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―事件ー



「最近、育児ノイローゼで子供を殺しちゃうニュースが減ったのはやっぱり紙おむつの普及のおかげだと思うのよね~」
 と、昭和の末期ごろ母が言っていたのを覚えている。
 布おむつの問題はノイローゼにもなりかねない負担だと感じる人は実際すぐ近くにいた。たまたま理性が残っていてくれたおかげで、私は殺されずにすんだだけなのだろうか。

 母の説は正しくない。
普及率向上中のときには「洗濯機のおかげ」「紙おむつのおかげ」で楽になったと感じることができても、洗濯機まわして紙おむつを使うことが前提である生活をしていると、自分が楽をしている面もあるということに思いをめぐらせにくいものだ。
 便利さを感じられるのは、年齢差のある兄弟を育てている間に、世の中が変化した保育者だけであるし、それも最初のうちだけである。

 新幹線が走っても飛行機が飛んでも、遠いと思うようになるのだし、たぶん携帯電話があっても話ができないとか、インターネットがあっても欲しい情報は得られないと、常に同じ不満を抱くようになるのだ。

 そうすると人間は、不満を持ち続けないと、種族が保存できない生き物なんだろうか。

 ところで冒頭の記憶から気が付くのだが、現在は虐待というジャンルに結びつけられている「実子殺人」が、まるで急増したかのように世間では受け止められているのだが、貧困ゆえに手をかけたという昭和30年代以前まで遡らなくても、実は昭和40~50年代にも多く報道されていたということだ。

 現代では原因を「ノイローゼ」と簡単に片付けていいいのかとなるが、そのころは「精神を病む」ということが公になることは、一生涯社会から抹殺されることを暗示していたため、刑法で「責任能力無し」となることは、充分処罰を受けたというイメージを与える効果もあったのだと思う。

 それまで所属していた社会から離れて、ひっそりと一生を過ごす。

 今も昔も遺族にしてみれば、そんなことで片付けられたんじゃ、たまったもんじゃないのだが、実子殺人の場合、家庭内の問題として温情で片付けても誰も文句は言わないということもあって「ノイローゼ」ということにした例もあったのだろう。

 いや。実際あった。
 たしか小学校1年のときだ。同じ学校に通う女の子が実の父親に絞殺されたという事件があった。新聞の片隅にひっそりと書かれただけの記事だった。校長先生の涙声の校内放送を覚えている。
 私は幼かったので報道の内容をはっきり覚えていないのだが、犯人の父親は「ノイローゼ」ということで、子供の名前も顔もさらされているのに、父親の名前は「○○ちゃんの父親」としか出ていなかったと思う。
 このあと、子供同士の間で妙なことばを聞いた。帰宅した母親によって自宅で発見されたとき「ぜんらで」あったということだった。
 当時はノイローゼの人だと普通の人では考えられないような変なこともしちゃうんだろうなと思っていたが、よく考えたらこれでは全然違う話になるではないか。
 この事件のことを覚えていて、当時大人だった人に聞いてみたら、やはり
 「あれは全然ノイローゼなんかじゃない」
ということだった。
 かすかに残った記憶を繋ぎ合わせて、とんでもないことを思い出してしまった。

 現在、子供への暴力を、虐待として捉えなおしたのは正しい視点だと思うが、「虐待の連鎖」について、あまり拘り過ぎるのは良くないことである。
 ノイローゼも、虐待を「連鎖」としてしまうのも、原因を加害者自身ではなくその外側に求めた言い方である。
 連鎖で片付けると、子供が殺されたことで、一つの連鎖を断ち切れた、と説明しているような救いようの無さを感じる。

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