私が半年余りの沈黙を破ってこのブログに時々投稿するようになったのも菅家さんの冤罪事件が発端であった。だんだんこの国の支配体制が分かるようになるにつれ、何かもやもやとしていたものが「そうだったのか!」と腹にすとんと落ちるような考え方を身につけることができるようになった。本当かどうかは定かではないが、こう考えると全てつじつまがあう・・・・というような考え方だ。
先ほど、楽天infoseekのニュースでこの菅家さんの今回の総選挙の選挙権が認められないということがトピックとして出ていた。ここでも、我が国の「お上」の考え方が見て取れる。
このニュースが伝えるところによると、何でも公職選挙法では禁固以上の刑が確定しその執行が終わらない者は選挙権を有しないと定められているためまだ再審で無罪が確定していない菅家さんについては今回の選挙権は与えられないとのこと。
法律を守るのは市民・国民の務めだし、それを執行していくのは行政の仕事だ。ところが、悲しいかな、法律は万能ではない。法律は条文となっており、このケースについては・・・、このケースについては・・・と事細かに書いてある訳ではない。無論、全ての出来事を想定してそれらに対応するなど度台無理な話なので「解釈」というものが出てきて個別のケースに当てはめて考えることになる。
今回は公職選挙法以前の話に端を発するので少し話がややこしくなる。菅家さんは冤罪で刑に服役させられた。やっていないのだ。やっていないことを栃木県警察と東京地検が「やった」とでっちあげ、無能な司法セクションが右から左に「黒」としたために何も悪くない人が17年も牢屋に入れられたのだ。これは人ごとではない。これは何もやましいことがなくても警察に目をつけられたら何が何でも服役の憂き目に遭う可能性が誰にもあるということを意味する。
このことだけについて考えれば刑法の適用誤りを犯したのは警察であり、検察であり、裁判所だ。ところが、後からそうではないということが明らかになってそれを「釈放」という形で取り消した。これから再審となり無罪が言い渡される予定だそうであるが、それまでの間の菅家さんの市民権はどうなるのか。「釈放」=無罪を意味するのでなければ釈放とは何なのか?単なる「お上」の照れ隠しなのか?
確かに、法律の文言を字づらで辿っていくと「再審による無罪が確定していない」=「刑の執行が終わった訳ではない」となるから選挙権はないのであろう。しかし、これについては足利市の選管の態度に大きな疑問を感じる。今言った部分だけを見れば確かに選管の処分が正しいように見える。しかし、これは近視眼的な法律を大きく捉えることができない、単に「頭が良さそうに見える人」がやることだ。
何を言いたいのか。選管は「菅家さんには落ち度がないということを司法が認めようとしている」ということを全く考えていないのだ。今回の事件の顛末の落ち度は完全に「お上」にある。市民である菅家さんには落ち度は全くないどころか、完全な被害者である。なのに、法律を近視眼的に解釈し「お宅に選挙権はありません」とどのような顔をして説明したものか。この場合の正解は、せっかく時の総理が40日ものできる限りの長い選挙期間を用意してくれたのだからこの被害者である一市民の民主主義最大の権利について司法と協議し、何らかの処置を施すことだ。「それは法律でできないことになっているから・・・」と唱えるのは小学生でもできる。しかし、今回は「お上」が法律を破ったのだ。それの後始末をする義務があるのは「お上」にあることくらいウチの小学3年の娘でも容易に理解できる。
この事例でも分かる通り、日本の法律運用の落ち度がどこにあるのかというと「お上」が法律を破ったときの後始末なのだ。洋の東西を問わず、「法は一般市民を規制する。しかし、上流階級の人間については法が彼らを守るように変化する」などと言われるが、我が国ではそれに加え、堂々と「お上」による法律無視が行われる。年金問題で我々の拠出したお金の記録はどうなっていたんだっけか?公務員は巷の損得からは完全に独立しており、デキのいい人間の集まりだという前提で、「悪いことをしない」とされた上で法律が施行されてきたと思うが、その「悪いことをしない」人たちがこともあろうか人様の拠出した年金保険料をこっそり自分の懐に入れたり、免除にならない人を免除にして収納率を上げようとしたり、実態よりずっと低い標準報酬月額にして労働者の将来年金を受け取る権利を奪ってみたり・・・。全て「自分達の都合のいいように仕向けた収納率アップの秘策」だ。誰も国民のことなんて考えていない、自分達に向かって仕事をしていることの典型だ。
舛添厚生労働大臣もこの件については「盗人は牢屋に入ってもらう」と意気揚々だったが、調べてみると、役人の悪事については罰することがなかなかできない法律になっていたらしい。大臣の感覚はまともなものだ。しかし、法律を決める「お上」は自分達が都合が悪くなったときのことは誠にぬかりなく対応する法律となっている。つまり、お手盛りの法律を作っているということだ。それを戦後長らくこの国を支配してきたある政党の議員に議場で賛成の挙手をさせ、見返りに議員の地元にお金を落とすというやり方をしてきたのではないか。こう考えると、人口100万人あまりの我が県に不要不急の道路や橋、トンネル、新幹線がたくさん作られてきた訳が納得できる。土井たか子さんの「マドンナブーム」により参議院選挙でこの政党が大敗したときも地方区でこの政党が勝ったのは我が富山県と和歌山県、佐賀県の3つだけだったことを記憶している。つまり、富山県はそれだけJM党が強い県だということだ。だから社会インフラも十分すぎるくらい行き届いている訳だ。
お金が国内に有り余っていた時代はそれでいい。しかし、お金がなくなって久しくなった今、借金をしてまでかつての金満大国だった頃の無駄遣いを続けようとしている「お上」にはそろそろ考えを変えてもらわないと。まさか、「お金を使わないと自分達の威厳にかかわるから・・・」などとは言わないだろうな。確かに、今の我が国の官僚制度はお金が回らないと持たないようになっているように見える。
話はそれたが、「楽な仕事」というのは法律に逃げることだ。それが仕事だと信じて疑わない公務員の皆さんは多いと思う。多いというよりも殆どがそうだろう。確かに、法律を守ることは大変なことだ。しかし、全てにおいてそうでなくても、今回の菅家さんのようにかなり特殊なことについてまでいつも通り「法律にそうなっているから・・・」で通すのは市民感覚というか、社会常識から言っておかしいとは思わないのか。法律というのはその時その時の社会常識の塊ではなかったのか。いやしくも、自分の仕事を厄介なものにしたくないためそのように解釈したなどということはあってはならないと思う。
確かに「お上」の仕事は大変だ。法律にがんじがらめにされているし、何といっても仕事を断ることやお客を選ぶことができない。だから事細かに対応するときりがなくなり、自然、自分に向かって仕事をするようになるのも分からないことではない。しかし、だからといって市民の権利を平気で侵害したり、小役人よろしく高圧的な態度で市民に接したりするのはご法度だ。誰があなたのスポンサーなのか。日の丸ではない。市民、国民だ。それが嫌なら公務員にならなければよかっただけのこと(よく、公務員から逆のことを言われたりするが・・・「年金もらいたければあなたも公務員になればよかったじゃない」・・・)。
私も法律で飯を食っているが、法律の文言を杓子定規に捉えて解釈することだけはしてはならないと開業以来思っている。法律は我々の社会生活に重要なものではあるが、絶対のものでもない。「たかが法律、されど法律」といったところか・・・。
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