武蔵野航海記

武蔵野航海記

敗戦

何故日本がアメリカを中心とする連合軍と戦争することを決意したのか、そして何故負けたのか多くの議論がなされています。

負けるとは思わなかったから戦争を決意したのです。

日本軍が弱かったから戦争に負けたのです。

戦争の勝敗を分けた原因は無数にあり戦争という現実の行為は敵味方とも誤算の連続です。

個々の戦闘の勝敗も偶然に決まることが極めて多いのです。

双方の兵力が何万人で戦車・航空機・空母がそれぞれこれだけという客観的データで勝敗が決まるのであれば戦争など起こりません。

古来何倍もの敵を打ち破った戦争は数多くあります。

織田信長が今川義元の軍勢を打ち破った桶狭間の合戦では、信長の兵力は義元の十分の一でした。

日露戦争当時の日本とロシアの人口・兵力・経済力とも比較になりません。

過去を振り返った時人間は全能になります。戦争はやってみなければ結果など分らないのです。

やってみなければ勝敗がどうなるか分らない戦争を当時の日本軍の幹部はどう考えたかということです。

戦争の原因は支那です。

アメリカは日本に支那から撤兵しろと要求したのです。

そして日本は支那から撤兵することが出来なかったからアメリカとの戦争になったのです。

支那との戦争は1937年から続いていましたが、日本はこれ以後撤兵ができなかったのです。

戦争で負けたわけでもないのに撤兵するというのは勇気がいります。

自分たちの間違いを認めるわけですから、軍部の信用が失墜します。

まして運命共同体は自分達の利益を最優先しますから軍部の権威を失墜させる撤兵など決めるわけがないのです。

また国民も支那との戦争にはっきりと反対したわけでもありません。

戦争反対派が議会の多数を占めて戦争反対の態度をはっきりとさせれば昭和天皇はその性格からして議会の意思を尊重したはずです。

議会は戦争に対して煮え切らない態度のままでした。

こういう状態の時にアメリカはハルノートで日本軍に支那からの撤兵を要求してきました。

日本は天皇の下で奇跡的な成功が続きました。

徳川幕府を倒し、日清、日露戦争で勝って日本の独立を全うしました。

更に第一次世界大戦でも勝ちました。

特に日露戦争は世界中の誰もが日本の勝利を予想しなかった奇跡的な勝利でした。

このように奇跡的な勝利が続けば、次の戦いも勝つと考えるのが人間の心理ではないでしょうか。

日本軍が運命共同体になってしまったことから色々な組織的欠陥が生じたことが敗戦の原因です。

軍人仲間だけの閉鎖的社会を作ってしまい外部の人材を排除した結果情報がはいってこなくなったのです。

フィリピンで数十万人の日本兵が戦死ではなく餓死しました。

フィリピンは農業国ですがジュートなど工業の原料になる作物を栽培が多く食糧は自給できず輸入に頼っていました。

ところが日本の参謀本部はこんなことも知らずに農業国だから食糧は現地で手に入ると思い、補給を考えずに大軍を送り込んだのです。

当時のフィリピンには日本人が大勢おり、また商社なども情報をもっていましたからその気になれば簡単に情報がはいったはずです。

部外者を排除したことによりこんな基本的な情報も確認し対策を講じることをせずに戦争を始めたのです。

組織が運命共同体になってしまうと構成員の結束を保つために保守的な人事を行いますが、軍部も年次と学校時代の成績という基準を戦争中の前線司令官にまで適用しました。

昭和18年に連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死した後、古賀大将がそれを引き継ぎましたが彼も戦死しました。

その後は年次と成績からすると高須大将が妥当なのですが、彼は当時末期癌でした。

ところが海軍は彼を連合艦隊司令長官に任命したのです。

彼は戦場に赴いて間もなく病死しました。

他にも、兵科の違う司令官を年次と成績という理由だけから選んでその無能さから大敗北を喫したという例は多いのです。

戦闘による戦死者が多く出ると、残った兵力と装備を配分しなおして戦力のある戦闘集団に再編するのが合理的です。

しかし日本軍はこれが出来ませんでした。

日本軍は個々の中隊や連隊といった単位で運命共同体化していました。

そこで砲兵だけが残った連隊と歩兵だけが残った連隊を一つにしても機能的な連隊にならず烏合の衆になってしまい、負けだすと敗走するだけのものになってしまったのです。

これは今でも企業合併すると後がうまくいかないのと同じ現象です。

ところがアメリカなどでは企業買収し合併しても従業員の間でもめることはないのです。

日本軍が負けた原因として「員数主義」をあげる人がたくさんいます。

「員数(いんずう」」は数量を表す言葉です。

各部隊によって兵員数や武器の数などが決まっており定期的に数が揃っているかをチェックしていましたが、数が足りないと大変な制裁を受けたので現場では様々なごまかしが横行しました。

故障している鉄砲も数に入れるとか極端な場合には他所の部隊から盗んでくるということまで行われたのです。

このようにして書類の辻褄を合わせる「員数主義」になっていったのです。

書類の上では立派な連隊も実際は傷病兵と壊れた武器だけだったということが無数にあったのです。

員数主義はどんどん拡大していきました。

無理な命令を受けたときに、その命令の実行不可能を主張すると命令拒否になります。

だから命令を受領しても格好だけ従って実際はサボタージュするということになっていったのです。

形式だけの報告が行われるようになり、司令部や参謀本部も実態を把握できないようになってしまいました。

東条英機は戦争中の総理大臣でしたが、彼は「操典」の権威でした。

「操典」というのは軍隊の組織や行動を規制したマニュアルです。

膨大なものでしたが東条英機はこれに目を付け、頭に叩き込み自他共に認める「操典の権威」となりました。

そして軍事上の議論をしているときに「それは操典に反している」といって相手を論破したのです。

敵に勝つには操典を変えて現実に対応する決断こそが必要なのです。

こんな男が陸軍のトップになったということからも「員数主義」の深刻さがわかります。

おとり作戦という高等戦術があります。

数万の大軍をおとりにして敵にわざと襲わせ、全滅させている間に包囲殲滅するという作戦で、ナポレオンはこの作戦の名人でした。

ところが日本軍はこの作戦が採れなかったのです。

運命共同体ですからどの師団も損害は平等に負担しないと仲間の結束にヒビが入ってしまうのです。

その結果兵力の逐次投入という最も初歩的なミスを繰り返したのです。

このように軍隊が運命共同体化したために、日本の全ての資源を動員する総力戦が出来なくなってしまいました。

太平洋戦争のときの日本軍は日露戦争当時と比べてはるかに弱体化していたのです。

そして今までに挙げた日本軍の弱点が全部表に出てきたのです。

自分の所属する軍隊の勢力を維持拡大することを最大の目的とした結果、効率が恐ろしく悪くなり軍隊そのものが消滅するというパラドックスを招いてしまったのです。

このようにして日本軍は壊滅しました。

「もう戦争はコリゴリだ」という年配の方は多いのですが、これは日本軍の負けっぷりが悪かったという面も大きいと思っています。

常識を働かせれば分かるようなミスを、戦争のプロと称する集団が平気でやっていたという馬鹿馬鹿しさなのです。

昭和天皇の憲法観は軍人や憲法学者のそれとは違うようでした。

昭和天皇は自分を立憲君主だと自己規定していて憲法に従わなければならないと考えていました。

これはおじいさんの明治天皇が制定し、子孫にその遵守を命令したものだからです。

すなわち神である先祖が自分に命令したものだから従わなければならないと思っていたのです。

美濃部達吉などの憲法学者の学説は、ヨーロッパの教科書を丸のみしただけの神の存在を理解していないものでした。

一方軍人や右翼学者は、憲法の条文を素直に解釈し、神である天皇が臣下たる日本人に対して定めたもので、天皇自身はそれに拘束されないと考えていたのです。

天皇だけが明治憲法を改正することが出来たからです。

明治憲法は天皇に対して、憲法の規定する議会・内閣といった諸機関の決めたことを尊重することを要求していたので、昭和天皇はこれらの決定に異議を唱えることはしませんでした。

太平洋戦争開戦のときは、御前会議では意見が分かれていなかったので開戦を裁可しました。

敗戦時、ポツダム宣言を受け入れるか否かを議論した最高戦争指導会議では賛否両論に分かれて激しい議論があり、最後に首相が天皇に判断を求めたのです。

ここで初めて天皇は明治憲法に抵触せずに自分の意見を言うことが出来、ポツダム宣言受諾を決意しました。

個人としての昭和天皇に負け戦を始めたという戦争責任はないと解するべきでしょう。


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