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スタートライン、そんな言葉が出てきました。昨日「さようなら」とブログに書きながら泣いていた私でしたが、もう泣いている場合ではないようです。脱皮を終えた抜け殻はもう元の身体に戻ることはありません。まして脱皮した本体は新しい皮をまとって生き続けるしかありません。だったら、新しくスタートラインにたてばいい、そのスタートラインは常に今から始まるスタートラインにすればいい、そう思いました。此の頃朝目覚めてすぐ思うことは、あ、私は今日もちゃんと生きていた・・まだこの世とつながっていた、ということです(笑)。それだけ生きるということに真剣になってきたからだと思います。生きるってどんなこと?とか、生きるということはどんな意味があるの?あるいは、自分が生きる目的って何だ?と聞かれたとき、皆さんはどんな答えをお持ちでしょうか。私はこれから周りの人一人ひとりに聞いていきたいと思っています(マジで)。私自身の話しで言えば、今までは何かしらの目的を持って、それを一つ一つ努力と根気、あるいは夢を持って実現させることが生きる証でした。そしてその証を蓄積しながら、世間一般でいう徳を積み、善を成し、人を喜ばせ、社会を良くし、笑顔に囲まれた毎日を暮らすことが目標でした。確かにこの生き方は正しくもあり、立派な生き方ですが、世の中にはそれと正反対の生き方をする人もあります。そして逆にそういう生き方をする人が何かしら多くのものを得ているような気さえします。いや、そういう人は本当のところは孤独や絶望感で悩んでいる人だ、幸せな人ではない、と世間は言います。そうでしょうか。実際そういう大富豪もいますが、何も考えず、反省もせず、ちゃらんぽらんで一生を終わる人も多いのです。汗水たらして、努力し、歯を食いしばる生き方はどんくさいけれど素敵に見えます。又その一方で楽しさを追求して楽しいこと、幸せなことのみを実現しようとする人には、ピュアな子供のような探究心が垣間見られます。このいずれのタイプも成功すればそれなりに人を魅了します。しかし、私には、いずれも何か片手落ちのような気がしています。前者のどんくさい生き方の人は何故もっと息を抜けないのか、もっと頑張らないということを試すことはできないのかな?と思います。頑張り屋の人たちにとっては、「先が見えない」人生は許せないはずです。でも何をやっていいかわからない、という中途半端な状態を少し味わってみてもいいのではないかしら、とも思います。そして後者の人たちは、マイナスの感情や言葉を意図的に遠ざけているようです。その言葉を口にすることは勿論、思いをめぐらすことを敵対視する傾向があるようです。・・が、何故もっと光と対峙する闇の部分を見つめないのかな?と思います。闇があるから光がある、涙や辛さがあるから楽しさ、明るさがある、だから暗さや闇も同等の価値がある、とは思えないのでしょうか。生きる上で一つの考え方や視点だけにこだわっていると、いつのまにかそうでない考え方を遠ざけてしまおう、とする意識が働いてしまうときがあります。自分で受け容れないことに対してそれにふたをして考えようとしないことが多いと思います。まずはそれを取り去ることだと思います。そしてできるだけ多くの視点から物事を捉え、考え、感じようとすることで、確実に何かが変わりそうです。一つには価値感に差をつけない、ことかもしれません。頑張る、頑張らない、努力する、努力しない、いずれも同じと見ることです。そうすると世の中すべてのことは受け容れるしかない状態となります。努力した人だけが報われる、あるいは反対に努力しなくても報われる、どちらでもあり、そんな状態になります。また自分のこだわり、例えば、善だけを為そうとする善へのこだわり、徳へのこだわり、社会正義へのこだわりを捨てることです。お年寄りに席を譲ることをいつも実行している人は、優先席に座って狸寝入りをしている若者に腹をたてます。たまに、「おい、席譲ってやれ」という人もいます(爆)。席を譲る、ということを義務化して考えると、電車には恐くて乗れません(笑)。徳や善も強要するものではありません。善い事、世の中にためになると思うこと、これは絶対にプラスになるはず、と思うこと、それは本当にそうでしょうか?一度疑ってみるのもいいのではないかと思います。 私は生きる証を蓄積する人生よりも、自然に任せる人生を望みたいと思っています。そしてあらゆる視点をもって、子供のような感性を忘れないようにしたいと思います。毎日スタートラインにたって。
January 31, 2006
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私がここ数ヶ月間感じていた新しい感情、それは別離感というものでした。今まで自分が思うだけで心の中で会話ができていたはずのパートナーの声がだんだんと聞こえなくなるように思え、それは自分の中で起きた何かの変化のためなのだろうか、そうだとしたら、一体その感情は何なのかということを考えていました。彼との関わりが時間の経過とともに色あせてくる、その事に対するとまどい、そして同時に自分が本当に独りになってしまったことの孤独感がどっと襲ってきました。そこに、あの中国の生まれ変わりの村の話です。つい最近までは自分で言うのもなんですが、過去への執着と新しい価値観の受け入れの狭間に漂っていました。そして落ち込んでみたり、いや新しい誕生だ、と揺れ動く日々でした。恋愛から結婚を経て、子供を育て、同じ価値観を共有し、あるときは同志、そしてあるときは無二の親友、あるときは兄弟のようにそれこそ七変化の関係を保ち続けた20年間、それは忘れるにはあまりにも長い時間でした。その思い出は記憶として自分の細胞の一つ一つに刻み込まれています。それはもう遺伝子レベルで入り込んでいるかもしれません。しかし、彼はもういない。この現実をしっかりと受け止めることが必要です。彼の魂は確かにある、それは感じます。しかし、彼の生前の姿は、もう二度と見ることが出来ないのです。いつまでも過去の姿にしがみついてその思い出に浸ることは、彼の魂にとっても良くないのかもしれない、そう思えるようになってきました。本当はいつまでも生前の彼の姿で私を見守ってほしい、そして私があの世に行くまでの間、自分を支えて欲しい、そしてあの世に私が逝ったとき、あの茶目っ気たっぷりの表情で「良く帰ってきたね」といって私を迎えて欲しい・・・だってあんなに突然にいなくなってしまったのだから。でも彼の魂は別の身体となって別の名前で、新たに誕生を迎えているかもしれません。もしそうだったら、私はいつまでも過去の彼にしがみついていてはいけない、そう思います。むしろ手放してあげないと、私の思いが何か邪魔をしてしまうかもしれません。不思議なものです。男女の別れは私もそれなりに体験してきました。そしてその相手のことはほとんど思い出すこともなく過ごしてきました。それなのに、彼とは「死」というものを通しての別れであったために、自分が納得できないままに突然ロープを切られた一方的な別れでした。自分で望まない別れというのも、確かに過去に体験はしましたが、パートナーとの別れはお互いに別れるという意思がないまま、納得できないままの別れでした。これってつらい・・です。しかし、別れは別れとしてきちんと私も受けとめなければなりません。彼が今あの世にいるか、それとももう新しく生まれ変わったのか、それはわかりませんが、そろそろ私は彼から卒業して、自分の新たな道を歩むときがきた、そう感じています。さようなら・・あなたは自然の一部になってそしてまた新たな旅立ちを迎えるのでしょう。もう私は過去のあなたの姿や思い出にすがることはしません。前のように、私を助けて、と願うこともしません。でもわかっています。そう私が思った瞬間にあなたは私とあらたにつながったことを。私があなたの幻影を手放したとき、新たに私はあなたの魂を感じることができることを。さようなら、そして魂のあなたに、こんにちは。
January 30, 2006
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金曜の夜の森田健(もりけん)さんの「パフォーマンス」講演会が終わりました。講演会は第1部がスライドを中心としてもりけんさんのここ数年にわたっての不思議現象の調査の結果に関するもの(ちょっとしたアトラクションもありで)、そして第2部ではこの講演会の主催者である講談社の編集者ともりけんさんの対談という形で行われました。今回の講演会はタイトルもパフォーマンス講演会というだけあって、単に演者が壇上でスライドを見せながら、一方的にしゃべる、というものではありませんでした。まずもりけんさんがりんごさんになって登場。(りんごさんとは女装した彼のキャラクターです。)そして何故自分はこういった不思議現象を追うようになったかという体験から語り始め、自分が今までの調査体験の中から得た仮説を紹介していきます。今まで決して「神」という言葉を語らなかったもりけんさんが、何故今それを語るのか、ということも明らかにしていきました。その詳細は一気に紹介しても自分も消化不良になるだけですので、まずは私がやっぱり一番引っかかる話題、中国の生まれ変わりの村のことから書いていきます。今日は長いです。ここのところプチ鬱状態ということを昨年末あたりからしきりに書いていました。それは一つ大きな理由がありました。それを書いてしまっていいものか、という潜在的なためらいが今まであったのですが、そのためらいが金曜の講演会でさらりととれてしまったので、書いていきます。・・ともったいぶって・・喪失感から別離感がある、と前に書いたのですが、別離感の最大の理由は、中国の生まれ変わりの村からの情報でした。前にも紹介していますが、中国のある地方(ある工業都市で規模的には川崎市くらいだそうです)で、前世の記憶がある、という人たちが何人もいる地域があります。そこでは一つ「あの世のスープ伝説」というのがあって、あの世ではそこに行くとどういうわけかのどが渇いてしまうところがあって、そこにスープを飲ませる場所があり、そこでスープを飲むと今まで自分が生きていたこの世の記憶がすっかり消えてしまうというのです。そして前世の記憶をまったく忘れた状態で人は生まれ変わるのですが、たまたまその生まれ変わりの村の人たちは、このスープのことが伝説となっているため、皆そのスープを飲まないのだそうです。そして結果、前世の記憶を持ったまま、この世に生まれ変わった人たちが多く生活しているというわけです。そしてその生まれ変わった人たち、一度死んであの世にいき、またこの世に生まれ変わった人たちが語るさまざまな体験が、講演会で紹介されました。これらの情報は、私は昨年の講演会で知りましたし、その後紹介された本でも見て知ってはいました。このブログでもちょっと面白い話として紹介していますが、あくまで私はさりげなく紹介をする振りをしていました。しかしこれがもし事実だとしたら、大変なことになるのです。それは、今までの私の価値観や生きる拠り所にしていたものががらがらと音をたてて崩れてしまうからです。いや、実はもう崩れていたのです。私にとっての最初のブレイクスルーとなった飯田史彦さんの「ブレイクスルー思考」以来、私は、魂は存在する、そしてそれは生まれ変わり、転生輪廻を体験する、魂は宇宙全体の要素であり、宇宙全体は常に「成長」を望んでいる、したがって、個々の魂はその成長を個々の人生で体験するためにまた転生輪廻を繰り返し、学びと成長を実現させていく、それが人生の目的である、と思ってきました。そして彼が著書の中で必ず言及する、愛する人や家族を失った人たちの周りには、必ずその亡くなった人の魂がいて目には見えないけれど空気のような存在で自分を支えてくれる、そう信じてきました。しかし、上述した生まれ変わりの村の人たちのように、死んであの世にいったパートナーがもしスープを飲んでいたら、彼は前世つまり私とのかかわりの記憶はすべて消えてもう生まれ変わっているかもしれませんし、私が死ぬまで自分が生まれ変わらないで待っていてくれる、という保証はないことになります。このことを思った瞬間に、今まで私の側にいたはずのパートナーの魂は行方知れずになりました・・・私にとって自分が真実だと思っていたことが、別の事実を知って崩れてしまったのです。そして上記の理由で私は喪失感というより、また孤独が一から始まってしまったわけでした。しかし、というかおかげさまでといいますか、この強烈などんでん返しのおかげで、なぜかすっきりとしています。ある意味、自分が拠り所としてきたつっかえ棒を外された気分だったのが、逆に一人で広い宇宙に飛び出した、そんな感じになりました。生まれ変わりの村のへんてこりんなありえない話を素直に信じて、自分で勝手に落ち込んでしまった、人はそうとるかもしれません。でも、どうとってももらってもかまわない、ちょっといきすぎ?と思われてもいいです。それこそ人の思うことは、好きに思っていただいて結構、という気持ちです。大事なのは、この瞬間、私が何を感じて、何を思っているか、それをこういう形で表すことで私は自分の中身を自分で放り出しています。自分なりのプライド、遠慮、気兼ね、こんな事をいったら馬鹿にされる、いやこのブログ自体存続しなくなる、エトセトラ、そんなことはもうどうでも良くなりました。心の再生Cafeとタイトルして、何か人の役になったら、という趣旨も、今はむしろ自分の気持ちを中心に吐き出す心情暴露型、あるいは私小説系(爆)路線をひた走りです。しかし私は今とても真剣です。そして自分が生きる、ということに対して真剣になればなるほど、自分に正直に語り、行動せざるを得なくなってきます。 今私は重たい自分の中身を放り出した、そんな気分です。
January 29, 2006
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今日は朝の5時に起きてしまいました(笑)。実は今日とても楽しみにしている講演会があります。なんだかずーっと待ちきれなくて、子供の遠足待ち状態、いや、久しぶりに温泉旅行にでも行く気分、待てよ、デートに行く気分(爆)?全部一緒の気分です(^^)。講演会は森田健さんの「パフォーマンス」講演会です。昨年船井オープンワールドで始めて参加した前回の講演会では、その迫力、膨大な情報と驚くべき内容にただ圧倒されました。彼は自分のホームページで今回の講演会について予告をしていますし、周到な準備の様子もアップしています。このHPを見ていると、期待がいやでも高まってきます。これはよく言う追っかけのファンがコンサートを見る感じかもしれませんが、実はもっと深いところで大きな流れをもらってくる予感があります。ということで今日はあまりに期待が高くて、これ以上書けません(爆)ので、感想は落ち着いてから書くことにします。しかしこんなにテンションがあがったのは久しぶりです。なんだかいい感じです・・(何が?笑)
January 27, 2006
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今日はがらっと話題が変わります。真実についてです。今日あるMLに「法廷は真実を明らかにするところ」ということに疑問を感じた、という内容のメールがありました。その言葉が目に入ったときに、つい1ヶ月ほど前に、裁判傍聴を支援しているある若者と話したときのことを思い出しました。彼は自分が係わってきた裁判傍聴で感じたことを聞かれて、「真実は一つではないと思います」と言いました。例えば私が労災申請で訴えている被災者の労働実態という名の真実、それが唯一の真実である、と私たちは信じているのですが、一方それが一つではない、としたら、それは一体どういうことなのでしょうか。そもそも真実とは何でしょうか。真実というのは事実というのとは違います。事実は、例えば残業時間が1時間という数字、あるいは何月何日に残業をした、という過去の記録です。真実と私たちが表現する場合には、ある主張をするための根拠として、この事実に何らかの意味づけをしています。この意味づけのところで真実が一つではなくなってくるのではないかと思います。ある人の残業時間が1時間だったとします。ただ、それは普通の時間帯だと10分ですむ内容でした。通常はつかまるはずの取引先の人間がその時間におらず、しかも確認したい内容については回りには誰もいないという事態のために、確認に大幅な時間をとっての結果でした。ところが、その上司はそれを見て、「これはその人間だけが知っている情報ではない。他部署に聞くとか、過去の資料を調べればわかる」といって残業を認めませんでした。さてこの場合、上司にとっては、必要だったと認める時間数はせいぜい30分です。上司にとっては1時間という時間が真実ではありません。一方1時間かかった本人にとっては、確認をとろうとした本人がいない、しかもその内容はその本人しかわからない、ということで本人が帰ってくるまでには1時間どころか数時間待つ思いでその時間を過ごしたのです。本人にとってはこの1時間は長い時間でした。極端な話しをします。このケースでもし本人が、取引先の人間を待っている間にあまりにも心臓がバクバクしたために心臓発作を起こして倒れたとします。本人にとってはそれこそこれは一大事、もう為すべきことはない、と一生懸命になっておまけに結果として心臓に負荷がかかってしまったとても気の毒な事態になりましたが、「これは本来そんなにたいした内容のものではない。第一解決策は他にもあったし、それをとっさに判断できない彼の力不足だ、あるいは心配したのは本人の勝手だ」という考えもあるのです。上記の例はちょっとありえない話に聞こえますが、この話し、実は労災申請や裁判ではよくある話です。例としてあまり適切でなかったかもしれませんが、私が言いたいのは、本人にとって大変だ、と思われること(本人にとっての真実)と、それを受け止める回りの人間(例えば上司とか同僚)の思い(彼らにとっての真実)は違うのです。そしてこれが本人(被災者)対会社あるいは行政の図式となって、労働実態というテーマで争われることになるのです。少し固い話しになってしまいましたが、私にとっての真実と、他者にとっての真実が違う、という認識は、いろいろな場面で必要かもしれない、という思いがしています。いや、むしろ、真実は一つではない、とあらかじめ覚悟しておくことで、余計に落ち込んだり、悩んだり、相手を責めたりすることから逃れることができるのではないか、と思います。人の思いというのは人それぞれで、それぞれが完結しているのですから、自分の真実を他人の真実として上書きさせることは不可能な気がします。だったら、はじめからそれを知った上で、自分がどうするのか、どうしたいのかを考えればいいのではないか、と思いました。
January 26, 2006
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「今の自分に正直に」そして「一瞬一瞬を輝かせるような生き方」というキーワードが昨日出てきました。ごく当たり前な言葉ではありますが、実際にこれを実現させるとなるといろいろなしがらみやら、自分の変なプライドやら、既成観念やら、思い込み、すべてを捨てる必要があると感じています。この状態を目指す、というよりは、結果としてこういった状態が自然にできていた、というのが理想です。まずは自分のアンテナを張り巡らす、五感を研ぎ澄ます、自分の気持ちを偽らない、こんなことから始めようかと思います、とりあえずの結論として。ところで私たちは何のために生きているのでしょうか。この問いは、人類の永遠のテーマです。あらゆる時代のあらゆる国の哲学者がこの問題を一生かけて取り組み、また何のために生きる、如何に生きるべきかを追求していった先に宗教が生まれました。私はたまたま、家族の死という体験から、何のために生きているのだろう、という素直な問いが出てきました。そして生きるとは学び、成長だ、という結論に達した・・はずでした。ここにある言葉があります。「人は死ぬために生きている」それと私が前に中村天風の本を読んでいたときに、人は死ぬまで生きるのだから死ぬ時期を心配してもしょうがない、という意味のことが書いてありました。当たり前だろう、という話になりますがそうでもありません。この死ぬために、そして死ぬまで生きる、という言葉が案外、人は何で生きるか、ということへのヒントではないかと、最近は思うのです。学び、成長という言葉はなぜか説得力があります。真・善・美という言葉もありますが、いずれも完全なものを目指す、というイメージがあります。今の自分は学び、成長した後の自分と比べるとまだまだ小さい、だから上を目指そう、という意味で。これだと、今の自分は、学ぶ、成長する、という意思を持たないと人間として一人前ではない、ということになります。確かにステップ・バイ・ステップ、階段を上るがごとく、一回りもふた回りも大きくなる、とてもよさそうに聞こえます(笑)。しかし、成長した自分、その前の自分を比較していくと、過去の自分は実につまらない人間になってしまいます。もしもいつも自分が完全だ、と考えればどうでしょうか。完全だ、というのがおこがましければ、今の自分でいいのだ、と考えればどうでしょう。人生は学びだ、成長することこそ大事だ、と一つ一つを検証していくことよりも、学びは気づき、あるいはひらめき、と、成長は変化と置き換えていくことができないでしょうか。そうすれば、気づき、ひらめきはもっと自然に降って来るような気分にならないでしょうか。学ぶというと、成果を得なければなりませんが、気づき、ひらめきはそんな制限はありません。成長という言葉は小さいものから大きいものへ、中身の薄いものから詰まったものへ、そしてより広がった世界という風に大きいものに向かって進化していくさまを表します。一方変化は、大きいものから小さいもの、逆もありきです。人間はもともと完全無敵だと思います(爆)。中身をつめる必要もないし、無理して大きくなる必要もないと思います。今のままの自分でよくて、そしてその自分が死ぬまでの時間を自分なりに納得するやり方で過ごせば、とりあえずはいいのではないかと思います。気づき、ひらめきを待って変化を楽しむ、この方が学び、成長というよりちょっと楽に聞こえます。大体、学び成長というのはあまりにも優等生すぎて嫌です。優等生とかいい人は卒業したいですから(爆)。
January 25, 2006
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脱皮しすぎた・・戻れない(爆)と書きましたが、例えばニシキヘビがそのニシキの模様を捨てて真っ白なへびになってしまっても、あるいはその模様が逆にコブラのような毒々しい模様になってしまっても、それはそれでしょうがないと思います (爆)。なったことは結果で、それは結果として出た以上、時間軸は瞬時に過去になってしまいます。過去をうらんでみてもしょうがないですから・・さて、私にとってのコペルニクス的展開の続きです。私は今まで今の自分の有り様(特に人生観といった価値観について)は、過去の自分の体験や学習、知識によって裏づけられていると思っていました。特に自分の倫理観は、学校時代に受けた教育からの影響、家庭環境により大きく支配されていて、それは自分の中で確立していた、と思っていました。ところが、あるとき私は自分が過去に培ってきたものの観方や、感覚からはまず相容れないであろう体験を経験しました。そしてその体験に無理やり意味づけをして、そうなったプロセスを一生懸命検証しようとしました。しかし、その原因探しは全く意味をなしませんでした(爆)。むしろ、そのために自分を矮小化したり、逆に開き直ったりと、気持ちが振り子のように揺れるだけでした。これは日常生活の些細なことでもそうです。21日の結局行かなかった講演会にしても、行かない理由を自分なりに精一杯掲げて、自分自身を納得させていましたし、かといって、行かなかった、という結果に対しては気持ちがすっきりせずという状態でした。これも振り子状態です。こうやって物事を見始めると、すべてのことが細かく自分に向かってきてしまい、ちょっとしたことに敏感になり、それをパズルのようにつなげようとしてしまいます。関係のないことまでもが、意味ありげに見えてしまいます。この堂々巡り状態から抜け出るためには、もう結果は結果だ、と割り切るしかありません。自分にすべて取り込む、ということをやめようと思いました。むしろ自分を放出して、空っぽになっちゃおうと。それには、もっと自分の「今」の感覚に正直になろうとあらためて思いました。自分の今の感覚に正直に・・・これは自分がそうしよう、と思ってはいるものの、貫けない部分でした。周りの人のことを気にしすぎて、自分がいつも「いい人」でいたい。そのことが、、自分で知らず知らず外皮を厚くしていました。私の中で「いい人」でいたい、という感覚を取ると、おそらくもっと我侭で、現実的で子供っぽい私が現れてくると思います。でもそれでいいかな、って思います。それこそ90になっても可愛いね、って言われるおばあちゃんでいたいから。例えば80歳まで生きられたとして、偉業を為した、あるいはみんなが「・・先生」と慕う人になりたいか、というと、そうではないです(きっぱり)。 あの人はこんなに立派だった、といわれるより、あの人は可愛かった、格好良かった、といわれる人になりたいと。それは表面的なものだけでなく、考え方すべても。何を為したかとか、何をどう築いたかではなくて、その一瞬一瞬輝いている人を目指したい。それが多分80歳を超えてもなお、可愛いとか格好いい、という言葉で表現されるものだと思うから。岡本太郎というアーティストがいました。大阪万博の塔を作成した人です。彼は「芸術は爆発だ!」といつもものすごいエネルギーを回りに振りまいている人でした。それは彼が死ぬまで続きました。私もなんというか、こういう死ぬまで持っていける「何か」をトレードマークにしたいです。「人生は恋よ!」と決められたらなぁ。目指せ森 光子(言っちゃった!爆)
January 24, 2006
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今日は一日中ある考えがとりついて離れませんでした。今まで私の関わってきたこと、これから目指す方向、これらを考えるたびに心が揺れていました。今までは自分が生きることは人のために役立つことだ、人の役に立つ、人に何かしてあげる、そういうことの実践が生きる証であると思ってきました。そしてそこにたまたま自分が人生の中で遭遇したパートナーの死というものを重ね合わせて、この体験を有意義なものにしたい、ということで過労死関係の活動に入っていきました。昨年はまた自殺の予防に取り組むNPO法人が開催したシンポジウムに参加して、何か惹かれるように会員に登録し、開催するイベントに少しだけですがスタッフとして参加もしました。こうやって活動していくうちに知り合った方たちは皆さん素敵な方たちで、こういった方たちとの交流は自分にとってとても大事な社会とのつながり、そして人とのネットワークだと思いました。さてここからが今日の悩み事です。つい先日NPO法人の主催で行われたある講演会も、当然行ってお手伝いしなければ、と思いながら、あの雪と体調で躊躇してしまいました。結果なぜか中途半端な係わり方をしてしまった自分を責めてみたり、同じような境遇で活躍する仲間を羨望視してみたり、なぜかぐずぐず、とする自分がいます。何故こういった自分と人へのわだかまりが交錯するのか、これは私にとっては由々しき問題です。やるならやる、やらないならやらない、ときっぱり、あっさりと元気に向かうはずの私がこうぐずぐずしているのは、一体なんだろうと、今日は一日中考えていました。一つには、自分の中に起こっているある変化にまだ意識がすべてシフトしきれていない、という状況なのです。その変化とは、数日前から書いている話題、自由に生きるということにリンクしているのですが、「自分発信型」、「善を為す」という従来の私のスタンスから、「自分をなくす」、「為すことをしない」という全く逆パターンへの展開です。これは自分では全く予想がつかない展開でした。これは昨年の秋頃から紹介しているある本と講演会の出会いから始まっているのですが、私にとってこれはコペルニクス的な展開というべきもので、そのあまりにも大きなギャップに多分ついていけないのです(大汗)。最初にざっと書いた自分の軌跡を見ると、1. 人のために役立つ生き方を目指す=人のために我が為す2. パートナーの死に対する意味づけそして社会的な活動をしようとする=自分発信(自分の経験があるから、自分が語らなければどうする、家族の死を無駄にしたくない)となり、これからの展開はまさにこれを否定することになります。考えれば、うじうじ悩んだり、考えるのは当然です。今まで○○年培ってきた価値観を根本的に否定するのですから、大変です(滝汗)。古い体質の私が抵抗しているかもしれません。こっちの方が甘いよ、といって戻るように古い私が私自身を誘っているのかもしれません(爆)。しかし、こういう考え方自体も実は、私が発信する、ということが根本にあっても話です。考えを捨てようとか変えよう、と言っているうちは、まだまだ自分の中身が詰まっている状態で、そこの全部あるいは一部を入れ替えるだけの話しだからです。これから私が目指そうとしているのは、そもそも自分をなくしてしまおうというものです。楽器にように、奏でる人によって音色も全体感も変わる「筒」状態(これが為さない自分、そこに存在するだけの自分)にしてしまおうという人間改造計画ではなく、楽器改造計画なのです。(爆)今日はタマネギの皮を一枚一枚どころか、タマネギの芯さえ取る勢いになっています(汗)。これはまさに脱皮状態です。そして脱ぎ捨てた皮をしみじみ懐かしみ、新しく生まれた自分の姿を見て途方にくれる、そんな状態です。脱皮しすぎたと・・・(爆)そして元には戻れない(滝汗)。明日へ続きます。
January 23, 2006
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今日は午後は雪かきに追われました。ここ千葉県でも数センチの積雪があって車の出入りをするために、家の前の雪かきと、通勤で使っている駅前の駐車場の雪かきもしました。夕方にかなカナさんと会ってから帰るころには道路はカチカチのアイスバーン状態でした。雪かきしておいて良かったぁ。それに家の前の雪かきには、お隣さん、お向かいさんもちょうど雪かきをしていて、我が家の分も手伝ってもらいました(ヤッタ!)昨日は自由ということについて自分を無条件に受け入れる、ということが前提だ、と書きました。そしてそこに知性が加われば鬼に金棒だと。自分を無条件に受け入れる、ということは今の自分のありのままを認めるということですが、これに徹するということは、もっと自分のここを改善しよう、とか、ここを努力してこの能力を伸ばそう、あるいは自分がもっと変わることで人との関係を改善しよう、あるいは社会を良くしよう、という考えと袂を分かつことになります。ありのままの自分でOK、ということは、無理に変える必要はない、とういことです。「無理に」ということは、自分が本当は望んでいないことを正義とか善とか、社会的な意義といった何か自分以外の周り(社会とか家族、友人、といった人間関係)のために本来の自分の思考、価値観、願望といったものを捨てて、あるいはそれを変更させて周りに合わせようとする状況を意味しています。それに何か不都合があったときに、よく「私の努力が足りなかったから」という風に考える人もいますが、これも同じ事です。努力が足りなかったから努力すれば良かったのか、というと、物事はそう簡単に原因と結果が繋がるわけではないと思います。それは自分が頑張っていればもっと良くなった、という一つのおごりとさえいえます。ありのままの自分・・・時には投げやりになったり、気まぐれになったり、(いつもでもいいですが・・笑)、迷惑をかけたり、それでもいいではありませんか。何を人から言われようが、自分が思うところを貫くということは、実際は大変なことです。私など、今の自分でOKといいながらも、こんな言い方をしたら相手はどう思うだろう、と思いながらメールを入れたり、電話をする小心ものです(爆)。それでも大きなところでは、自分が無理だと思うことは絶対にしない、と今年の年頭に強く誓いました(笑)。無理をすることで、あるいは人に無理にあわせることで、結局自分に何というか、余計なしがらみがどんどんたまってきてしまい、その処理におわれてしまうからです。興味が出たら瞬時に動く、でも興味がなくなったら止める、これではまるで子供ですが、私はこの子供のように行動することで、大きく私の周りが変化するような気がしています。ただとりとめがないだけでは人に迷惑をかけるだけの人ですが、一応それなりの問いを持って生きることを目指しますので、そうはご迷惑はかけないでしょう。(笑)今年の目標、とりあえず、小心者から脱皮して最強の子供(=自由)になるぞ(意味不明)
January 22, 2006
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おこがましいですが、自由についてどうしても書きたくなりました。ネットで見たプライドの育て方という毎日新聞のネット記事と、halemahineさんの裸の天使のブログが「降って」きた感じでしたから。自由って何だろうとその定義を探せば、多分5万の回答がくるでしょう。例えば身近なところで憲法を開くと、言論の自由、職業の自由、結婚の自由、などが出てきます。社会で人間が住むところを自由に選択できて、就きたい職業について、思うところを自由に表現できて、そして好きな人と結婚できる、これはよく人権という言葉でも表現され、人間の持つ最低の権利と言われます。ただ世界にはまだこの権利が保証されていないところも多いのも事実ですが。話しを戻します。ご紹介したネット記事(プライドの育て方)には、ゲイである男性が偏見に立ち向かいながら、職業を通して自己のプライドを回復する様子が書かれています。<ありのままの自分を受け止める>こと、この記事では「無条件の受容」と書かれている、この言葉が自由の本質を語っているように思います。性差、嗜好はもとより、それが一般的に社会に受け容れがたいものであれ、あるいは反社会的なものであれ、一人の人間がそこに存在していること自体、それをすべてひっくるめて自分で受け容れる、ということは実は大変難しいことだと思います。このゲイの方のように、一生懸命に働いても、どこかで自分のことが噂になってしまう、という人の目に耐えられなくなる場合がほとんどです。自分のすべてを受け入れるとは、自分の欠点や間違いすら認めるということですから、特に完璧主義といわれる人たち、負けず嫌いの人たちにとっても大変難しいことでしょう。又倫理観や道徳に厳しい人たちは、倫理や道徳を守ることが生きがいですから、それに反したことは一切認めず、その枠をはみ出すことを許しません。しかし私は、こうした常識にとらわれない「無条件の受容」は生きる上での大前提であり、これがまさに自由に生きることにつながると思います。そしてhalemahineさんの「裸の天使」というブログで、私は 裸の ダンサーに なりたかった。酔っぱらい男が その気になるんでも、これは芸術ねと ハイソな女が 表現するんでも 見る人に取って それぞれの 刺激になる 裸のダンサーに。私は ジャズを 歌いたかった。孤独の中で グラスを 傾ける女や 恋に破れて やけになりそうな 男に聞く人に取って それぞれの 愛を奏でる ジャズシンガーに。という部分を読んで、ここからも「自由」という言葉がストレートに浮かんできました。人間はこの世では魂だけではない、身体を持って生きている、ということを私たちは時折忘れてしまいます。女性だけではありません。男性も自分の持つ身体の存在をもっと大切にすべきだと思います。女性が自分の身体を武器にするような職業、それに対して何か卑しいものを感じることはなかったでしょうか。それは人間として最低ラインの職業あるいは恥ずべき職業だと思うところはないでしょうか。確かに関連して犯罪にリンクする闇の部分が存在することは事実です。しかし自らが自分の意思で、自分の肉体という素を使って自己表現するということの素晴らしさ、それは自分自身を100%認めなければできないことです。これはそういった闇の部分につながる行為とは全く別の次元の話しになります。ただし、そこには知性が不可欠・・と私は思います。知性とは・・・私たちは教育を通して、確かに知性というものを見に付けていきますが、それは知性というよりも社会の常識、倫理観、過去の価値観を刷り込む部分の方が多いような気がします。それこそタマネギの皮を一枚一枚増やしていくようなものです。知性とは、方程式を解く力でもなく、偏差値であらわされる学力でもなく、私は本質を見る力、そしてその本質をちゃんと表現できる力だと思います。自由と知性が合体すれば・・それは恐いものなしです。そして私たち一人ひとりがこの自由と知性を見につけることができていけば、社会はおのずから人の多様性を何の抵抗もなく受け容れる体制に移行していくはずです。あえて人権問題だの、差別撤廃、という運動を展開しなくても、一人ひとりが、自由と知性をちょっとだけ考えて、一人が一人とつながり、そしてまた一人とつながることで、そのネットワークがどんどんと機能していくと思います。ふう・・思わず熱くなりました(笑)。今日はボイスレッスンの日です。孤独の中で グラスを 傾ける女や 恋にやぶれた男に愛を奏でるシンガー・・・なりたい、目指すぞ!(爆)
January 20, 2006
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一遍の詩というか句があります。山間の星座の群に 道聞かば 自然は小径、はてない小径1月の最初にパートナーの同窓会でたまたま見つかった彼の暑中見舞いから見つけました。彼の学生時代のものらしいです。パートナーは山がとても好きで、学生時代は本格的にアルプスの山を巡ったりもしたらしいのですが、きっとそんなときに作ったものかもしれません。しかし、1月に初めて私の目に触れた、数十年前の彼の詩、こうやって見るとまるで謎かけのような内容ではありませんか(笑)。私には彼の詩の「自然」という部分が「運命」(人生でもありますが、前世とか未来を含めたすべての運命という概念です)という言葉に取れます。「はてない」という部分が、この世の人生だけでなく、未来永劫魔で続く果てしない道・という言葉に聞こえてきます。今自分が一人、とぼとぼと運命という道を歩いている、そんなイメージではありますが、そこには別に孤独感とか悲壮感はありません。この道をとぼとぼと歩く、周りの静寂さが自分の原点かもしれません。そして、この道の途中で自分が夢中になれること、楽しくなれる事をどうしたら探す事が出来るか、そしてもっと言えば、この道から外れてもっとにぎやかな都会を目指すことができるのだろうか、それを問うことが、自由への問いかもしれません。そして自由を探す事に疲れたら、またこの星座が降るように輝くこの小道に戻ればいいだけのことのようです。時代を経て茶色に変色した葉書に書かれた一遍の詩は、それこそ時代を超えて、空間、はたまた次元を超えて、私に降ってきました。果てしない小道をとぼとぼ歩く身ではありますが、この運命、受けてたとうじゃない、どんな展開になるか、見てやろうじゃない、とちょっとばかり挑戦的なモードの私です。かなり元気になってきたようですね(爆)。
January 19, 2006
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昨日「置いてきぼりモード」宣言をしてしまいました。ですが、halemahinaさん、そしてmoiNo.1さんから愛情あふれる本当に素敵なコメントをいただきました。感謝です(号泣)。ハワイ行きたいです。それにmoiNo.1さんの見ている山も!機会を見て是非伺いますね。ありがとうございます!実は今日ちょっとしたニュースを聞きました。一つは私が税理士試験の勉強をしていた頃一緒のクラスにいた方(男性)の訃報です。まだ40歳前とのこと。その方はとっても色が白くて、でも誠実な方で、周りにとても気を遣う方でした。実力はあるのに、いまひとつ結果が出ないタイプ、(こういうタイプの方は受験では一番受かりづらい方なのですが、)そういった方で努力がストレートに結果に結びつかず、確か途中で受験勉強をやめてしまったと聞いています。こういう方、結構多いのです。彼のことは顔ははっきり思い出せないのですが、その優しい雰囲気は覚えています。どうして、こういった思いやりがあって人一倍の頑張り屋さんが早く逝ってしまうのか・・これも運命なのでしょうが、ちょうど私自身ちょっとしたブルーモードに入っていたので、身につまされました。あと一つは、このブログでご紹介した飯田史彦さんが昨年末に脳出血で倒れて、奇跡的な復活をとげつつあるというニュースです(@@)。これは驚きでした。身体大事にせえよ、というメッセージですね。いつもいつも明るく前向きにといかないのは、多分精神と身体のバランスが崩れてくることも大きな要因です。今週の初めに思い切ってというか急に思いついてマッサージのフルコースに行きました。それを受けながら、あ、これはまさしく私が自分で書いた『ありがとう、もう大丈夫』の最初のところではないか、と苦笑しました。とりあえず、自分の本で書いたこと一通り試さなくては(爆)。マッサージでは思ったとおり、自律神経のバランスが崩れていると言われました。身体のちょっとした変化は、自分でもわかります。ここのところのこの微妙な変化(デモないぞ)は、私も見逃してはいませんでした(笑)。人間ってちょっとした神経のバランスでこうも簡単にブルーに入ってしまうんですね。私は別にブルーに入ることは悪いことだと思ってはいません。だって私のせいではないのですから(笑)。でも何が嫌かって、周りにいる人たちが見えなくなってしまうのが恐いです。「どうせ私は一人で生まれて一人で死んでいくんだから」と見栄を張ったところで、やっぱり「どうしたの」と声をかけてくれることをどこかで期待しています。そういった方々は私の周りには実はたくさんいらっしゃるのに、それが実感できなくなってしまう、ここが私にとって困ったことです。でもいいです(何が? 爆)今回のことで、まさに私の弱さが見えたわけですが、それはそれで、私の個性を認識できたので、よしとします。結論としては、やっぱり私は自分以外の人とコミュニケーションをとりたいのだ、そしていろいろな人とつながりたいのだ、というその一点でした。ですから、皆様、今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。見捨てないでくださいませ(爆)。話しは変わりますが、moiNo.1さんが昨日のブログのコメントに書いていただいた、個性のことです。個性って自分の中では意識だけ、だと思っていますが、きっとそれは身体を含めたすべてだと思います。顔、体つき、手足の長さ、胃腸が丈夫か、心臓が強いかそういった外見もう含む自分に関する情報のすべてのような気がします。自分以外の人から見たら、私、海老原あや子という人物を認識するときは、私の容姿、年齢(>・
January 18, 2006
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人間いつもいつも元気ではいられません。時には一人でため息をついたり、ひざを抱えて部屋の隅でぼーっとしたり、という時間もあります。今私はちょうどそんなときのようです。「孤高の人」という言葉がありますが、今日帰り道に見上げた月から、その言葉が聞こえてくる思いでした。孤独感ではないけれど人恋しい、でも大勢の人と交わるのはいや、じゃあ、気の合った人と触れ合うのがいいかと聞かれても、それとも違う・・厄介な感情です。(天邪鬼が人間になったのか・・爆)こういう感情は、いったいどこから出てくるのだろう、と思います。自分は導管のように、と思っているはずなのに、時折襲ってくる孤独感は何なのだろうとも思います。最近こういう気持ちが多くなりました。これが進むとひょっとして○○病?かも、と思うときもあります(やばい・・)。考えてみたらちょうどパートナーが亡くなってからあと3ヶ月で4年になります。喪失感という感情とは別の、何というのでしょう、離別感というのでしょうか。喪失感というのは今までいた存在をまだ感覚的に覚えているときのものでしょうか。今は喪失感というより、明らかにもう「いない」という感覚がリアルになってそれを当たり前のように受け入れている中での、ぽっかりとあいたブラックホールのようなものです。これが別離感、一体感と対極にある感じなのかな、と思います。これはしかし、逆に言えば、外から私に投げかけられている問いかもしれません。パートナーを忘れかけている事に関する警告かもしれません(滝汗)。いや・・忘れているわけではありませんが、やはり現実にいない人はいないのです(笑)。さびしいというわけではない、けれど何となく気分が明るくなれない、少しだけバランスが崩れた感じ・・。周りの人がみんな輝いているのに、なぜか自分が置いてきぼりにされている、今はそんな感じです。しょせん、私は本当に小さい存在だと。一つには、自分のこれからのことがまだ漠然としているせいかもしれませんが、今日はこの「置いてきぼり」の感情を心ゆくまで堪能する事にします。では「置いてきぼり」モード、入ります(爆)。そして私に向けられている外の世界からのメッセージを受けとめる事にします。しかし・・・その前に寝てしまうかも。これがアバウトな私の最大の長所でもありますが(笑)。
January 17, 2006
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今朝電車に乗っていたときのことです。二つ先の駅で急病人が出たらしく、電車は1,2分ほどいつもより長く停車していました。そしてドアが閉まる直前に女性が何気なくその電車に乗りました。この女性がいつも同じ時刻にこの駅に現れていたら、多分私が乗り合わせた電車には乗れません。しかし今日だけはこの電車に乗れました。・・自分を取り巻く出来事と、自分の意思とは一体どんな関係があるのだろう、とふと思いました。というのは、彼女の乗った電車が実は今日に限って数分遅れ、そのおかげで乗れたことが、その女性は知りません。当たり前のようにいつもの電車に乗ったわ、と思っていたはずです。様子もそんな感じでした。私たちの身の回りに起きること、自分が乗る1台の電車にさえも、こういった情報があって、しかもその本当のところを私たちはほとんど知らないのです。私たちは日常でいろいろな判断を迫られる場面があります。また昨日の話しのように、人間には様々な欲望や願望があります。人間の欲望、願望、そして目の前にある問題に対応する処理や判断といった自分が意識的に行う行為の影には、数分遅れてきた電車に乗る、といった全く予想のつかない事態が巧妙にリンクしているのだとあらためて感じました。いや、むしろ私たちは自分が意思を持って何かを為していると信じて行動していますが、その自分だと思っていた意思すら、一体どこから湧き上がってくるのだろうと思います。自分が考え付くこと、あるいは行動すること、それは暑い、寒い、痛い、といった自分の五感とは別なものです。最近は人間の脳に関する科学的な検証が随分と発達して、神経系統に関するメカニズムは随分と解明できているようです。しかし、大元の意識そのものは一体どこから来るのでしょうか。そもそも「私」という人間って何なのでしょう。犯罪者が判断能力を持っていたかどうかが問題となるケースが、まさにこれだと思います。何でこんなことをしてしまったのだろう、あるいは何でこんなことを口走ったのだろう、と思うときも私たちは体験しているはずです。考えて考えたけれど結局やめた、ということもあるはずです。スピリチャル系(精神世界と呼ばれる分野)では、直観力の重要性は常識ですが、ビジネス系の分野でも直観力を磨こうとか、右脳教育に関するテーマの本が出ています。直観力というのは右脳から出てくるメッセージとはわかっていても、そのメッセージといった信号パルスを発生させる原因は何でしょうか。わかっているのは、自分がこの世に生まれてから経験したすべての記憶、学習したこと、出合った人、すべての情報は五感を通じて、それを記憶しているかいないかに係わらず脳はすべて認識していること、そしてそれがいわゆる無意識や潜在意識と呼ばれる部分に蓄積されているということです。スピリチャルな世界では、前世の記憶もまたこの潜在意識に蓄積されていると考えられています。そして何か判断が必要になったとき通常は私たちの学習した情報や記憶している経験に基づいて判断しますが、直感というのはこの無意識な部分から私たちに情報を与えるものだといいます。しかし、直感というものがその人の潜在意識や無意識からくるものだとしても、それはその人の過去(前世を含めて)に認識したことに限定されてしまいます。しかも一人の人間が一生に体験することというのは限られています。その限られた経験だけに基づくものであるならば、たとえ潜在意識といえどもそれぞれに容量も違うはずです。直観力にもAランクとかBランクがあっていいはずです。極論ですが。しかし、潜在意識とか直観力の重要さを説く人たちは、その部分は言及せず、ただ貴方の能力を信じなさいというだけです。一般的に右脳とか直観力の持っている力は計り知れないといわれていますし、いわゆるハイヤーセルフもすべてを超越したものだとも言われています。しかし、人には知識、情報、技術、体力すべてそのキャパはさまざまです。またある人は良心を信じましょう、ともいいます。この良心とはどこで蓄積されたものなのでしょう。直感とか潜在意識の情報の源泉とは?つまり、それらをひっくるめた私とは?又この問いが来てしまいました(笑)。
January 16, 2006
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人間には様々な「欲」があります。食欲といった生命の維持とか保存に関する欲、名声や富といった社会的な欲、女性が美しくなりたい、若返りたいと願う欲、異性にもてたいと思う欲・・数え上げればきりがありません。欲望と願望というのは、願うという内容は同じですが、前者は動物的、直接的なものとして捉えられ、後者はどちらかというと精神的なものとして捉えられています。欲望はどちらかというと、○○をしたい、という行動が先で、願望はもっと△になりたい、とか○のような状態になりたい、といった状態を表すともいえます。たとえば、お金持ちになりたい、と言う場合に、お金そのものをゲットすると言う目的が欲望で、お金持ちという状態をイメージして、そういう自分(お金持ちと呼ばれる人になりたい)をイメージするのが願望ともいえそうです。ま、どちらにせよ、××したい、ということが私は基本にあると思いますので、願望を含めてここでは「欲望」とします。さて、その欲望ですが、欲望をまったくなくすということは普通の生活をしている私たちにはまず考えられません。しかし、仏教ではいかに煩悩と闘うか、ということが大きなテーマになっていますし、キリスト教の十戒はまさ「汝・・するなかれ」という、この煩悩に対する戒律です。イスラム教でもそうです。宗教にとって、欲望との闘いというのは人間の根源の問題です。昨日自然と同化する、というテーマで、最後の方に自分を空にして自然と同化する、という表現をしました。自分を空にする、というのは私のイメージでは、自分を一種の導管のようにして、自分の意識を宇宙につなげる、という感じですが、言葉を言い換えれば、意識から潜在意識に入る、ということかもしれません。そしてその導管と化した自分と、欲望との関係はどうなのか、とふと考えました。欲望というのは、人間が生物として生きていく中で感じる生物的な欲求と、社会的な欲求がありますが、どちらにせよ、それらが限りなくゼロに近づくことはあっても、まったく無くなるということはないですから、自分をイメージの中で導管化させても、生身の身体と感覚を持つ生物体、そして生活していく中でこうありたい、と願う意識を持つ精神的なものは当然残ります。それらを煩悩と片付けて、排除しようとするのが宗教ですが、自分の中の潜在意識とよばれる部分には、こうしたい、という欲求がまったくないのでしょうか。自分を空にしているときの、潜在意識である自分、あるいはハイヤーセルフに出会う自分、そのときの自分には我欲は存在しないのでしょうか。今これが気になるテーマとなっています。
January 14, 2006
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自然と人との関わりを考えています。昔、まだ文明が発達していなかった頃は、自然は人類にとっては脅威と崇拝の対象でした。人類の科学の発達は自然のコントロールと人間の病の克服といった二大テーマを掲げて進んできました。現代に至り、過去には死をもたらす恐怖の病であった多くの疾病は、そのメカニズムが解明され治療法も確立しました。コレラ、天然痘、など恐れられていた伝染病は人間の手で治療と予防が可能になり、まだまだ完全とはいえませんが、エイズに対しても今はかなりの研究が進んでいます。自然に対しても、大規模な治水対策や道路の開発を通じて、人間の生活は豊かになりました。しかし一方で、農業や工業開発により森林が荒らされ、観光開発により人間が侵入したことによる生態系の変化など自然破壊が問題となり、温暖化現象によると思われる異常気象が見られます。ここに来てようやく私たちは、行き過ぎた自然へのコントロールに気がついたわけです地球を守ろうという環境保護の運動も盛んになりましたし、ロハスといったライフスタイルの中で地球環境に配慮するということも段々生活の中に取り入れられるようになってきました。私はこのような環境保護の動きや、ロハスというスタイルを否定はしませんが、そこには、あくまで自然と人間を区分しているように思います。人間は意志を持って行動すれば必ず結果は出せる、という「為す」自分を出発点とする考え方、これは理想や夢、願望は持てば必ず叶う、という考えにつながるものですが、このような自分を軸として自然は外側と見る関係では、自然はあくまで人間にとっては環境と呼ばれる物理的な空間を構成している植物や生物として捉えていると思います。言い換えると、私は私(=人間)であり、自然とは私の外側にあるものと区別しています。これは主には欧米の考え方に見られると思います。こういった考えの一方で、日本人は自然を生活に取り入れた文化を発達させました。庭の様式にしても、いわゆる西洋では明らかに人工的な幾何学模様の庭園スタイルですが、日本の場合は枯山水というスタイルで、一見すると普通の池と木としか思えないものです。私が高校生の頃京都に修学旅行で行ったときに、枯山水の庭園といわれて、どこに人の手が入っているのか全くわからなかった(汗)のを覚えています。自然と人との向き合い方はさまざまではありますが、自然と同化する、というスタイルを日本人そしてアジアの人たちは選択してきたのではないか、と思います。自然はコントロールするものではなくて、共存するもの、そして共存とはお互いに対等の関係になって、お互いがコミュニケーションすら可能な状況まで、自らの感受性を研ぎ澄ませることのように思います。宮本武蔵がある剣豪と試合をしたときに、その勝負のみに集中していた武蔵はその剣豪に敗れてしまいます。そのあと、剣豪は、「武蔵よ、鳥の声を聞いたか」と呼びかけます。勝負だけではなく、自分の外側の自然の声を聞ける、すなわちより広く自分のアンテナ(=五感)を張れるようになってこそ、一人前である、言い換えれば自分の身体能力、技術、そして直感、五感といったすべてを駆使した総合的な力が必要だ、という意味だと思うのですが、この鳥の声を聞く、というのはまた別な意味があるようにも感じます。それは多分自分を「空」の状態にしたとき、自然はもはや自分の外側ではなくて、自分と同化している、あるいは、自分は自然の一部になっている、そんな状況のときのことではないか、と思います。勝負の相手に対して剣を構えたとき、相手に勝つことだけに集中していかに相手を倒すか、自分の技をどう展開させるかだけを考えたのが、剣豪に負けたときの武蔵でした。しかし、その後の修行により自然に同化することに成功した武蔵は、相手に対して剣を構えたとき、自然に鳥の声が静かに耳に入ってきたはずです。そこには相手を倒す、という意識よりも、自然に剣を構えて自然に流す、という無意識の世界に入っている可能性もあります。事実、後に武蔵はそのことを「今私は鳥の声を聞くことがようやくできた」と書き記しているといいます。で、何をいいたいかというと(笑)、私は武蔵のようになりたい(爆)ということです。自然さえも味方につけた人生を送りたい、というところでしょうか。いきなりストンとまとまってしまった感はありますが、これは自分を「空」にしてしまう、ということでもあります。これが実は大変な課題なのです。(フー)(続く)。昨日はバイオリンで、今日は武蔵、私も変身願望が強いかも。。。
January 13, 2006
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昨日運命は決まっている、というテーマに少しだけ触れました。それ以来ですが、私の頭の中でぐるぐると回っています。「運命は決まっている・・」運命という言葉が何となく仰々しければ、自分の外側といってもいいと思います。自分が望もうと、あるいは望まなくても、出来事は起きていくし、それが処理されれば、また新たな出来事が起こり、という繰り返しなのでしょう。今日帰りに車を運転していたら、いきなり白い子猫が道路に飛び出してきました。猫は強い光を当てられると一瞬目が見えなくなって動きが鈍ります。この猫ちゃんは明らかに車と数十センチの距離しかなかったと思います。猫ちゃんを発見してから急ブレーキをかけましたが、ほとんど「だめだ」と思いました。ところが、奇跡的に猫は引き返したのか、その勢いで道路を渡ったのか、私の車が止まったときにはもうその場にはいませんでした。しかし、危なかったことは、私が驚きのあまりセンターラインをはみ出してしかも急ブレーキをかけてその場に数秒間止まっていたことです。対向車が来ていれば間違いなく事故でした。もらわれ事故というのは聞いたことがありますが、今回もし対向車が存在していたら、あるいは後ろからせっついている車が来ていたら、と考えると、結構きわどいタイミングでした。まさしく、この事件は私とは無縁の私の外側の出来事ですが、一歩間違えば私にとっては大変なことになっていました。そしてその後洗車をしました。無人のガソリンスタンドにある自動洗車ですが、そこで900円の撥水洗車をしようと1000円札を入れたら、何と500円コインが戻ってきました。(爆)勿論これは機械の偶然のミスですが。この2つの出来事ははっきりいって偶然といえば偶然の、しかもきわめて些細なことです。白い子猫が道路を渡ろうとしていたその場に私の車が居合わせた、そして100円と間違って500円をつり銭として出してしまった機械も、たまたまその500円を私が受け取っただけのことです。しかし、そこに私という人物がかかわることで、この猫と500円は私の出来事になりました。ある意味、これは私ではなくてほかの人でもいいのですが、でも、私が500円をゲットしました(爆)。これが500円でなくて宝くじの一等だったら、私は億万長者です。運命ってこんなものなのか、とふと思いました。それは外側から突然降ってくることで私には知る由もなく、しかも私がどうあがいても逃れらないタイミングで居合わせてしまう、その繰り返しが人生のような気がしました。ですから、別に普通にしていればいいのだと思います。気負う必要も無ければ、不安がる必要も無い、外側から何かきてもそれを演じきる、あるいは受けとめるだけでいいんだ、そう思うと何かすっきりします。ということで、私は女優よ、と言いたいところですが、もう少し格好つけていいですか?私は楽器がいいなぁ。奏でる人によって音色が変わり、しかも自分は空洞、演奏者をひたすら待っている、ちょっといいではありませんか。さしずめバイオリンのストラディバリウス(千住真理子さんがゲットした名器)かなぁ、いやそれはいいすぎだ(爆)。
January 12, 2006
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今日は長い文書を書きます(爆)。今までの自分のことをちょっと振り返っていくうちに長くなりました。ある日突然に長く連れ添ってきたパートナーを亡くし、大きな衝撃を受け、そこから何とか自分なりに人生のステージを上げてきたことを、私は『ありがとう、もう大丈夫』で書きました。このときは回りにいるまだまだ心の整理がつかない方たちに自分のメッセージを伝えたい思いで一杯でした。そしてそれはこのブログを始めたときも同じです。死別、離別といった喪失体験は確かに大変辛い体験ではあるけれど、それを乗り越えることが可能であり、新たな自分というものを再生できるきっかけとして捉えることで、人生が楽になる、そういった考え方で進んできました。しかし、昨年の秋頃手にした一冊の本は私の今までの考えを払拭してしまいました。「運命はすべて決まっている」、そして私たちはその決められた運命を淡々とこなしていく存在にすぎないのだ、という新たな見方です。私が以前紹介した飯田史彦さんの本では、運命は決まっているけれど、その運命を決めたのは自分である、つまり人生は自分が作ったシナリオであるという考え方に基づいています。初めてその考え方を知ったときの驚きは大変なものでした。まさにこの日が第二の誕生日という勢いでもありました。そこで一つ落ち着いたと思いきや(笑)、次に出会った本では、運命は決まっていて、しかもそれは自分が選択する余地がまったくない、という考え方が示されていました。自分というものに対する考え方が根本から違うのです。この文面だけ見ると、後者の考え方では自分の自由意志とか選択が許されないと捉えられるかもしれませんが、この考え方を突き進めていくと、自由とは今のあるがままの自分を認めること、そして自分にある360度の可能性を信じること、そして自分の好きなこと、楽しいと思うことにフォーカスすることが何よりも大事なこととなるのです。解かりやすくいえば、人生は修行の場であるとか学びの場である、と捉えるのではなく、人生とはあらかじめ決まった線路をひたすら進むだけでいい、すべて決まっているんだから将来のことを不安がったり、これからどんな試練や苦労が待ち受けているかを心配する必要もないということになります。それでは受身の一方ではないか、と反論したくなりますが、この「自分」という存在について、この考え方では、深いところでは自分と運命を司る大きな存在とはつながっている、つまりネットワークの一員である、と捉えています。自分は運命によって生かされているだけの存在ではあるけれど、運命を司る存在もまた広義の自分であるならば、私は別に運命の奴隷ではなく、運命そのものにも影響を与える意識ということになります。つまり、個は個であっても全体を構成するものであり、その個と全体は完全に対等なのです。宗教ではこの運命を司る存在は神ですが、神は大体個という存在をはるかに超えたものとして崇拝の対象となっています。しかし、このネットワークの中では私たちが神と捉える存在と私は完全に対等です。個が全体に吸収されるだけなら対等の立場とはいえませんが、個もまた全体に影響を与えるならば、それは対等といっていいと思います。「社会のために役立つ」、「人のためになる」という考え方は、まず命題ありき、すなわち「善を為す=施す」自分となってしまい、そこには与える人と与えられる人という対等でない関係ができてしまいます。そこにある程度の対価(金銭などの)が存在したとしても、この世のため、人のため、という考え方は要注意です。その人が思う「善」とか価値観は常に変化するものだからです。いや、愛とか正義といったものは普遍的な善だ、という人がいるかもしれません。ですが、正義でさえ社会や時代によって変わります。現代においてさえ、戦争が何故起きているのでしょうか。お互いが正義だと叫ぶ国同士がなぜ「悪」とされている殺人を戦争という名目の下で行うか、その現実が普遍的とか絶対な善という価値観の矛盾を示しています。対等でない関係には、偽善あるいは独りよがりといった側面が伴います。私は与える一方でいいのだ、何も相手から望まない、といういわゆる無償の愛ですら、私は対等ではないと思います。人は与えられる一方では居心地が悪くなってしまいます。あるいはそれを利用したら、ありがとう、といって去っていくしかなくなってしまいます。あるいは与える一方でいいと思いながら、相手がどこかで自分に感謝していることを望んでいる場合もあります。それが報われないと、あの人は礼儀をわきまえないとか、失礼なやつだ、と思ったりもします。もちろん無償の愛の実践者といわれるマザーテレサのような方たちを否定しているわけではありません。彼らはおそらく、ただひたすらその行為を行いたい、それだけだと思います。私は昨年この対等な関係ではない関係の場にいたような気がします。私は一方的に与えられるだけという関係は嫌なので、いわゆる恩返しのようにギブアンドテイクになりたいと思いますが、そういった関係は実はとても難しいのです。また与える側、つまり提供する側としての立場も経験しましたが、与えられる側のレスがあまりに??の時には、正直疲れてしまうし、ばかばかしくなります。こちらが限られている時間や労力あるいは金銭といったものを使って自分を表現しようとしているのに、それに依存してくるだけ、という関係にも疲れました。対等な関係を築くというのは、実は大変なことで、与える自分は常に自分の全神経と知覚、能力のすべてをアンテナとして張り巡らしていなければできませんし、相手がそういうスタンスであるならば、同じようにこちらもまた相手にきちんと向き合う必要があります。ある意味真剣勝負のようです(笑)。ですから相手がいい加減だと猛烈に反発していきますし、逆も十分ありえるでしょう。もちろんすべてがそんな関係だけだと、ノイローゼになりそうです(爆)。しかし、アバウトな私だからこそ、きちんと対峙すべきときは対峙したいと思っています。
January 11, 2006
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今朝起きてみたら、何となく空が曇っている感じ・・何となく予感がして窓をあけると、やっぱり雪でした。雪といってもうっすらという程度だったので、通勤は問題ありませんでしたが、我が家は郊外にあるので、これが数十センチの積雪となると大変なことになります。とりあえず足元をブーツで武装して(笑)、通勤しましたが、今日はとても寒さが身にしみます。仕事が終わる時間が近くなって、急に体に異変を感じました。別にたいした異変ではありませんが、何かのどのあたりから胃のところまで、異物感があって、しかもあごのあたりが何となく痛くなるという何ともおかしな状態になりました。あごのあたりの痛みは、以前やった帯状疱疹の痛みに似ていたので、多分神経系統から来るもので、異物感というのは何かの異常というより自律神経のバランスが崩れた感じでした。そして家に帰って暖房をとっても身体が冷え切ってます。まさに「寒い」の一言。どうやら風邪の引き始めのようです。年末からお正月はきっちり身体を休めたし、この三連休もあまり無理をしなかったはずですが、身体というのは休養をとると逆に調子を崩す、ということがあります。過労死遺族の心のケアを考える会で、睡眠と疲労について研究をされている労働科学研究所の佐々木先生をお迎えしてお話を何回か伺っていますが、睡眠についても、睡眠不足が続いている平日よりも、休息をとった日に心臓疾患とか脳疾患を発症する例が多いといいます。仕事が忙しく期限ものを抱えているときは何とか体がもっても、仕事が一段落した途端に体調を崩してしまう、という話もよくあります。そういう意味では、私たちの身体というのは、私たちの都合に合わせて一生懸命順応しようとしているなんともけなげな存在です。大事にしなければ。。という事で、今日は早めに休むことにします。。。
January 10, 2006
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昨日はパートナーの卒業した理科大の研究室の同窓会でした。年一度開催されるこの同窓会を、パートナーは生前とても楽しみにしていました。毎日仕事に追われ、そのほとんどを会社で過ごしている彼にとっては、人生のほとんどは仕事であけくれていました。会社での同僚は仕事での仲間であっても友人ではありません。何気ない一言が致命傷にもなりかねない職場では、自分の夢を語ったり、仕事への不満など語ることはできません。そんな彼にとって心置きなく本音を語れて、それを受けとめてくれる場所がこの同窓会でした。私はパートナーが亡くなってからゲストとして参加させていただいていますが、私は瞬く間にこの場になじんでしまい、今ではしっかり3次会まで残る組になってしまいました(爆)。パートナーを良く知る人たちというのは、この同窓会の方、そして友人を含めて私に対する接し方はとても丁寧で、思いやりにあふれています。それは単に相方を失った私に対する同情心というのとは違って、パートナーを良く知るだけに、何か温かい感情に包まれる気持ちになります。昨日あらためて私はそのことを感じました。昨日感じた「場」の心地よさとは何だろうか、と昨日の帰りの電車の中から考えていました。それはこの同窓会に参加する人たちの人間関係が「対等」だからだと思います。同窓会は一番古い参加者(パートナーの年度)から新しい世代では10年以上も開きがあります。また職業も様々で、同じ応用化学出身といっても教師、メーカーの技術者、会社員、大学の研究員、医者、起業家、多岐にわたります。その中でみな対等に一つのテーマで、議論をし、酒を酌み交わす、これがいいのです。そして、パートナーの相方としての私もまた、「対等」に扱ってもらっている、そこが私にとってたまらなく居心地がよかった要因でした。そんな事を考えているうちに、パートナーを亡くしてからの私のいた「場」を振り返ってみました。これらの「場」で私は、対等な関係を持っていたか、そう考えると、どうも違うような気がしてきました。彼を亡くした状況の特異性だけに焦点がいっていたような気がします。そして最初は「慰められる」側だった私がだんだん「癒す」「慰める」側に回ってしまっている状況もあります。しかもこういった関係は対等の関係ではありません。また、彼を失ったことの状況や原因を社会問題という観点から突き詰めていました。そしてその社会問題の解決に取り組むことが、私の使命ではないかと思っていました。しかし、最近私は、パートナーが過労死をした、ということは一つの現象として結果であって、それはそれとして流れとして受けとめてもいいのではないか、と思うようになっています。パートナーが過労死をした、という現象だけにフォーカスして、それに意味づけをし、これは私が過労死という社会問題とどう向き合うか問われている事だ、と捉えることよりも、自分の問題として捉えたときに、どうなるか、それを考えるのが実は先だったのです。今自分が本当に求めていることは、彼の思いを私の中に取り込んで、それをしっかりと見つめ、社会に対してとか遺族に対してというより、自分をもっと見つめることではないか、と思いました。確かに、遺族同士の交流は同じ体験を共有する者として重要ではありますが、今の私にとって必要なのは、こういった集団とかグループの中に身を投じるのではなく、自分一人を見つめ、自分のためにもう少し時間と労力を費やしてもいいのではないか、と感じるようになりました。癒されるということは、カウンセリングを受けたり、思いを分かち合うことだけではないと思います。大事なのは、自分が心地よいという「場」を見つけたら、その「場」が自分に与えるものの真髄を知ることのように思います。そしてその「場」を探し当てるのは、実は自分自身しか出来ません。誰かに教えてもらったり、一方的に誰かに頼っていてはできないのです。私にとって「世のため、人のため」という言葉は死語になりました。むしろ今自分が本当に必要なもの(人間関係も含めて)を求めるのが先で、パートナーを亡くしてからの数年間を一度整理をしてもいいな、とさえ思っています。今までは外へ外へと向いていたのですが、今年の前半は少しスタンスを変えようか、と思います。同窓会からいきなり路線変更の話題になりました(笑)。しかし、この路線変更、私はマジで今年取り組みます。
January 9, 2006
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昨日から三連休が始まりました。お正月休みが少なめで不満の私には救いの三連休です(^^)が・・・いつものことながら休みって何でこんなに早く終わってしまうのでしょうか(汗)。楽しいことをしていると、あっという間に時間が過ぎてしまう、といいます。休みも自分が使える時間を楽しく使っているから早く時間が過ぎるのか、と思いきや、それは甘く(笑)、私の場合は朝寝坊をしてしまうがゆえに、休日使える時間が少なくなる、というのが現実です。お恥ずかしい話ですが、目覚める時間はそれなりに早いのですが、実際に起きる時間はといえば、大体10時過ぎです。二度寝、三度寝を繰り返します。今は室内も寒いので、部屋が暖まってから起きようとすると、布団でぐだぐだと30分過ごしてしまいます。それに私にはベリイという天然コタツがしっかりと私と寝ていますので、もうベッドから離れられません(爆)。これは特に今年の秋くらいからで、ひょっとして身体の疲れか、はたまた年齢のせいか、と思っていました。だっていくらウィークデイの睡眠時間が6時間くらいでその不足を補うといっても、休日に9時間以上寝られる、というのは単なる睡眠不足とはいいがたいような気がします。では何なのか。今日は思い切りプライベートな話題ですね(爆)。一つにはこの寒さ、そしてもう一つは睡眠の質のようではないか、と思います。ベリイは天然こたつですが、動く天然こたつです(爆)。私が寝入ってからも、どうも彼女は布団を出たり入ったりしているようで、事実私が目を覚ましてからも最低3,4回は布団から出入りしています。そのたびに私がひょっとしてベリイのためのドアボーイのようのことを無意識にやっているとしたら(汗)。。。娘の話では、一度ベリイが夜中に突然吠え出したことがあったそうです。そのとき私は、ベリイをなでて、「よしよし」となだめていたそうですが、翌朝その話を聞いたときに、記憶がありませんでした(驚)。ということは、私の睡眠は、ベリイによって断続的に切られていることになります。しかし・・考察は続きます(爆)。ベリイを我が家に迎えてからもう5年も経っている、という事実があります。この間、私は別に睡眠障害になったわけでもなく、身体を壊したわけでもありません。ですのでベリイが睡眠の質を向上させているとはいいがたいですが、秋ごろからの私の睡眠を妨害しているとも思えません。結局は、この寒さのせいではないかと思います。今朝、太陽の光と小鳥のさえずりを久しぶりに感じ、とても幸せな気分になりました。やっぱり自然の営みは人間の活動にダイレクトにリンクしているのですね。(何ともあっさりとした結論)今日はこれから上野の精養軒で、パートナーの卒業した理科大の研究室の同窓会に行きます。パートナーが生前この同窓会をとても楽しみにして、毎年欠かさず行っていたのですが、彼が亡くなってから、同窓会のメンバーの方が私を誘ってくれているのです。幸い、今日は風も弱く穏やかな一日になりそうです。上野の森を散策しながら美味しいフレンチをいただいてきまーす(あとワインも、ふふふ)。
January 8, 2006
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前回オーガニックレストランに行った話しを書きましたが、そこでふと思ったことを続けて書きたいと思います。自由経済の市場で差別化を図るというのは、マーケティングでは当然の流れです。食品市場あるいは外食市場においても然りで、オーガニック素材というのは食品自体に有機農法というプレミアを付けて差別化を図ったものです。そして球環境に優しい、というメリットも同時にあるので、安全なものを美味しく食べたい、そして環境浄化、改善に貢献したい、と思う人たちをひきつけます。それが最近はロハスというライフスタイルでネーミングされるようになり、ロハス市場といった独自のマーケットが存在するまでになりました。また外食産業においても、「オーガニック」というのが売りになる時代です。オーガニック食品のみを扱うオーガニックレストランがそうです。身体にいいもの、環境にいいものだけを取り扱うというスタンスのお店ということで、これもまたロハス市場の一端にあります。確かにオーガニック食品や素材は、添加物や農薬といった人間の身体や環境に有害なものを排除して生産するものですから、手間もかかるでしょうし、当然コストもかかります。ただ365日オーガニックを食べ続けることができるのは、富裕層それもセレブといわれる人たちの経済レベルでなければ無理でしょうし、毎日食する例えばお米とかパンといったものに限定するにしても徹底したオーガニック食品はそれなりに高価です。お金をたくさん払えば、身体にも環境にも優しい食品や素材を入手できる、このことが正直私には引っかかります。私は基本的にロハス市場そのものに異議を唱えるわけではありません。しかし、この差別化の方向に拍車がかかると、富の二極化といった問題がこの食料市場にももたらされて、結局は経済的に恵まれる人たちだけが享受できて、経済的に負担できない貧困層の人たちはそういったメリットを受けることができない、という図式が促進されます。勿論これは単一的な意見です。健康と環境という問題への意識そのものが高くなり、オーガニックに対して消費をする人口が増えれば、全体的に環境重視の生産という視点が優先されるようになり、全体の食品レベルが改善される、という意見も当然あるでしょう。ただ食品というのは、電化製品のような大量生産が容易にできる生産物ではありません。自然の天候に左右されますし、まして添加物をできるだけ抑え、かつ、農薬といった有害な化学薬品を最小限にした生産方法では技術的に大量生産は難しいと思います。そうなれば、需要と供給のバランスでオーガニックのマーケットはますますオーガニックの純度に比例して価格が高騰することになります。身体にいいもの、そして環境にいいものという要求は理解できます。しかし、あまりにオーガニックのクオリティに執着すると、純正なものしか求めなくなるという傾向になりがちになります。いきすぎた、あるいは偏りすぎた嗜好というのは、それ自体がどんなに身体にいいものでも、その効果を持続的にもたらすとは限らないと思います。純粋培養の植物は、一定の環境の下では問題なく育ちますが、ちょっと条件を変えるとすぐに影響がでます。純粋な血統書つきのワンちゃんよりも、雑種のワンちゃんのほうが病気に対しても抵抗力が強くまた寿命も長いといいます。雑草や雑種の方が生命力自体は強いのです。人間が純粋培養、つまり純粋培養のみの食品を口にするようになってしまったら抵抗力や免疫力がそれなりに落ちてしまいます。健康志向、環境重視もいいですが、この製品、食品だけが正しい、とかそうであれねばならぬ、という排他的な傾向になるのは要注意です。別にお金や労力をかけなくても、バランスに留意した生活さえしていれば、無理にロハス市場に入らなくても十分暮らせるのではないのかしら、と感じました。それに明らかに毒なものをとるのはいけませんが、身体にいいものだけをとったから病気にならないという保障もありません。ときにはジャンクフードといわれるものを食べたり、食べ過ぎたり飲みすぎたりしてもいいじゃありませんか。おかゆばかり食べ続ければ、たまに消化の悪いものを一口食べただけで胃は受け付けなくなります。日常の中で変化を楽しみながら、無理にこうでなくてはだめ、と決めずにアバウトに生きよう、という私には、純粋培養系のものはどうもだめそうです。但し、例外は我が家のペットというか家族の「純粋」なビーグル犬のベリイです(爆)。
January 6, 2006
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今日は仕事始めです。とはいえ、朝の電車はすいていました。今年はお正月の三が日に土日が入っていたせいか、休みも少なめです。4日も家にいた割りには休みが少ない・・と思いながらの出勤でした。帰りには、今の会社の同僚と、その友人の方と3人で銀座でお食事をしました。お互いに住んでいるところは結構近いのですが、それぞれ仕事の時間帯も違うし、友人は今年中学受験のお子さんを抱えている主婦でもあるし、そうそう会える状況ではありません。私もこのくらいの子供を抱えているときがありましたが、夜子供だけにして出る事はありませんでしたし、主人に見てもらうにしても忙しい人でしたから、めったなことでは頼めませんでした。時代は変わっても、状況は同じようです。ところで今日のお食事にいったところは、オーガニック料理を売りにしている銀座のレストランでした。クーポン券のある雑誌を見ていろいろ物色したうちの1軒でした。実は私が行きたいな、と提案して行ったお店でしたが、コース料理が4,200円、微妙な値段ですが、出てきたお料理といえば・・最初はごぼうの揚げたもの、ただちょっと大き目のごぼうでした。でも味付けがな、ない・・素材はいいけれど。二皿目は春菊にそばの実を合えたサラダ、ドレッシングがちょっと足りなめだけど、まあまあいいか。次はキャベツのスープ、キャベツだけにしては味は出てました。ブラックペパーの味がひきたってはいましたが、これもまあまあ。次はお魚料理。本来は牡蠣フライですが、私は牡蠣が苦手といったら舌平目のビネガーソース和えにしてくれました。彩りはとってもきれいでしたが、ちょっとソースが深みが足りない・・肉料理をパスした私には、野菜料理が運ばれてきましたが、じゃがいも、さつまいも、なす、赤、黄のピーマン、トマトを焼いて軽く味をつけた盛り合わせで、オリーブオイルをつけていただくものでした。えっ、ただ焼いてあるだけじゃん(汗)。そして最後はご飯にお味噌汁に香の物、これでしめて4,200円でした。素材にこだわる、というのがオーガニック・レストランですから、いただいたどれもその素材の新鮮さはよくわかりました。ただ私としては、これなら自分でできる味付けだ、というのがちょっと不満です。素材のよさを生かして、でもプロのシェフとしてもう一工夫欲しかったな。それにちょっとボリュームも少なめだし。。しかし、思いました。こうやって素材を売りにしたオーガニック料理にこれだけの値段(4,200円、しつこいって 爆)をつけて、こ洒落た雰囲気でお客さんが来るというのは、どういう時代なのかなと。本来、食べ物特に、野菜というのは近所の八百屋さんで新鮮なものをすぐ料理すれば、今日食べた美味しさくらい、十分にいただけるはずなのに、それをこれだけの値段を出して食べなければだめになった時代になったのでしょうか。これもきっとロハス市場といわれるものの一種なのでしょうが、私にはセレブがこういったお料理を口にするというのが、一つ納得できませんでした。だってセレブがこうやって食べるから、普通の食材にプレミアがついて高くなってしまうんじゃないの、とちょっとうがった見方ですが、思ってしまいました。行こうと提案したのは私ですから、こんなことを書いてしまって今日の友人が気を悪くするといけません(汗)。これはあくまでも私の食いしんぼの舌が感じたことで、おしゃべりはとっても楽しかったです。
January 4, 2006
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もう31日から数えて4日間家にいました。31日は大掃除に明け暮れましたが、1日からは特に何もしませんでした。気の向くままにCDを聞いたり、テレビで映画を観たり、そして今日は手持ちのDVD(といってもまだコレクションは少なく・・)を観ました。つい先日もブログに書いた「オペラ座の怪人」ですが、これを見ていて、昨日みた「アレキサンダー」に描かれる人物と比較してしまいました。多分備わった才能は同じだったと思います。決定的に違ったのは、生まれてきた環境とそれぞれの容姿でした。オペラ座の怪人(ファントム)は、自分の運命ともいうべき醜い容姿のゆえに、オペラ座の地下に独自の城を築き、そこに自分の愛する女性を迎えようとしますが、その地下の城がどんなに絢爛豪華であっても、しょせんは暗闇の中の美、甘美ではありますが、刹那的な場所です。そこにあるのは深い暗闇、あるいは人間の闇の部分がどこまでも広がる世界です。そしてアレキサンダーは、これと対極的に、どこまでも自由を求めて前進していきます。一つところにとどまらず、栄華も求めず、ひたすら挑戦していきます。この二つの作品はテーマがまったく違う分野ではありますが、アレキサンダーが未知と自由の世界を求めてどこまでも進むのに比べて、ファントムはオペラ座の地下というきわめて限られたしかも特殊な場所で自分の不運な運命と闇にいざなう内面と常に対決することを強いられています。私たちの日常は、その程度の差こそあれ、アレキサンダーとファントムの各々の持つ命題(運命の課題)の狭間で動いているのではないでしょうか。何か新しいことに挑戦したい、しかし現実にある自分の今の生活環境は保持したい、こういった狭間で私たちは決断を迫られ、決断をしたり、あるいは決断を回避して現状維持を図ったり、という繰り返しをしているような気がします。もちろん、その挑戦の内容は様々です。ある人にとっては仕事に関すること(転職、退職、起業、経営拡大・縮小など)、またある人にとっては人間関係(恋愛、結婚、友人関係など)、エトセトラ、エトセトラです。旅立ちたいけれど旅立てない、挑戦したいけれど後戻りすることができないのが怖い、もっと明るく楽しく過ごしたいけれどなぜかそれができない、こいった矛盾と狭間の中で私たちはいつも揺れ動いています。人にはいつも前向きで明るいね、と言われる私ですが、もういった狭間に足を突っ込むことはいつもあります。ファントムのように暗い地下室で過ごすというわけではありませんが、ちょうどこのお正月休みがそれに近かったかもしれません(爆)。最も年末はその地下室(=我が家)の掃除で終われましたが(笑)。自由、挑戦という言葉は私も大好きです。前へ、という言葉も自分の標語のようにはなっていますが、その一方で、まだまだ満たされない自分の闇の部分もあることを忘れてはいません。その闇の部分が晴れるのか、はたまたパートナーの死とともにそれを一生受け入れていかなければならないのか、正直わかりません。心の再生を唱える自分がこんなことを言うのはいかがなものか、とは思いますが、しかしそういった闇の部分(何か割り切れない葛藤も含めて)が自分の中あることは認めた上で、その「あるがままの自分」としっかりつき合いたいと思います。
January 3, 2006
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普段テレビはほとんど見ないのですが、今日たまたまテレビでやっていた「アレキサンダー」を見ました。アレキサンダー・ザ・グレイトと呼ばれる彼の偉業はすさまじいものです。父親が暗殺され20歳で王となり、25歳にして、広い領土を傘下に治めることとなります。そして東に向けて兵を進め、何とインドまで到達してしまいます。まだ文明の利器の発達していない時代に、何万という兵を率いて今まで自分たちが体験したこともない気候の国に戦争をしかける、というのは私には想像もできないことです。彼の故郷のギリシャに比べて、東へ向かうほどに気候は温暖の差も激しくなるでしょうし、湿気や暑さもひととおりではないはずです。地の利ということでいえば、前もって十分な情報も得られないまま、ただひたすら兵を率いて進軍する、ということは現代の情報社会に生きる私たちには、無謀としかいえない行為です。しかし、夢を追ってどこまでも進む、先に進むことに意義がある、と一歩でも先へ進もうとするアレキサンダーに、人間の原点を見た想いがしました。世界史ではとにかく広大な領土を一代で築き上げた人、というイメージしかありませんでしたが、映画のアレキサンダーは勿論格好よく、しかも常に憂いをもった眼差しが、私にはたまりませんでした(爆)。自分の夢を追って、信頼できる人間は自分が愛する同性の幼馴染ただ一人、という設定もなかなかいいです。まさに「孤高の人」と感じですね。いまだかつて無い規模の領土を持ってしまえば、普通の人間であればその国々の富をすべて手中に治め、自分の故郷にそれを持ち帰り、富と共に栄華と権力を謳歌するところですが、このアレキサンダーは映画で見る限り、個人的にはほとんど財を持たずに、ひたすら東を目指して進んでいます。保身とか、防御という言葉にはまったく無縁のこの人物は、確かに多くの人から大王と呼ばれ尊敬もされていますが、自身は、尊敬とか名声といったものにはあまり関心がなく、「自由」とか「前進」、あるいは「未知への挑戦」といったテーマに一生を賭けた人物として描かれていました。しかし、内面は驚くほど繊細で、常に恐れを克服することを自分に課しており、母親との確執もあったようです。長く生きながらえるよりは、短くても実りある人生を・・と最初のシーンで若いアレキサンダーが言っていましたが、その言葉は、亡くなったパートナーも良く口にしていました。そして今、私も男性だったら、同じことを言っているだろうな、とふと感じました。男性だったら、というのは差別ですね(笑)。正直、細く長く生きるという生き方よりも、私はやっぱり短くても何かメリハリのある人生を送りたいな、と思います。別に早死にする必要はないですが(爆)。だったら、何を人生のテーマにするか。アレキサンダーのテーマは自由と前進でした。映画を観ているときは、ただただ歴史上のあまりにも偉大な人物の人となりを知る、というスタンスで観ていましたが、今こうやってブログを書いているうちに、ふつふつと内から湧き上がるものを感じます。こういうわかりやすい生き方って素敵です。私はやっぱり単純に、何かを追っている人に惹かれるようです。そして自分もまたそいういうタイプの人間になりたいと、心の底では思っているようです。今の私の状態はさておいて(爆)。
January 2, 2006
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明けましておめでとうございます。本来は午前中にアップしなければ・・と思いながらもうこんな時間です(汗)。新年早々からなんですが、最近休日は朝の目覚めがとても悪いです。今でしたら午前中いっぱいは軽く寝られます。これって、体が疲れているのか、はたまたやる気がないのか、充実していないからか・・多分全部です(爆)。普通はこういうブログでは新年の私の抱負は・・と書くところですが、体もいまいちだし、精神力も今一、というのが正直な感想です。ベリイを散歩に連れて行きながら、妙にいらいらしてみたり、どこかストレスがたまっていますね・・完全に。(超爆)私は自分ではストレスをためる性質ではない、と思っているのですが、考えてみたらいつも何かしなくては・・と自分に課しているところがあります。実はこのストレスの原因、ちゃんとわかっているのです。昨年10月にあるテキストを買いました。それをきちんと勉強しようと張り切っていたにもかかわらず、思うように出来ていない、原因はそれです。しかもこの勉強は多分これから結構大事なものをもたらすはずなのがわかっているのに・・・何故だか机に向かうとほかのことをやってしまう私です(苦笑)。よくありますよね、試験勉強の前日に急に文庫本を読み出してみたり、やらなければならないとわかっているのになぜか手が出ない・・私はかなり天邪鬼なようです。昨年は総括のようなものをアップしましたが、さて年が明けて今年はどうしよう・・と考えても・・・何も出てこない(爆)。新しいキーワードも出てこないし、これから自分をどう方向づけよう、というのも見えてこない。今の気分を正直に言えば、「どうでもいいか」という感じです。こんなこと、元旦に書いていいのか(超爆)。そうです。人間いつも100%明るくなってやってられません。いつもいつも心に「ありがとう」という言葉を描いていれば幸せかもしれませんが、冗談でもそんな気分になれないときは結構多いです。現に昨日、長男が?年ぶりに部屋を掃除してくれたはいいけれど、出たごみが半端ではなく仕方なく業者に頼んだら、目の玉が飛び出るほどの値段を言われ、「でもせっかく呼んでいただいたのですから」とかいわれて30%ほど割引したのにほだされて、結局言い値で支払ったのですが、後味の悪い事。冗談でも「ありがとう」という気分ではないです。そっか、気分が晴れないのはこのせいだ(納得)。なぜかこうやってブログに当り散らすではなく書き散らしている私ですが(笑)、要するに人って他人からみたら本当にどうでもいいことにこだわってしまうものなのですね。元旦からストレスの話題が出てしまいました。ですが、これもまた人の常ということで・・さてこれから気分転換に美味しいワインを飲もうっと。(勉強は? また滝汗)
January 1, 2006
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