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ブログをみていると様々な言葉が飛び交っている。
みんな何を思って書いているのだろうか。
それぞれの思いを吐き出しているかのような言葉たち。
けれど、私はその言葉どれもが好きだ。
心の底から湧き上がるものを何かに、誰かに、自分に向かって伝えたい。
そこには間違っているかもしれない、揶揄されるかもしれない、的外れかもしれない。
いろいろな不安が転がっていようとも心を削ってうまれてくる言葉は尊いものだと思うのだ。
けれども、誰かに伝えるために、日本人に日本語を中国人に中国語をアメリカ人に英語を話せるものならその人の国の言葉を使おうと努力するように誰かの言葉を拝借したり引用したりすることは伝える為の手段だと理解できるのだよ。
確かに、誰かの仮面を被ってしまうことのように思えるかもしれないけれど、言葉に名前が書かれない様に所有できるものではないから本来、言葉とはそうやって成り立っているものなのだよ。
だけれど、誰かの言葉をコピーペーストで間に合わせ、あたかも自分の言葉であるかのようなやり方は人は騙せても自分は騙すことが出来ない。そのことはずっと、自分の中でこだましていくだろう。それは誰にも解決できない。自分で乗り越えなければ解決できないのだよ。内面の自分を知ることはもしかしたら難しいのかもしれない。けれど、他人には見えないかもしれない内面のコンプレックスを見つめようと努力することは自分を高めていく行為になるのだ。自分の膿の中にこそ個性が存在するのかもしれない。
飾っていたっていいよ。仮面をつけていたっていいと思う。だけど、自分を欺くような生き方は選ぶなよ。