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―文字―
妹がはじめて字を覚えたことを披露してくれたときのことは覚えている。食べている丼を指差し「の」と言うのである。おすしはおししになってしまうし、おしりもおししだという2歳児だ。これはノじゃなくてウドンだよ、ウ・ド・ンと思ったのだが、指差す先にあるものは、ピンク色で「の」の字が描かれた「なると」だったのだ。
幼稚園に入る前は、家では英才教育はしておらず、まるで野放しだったので、ご近所の賢い幼児のいる家庭で遊び、そこの積み木に書かれたひらがなで覚えてきたのだろうということだった。
自分が字を覚える前に、字を書く真似はしていた記憶がある。記憶にある家の構造からいって、引っ越す前だから、たぶん2歳か3歳のときのことだ。父が和室の布団で寝ていた。パパはお風邪だからあっちに行っていなさいと言われ、「これは、おみまいをしなくちゃ」と思ったのだった。お見舞いの手紙というものが世の中にあるということを、どこで知ったのかは不明。暑中見舞いをどこかで勘違いして頭に入っていた可能性も大きい。
はがき大の用紙に、たんぽぽの切手の絵をかき、住所と宛名を書いた。何度も文面を読み直し字があっているか確かめた。翌日か数日後に、それを読み直していたのを覚えているのだが、実際これを父に渡せた上でもう一度手元に戻ってきたのか、結局渡さなかったのかは覚えていない。
ところが、1~2年くらいたって、自分の書いた手紙が出てきて驚いた。
何一つ読めないのである。書かれた文字は (はがき横向き)
______________
□
□ @@◎@○@◎@@@@
|
□
□ ◎@◎◎○◎@◎
□
|^^^^^^|
|◎->|
^^^^^^^
______________
というように、ひらがなでもカタカナでも漢字でもない、丸の変形ばかりだったのだった。
当時思ったのが、文字を覚えていないころは、これが読めたのだが、なまじ文字を覚えてしまうと、もうこういうものは読めなくなるんだなあということだった。
そんなことを考えていた時代も、文字は読めるようになっても、書くのは完全にはできなかった。祖母に帳面(ノートとは言わない)をもらって、ペンや鉛筆で何度も自分で地道に練習した。
すすんで練習していたのは理由があった。
幼稚園では毎日3人の「おとうばんさん」が代わり、みんなの「ごあいさつ」の号令をするのと「(○がつ)(○にち)てんき( )」を書くのが仕事だった。
「くもり」はだいじょうぶだ。「も」や「り」が鏡文字になっちゃって笑われている子がいたが、自分はそんなことはない。「く」も「も」も「り」も書ける。
「はれ」はどうだ。この間は、書けなくて泣いちゃった子がおとうばんさんだったが、その気持ちはわかるが、そうなることだけは避けたい。「わ」と「れ」の違いが上手くかけないが、なんとか「れ」にみえるところまでは来た。
「あめ」。これは難関だ。「め」は少しの練習でなんとかなった。穴のバランスをとりつつ筆記具をまわすのだが、「め」は突き出した形になっているので楽だった。これは調子がいいぞとはりきりすぎて、「ぬ」になったりして、これはいかん、と慌てたりした。
「あ」は「め」に似ているのだが、もうひとつ難しい。十文字の交差まではいいのだが、「十」に「の」を何度やっても一角目にくっついてしまったり、穴がなくなってしまったりする。しかも右カーブの手前で、交差してしまいどうやっても突き出してしまう。それができても最後まで気が抜けない。一角目のしっぽとくっつかないところで止めなくてはならないのだ。
「め」のように突き出てしまうのは仕方がない、とあきらめ、どうにか形になったことで妥協した。できれば自分のおとうばんさんの日の天気は晴れか曇りにしてくれ、と神に祈った。
さいわい、1回目の日直だか週番だかは、3人の真ん中で「○にち」の数字をかけばよく、前日からの緊張も拍子抜けだった。
ところが、おとうばんさんは何度もめぐってくるものだった。
しかも天候の変化は「晴・曇・雨」だけではなかった。
なんと、明日がおとうばんさんという日に、雪が降り出したのである。
いつもだったら珍しくて嬉しいはずの雪が暗く重くのしかかってきた。
「ゆ」
どうやって書くんだ、そんな字。
はっきりと記憶に残っているのだが、祖母の家の鏡台の前で帳面を開き、赤い色鉛筆で練習をした。見ながら書くわけにはいかない。何も見ずに「ゆき」と書かねば。
ちまちま、ちまちま、何度書いてもうまくいかない。
開き直って、帳面いっぱいの大きい字で書いてみた。すると一筆でするっと書けたのである。
「ゆ」
お、書けた。これは神様が与えてくれた、1回だけのまぐれではないか。
「ゆ」
ああ、まぐれではない。
「ゆ」「ゆ」「ゆ」「ゆ」「ゆ」
帳面は何ページにも渡って巨大な朱色の「ゆ」の字で埋まっていった。得意げに大人たちに見せにいったのだが、「あら、よかったわね」という程度で、自分の期待ほどの反応は得られず意外だった。読めるから書けるとでも思われていたんだろうか、どれほど悩んでいたかは知らないのだということを感じた。
「よし、これでどんとこいだ」と勇んで幼稚園に行ったのに、あたたかい地方のこと、ゆきは積もることなくすぐやんでしまい、その日書いたのは、
「くもり」
であった。せっかくの成果を披露できず、残念に思ったが、しかしこんな程度のことで自慢したら、今まで書けなかったことがバレてしまうからよくないな、と誰にも言わないように決めたプライドの高い子供だった。
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