武蔵野航海記

武蔵野航海記

兵学

兵学とは江戸時代の西洋学問である蘭学の一種ですが、その軍事技術部門を言います。

18世紀の蘭学は医学中心で学者肌の者たちが学ぶだけで、武士としてのプライドを持つものには縁がありませんでした。

しかし夷狄の脅威が現実化し水戸学が発生する頃から武士の本業である防衛のために蘭学を学ぶ武士が出てきました。

佐久間象山(しょうざん 1811~1864)は日本的に変容した朱子学の思想を持っていました。

その彼が34歳になってオランダ語を学んで兵学を研究したのです。

彼に心服した弟子たちは錚々たるメンバーです。

勝海舟、吉田松陰、阪本竜馬、加藤弘之、津田真道などです。

象山は西洋の学問をすることが夷狄に降参することではないと考えました。

西洋の技術は儒教の「理」と同じであり、儒教の目的である道徳的で幸せな世を作るのに合致しているというのです。

この「和魂洋才」の考えによって、日本式朱子学により尊皇攘夷を教え込まれた全国の優秀な青年武士も安心して兵学を学ぶようになりました。

兵学を学べば彼我の戦力の差も分ってきます。

強大な兵力を持つ夷狄に対して自藩だけの軍事力で対抗できるはずがありません。

また夷狄は船でどこからでも上陸できますから、日本全体が統合された軍事力を持っていなければなりません。

このことから兵学を学んだ武士たちに自藩割拠主義は滑稽で日本全体の防衛の仕組みが必要だと考える様になりました。

また兵学を学ぶ他藩士との交流が盛んになったこともあり、ナショナリズムが興ってきました。

砲術には数学と物理学が不可欠ですから、そこから西洋学問の方法論を学びました。

また兵学は戦史・地形・社会制度も対象にしますから、社会科学も学ぶことになります。

このようにして兵学を学ぶことにより、徳川体制の基礎に批判的になっていったのです。

大名が割拠している封建制度は日本全体の防衛にマイナスです。

朱子学の世界観は自然科学と合いません。

ヨーロッパの政治制度を研究して、士農工商といった身分制度も儒教の教えと矛盾しているという考えも出てきました。

横井小楠(しょうなん 1809~1869)は自分を儒者だと思っていて兵学を学んだ人ではありませんが兵学の影響を受けています。

彼は熊本藩士でしたが彼の考えは保守的な郷里では受け入れられず、福井藩の殿様である松平春嶽のブレインになりました。

春嶽は徳川斉昭を中心とした外様・親藩連合のリーダーだった名君です。

小楠は当時の身分制度は儒教の教えと反すると考えました。

古代チャイナの聖人に堯(ぎょう)と舜(しゅん)という皇帝がいました。

彼らは実子がいたのにもかかわらず、優秀な他人を跡継ぎにして皇帝にしています。

優秀なものに政治を任せるというのが儒教の本来の教えだと小楠は考えそこから血統による身分制度を否定したのです。

そしてヨーロッパの共和制を堯と舜の世の中だと理解したのです。

小楠の思想は太古のチャイナの政治制度を理想とする荻生徂徠の影響を受けておりもはや儒教とはいえないものです。

彼はアメリカの初代大統領であるワシントンを堯や舜の再来として尊敬していました。

小楠の共和制の考え方は天皇を否定するものですから尊皇思想が日本を支配していた当時はそのままでは受け入れられませんでした。

しかし身分と仕事がリンクしている階級社会を否定して人材を活用しようという考え方は幕末の武士たちに大いに共感されました。

彼らには儒教の古典を読んでいましたから人材を身分を問わず結集するという体制を「堯と舜の世の中」だと直ぐに理解したのです。

西郷隆盛もワシントンを非常に尊敬しています。

この身分制度の廃止による人材の適材適所という考えは小楠から阪本竜馬に伝えられました。

この考え方は竜馬が描いた明治維新後の体制のグランドデザインである「船中八策」に反映されています。

「船中八策」は明治維新のときに天皇が宣言した「五箇条のご誓文」に発展し最終的には明治憲法に繋がっています。

このように明治になって士農工商を廃止した「四民平等」による人材活用の考え方はヨーロッパの思想に触発されて出来た思想です。

しかしヨーロッパの思想そのものではありませんし、儒教にこの考えかたがあるわけでもありません。

儒教というのはあくまで道徳的に優れたものが政治を行うという考え方であり、実用的な知識を持っているものにふさわしい地位を与えようとするものとは違うのです。

まさにヨーロッパ思想に触発されて日本人が考え出した思想です。

このように武士たちは兵学を学ぶことにより、江戸時代の基礎をなしていた封建制度、身分制度、儒教という思想を掘り崩していったのです。

そして「和魂洋才」によって富国強兵を図るやり方が明治以後の主流になっていきます。

参考までに「船中八策」を下記します。
1、天下の政権を朝廷に奉還せしめ政令よろしく朝廷より出づるべき事
2、上下議政局を設け議員を置きて万機を参賛せしめ万機よろしく公議に決すべき事
3、有材の公卿・諸侯・および天下の人材を顧問に備え官爵を賜いよろしく従来有名無実の官を除くべき事
4、外国の交際・広く公議を採り新たに至等の規約を立つべき事
5、古来の律令を折衷し新たに無窮の大典を選定すべき事
6、海軍よろしく拡張すべき事
7、御親兵を置き、帝都を守護せしむべき事
8、金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事


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