうが、一般人の賛同を得られやすいですね。もう一つの問題は、この「一切衆生悉有仏性」は、いったいどっちを向いて話をしているのだ、ということです。
2008年11月13日
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「一切衆生悉有仏性」とは、全ての人間がいずれは仏になれる、という意味です。こういうことを聞くとほとんどの人は、「だったら苦しい修行をしたり正しいことだけをするように努力する必要などないじゃないか」と考えます。実際に比叡山の僧侶も大部分がそういうように考えました。中でも真面目なお坊さんは真剣に悩みました。「なんで苦しい修行をしなくてはならないのだ」こういう真面目なお坊さんの中に法然上人、親鸞聖人、道元禅師などがいました。かれらは考え抜いた末に、「何故修行をしなくてはならないのか」という問題の結論を出し、その考えを外部に説き始めました。これが鎌倉仏教で、現在の浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗などの大宗派になっていったのです。新興宗教である創価学会や立正佼成会も日蓮宗の分派ですから、もとを辿ると比叡山に行き着き「一切衆生悉有仏性」の信奉者となります。日本における比叡山天台宗の影響力の大きさが分かっていただけると思います。さて真面目なお坊さんは真剣に悩みましたが、そこまで思いつめない凡人の僧侶は、「怠けていても何時か仏になれるのだったら、真面目に修行しなくてもいいや」と思ったのです。こうして比叡山の堕落が始まりました。これに腹を立てたのが織田信長でした。最近、比叡山は日本最大のヤクザ組織である山口組の歴代組長の法要を行いましたが、これが「一切衆生悉有仏性」という思想から出てきたことをもうお分かりと思います。「どんなヤクザでも仏性を持っており、頼まれれば彼らの法要をするのは当然だ」と比叡山のお坊さんたちは考えたのです。これは一つの宗教的な信念であり、考え方です。そうであれば、この思想を堂々と日本中にアナウンスすべきだったと私は思います。しかし比叡山はそうせずに、事後に「今後はヤクザの法要はしない」と反省の弁ともとれる発言をしています。
2008年11月12日
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今日は「一切衆生悉有仏性」のことを書こうと思います。一切衆生とは全ての人間ということです。これが悉(ことごとく)仏性を有しているというのです。仏性というのは「仏になる可能性」ということです。ですから「一切衆生悉有仏性」とは、「どんな人間でも仏になれる」ということです。殺人鬼でもヤクザでも人間であればいつか仏になれるわけで、それが生きている間なのか生まれ変わった後の遥か先の話かは分からないが、とにかくいつかは仏になれるということです。この考え方は、お釈迦様が仏教を説いたときにはまだなくて、数百年たって大乗仏教が出来てこういう考え方が生まれました。大乗仏教の全ての宗派が「一切衆生悉有仏性」を唱えているわけではありません。唯識法相宗という大乗仏教の宗派では「五性各別」といって、人間にはランクがあってとても仏になれる素質がない連中もいるとしています。また華厳宗では、「山川草木悉有仏性」といって、人間だけでなく動植物や山・川などの自然物も仏性を持っていると主張しています。鎌倉初期の明恵上人などはこの考え方で、月を友達だと本気で思っていました。日本人は「山川草木悉有仏性」に共感を覚えると思います。なにしろ自然を友とするという感性を持っていますから。比叡山天台宗は、「一切衆生悉有仏性」を唱える法華経を聖典としていて、この考えを支持しています。平安時代から鎌倉時代に広く信奉された仏教は天台宗と華厳宗で、そこから「一切衆生悉有仏性」と「山川草木悉有仏性」という考え方が日本人の心に深く根を下ろしました。特に天台宗は日本最強の宗派です。天台宗から分かれた宗派が、浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・臨済宗・日蓮宗です。つまり今の日本の仏教のほとんどは、天台宗から生まれたもので「一切衆生悉有仏性」を主張しているのです。
2008年11月11日
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この「千日回峰」を調べるために比叡山関係の情報を集めていたら面白い記事に出会いました。二年前に比叡山で、日本一のヤクザ組織である山口組の歴代の組長の法要が行われたのです。滋賀県警はじめ各方面からこの供養の中止要請がありましたが、比叡山延暦寺はこれを無視し法要を予定通り執り行いました。大勢のヤクザ幹部がこの法要に参加し非常に盛大だったそうです。その後各方面からの非難が続いたので比叡山は、「今後はヤクザの法要は行わない」という声明を出したそうです。織田信長は比叡山の傍若無人ぶりに腹を立てて焼き討ちを敢行したのですが、こういう比叡山の発想は当時も今も変わらないのだなと思いました。比叡山の高僧に何人かお目にかかりましたが、みな知的で教養のある方々でした。学歴も立派で東大や京大を卒業した後に、ドイツ・フランスの大学やアメリカのハーバード大学などに留学しています。仏教を哲学的に探求するのは西洋の宗教的理論と仏教の教理の整合性・比較が必要なのです。比叡山には昔から学僧が大勢いて、織田信長のときもそうだったのです。一方で非常に高度な仏教の研究をしていて、もう一方で傍若無人の振る舞いをするという面白い性格の宗派なのです。今回の山口組歴代組長法要の件の理由を考えてみたのですが、「一切衆生悉有仏性」が原因の一つではないかと思えてきました。
2008年11月10日
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仏典に行のために自殺するという記載があるか調べてみました。大乗涅槃経には「雪山童子」の話があります。雪山とはヒマラヤのことです。お釈迦様はその前世で何回も生まれ変わり修行をしたのですが、その前世の一つに雪山童子というバラモン仙人となってヒマラヤで修行をしていたことがあったそうです。仏教の経典という悟りの教科書が出来る前のことですから、雪山童子は法(教え)を求めてヒマラヤをさまよっていました。このとき帝釈天は、雪山童子が命を捨てる覚悟で法を求めているか試すために鬼の姿となり、偈(真理を含んだ詩)を与えるから、お前の体を私の餌にしないかという交換条件を提案したのです。雪山童子はこの取引を承知し、偈を聞かせてもらった後に、崖から身を投げて自分の体を鬼に与えようとしました。帝釈天が雪山童子を助けてめでたしめでたしになったのですが、この場合は自殺というより真理を得るために自分の命を犠牲にしたという感じです。またジャータカ物語という釈迦の前世物語があるのですが、前世の釈迦は飢えたトラに餌をやるために、わが身をトラに与えました。これは、布施という行を行ったわけでこの布施物が自分の肉体であったということです。これら二つの例は、行を行い悟りに近づくために、手段としてわが身を犠牲にしたということです。一方、千日回峰のノルマが果たせない時は首を吊れ、という場合は少し違うようです。千日回峰自体が行であり、少しでも悟りに近づくためにするわけです。その定められたノルマが達成できないとして首を吊れば行を完遂できず、悟りに近づくことが出来ません。「首を吊れ」という掟は悟りを如何に得るかという観点からではなく、別の観点から出てきたような感じがします。例えば、比叡山のメンツとかそういったもののために命を捨てるということかもしれません。比叡山がどう考えてこのような掟を作ったのはわからないので、最終的な判断はできないのですが、私は否定的な印象を持ちました。
2008年11月09日
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私は大阿闍梨がする荒行のお話をただ感心して聞いていたのですが、回峰を続けられない時は首を吊って自殺しなければならないという掟を聞いて、「チョット待てよ」と思いました。「行を続けることが出来ない時は自殺すべし」というルールはどうもお釈迦様の教えとそぐわないと感じたのです。お釈迦様は北インドの釈迦族という部族が作っていた国の貴族でした。王子様だったという説もありますが、当時のインドには後世の王国というものはなく、順番か選挙で王を出す複数の家柄があった貴族制の社会だったそうです。お釈迦様の一家もそうした大貴族の家柄であったのですが、彼がそのまま将来は王様になるとは限らなかったようです。いずれにしてもお釈迦様は大貴族の地位・妻子と多くの妾を捨て、出家したのです。彼はそのとき29歳でした。最初は当時の有名な先生に就いて学んだのですが、その教えに納得がいかず苦行者の群れに身を投じました。そして6年間、ミイラのようになるまで苦行をしたのですが、悟りを得ることが出来ませんでした。死にそうになりながら、彼は「何故ここまで苦行をしても悟りを得られないのか」と悩んだそうです。二つの理由が考えられます。一つは苦行が十分でないという可能性です。もう一つはそもそも苦行によっては悟りが得られないという可能性です。お釈迦様は非常に真面目な方で、苦行を真剣にやりましたから、「苦行がまだ足りない」ということは無いと自分で思いました。ですから「苦行では悟りを得られない」という結論しか考えられないのです。そこでお釈迦様は苦行を中止し、川で身を清め、スジャータという村娘が差し出した乳粥を食べて元気を取り戻しました。そして菩提樹の下で定(瞑想)をして悟りを得たのです。つまり「無理な苦行は意味が無い」というのは仏教の基本的な考え方なのです。精神的・肉体的な限界まで頑張るというのは仏教的な合理主義と反するのです。「限界まで頑張ってもまだ十分でない時は死ね」というのは非常に非合理でお釈迦様のセンスと合いません。
2008年11月08日
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今まで千日回峰を成し遂げた阿闍梨は50人程度だということですが、私が直接話を聞いた大阿闍梨の話と付き合わせるとつじつまが合いません。そこで調べてみると、織田信長が比叡山を焼き討ちした際に、千日回峰の記録が焼失してしまい、約50人というのはそれ以後の記録だと言うことが分かりました。400年で50人ということは8年に一人で、私はその数字に納得しました。千日回峰は、延暦寺の開山者最澄の弟子の時代に始まり、1100年以上続いている行なのです。千日間ブッ続けで比叡山の峰峰を巡るという印象を受けますが、そうではなく一年に100日ないし200日間回峰するのです。3月28日にその年の回峰をスタートし、100日ならば7月まで、200日ならば10月までで、冬はしません。私が話を聞いた阿闍梨は5年間でなしとげたので、毎年200日の間、峰峰を巡ったことになります。一日に歩く距離は約30キロで、真夜中の12時半に起き、2時に回峰をスタートし、朝の7時か8時には自坊に帰ります。軍隊の移動距離は一日25キロか30キロで、兵隊は20キロ以上の荷物を背負って歩くわけですから、行者がいかに坂道とはいえ身軽な服装で歩くのですから、過酷とは言えません。しかも冬はやらないわけで、普通の人間でも出来る範囲です。体力的にしんどい時は、小僧たちに後押しさせたり両脇から支えさせたりすることも出来ます。ただし、100日か200日の間、一日も休んではならないというルールがあり、これが厳しいのです。1000日の間には当然、病気になったりケガをしたりします。しかしそれでも休んではならないのです。そして一日のノルマを達成できない時は自殺しなくてはならないルールになっています。だから行者は木の枝に吊るして首を吊るロープと目隠しの布を毎日持って峰峰を廻るのです。私が話を聞いた阿闍梨も下痢が一週間続き何も食べる事ができなくなり、普段は朝の7時には終わるのに夕方暗くなるまでかかり、小僧に介添えをしてもらったこともあったと言っていました。そしてそのときには、何回も首を吊ろうと思ったというのです。
2008年11月08日
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