新 緑仙の日々是好日

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R.咲くや姫

R.咲くや姫

2026.07.27
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カテゴリ: 学ぶこと





北山文化と東山文化の違いを簡単に述べました。


もう一度、「おさらい」しておきます。
この二つの文化の違いを
簡単に分かりやすくしている写真が
ありましたので、ネットからお借りました。








金ピカ文化から質素侘び寂び文化へ。

こう並べてみると
この違いは歴然ですね。


しかし、祖父は、こんなに派手で
孫はこうも地味なのは何故であるか‥
そして、
どうして「東山文化」が成り立っていったのか?
それを今回、掘り下げます。



さて、まず始めに
今回の主人公.足利義政について
その生い立ちを見てみましょう。



義政は1436年、
6代将軍・足利義教の子として生まれました。


しかし、義政がまだ5歳の時、
父の義教が​ 嘉吉の乱 ​で暗殺されてしまいます。


その後、
兄にあたる7代将軍・足利義勝が将軍に就きます。
ところが、義勝も若くして亡くなってしまいます。

こうして
「足利将軍家の男子で
残っているのは、幼い義政しかいない」
という状態になりました。
義政は、否応なく「次の将軍候補」に押し上げらます。




嘉吉3年、兄義勝の死を受けて、
義政は
わずか8歳で第8代将軍に選ばれることになりました。


勿論、幼児なので自分で
政治などできる筈もありません。


実際の政務は
管領・畠山持国ら有力者が握る「宿老中心の政治」となるのです。


つまり、「頼りになる大人の将軍が選ばれた」というより、
「足利家を名目上でも続けるために、
残った子どもを担ぎ上げた」という流れなのですね。



形式だけ将軍、実権は側近たちだらけ。

義政は形式上は将軍ですが、
実権は乳母・今参局や伊勢貞親、
日野富子の実家などの側近グループに握られていきます。

ここで、ちょっと顔を出す、畠山家や日野家を
覚えておいてください。


義政が

征夷大将軍としての正式な文書発給も、
実際に自分名義で行えるようになるのは
十代後半、1450年代半ばごろからでした。


この「幼くして担がれ、周囲の大人に振り回される」
スタートこそが、その後の足利義政の
「決められない将軍」のイメージに繋がってゆくのです。


「応仁の乱」は、足利義政にとっては
大変なることでしたが、
その乱の前に
「畠山家の跡目相続問題」が起きます。


ここで、足利義政は、取り返しのつかない
「失敗」をしてしまいます。

庶子が継ぐか?子が継ぐか?
将軍である義政は自分の命令を聞いてくれると
思っていたのに実際はそうではなく
畠山家はぐちゃぐちゃの争いになります。




その義政が二十歳になる頃、
日野富子を正室として迎えます。



将軍の妻になるお家柄の日野家。
ざっと、日野家をご紹介しますね。



<日野家が権力に近づく大まかな流れ>



日野家は藤原北家の流れで
儒学や和歌などで朝廷に仕える
中堅クラスの公家でした。

本拠は
今の京都市伏見区日野あたりで、
氏寺が​ 「法界寺」 ​です。
ここは親鸞聖人誕生の地であり、
日野家の菩提寺として
今も一族の墓所が残っている有名なお寺です。


日野家は、室町時代以前には
「摂関家のような超一等」ではなく、
「数多い公家の一つ」という立ち位置でした。



日野資業が十一世紀に法界寺を整え、
「本尊薬師如来」を安置したことで、
日野家の宗教的・文化的な拠点が出来上がります。

親鸞の父・日野有範のように、
天皇に仕える学問や
儀礼担当の官人も出ており、
「教養の家」としての評価を高めていきました。

鎌倉末〜南北朝を経て室町時代に入ると、
日野家の娘が足利将軍家に
たびたび嫁ぐようになります。
六代将軍義教の正室・日野宗子など、
日野家出身の「御台所」が出ることで、
日野家は次第に「将軍の外戚」として
特別扱いされるようになるのです。
この「将軍家に后妃を送り込む家」
という特別な地位が、
政治の中枢に近づく大きな転換点になりました。




日野重子は
八代将軍足利義政の生母であり、
その正室として迎えられたのが「日野富子」です。

「将軍の母」「将軍の妻」を連続して出したことで、
日野家は外戚として
最高レベルの影響力を持つようになります。



富子は、8代将軍・足利義政の正室になると
将軍家の奥向きのトップである「御台所」として、
将軍家の日常経費や財政に
深く関わる立場になります。


富子は、山名宗全ら有力大名を「後見」にし、
実家の権威も背景にして
将軍の妻というだけでなく、
「実家+有力大名ネットワーク」を
背にした政治的プレイヤーとして
行動するようになります。




右を向いても左を見ても
妻でさえ、山名宗全などの大名を
「あの人は頼りになる」とか言い出す始末。

「僕が将軍なのに誰も僕の意見を聞いても
くれないし実行してもくれない。」

ちょっと心が折れてきた頃、
自分の家でも「後継者」の問題が浮上してきます。


1465年(寛正6年)、足利義政と正室日野富子の間に、
のちに足利義政の跡を継ぐこととなる
「足利義尚」が誕生するのですが
足利義政は、すでに後継候補として
弟の「足利義視」を養子にしていました。


わぁ〜びっくり大変ですよ〜
ひとんちの後継者問題よりも
じぶんちの方がずっと大事です。


足利義尚の誕生により、
養育係となっていた将軍側近によって、
足利義視は幕府から排除されてしまいます。
これがキッカケで、
足利義視を擁立した有力守護の「細川勝元」と
「山名宗全」は、将軍側近を失脚させて
幕府体制を崩壊させるのです。


義政は、奥さんの富子からは
あーしろ、こーしてと言われるし
自分の実力不足にも
だんだん気づいてきます。

「あ〜〜僕はなんにも悪いことしてないよ。
なんでこうなるんだよ!」って感じでしょうか?



これから「応仁の乱」が始まります。



「若シコノ時忠臣アラバ、
ナドカ之ヲ諌メ奉ラザランヤ。
然レドモタダ
天下ハ破レバ破レヨ、
世間ハ滅ババ滅バヨ、
人ハトモアレ
我身サヘ富貴ナラバ他ヨリ
一段瑩羹様ニ振舞ント成行ケリ」


こう思ってしまっても仕方がないか‥

「義政さん、一献どうですか?」

「ぼく、もう朝から飲んじゃってますよぉ〜







つづく




(写真はネットからお借りしました)






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Last updated  2026.07.27 15:38:06
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