武蔵野航海記

武蔵野航海記

薩摩藩

昨夜、スーパーにお酒を買いに行きました。私は焼酎が好きです。麦焼酎・芋焼酎
米焼酎。「そうだ今夜は黒砂糖焼酎にしよう」。

昨春、屋久島から鹿児島にかけて小旅行をしたのです。屋久島はすばらしいところですね。

「白谷雲水峡」の原生林は、宮崎駿が「もののけ姫」の舞台に選んだ所です。島の中心には樹齢7200年という「縄文杉」がありますよ。すごいの一言。

ここで黒砂糖焼酎に出会ったのです。ついでに野生の猿や鹿にも会いましたよ。

ここからフェリーで鹿児島市に着きました。西郷ドンは、今でもこの50万都市を観光でしっかりと儲けさせていますね。

市内の加治屋町に行きました。ここで西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎という曹爽たる傑物が生まれ育ったのです。

薩摩藩は非常に特長のある藩で武士がやたらと多いのです。人口の四分の一が武士だったそうです。日本の平均は7%です。

彼らは領内に沢山ある「ふもと」という武士だけの村に住んでいました。そして自ら耕して生活していたのです。

西郷ドンや大久保ドンは下級武士出身だと一般には思われていますが、殿様のいる城下町に住んでいるのだから、決して下級ではないと私は思いました。

「ふもと」で武士の少年達は、先輩達から「郷中教育」を受けたそうです。読み書きやマラソン、水泳、論語などで鍛えられました。

武芸は「示現流」を教わったそうです。ルパン三世の仲間の「ジゲン」は着流しの浴衣で尺八をBGMに登場しますが、この流派の達人です。

フェンシングや剣術は攻撃と防御の両方の形を持っているのが普通ですが、示現流は攻撃の形しかありません。

「きゃ~」という猿のような声と共に両手で握り締めた刀を、斜め上から切り下ろすそうです。

敵がその攻撃をはずせば自分がやられる可能性がありますが、ヒットすれば相手は即死したそうです。

更には、ディベートの教育も受けていました。

「海で溺れているところを舟で助けられたが、助けた男は親の敵であった。どうすべきか」などという問題に解答しなければならないのです。

模範解答は、「助けてもらったことに感謝の言葉を述べた上で、相手を切り殺す」というものです。

これはすごい教育ですね。現実世界は非常に複雑で、一つの原則だけで行動するととんでもないことになります。

矛盾する原則同士をどのように解決するかという、非常に大事なことを教えているのですね。

「義を云うべからず」というのが薩摩の武士達の掟だったそうです。議論してはいけないというのです。

私は「なんておかしな事が掟になるのだろう」と納得できませんでした。事実は、「一度決まった事を後から蒸し返すな」という意味でした。

決まるまでは、例のディベートで徹底的に議論したのです。

徳川将軍は島津の殿様の主君である、というのが原則その1です。

島津の殿様は徳川将軍から領地は貰っていない、むしろ敵であった、というのが原則その2です。

関が原で島津は徳川の敵方の淀君に味方したのです。関が原から負けて帰った後は、徳川と和戦両様の構えで交渉し、自領を守りました。

夷狄が攻めてくるご時世に、薩摩藩の安全を何が何でも確保しなければならない、というのが原則その3です。

この三つの原則を巡って徹底的にディベートしたから、どのような局面でも薩摩藩は内部で意見が分裂せず、挙藩一致できたわけです。

長州藩や土佐藩は藩論が分裂しててんやわんやでしたし、水戸藩などは藩士同士の殺し合いで、リーダーが全部死んでしまったのです。

話は変わりますが、大阪湾から鹿児島湾まで、船でどのぐらいかかるか分かりますか? 私はヨットをやっていたのでイメージ出来ます。

フェリーでは、約6~8時間です。
瀬戸内海で無く、太平洋に出て四国の外側を回るコースをヨットで行けば2~3日です。ヨットの巡航速度は5ノット(時速9km)です。

幕末、薩摩藩の船も2~3日で大阪湾から鹿児島湾に行きました。

幕末当時、政治の中心は江戸から京都に移っていました。

京都の情勢をいち早く掴むことに、幕府や諸藩は努力していましたが、日本の端にいた薩摩藩が一番早く情報を入手していました。

京都の重要情報を伝える手紙一通の為だけに、薩摩藩の船は大阪と鹿児島を往復したのです。

私の推定ですが、この船郵便のために薩摩藩は年間、現在のお金で2億円ぐらい使っていたようです。

情報の重要性を徹底的に理解していたのですね。

だから薩摩は幕末風雲の中で主導権を握ることができたのです。

薩摩というのは凄いところだったのですね。


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