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この度HPのアドレスを変更し、サイトもリニューアルすることとなりました。 新しいHPは下記のアドレスとなります。リンクを張られている方、お気に入りに登録いただいている方はお手数ですが変更をしていただけますようお願いいたします。 http://sasakicounseling.jp/
2017.06.11
人が自分のことを不幸だと思うのはその人が自分のことを不幸だと信じ込むようなことを何度も何度も自分に言い聞かせるからそうなるのだと言ったら、果たして皆さんは信じるでしょうか。 そうでは無い確かに自分はとてもひどい目にあったと言う人はもちろんいるでしょう。しかしそういう人の目には自分よりもひどい目にあったのに幸せに暮らせている人のことが目に入っていないのではないでしょうか。 そうやって自分のわずかな経験をもとにこの世界全体は嫌なところだとか、自分はとっても不幸な人だとか判断するのです。そして自分の考えに都合の悪い情報は無視されたり曲解されたりして一切排除されることになってしまうのです。。 言ってしまえば人は自分が不幸である状況を自ら作り出して、その中に住み着いてしまっています。なぜそこから出ていこうとしないのか?それは今まで住み慣れた不幸の中にいた方が新しい世界に出て行こうとする努力をするよりも遥かに楽だからです。 自分自身を救うための第一歩は自分の主観的な世界で自分のことを憐れむのをやめ、自分は今、自分のこと不幸だと感じているが客観的に見るならばそれは自分の意見であり、正しい工夫と自分を変える意識を持ち続けることができるならば、やがて自分は今とは違う別の見方ができるのだとまず信じることから始めることです。 もちろんそれは容易いことではないでしょう。しかし変えようと思えば人はいつでも変わるチャンスを手に入れることができます。ただしチャンスを掴み自分の世界から抜け出る人よりも、自分の不幸を嘆きながら人生を送る人の方が圧倒的に多いことも確かでしょう。自分の世界から出るというのはそれほどまでに難しいことなのです。 どんなカウンセラーも自分の世界から出ようとするこの本人の決心なしには人の人生を変える手伝いはできません。先ず本人が決心をしなくてはなりません。 しかしもし本人が決心を抱いて優れたカウンセラーの門をたたくならば、自分ひとりで努力するよりも何十倍ものスピードで自分が変わっていくことを感じることができるでしょう。
2015.02.13
明けましておめでとうございます。PCが故障して永らく帰ってこなかったのですが、昨年末にやっと戻ってまいりましたので、これまで通りに更新を続けていこうかと思います。本年もよろしくお願いいたします。 個人が問題を抱えている時、多くの場合、この個人の考えや感情を何とかすれば良いと考えがちです。そしてこの時,思考、感情、行動のうち日本人の多くが感情を何とかすることに関心を集めがちです。しかし感情は自分の思い通りに変化させられません。変えることができるのは考えと行動です。 考えはある程度自分のおもいどおりにすることができますが、これもそんなに上手く行きません。新しいより適切な考えに変えようと思っても、新しい考えの信憑性を信じさせてくれる自分の体験に乏しいから、そうすればいいことが分かっても本気にすることができないのです。 このような理由から個人の中の考えや感情に焦点を当てても問題が解決することはまれなことです。 ここで私がお薦めしたいのは行動を変えることです。行動を変えることを納得するために考えを若干変える必要はありますが、行動が変わることによって環境から帰ってくる反応が変わります。今までと違う行動をした結果違う反応が返ってくるというのは全く新しい経験をすることになります。それが以前よりも便利であるなら新しい行動は繰り返されやすくなり、その結果その人の考えは確かおな経験の裏打ちによって変わるでしょうし、感情については放っておいて一向支障のないものです。 行動の変化だけが社会-自分以外の人間に向かって行われるものです。人の抱える問題は人との関わりの中で生まれ、人との関わりの中で維持されます。ですから解決は人との関わりの中で図られるべきものなのです。そのためには行動の変化を計画するべきなのです。 人の抱える悩みはたいじんかんけいのなやみです。ですから解決は人との関係の中でもたらされるべきなのです。対人関係に影響を与えられるのは行動の変化です。私の悩みは対人関係ではない、背が低いことを気にしているのだから、という人もいるkqもしれません。しかしこの場合も周りに比較する誰かがいなければそもそも、問題ではなかったはずであり、人々との関係があるからこそ悩みのタネになっているものなのです。人間の精神の健康さは社会との調和の中で決まるものなのです。
2015.01.06

毎年スケジュールが合えば8月15日は靖国神社に参拝することにしているのですが、残念ながら今年はそれがかないません。代わりという訳ではないのですが、未だに訪ねたことのない神社を詣でて参りました。 日露戦争で有名な乃木将軍が祭られている乃木神社です。将軍の邸宅に隣接した場所にあります。 その後青山墓地を通って次の神社に向かいます。初めて通りましたがお墓のど真ん中を道路が通っているような立地なんですね。乃木将軍、尾崎紅葉、中村吉右衛門、吉田茂、岡本綺堂、志賀直哉、大久保利通、斎藤茂吉、池田勇人、後藤新平、国木田独歩と有名人が沢山葬られております。 そしてついたところは。 東郷神社は東郷提督が祭られている神社です。本人は生前このように祭られるのを嫌がっていたようですが・・・ご存知の方も多いと思いますが日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破ったことで世界的に有名な提督です。本日は日露にまつわる縛りで神社探訪してみました。 この近くには明治神宮もあります。訪れたことのない方は是非。
2014.08.14
子供の不適切な行動を見ると何とか止めさせたい、と親ならばこう思うのは自然な感情ですが、今回は子供が何のためにそんなことをしているのか、ということの意味を少し考えてみたいと思います。 私たちのしていることは全てが他者へのメッセージを含んでいますし、他者からの様々な有形無形のメッセージに反応して次の自分の行動を選んでいるものです。メッセージといいましたが、それは意識されたものとは限りません。ならばいっそメッセージを信号と言い換えてもいいかもしれません。 人と人との間で行われるこの一連のメッセージのやり取りを私たちはコミュニケーションと呼びます。そして一定のコミュニケーションの行われる人々のつながりのことを対人関係と呼んでいます。不適切な行動はまさにこの対人関係の中で起こっていることであり、不適切な行動はメッセージとしての役割を果たしているのです。これと切り離して不適切な行動を考えることはできません。木を見て森を見ず、という言葉がありますが、この場合にうってつけの表現だな、と思います。 私の勧めとしては子供が何をしているかではなく、その振る舞い方で周りとどのように関わっているか?行為の内容ではなく行為の持つ意味、行為は対人関係の中でどのような働きをしているのか、と考えるのが子供の行動を理解する上で有効な視点であるということなのです。 日常的な常識に即した方法ではないかもしれませんし、それ故の抵抗感や不自然さを感じることであるかもしれません。しかし日常的な思考方法に頼ると分からないことであるからこそ、いつもとは全く違った方法でものを見直してみることに大きな意味があるのです。 最新記事はこちら
2014.08.11

研修で盛岡に行って参りました。研修終了後ちょうどはながさ踊りの時期と重なっておりましたので見物に。
2014.08.04
カウンセリングでは相談者が困っている事柄についてどんな感情を持っているのかを手掛かりにして、相談者が何に対して問題を感じているのかということを明確にすることがあります。 怒り、というのは現在の出来事に対して起こる感情だと思いますし、後悔というのは過去に対して起こる感情だと思うのです。では今回のテーマである不安は何に対して起こるのか、それは未来に対してです。このように相談者が抱いている感情の内容で何に関心を向けているのか見当をつけることができます。 不安はまだ見ぬ未来にある結果に対して満足できない状況が予測されるときに起こる感情です。それ故に人は不安を落ち着かせるため、将来起こる出来事が現在の予測よりも良い結果が生じるようにと努力することになります。しかし結果が変えられない場合はどうしたら良いのでしょうか。 おすすめの方法としては不安を感じる好ましくない結果に直面する覚悟を決めてしまうことです。不安を感じている段階では好ましくない結果を避けよう、避けようとしています。しかしどう考えても結果が動かしようのない場合、避けることができないことが予めわかっています。 避けられないことを避けようとするのは意味がありません。そして避けられない出来事に対して不安が存在する意味がありません。こんな時は嫌な出来事に直面するということを予定に組み込んでしまいます。そしてどうせだったら避けられない出来事ですから、それを通して何かを学ぶつもりでいると良いでしょう。 嫌な出来事は自分が不安であろうがなかろうがやってきます。それと向き合うのは不快でしょうけれど、覚悟を決めてしまえば動揺は消えるものです。何らかの出来事に対してどんな感情を持つかは自分自身が決めているのです。自分の外側の快不快に関わらず本来私たちは自分自身をコントロールすることができるのです。最新記事はこちら
2014.07.16
多くの関係者はカウンセリングはカウンセラーがクライアントに対して話をよく聞くこと、共感して気持ちを受け入れることで、クライアントの気持ちが怪我が自然に治癒していくことに例えられるように、傷ついた心が少しずつ立ち直ってくるかのように思われているように思います。 これはカウンセラーが薬のように作用してクライアントが癒されると思うからです。。しかし実際にはカウンセリングとはリハビリのようなものです。上手く働かない部分を少しずつ働かせることによって上手に動かせることを目指して行うトレーニングがリハビリと呼ばれますが、カウンセリングはこれに似ています。動かさないと怪我は治ることはあるかもしれませんが、そのまま固定して動かせなくなってしまいます。クライアントが困難を抱えるのは心に痛みを抱えたからではなく、社会の中で上手く他人と関わる技能が何らかの事情で働くことができないために生じている問題です。その為にカウンセラーは上手な心の使い方をクライアントが学べるように、どのように下手な癖がついているのか現状を分析し、上手な方法について情報を与え、改善のために生活の中でトレーニングできるようにプログラムをし、トレーニング中の様子を報告を受けてフィードバックを続けていくことによって、上手く動かなかった社会技能をより上手くなることを目指しています。しなくてはならないのは心が癒されることではなく、社会的な技能のトレーニングです。訓練を経て身に付けることなので多少の困難もあります。トレーニングである以上はカウンセラーはコーチでクライアントはトレーニーです。やる気のないものをコーチすることはできませんし、クライアントを受け入れ、共感しても本人は気持ちいいかもしれませんが、社会技術は成長しません。一部ひねくれてた子がそれによって気持ちを入れ替えることはありますが、人間関係の中で自分のしていることの非合理性に気が付かずに失敗しているようなクライアントはこれでは改善することはありません。それを習得するにはある程度の努力を本人が主体的に行う決心が必要になります。その為関係者はクライアントをカウンセラーの所に送れば癒されてやがて回せい復し、まともに振る舞うようになるだろうと期待するのはかなりの確率で裏切られます。その方法で行動を改めるクライアントは僅かだからです。このような場合クライアントに自分を改善する意思がないなら、出来ることはクライアントが子供であるならば、生活をしている保護者が対応を変えてクライアントが自分で自分のしたことの尻拭いをしなくてはならないように、筋の通らないことは認めないように、しかし本人に対して好意的に接するようにすることを通して間接的に影響を与えることを目的にしていくことになります。対象が大人である場合、この方法は使うことができません。ただただクライアントを現実原則に則って扱うだけが残された方法となるのです。他者を思い通りにすることはできませんし、大人はもう躾けの対象からは外れているのです。 最新記事はこちらで
2014.06.14
明日からお休みをいただきますので、いつもより少し早めに更新してみました(3月28日現在)。 「どうしたら子供が言うことを聴くようになるでしょうか?」とはお母さんがたからよく聞く言葉です。中にはそのために子供の前で親が予想した効果を上げるためにお芝居よろしく演技のような応対をする方もいらっしゃいますし、そのように勧める専門家もいるように思います。 私も親御さんに対して子供に対する対応をアドバイスさせていただくことがあります。つまり今までとは異なるやり方で子供に接する助言をさせていただくのですが、上記の態度とはまるで異なると考えています。 子供に対して良い影響を考えて親の対応を考えるのに違っているその点とは、親が態度だけではなく考えも変えていただけるようにこちらでは案内させていただいているのですが、それは腹の中と子供への態度が一致する、ということです。腹の中がどうであれ、とりあえず子供が自分の思うとおりに振る舞ってくれるならば、という表面的、親の自己中心的な考えが根本にあっての行動の変化とはまるで違うと考えています。親が考え方を変えずに対応だけを変えているようでは、それは一種の詐術に等しいと思うのです。 騙し、権謀術数とは敵に対して使うものであって、仲間に対して使うべきものではありません。これは陰性感情もまた同じことです。 敵に向かって使うべき道具を味方に向けて使うから関係をこじれさせるもとになるでしょうし、子供は仲間を敵と誤認し易くなるのだと思います。また、ここで考える誤った手段で上手くいったと親が考えるようであってはさらに目も当てられない結果だろうと想像します。 躾けに苦労を感じられることもあるかもしれません。しかしそれにはより素直で理に適った方法というものがあります。親子関係のお話を伺いながら少しずつ提案させていただけたらと思っています。最新記事はこちら
2014.05.03
自由な意思という言葉から人は容易く他人から束縛されずに自分の判断に基づいた決定を行うこと、と思うのではないでしょうか。しかし人は他者からの束縛以上に自分を束縛していることに気がつついていないように思います。人は自分が理性的で合理的に物事を判断していると信じていますが、それではなぜいろんな可能性があるなかで、なぜかいつもこういう場面ではこんな風に振舞ってしまう、ということが起こるのでしょう。合理的理性的に判断をしているはずなのに、なぜ何度もあまり好んでいない状況が繰り替えされるのでしょう。それは私たちが絶えず無意識からの影響を受けた判断をもとに行動を作り出しているからです。 無意識は決して悪いものではありません。ここまで生活してこられたのも無意識が信頼に足るだけの判断をしてきたがためと言っても言い過ぎではないでしょう。しかし何事も100%完璧はありえないもので、無意識の働きにも不合理な判断が行われることがあるのです。もしもう少し今までとは違う状況を望むのであれば無意識的に行動するのをちょっとお休みし、これまでとは違う意識的に行動をしなくてはなりません。 カウンセリングでお手伝いしているのはこのような新しい行動を選び取れるようになることでもあるのです。 最新記事佐々木カウンセリングオフィス
2014.03.28
先日更新したつもりになっていたのが内容が先月分と同じものを誤ってアップしていたようでした。取り急ぎ別の内容に差し替えてアップし直しましたのでよろしくお願いいたします。 改めて今回は昔読んだ本の中から面白いと思った文章を抜粋してご紹介したいと思います。 「気持ちがいい」こと、楽なことだけをするのは「自分を大切にしている」ことではなく、何時までも歯ごたえの無い、軟らかなおかゆだけを食べて、あごや胃を虚弱にしてしまうのに似ています。「自分には合わない」とはっきり分かっていて、自分の心身が耐えられる範囲で何かをやるのは、自分を鍛錬していることになります。また、状況と自分との相性が分かっていると、細かい部分を変えることで、幾分でも自分に合うように状況を変えることができます。つまり、この練習は日々工夫しながら生きてゆく生き方の基礎でもあるのです。さらにまた、人は楽なことばかりしているのが「気持ちがいい」わけではありません。病気の状態では、楽なことをしているのが「気持ちがいい」場合が多いのですが、体力や気力がついてくると、いろいろな困難にチャレンジするのが「気持ちがいい」のです。危険を覚悟でヒマラヤ登山などをする人たちは「気持ちがいい」の極致をやっているのです。 (岩崎学術出版 「精神科養生のコツ」 神田橋條治著 p16より抜粋) この文は「気持ちがいい」という経験を通してどんなことが自分に向いているのか、という感覚を育てることができるという文章からの抜粋です。 読んでみて、自分の体験に照らしてみて、そしてどんな味わいがあったでしょうか。「気持ちがいい」ことと「楽なこと」は同じではないということがお分かりいただけると嬉しいです。もしかすると「楽なこと」をしているはずなのに、なぜか「楽しい」と感じられない、「楽しい」はずのことをしているのに、なぜか「気持ちがいい」感じがしない、という経験はありませんか?もちろん、多少辛いのに「充実している」「楽しい」「生き生きしている」と感じた瞬間もあったのではないでしょうか。そのときのことを振り返ったり、もしその瞬間を迎えることがあったりしたら、その場所の何が自分を生き生きとさせているのかを感じてみると良いでしょう。そうすると良いことが二つあると思います。一つは自分の気づかなかった特徴に気づくことがあるかもしれないこと、もう一つは将来何かを選択する場面で自分にあったものを上手に選べるようになるかもしれないということです。 少し気に留めてみてもらえると嬉しいと思います。 最新記事http://www1.ttcn.ne.jp/sasakicounselingoffice/
2014.03.09
今回の記事は子供のしつけについて考えたことについてお送りいたします。 ある場所で、とある親が子供がわざと親の嫌がる行為をよその人にするので困っている、という話を小耳に挟みました。 今後同様のことがあった時、対応をどのようにするのか、というカウンセリングはもちろんできるのですが、先日偶然にもその親子が実際にどのように関わりあっているのかを町で見かける機会がありました。 歯医者での待合室で偶然見かけたのですが、待合室という場所は不特定多数の人がいる公共の場に準じた空間だろうと思います。その中で子供は周りの人の迷惑を顧みずに遊んでいるのですが、それに対して親は注意を与える気配がまったくありません。 当然子供は公共の場では皆に迷惑のかからないように大人しく静かに過ごすものだ、という常識は身につかないでしょう。そして親はこのように振る舞うわが子を問題だとは思っていないのです。そしてある特定の自分にとっての不都合な場面でだけ子供の態度が問題だと言って相談にやってくるわけです。 しかし一方では世間的に問題を起こしているのを問題視せずに自分にとっての問題だけが問題である、という態度では本当に子供の教育のためによかろうはずはありません。 この家庭の場合、親が問題と感じていない普段の行いの中にこそ大きな教育上の欠点があるようです。しかしこの親が相談に来るのは自分が特に困ったと思った場面限定ですから、普段の躾の欠点が語られることがありません。子供の問題について考える際、自分が問題だと思った場面だけではなく、問題を感じていない場面でこそ、常識に照らして本当に自分はちゃんと子供に伝えるべきことを伝え、教えるべきことを教えられているのだろうか、という点について考えてみるのはいかがでしょうか。 ※このお話は本質を歪めない程度に大きく創作を加えてあります。最新記事は以下のHPで佐々木カウンセリングオフィスhttp://www1.ttcn.ne.jp/sasakicounselingoffice/
2014.02.01
皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。最新記事をHPに掲載いたしました。よろしければごらんください。http://www1.ttcn.ne.jp/sasakicounselingoffice/
2014.01.01
甘やかして何でもしてあげるか厳しく罰するか。我が国での子育てでは我儘を聞くか、怒って感情的になるかの二者択一だと信じている人が多い印象があります。時々子供を罰しない、甘やかさない、とお話させてもらうことがありますが、では甘やかした方が良いのですか?とか、反対に、怒った方がいいんでしょうか、と言われることがあります。 甘やかす、厳しくする、の本来的な意味を考えてみたいのですが、私は甘やかしと厳しくする、は責任を追及する強さの程度にあると考えています。正当な理由なくして本人が果たすべき責任を免除してしまうとそれは甘やかしであると思います。 では厳しくする、の場合ですが罰することを意味しないのなら、厳しさとは本人が責任を果たすことを求め続けること、ということになります。罰によって言うことを聞かせようとすると、子供は見つかりさえしなければ、怒られなければ良いのだという態度を身に着けやすく、教えたいことについて学んでくれる可能性は高くはありません。それは父兄の本意ではないはずです。先に述べた意味での厳しさを求めるのであれば罰を与えなくても、責任を取って生きてもらう、という対応は十分な厳しさがあると私は思います。 先日キオスクの前にいる、ある母子を観察していました。子供が飲み物をねだって動かなくなるという様子に母親がどう対応するかを見ていたのです。母親は怒った様子を見せて子供の要求を拒んでいましたが、最終的には飲み物を買って与えてその場を立ち去りました。これは結論から言えば甘やかしです。また、子供は親が最後には自分の要求を受け入れることを強く確信しています。 つまりこういうやり取りが何度も繰り返されているのでしょう。飲み物を一本買い与えた方が親にとっても楽なことでしょう。しかし子供に教えなければならない大切なことを犠牲に手に入れた楽です。このことの損失はものすごく大きいと私は考えます。子供が諦めるまで根気よく付き合う方がはるかに難しいことでしょう。しかしそのことによって子供に教えられることはどれほど有益でしょうか。 甘やかすことでは子供の信頼は得られないでしょう。それは子供の自立を妨げます。親の権威は怒る、怒鳴るでは伝わりません。むしろ損なうだけです。毅然として親の本気を見せていく姿勢にこそリーダーとしての威厳を子供は見て取るのではないでしょうか。 それでは来年もよろしくお願いいたします。 皆様、良いお年をお迎えください。 佐々木カウンセリングオフィス佐々木
2013.12.28
言葉の感覚に鋭い方の中には「感情の使い方について」というタイトルに違和感を覚える方もいるかもしれません。感情は何かの結果引き起こされるものであって、使うものではない、と考えたのではないでしょうか。 例えば子供が気に入らない何がしかの行為をしたため、そのことが腹に据えかねたので怒ってしまった、というような認識の仕方です。この場合感情は子供がした気に入らない行為によって刺激された結果とみるのです。 しかし世の中には子供がした気に入らない行動を気に入らないと感じない人もいるでしょうし、同じタイミングで泣いてしまう人もいるかもしれません。それが性格の違いなのだと言われればそうなのかもしれませんが、せっかくなのでもう少し深く分け入って考えてみたいと思います。 上記段落のような出来事は親が子供を怒りました、でお話が終わっています。親の視点で語られるとそういう場合が多いように思うのですが実際にはその結果子供はどうした、というお話が後に続いているはずです。カウンセリングの場ではここまでお話をお尋ねしています。そしてお話を一般の方とは違った角度から考えてみるのです。 親に怒られた子供は怒られたために何がしかの反応を示すはずです。今までしていたことを止める、とか、今までしていなかった行動を始める、とかのことです。例えば今までしていたゲームを止める、していなかった宿題を始める、などを考えることができるでしょう。実際に起こった出来事をこのように考えてみると感情の使い方がわかってくるのではないでしょうか。 感情は一般的には何かの結果発生する自分ではどうしようもない精神状態の変化として説明されることが多いように思うのです。以下の図のように。過去(気に入らない出来事)→感情(結果)しかし実際には感情(他者への影響力の行使)→子供の行動の変化(結果)このように使われていると考える方が物を考える上で大変便利です。にわかには信じがたいと思わるかもしれませんが、物は試しです。ご自身の感情の動きとそれに続いて状況がどのように変化したか、観察されるのも楽しいかもしれません。陰性の感情(人との関係を遠ざける感情)は時として対人関係の悪化を招くもととなります。新年は冷静な子供との関係を考えるのもいいのではないでしょうか。
2013.12.09
「カウンセラーは無限に優しい、もしくは優しくなければならない」と思われているように感じることがあります。また一部のカウンセラーはそのように思っている人もいるのではないかと感じます。流派ごとに考え方も違うのかもしれませんし「いや、カウンセラーには厳しさもなければならないのだ」というおっしゃい方をする人もいるかもしれません。 実際カウンセラーはどこまでクライアントに寄り添うべきなのでしょうか。結論から言えばカウンセラーは困っているクライアントを無制限に皆助ける義務はありません。カウンセラーが力を貸さなくてはならないのは、この世の中と折り合いをつけたいと願うクライアントだけです。世の中が自分の折り合わないから自分の苦しみは続いているのだ、というクライアントには物の見方を変えるようにはお勧めするのですが、どうしても頑なにその立場にこだわられる場合、カウンセラーはこれを断念します。代わる気のない方のカウンセリングは意味がありません。また、困難を持ち続けることで生活保護を手に入れる、などのクライアントさんもいます。これも付き合いません。 カウンセリングを進めるうえでクライアントに厳しく直面する場面はありますが、それとは別にカウンセリングを引き受けてはいけない種類の人たちも存在します。これらのカウンセリングを引き受けないことでクライアントさんの無駄なお金と時間を節約することができますし、カウンセラーの時間を本当に必要なクライアントさんに振り分けることができるのです。このような意味でカウンセラーは無限に優しい、という訳ではありません。是非世の中の悪口ではなく、自分が何をするべきか、を考えにいらしていただけたらと思います。
2013.10.03
カウンセリングの中ではカウンセリングに来てくれた方がどんな風に行動を変えていくか、ということが話題となります。カウンセラーに会いに来てくれた人しか相談に乗ることができないのですから、カウンセリングに来ていない人の行動を変えることができない、という理屈はお分かりいただけるのではないでしょうか。そしてカウンセラーとしては保護者が子供を援助する力を増すように、行動をより良く変わっていけるべく援助していくことになります。 カウンセリングが進んでいく中で時々あることですが、カウンセリングが終了していなくても子供の行動が変化を見せることは珍しくありません。対人関係は相互に影響を与えあいますから保護者の振る舞いが変われば子供は当然そこから影響を受けるでしょう。その結果しばしば保護者が最初相談に訪れるきっかけとなった子供の行動が改善することもあります。保護者は当然ここでうれしく思うでしょうし、安心することでしょう。ただ、残念なことにしばしば子供の行動の改善をきっかけにその後のカウンセリングをキャンセルされる方が時々いらっしゃいます。 ここで思い出して欲しいのですが、カウンセリングは保護者が子供を援助する力を増すようにより良い行動を身に付けることを話題としています。何らかの不適応な行動をする子供は人々との付き合い方に対して苦手とする領域を抱え、不登校などの形で表現されています。一時子供の行動が表面的に完全したとしても、彼の苦手とする部分まで一気に改善するわけではなさそうです。また、いつ同じように不登校を始めてもおかしくない場合もあります。そうした中で子供が学校に行ったことに満足してカウンセリングを中断してしまってから結局元の木阿弥、ということをしばしば目にします。 また、1度だけカウンセリングに訪れてカウンセリングの中で聞いた内容を実行してだめだったから次のカウンセラーへ、と渡り歩く方もいらっしゃいます。この場合もやはり保護者が子供との関係に焦点を当て、彼らを援助する力を増すのだ、との視点からもう一度全体を眺めてみることができると嬉しいと思っています。子供を直接なんとかして動かそうとする相談もあるかもしれませんが、子供の激しい抵抗にあうのであまり成果はあげられていないようです。
2013.09.29
保護者が子供のことについてカウンセラーと話したいと思うときというのは、多くの場合、子供が学校に行きたがらない、などといったこれまでの日常とは違った行動が起こり、驚いたときでしょう。このようなわかりやすい出来事をきっかけに相談が始まることが多いようです。 不登校などの子供の非日常的な行動について子供が直接相談しに行ってくれれば、と普通親は考えます。しかし当の本人は多くの場合カウンセラーの援助を受けたがりません。嫌がるものを引っ張ってまで連れてくることはできないので次善の策として保護者が相談にいこう、とこういう経緯をたどることが珍しくありません。こうして保護者とのカウンセリングが始まります。 この後保護者とのカウンセリングがどのように進むかと言えば、カウンセリング開始当初、保護者はどうやったら子供を自分の思う姿に変えることができるか、に関心が集中しています。しかし言われてみると納得される方が多いのですが、カウンセリングに来て下さった方以外の行動を変えることはできません。ということは保護者が自分でできることを考えていかなくてはならないということであり、それは保護者が非日常的振る舞いをしている子供とどうやって付き合っていくか、という点に集約されていきます。つまり子供の行動を直接支配することはできませんが、これまでの対応の適切なところは継続し、不適切なところはより適切なものにしてゆくことであれば十分に相談が成り立ちます。 それによって親子関係は疎通の保たれた安定したものになると期待できるでしょう。不登校の場合などは学校に行く行かないを巡って親子の間に深い溝ができていることもしばしばです。それが改善するかしないかは今後親が子供の支援を容易なものにするか困難なものにするかの分かれ道になることもありえます。 人は皆誰かとのかかわりの中で生き、お互いに影響を与えあいながら生活しています。そのため相手の出方が変われば強くその影響を受けることになるでしょう。しかしそれは必ずしも子供の行動が親の気に入る形に変わること意味しているわけではありません。カウンセリングは子供がどんな生活をしていようとも親として、ともに生活する仲間として一緒に協力しあいながら生活するための工夫であると理解していただけるといいのではないかと思っています。
2013.09.16
本格的に暑い季節となりましたが皆さんいかがお過ごしでしょうか。心を入れ替えて毎月1回更新しようと思ったばかりですが6月は結局更新できず、でした。ハードルを下げてせめて年に12回は更新、を目標にしたいと思います。意見を伝えるということ 自分の意見を人に伝える、というのは時々難しく思えることがありますが、そんな印象を持ったことがあるでしょうか。そう思った人もいるかもしれませんし、いつも自分はそう感じてばかりいるという人もいるかもしれません。 自分の意見を人に伝えるとき、必ずしも他の人が賛成してくれるとは限りません。自分と違う意見を持っている人とどのように意見を調整するのか、ということは意外に難しい所があります。人ともめることを想像して自分の意見を言わない、又はすぐに引っ込める、また、自分の意見を押し通すために攻撃的になる、などもめごとの原因になることがあるからです。中には自分の要求を聴いて欲しいのに直接口で言わずに、周りの人に何かして欲しそうなサインを態度で示す人もいます。これは意見を伝えることの難しさを避けて自分の思うとおりにしたいという働きかけです。健全なコミュニケーションとはいえません。 このように自己主張というのは意外と難しいものなのですが、何かそのコツがあるのでしょうか。自己主張のコツ 自分の意見を伝えながら、自分も他の人も傷つけないようにするのが最善いうことは皆さんに同意してもらえるのではないかと思います。では具体的にはどのようにしたら良いのでしょうか。 相手を対等にあつかうこと 平等な相手として尊重して関わること。 理性的であること 冷静に感情に左右されず、思慮分別を持って行うこと。怒ったり泣いたりして要求を通したくなる気持ちを避けること。 論理的であること 妥協点を探り、解決するために、現実に即した対応をすることができること。 権利と責任を意識すること 自己主張する権利にともなう責任を自覚すること。 表現に気をつけること 命令をするのではなくお願いであることを自覚し、相手を傷つける表現を使用しないこと。 本日の記事は知っている人にとってはつまらないごく当たり前のことが書いてあるだけのものですし、市販の本にもよく似たようなことが書いてあるのを見つけるのは難しくありません。しかしながらこういったことをご存じない方もいらっしゃいますし、特に最近では中高生などが家庭教育を通してものを教わる機会が格段に少なくなっています。このような状況下で多少なりとも参考になることがあれば幸いです。
2013.07.18
ゴールデンウィークの後半もスタートいたしましたが、いかがお過ごしでしょうか。今回のトピックは子供の理解について気が付くところをアップしてみました。子供の話を聴くこと 昔ある人が言ったことですが「耳は2つで口は1つ、話す2倍相手の言うことを聴きましょう」ということを言っていました。耳は2つで口は1つだからというのもこじつけた物言いではありますが、言っていることの中身はとても大切なことのように思われます。 相談業務などにたずさわっておりますと時々親と子供の関係がこじれている状況を見ることがありますが、しばしば見かける状況として、親が一方的に子供に自分の主張を認めさせようとして抵抗されているという場合があるように思われます。 上に述べたような態度に出てしまう理由として考えられるのは、親に「自分の考えが正しいのだから子供はそれに従えばよい、子供はそれに従うのが義務であり責任なのだから子供の意見ではなく私のいうことを子供が聴くことが大事なことなのだ」との考えが暗黙の内にあって上記のような姿勢で子供にかかわることになってしまうかも知れません。 しかしながら子供には当然彼らの言い分があるだろうと思います。言い分も聞いてもらえないのでは釈然としないでしょうし、元気のいい子などは積極的に意義を唱えることがあるかも知れません。他者とのコミュニケーションは相手に言いたいことを言う一方的な伝達ではなく、相互交流の過程であるはずですが時々このことが忘れられているのではないかと思うことがあります。 もしこのことに気を付けて頂けるのであれば以下のことを参考にしていただけるのではないかと思います。相手の関心に関心を示す相手の論理がどんな組み立てになっていてどんな結論を導いているのか、相手の立場に立って理解するように努める。子供を観察する相手が言いたいことは何か、相手は今どんな表情や仕草をしているのか、それは相手のどんな感情や考えを反映したものなのだろうか。という点について理解するよう努める。 例え結果が相手の要求を退けるものであっても、話を聴いてもらえるならば粗略にされたとの印象を相手に与えることはないのではないでしょうか。
2013.05.03
大分更新をさぼっているわけですが、4月からもう少し真面目に更新しようかと思いなして早速こんなことを書いてみました。先日私の参加した研修で講師が話していたことの中でなるほどと思った話を皆さんとシェアしてみたいと思います。研修の細かい内容はさておき、私の印象に残った講師の言葉を紹介したいと思います。カウンセリングの目的についてカウンセリングの目的とは「相談に来た人が他者と共に生きていこうという意志を取り戻す手助けをすること」こんなふうに言っていました。そして付け加えるならば、教育の目的とは他者と共に生きていくための意志、技術を育てていくことだろうと思います。なんとなく伝わりましたか?少し解説しましょう。文中には「他者と共に生きていこうという意志を取り戻す助け」とありますが、助けるとはカウンセラーによるお手伝いのことです。では取り戻すのは誰でしょうか?相談に来てくれた人ですよね。何で取り戻さなくてはならないのかというと、それは相談に来てくれた人が他の人と共に生きていこうという意志を諦めてしまっている、ということです。 人は他の誰かとの関係の中に自分の居場所を求めようとしますが、その関係は誠実で対等なものである必要があります。人と関わっていく知識と技術が必要です。相手があることなので常に自分の思い通りに行くとは限りません。多くの人は何とか工夫したり努力したりして乗り越えようとしますが、自信を失ってそこから身を引いてしまう人も中には居ます。 自分の悩みは他の人なんか関係ない。そう思っている人も沢山います。学校に行けない人はそうかもしれないけど、自分の悩みは個人的なことで他の人とは関係ないはずだ、と。でも本当にそうでしょうか?人の悩みの殆どが対人関係に関わるものだと言います。思春期には自分の身長のことで悩む人がいますが、これなど対人関係など関係無いように思えますよね。でも考えて見てください。自分以外の仲間が周りにいなければ身長が高かろうが低かろうがそのことに何か意味があるのでしょうか?このように一見関係ないように見える事柄であっても、それは人との関係、社会の中での居場所に深く関わっています。これらはクラスの仲間や家族や社会から身を引くことでは解決しません。皆と一緒に生活する自信を失って解決を先送りしているに過ぎません。当オフィスではもう一度自分の場所を見つけられるように一緒に考えていくことをお手伝いしています。
2013.03.29

先日新潟に研修に行った際に撮影したものです。慶雲とは夕方に現れる五彩の雲のことで古来瑞兆とされているものですが、正直五彩まではいっていなくて、3色くらいでしたでしょうか。しかも写真だとそれすらよくわからないのですが、この日の研修ではわたくし、大きくスキルアップを果たしたと確信したもので、こういう兆しを空に見つけて思わず一人合点してしまったものです。何しろこの技を得ようと決心して早10年以上という月日が流れていたものですから。私たちは常日頃自分特有の価値観でしか世界を理解することができません。同じものを見ていても私たちはそれに与える意味づけが異なっています。正しいたった一つの正解なんて存在しないのですが、その意味づけがある点で片寄が周りの人とずれていたときにうまく兼ね合いが取れないことがあります。それを比較的短時間で見つけてしまおう、そんな技術です。懐かしいお話をしていただく中から自分の思い込みを探す、そんなスリリングな経験になることでしょう。これからもますます磨きをかけていきたいと思っています。
2012.08.07
皆さんはおかわりないでしょうか。 本日は中学校で仕事の日でしたが、ご新規さんの保護者が2名予約が入っており、不登校していた子もいつの間にか一名相談室登校開始し、何かと忙しい思いをする日でした。終了してから担任とのディスカッションもあり、早く帰るつもりが遅くなってしまいました。担任の一人とついつい話し込んでしまったのですが、その中のお話がなかなか感動的なお話でした。クラスがとてもよくまとまっていて先生自体素敵な人だと思っていましたが、クラスと関わることをとても喜びとしており毎日まるで漫画みたいな日々で楽しいのだそうです。クラスの子は変わった子も多々いて、何かの発達障害学か習障害のある子が教科書を探す様子が初めて見た人なら驚くような変わった方法をする子とかその他数名。その全てを個性として捉えており、クラスメイトもおおらかに協力しあっていのが伝わって来て聴いている方も楽しい話でした。こんなことでも目くじらを立てる先生っていますよね。しかしこんなことで怒ることはクラス運営のプラスになるでしょうか。そもそもほかの人とやり方が違うからといって怒るようなことでしょうか。あまり詳しいことをここに書いてはいけないと思うのでほどほどの表現に留めているのですが一つだけ。 足を怪我している子がクラスにいるそうなのですが、その子が急いで席につかなくてはならなかった際にクラスメイトがみんなクラスの入口から彼の席まで机を移動させて最短コースを作ってくれるのだそうです。また、机を移動させなくてはならないとき、クラスメイトは彼に空っぽの机を任せて自主的に荷物の入った机を引き受けるのだそうです。話しながら先生の目が若干潤んできてたし、聴いているだけの私も非常にうれしかった。学校での相談はとかく問題を起こしている個人に注目しますが、本来こういうクラス運営がされていればそれだけで多くの問題が予防できるのですが。
2011.12.16
先日被災地の小学校にSCの緊急派遣事業としておもむいた際、授業中のクラスを案内してもらいました。その際図書館から派遣された人が絵本を読みながら本の紹介をする、という時間に遭遇。本の内容はといえば、マサイ族の若い男が一人前の大人として認められるべく荒野にライオン狩りに旅立った。やがて若者は一匹のライオンを見つけるがライオンはすでに戦闘で傷ついている状態。ライオンは若者を見ていった。自分を殺せば仲間のところに戻って受け入れられるだろうが自分だけは本当のことを知っている。自分を生かせば自分に恥じないが仲間には受け入れてもらうことができないだろう。という内容。結果どうなるのかとても楽しみにして聞いていたのだが図書館からの使者はこう言いました。続きは本を置いていくので読んでね。と・・・うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーむ・・・・
2011.11.26

本州をこれほど西に行ったのは初めてです。桃太郎伝説発祥の地、岡山県。学会が終わった後みなさんは早々に引き揚げられましたが、私はレンタサイクルを借りて観光して参りました。国分寺総社杜倉敷市美観地区美しくて良いのですが建物の中はかなり近代的なものを商っていて、良しとする人とそうではない意見とが分かれそうです。こうもり塚古墳棺の右のかけてるところは盗掘を試みた跡らしいです。古代にはかなりの先進地域だったのではなかったかと思います。桃太郎の伝説のもとになった温羅伝説というのがあるそうで、鬼ノ城という場所まであるのですが、さすがに山の上でそこまでいく気力はありませんでした。
2011.10.31

現在週末研修4連続の3週目を終えて少しお疲れ気味であります。下の写真は新潟で研修を行った際に宿泊先の建物の4階から撮影したものです。今回の研修では夫婦や親子の間で起こる葛藤を如何に解決するかというテーマでトレーニングを受けました。家族が知らず知らずのうちに繰り返す無意識のパターンを如何に脱却して建設的なコミュニケーションを再建するか、というものです。家族関係は最も難しい対人関係であるとの認識を持つ人はそれほど多くはありません。身近な関係だからこそ普段のコミュニケーションには気をつけていたいものです。 さて、本日は私は午前中のみ仕事でしたので午後は読書にも飽き、久しぶりに散歩をしてくることにして、市内であるにも関わらずに初めて地元の大堀川が手賀沼に合流する水辺まで散歩をしてきました。というよりもあてどなく歩いているうちにたまたま出くわした風景なのですが。夕方で釣りに来ている方や犬の散歩をしている方がちらほらと。ここには多くの魚が住んでいて若いお兄さんがフナを釣り上げているのを見ましたが、他にもブラックバスや雷魚や鯉、カワセミなどの水鳥も現れます。残念なことに水質が悪過ぎて釣った魚は食用には適しません。考え事をしながら水辺を散策するのは昔習慣にしていたことなのでウォーキングでも再開してみようかと思います。散歩帰りに見つけた今年初カマキリです。夏ですからまだ幼虫でした。オオカマキリでしょうか、ハラビロカマキリでしょうか。この後茂みの中に帰してあげましたが、カマキリの幼虫が成虫まで育つのは至難の業でしょうから、無事に大きくなってほしいものだと思います。
2011.07.12
ご無沙汰いたしております。今年に入ってから初めての記事となります。通常仕事のHPに絡めてブログを書くということはほぼ定期的に更新することを覚悟して書くものと思うのですが生来の横着が災いするのとあまり商業的なことを意識したくないのとが相まって場合によってはこのようなブランクにつながることもあるという次第です。その間に東北地方でも大震災があり、誠に痛ましい出来事でした。被害にあわれた方々のご心痛を察するに余りあります。この被災に関係してボランティア志望者が多く被災地入りをしまして、私が所属する学会の中にもそのような活動を積極的に行っていこうとする団体も存在します。しかしながら現地の方々から見れば殆どのボランティアカウンセラーは残念なことにありがた迷惑であるようです。事実避難所の中には心理カウンセラーお断りの張り紙が掲示された所もあると聞きます。日本のカウンセラーの殆どは大災害が多数の方に心の傷を自動的にもたらすと信じています。ですのでこういう事態が発生するとこの公式に当てはめて大挙して押し寄せるという現象が起こります。しかし実際には被災以前から精神的に不調があったとか、心の傷を強調しなければその後の社会への所属が困難になるタイプの方が災害後に生活が回復してからも病的な訴えをすることとなります。PTSDの予防を訴えて現地入りする人も多いのですが、実際にPTSDに移行する人は少ないと思われるにも関わらず予防と称して災害後の心理状態に根ほり葉ほり介入することは予防効果以上に医原症を発生させかねないだろうと思われます。最近では被災=PTSDの大量発生というのに疑問を投げかける声も少数ながらあるように思いますので早く正しい知識が常識化されることを祈らざるを得ません。
2011.06.22
1stPCの不調によりトップページへのお知らせが載せることが叶いませんでしたのでこちらに掲載させて頂きます。 12月29~1月4日 上記休業となりますのでメール等返信が送れますことをお許しください。それでは皆様良いお年を。
2010.12.29
メインPCがネットに接続できなくなり、暫定的にセカンドマシーンでメールの授受をしている状態が続いております。早く直せば良いものを生来の無精が祟り、未だに復旧を遂げておりません。そう、一言で言うとブログを更新してない言い訳です。さて一年も早いものでもう数日を残すのみとなりました。当オフィスにとって決して順調とばかりは言えない一年でしたがそれらの経験を通して得るものは決して小さくなかったと思いまし、事実若干の進歩もございました。天地万物に感謝したいくらいの気分でおります。私は仕事柄医師、教員、福祉職など様々な形での人を援助される方々と交流する機会があり、彼らと公式非公式に対象になるケースについてディスカッションすることが少なからずあります。その時に思うこととして支援を必要としている対象者の精神的な健康度をどのように見積もるか、という点についていくつか考えさせられることがあります。医師と話していると彼らは精神医学という医療の枠組みから対象を把握いたしますので健康であるかないかの基準は概ね症状の有無をよりどころにしていると言って良いように思います。医学という立場の性質上分かりやすい基準であると思います。私の専門である心理学から見たときに十分であるとは言えないとの感想は持ちますが。では学校の先生などの場合ではどうでしょうか。医学はその性質上対象の健康不健康を明瞭にする必要がありますから上にあげたような基準を意識する訳ですが、教育福祉の現場では必ずしもそうではありません。福祉の場では障害者に関わることが多いでしょうけれど、障害=不健康と言えるかというと難し部分が残るはずです。ときどきこういうことを考えたりしているのですが、先日学校の先生から教室の生徒からアンケートにこう書いてあったという話を聴きました。生徒からの要望で他の生徒のことを~と指導して欲しい、とありました、と。このことからわかることは、このアンケートに記入した生徒はクラスの環境を自分にとって住みやすくするためにクラスの責任者に私は自分では何もしないけど、あなたが調整して下さいね、と言ったということになります。本来ならばこの状況に対して「自分にできることは何か?」と考える人であってほしいのです。人が自分にとって何をしてくれるのか?こういう発想からは貧しい果実しか得られないでしょう。また、将来何らかの症状が現れようが現れまいがこれらの発想をしていると人は社会のお客様です。人生の当事者でない限り私はその人は不健康とは言いませんが、健康な人ではない、病気だとは思いませんが未病のかたなのだな、と思っているのです。
2010.12.26

9月は投稿の無いままに過ぎてしまいました。大阪に研修には行ったのですが巨大地方都市であるがゆえにアップして楽しい写真でもなかろうと思ったのもあるのですが。 上記の写真は鹿児島大学で今月行われた学会に参加したときのものです。両サイドに生えているのは椰子でしょうか。いかにも南国の風情です。また、ことのほか桜島が間近に見えることに驚きました。噴火のときは火山灰でさぞや大変な思いをするのでしょう。 鹿児島は福岡のような大きな都市ではありませんが、駅前には歴史的に関係の深いところが詰まっている印象が強くて流石に維新で大きな役割を果たした薩摩の地といった風情です。 これは学会で知り合った金沢の先生と夜は鹿児島の郷土料理を、とのコンセプトで入ったお店で注文したメニューです。中々楽しく盛り上がりました。 このような街の雰囲気に触れて歩けるのも学会に参加する楽しみの一つです。来年は私の参加する学会の多くが東京になるので旅は一休みですが。 鹿児島は他にも神風特攻隊の出撃基地のあった知覧があります。鹿児島からバスで1時間以上かかるのですが、もしも立ち寄る機会のある方には是非立ち寄ることをお勧めしたいと思います。館内は写真撮影禁止のためアップする画像はありません。中には遺影や遺書、遺品が展示されており、日本人であれば中に入るだけで身が引き締まるような思いをするのではないかと思います。一部そうではなさそうな人たちも居ましたが。 また、知覧には特攻隊に関係した場所のみではなく、このような武家屋敷が集まっている場所があります。建築には琉球の雰囲気が漂っているように思われるのは気のせいでしょうか。この武家屋敷群は一部公開されており、屋敷の概観と庭園を見学することができますがとても趣のある建物でした。 さて、明日からは箱根で研修会です。存分に楽しんで参りたいと思います。
2010.10.28
私は学校の中でも仕事をしているのですが、そうすると殆ど発言を自粛してしまうような話題が存在します。とても大切なことなのですが。 例えば国のため、と言っただけで嫌な顔になる人はこれを読んでいる人の中にもいるのではないでしょうか。 しかし今の対人関係の荒廃ぶりを否定する人は居ないだろうと思います。先進諸国はどこもそんな感じでしょうけれど、だから発展した社会には当然のつき物だと思っていないでしょうか。そうではありません。先進諸国が同じ間違いをしているだけなのだと私は思います。 現代社会は個人の権利を昔に比べて格段に認めるいい社会だと何の疑問も無く思っている人は多いのではないかと思いますが、これがすでに誤った考え方であるといわねばなりません。自分が所属している集団から個人が自由になったと錯覚し、世のため人のためではなく自分のために生きるようになる、それは用意に利己主義への肯定へとつながっていきます。それは個人の権利ばかりを振りかざし、そのくせ義務を果たさず、自分の所属している共同体を蔑ろにする。これは社会を荒廃してしまいます。現在の社会のようになるのはむしろ必然の道理だったでしょう。私たちが健康であり、社会が健全に機能するためには、個人個人が集団に貢献し、今の親が教えなくなった世のため人のため、という価値観を取り戻す社会が必要です。それは身近な共同体から成長に伴うとともに広くなっていく共同体に向かって成長していきます。家族、地域、更には国に行き着きます。自分の国に貢献することの何がおかしいのでしょうか。軍国主義になりますか?いまさら?共同体は理想的解釈すればやがて国家を超え人類、人間外、生命以外にも通ずる考えです。しかし私たちが実感を持って参画でき、実際に機能の一部を担い、その責任が取れる現実的共同体の最大のものは今のところ国家だけです。 ヨーロッパではEUが組織されていますが果たして上手くいくかどうか今後の推移を見守る必要があると思います。やがては国家を超えて共同体を意識できる日も迎えられるのかも知れません。もしも今すぐ「国への貢献」など思いたくもない、と思われるならそれも結構でしょう。ただし、自分たちの家族、友人、クラス、学校、会社、地域、に対して自分は何ができるのか、そこから今までにどんな恩恵を受けてきたのかを思いをいたすことはできるでしょう。かつてこれほど個人の権利が注目を浴びた時代はなかったでしょう、しかし権利につき物の義務を語るのを聴いたことは殆どありません。これがどれほど異常なことなのかに気づきたいのです。家族の一員として、クラスの一員として、社員の一員として自分に何ができるのかを考えてはいかがでしょう。この国の一員として私たちのために散っていった人たちに敬意を表すべきこの日に少し考えて見たいと思います。このような観点は精神衛生を考える上でとても大切なポイントですが、学校でするには困難な状況が存在するわけです。これは中道的なものの見方ですが、都合の悪い人からはレッテル張られてしまうでしょうから。
2010.08.15
本日もニュースゼロで昨日の思春期精神科病棟のニュースを見ていました。 本日は親に焦点を当てた切り口とのこと。 精神科の医師らの話を聴いていて親子関係のこじれた有様を問題視していることは伝わってきますが残念ながら多くの医師は薬物は扱えても直接その関係を調整する技術を持ち合わせません。ではカウンセラーはどうかというと、多くのカウンセラーは個人の心の中には注目するのですが、コミュニケーションを扱うという視点があまり発達していなかったり、そのための技術や知識が十分ではない現状があると思います。治療の対象は本人のみではなく、問題を抱える個人が所属する対人関係だと思うのです。 子供の症状は多くの場合が家庭の中で培われてきたといって過言ではありません。もちろん単純に親の責任であると言っているのではありません。問題が発生する過程はそんな単一の原因に求められるようなものではありません。しかしコミュニケーションに多くの要因が潜んでいることは明らかです。そしてそのためにできることが親にはたくさんあるのです。ただ多くの専門家にその親を効果的に支援する方法を知らない現状が日本ではあるだろうと思います。 ただ、親を支援するのはそれほど簡単なのかといえば残念ながら一筋縄ではいかないことが多いのも事実です。今後この分野の技術と知識の普及が急務ではないかと考えています。
2010.07.22
日付が変わってしまいましたが、昨日の夜のニュースの特集で茨城にある病院の子供病棟について特集をしていました。本日は病棟の中を扱い、明日はその保護者にスポットを当てた話を放送するそうです。このような報道に始まり、多くの心の問題の捉え方を見て思うことは、不調になった人だけを取り出して様々な物事を語ろうとする、という共通点があるように思うことです。ある患者なりクライアントなりが不調をきたしているのは対人関係というメカニズムといってもシステムと言っても良いのですが、その中で他者との関係、ポジションという複雑なバランスの中で起こってきたことです。このバランスをコミュニケーションといいますが、これらの子供や、ゆくゆくはそこから成長して大人になった方々はおそらく意図せずに発生した不健全な対人関係の中で起こっていることだと思われます。その対人関係の仕組みに気に留めないでそこから個人を抜き出してこれを取り扱う、ということをしているわけです。私は理屈に合わないと感じることが多いのですが、どう思われますか?このような考えを聴くとコミュニケーションと関係なく調子の悪いことだってあるのではないか、との疑問を抱かれる方もいらっしゃるかと思います。煩瑣になることを承知であらかじめこのことに言及しておくならば、私たちが現実だと思っている対人関係ですら実は私たちの頭の中の産物です。私たちは物事の全ての局面、意味を捉えることはできず、現実から自分の理解可能な世界を認識できる範囲限定で切り取ってそれを地図にしているようなものです。地図はいつでも現実の世界より小さい仮想です。ただ健康な人は現実の世界と仮想の世界の対応の妥当性が高いとはいえるでしょう。対人関係のコミュニケーションから外れた場合であっても、すでにそれまでに培ってきたコミュニケーションが作り出した仮想を頭の中に持ち歩いている格好になるわけです。ということは対人関係の中に居ても居なくても私たちは仮想の世界に暮らしていることには間違いがないわなのです。できればそのコミュニケーションが存在するうちにそこから個人を抜き出さない間にできることがあり、それをするほうがベターだと思うのですがいかがでしょうか。
2010.07.21

神戸タワー鼓の形に似せたのでしょうか。男一人でカップルだらけの展望台まで行ってきました。神戸は私が初めてEMDRを学んだ場所で実に10年以上の昔です。当時は阪神淡路大震災の翌年くらいだったのですが、それでも神戸大学のキャンパスから見下ろす街の光が思ったより戻っていたものです。同じ街を改めて見下ろして見るとある種の感慨を禁じえません。 生田宮極力地元の神様に御参りする方針でいます。ほとんど地理が不案内ですので一日目のワークショップが終わった後などに街を散策していると地元の有名な神社仏閣を発見することがありますが、そのくらいの時間には大体参拝時間を過ぎているので、二日目の早朝に御参りすることが多いです。学会の内容はあまりに専門的に過ぎて紹介できるものはないのですが、訪れた証にブログに乗せておくことにしました。もっともすでに2週間前のことですが。遅筆ですみません。。
2010.05.28

ゴールデンウィークも週末に差し掛かった夜、皆様いかがお過ごしでしょうか。さて経営者や人事の担当者様、契約中、または検討中のEAPのサービスの 内容について他の専門家からセカンドオピニオンを得ることを考えるのも大切なことなのではないでしょうか。そのことについて考えさせるような話を少しさせていただけたらと思います。下記の例は恐らく氷山の一角だろうと思われま す。 さて、従業員支援サービスとはEmployee Assistance Program、略してEAPと呼ばれることが多い、企業内でのメンタルヘルスについて提供されるカウンセリングのサービスのことです。うつ病の社員を抱えることで企業はそのために多大なコストを負担することになります。うつ病対策だけではありませんがこのような従業員のメンタルヘルスを向上させる福利厚生の一環として企業の中にカウンセラーが置かれることがあるのです。 カウンセラーの活動領域として、医療、福祉、司法、教育、産業がありましてその中の一つの形態な訳ですがこの5つの領域の中で最もカウンセリングと営利が近いところにあるように思います。それは企業が利潤追求団体であるから、というだけではなくカウンセリングというサービスとそれへの費用という面での対応関係が著しいように思えるからです。 企業内カウンセリングの提供についてはカウンセラーを自社で雇用する方法も有りますが人件費などの関係か、外注するのが最近では一般的です。 この外注先がカウンセラーを契約先企業に派遣するEAPの会社という事になるのですが、ここの提供するサービスの内容に対して疑問に思うことがしばしばあります。契約した企業が受けられるサービスとして社内にカウンセラーが来て面接してもらえる、契約したオフィスに社員が行って面接を受けられるが回数は制限あり、電話で相談できる、社員の家族も相談できる、人事課などがコンサルテーションを受けられる、などのサービスを利用でき、その内容は企業とEAP会社との契約によって異なります。 当然EAP各社の間にも競争の原理は働き、価格やサービスについて市場の原理に晒された結果で会社の成績が大きく左右されます。 その結果、経営者や人事課の関心を買うことが出来ても肝心のサービスが専門家から見て疑問に思われるような提供のされ方をしていることが多いように思われてなりません。例えば電話カウンセリングが一回30分、一日一回まで。しかしカウンセラーを選ぶことは出来ないので前回の相談の申し送りはPCなどでされてはいるものの、果たしてカウンセリングの効果という点で考えるとどうなのでしょうか。 以前から疑問に思っていたことでしたが、先日EAPでの就労経験のある人から直接話を聴くことができました。経営者からは『カウンセリングしようと思わなくて良い。気持ちよくして帰せ』と言われていたそうです。 カウンセリングの目的は何かといわれると、それは相談者課題が解決されることです。しかしカウンセリングの現場ではカウンセラーと相談者の関係が出来上がってくるとそのコミュニケーションで一時的に安心することをカウンセリングの効果と錯覚することが珍しくありません。つまり本当は効果が上がっていないカウンセリングに誤った満足感を得ることがあるのです。この錯覚を利用して評価を得るという考えなのでしょう。しかしそれはカウンセリングを提供するものとして不誠実そのものです。もちろん良心的なサービスを提供しているところもあるのでしょう。 カウンセリングはどちらかと言えばニッチ産業のような気がするのですがそれが資本主義のサービスとして立派に商品化したときにこのようなことが起こることがあるということでしょう。もちろんサービスの劣化は資本主義原理に取り込まれたからではないだろうと思います。近江商人はかつて『売り手良し、買い手良し、世間良し』という信条に則って商売を展開していました。昔の日本人の仕事にはこのような良心に則っていたといえるでしょう。しかし現在では上に上げた例でもそうですし、社員の解雇がしやすくなった瞬間リストラが躊躇なく行われましたが、これは制度が整った瞬間ためらわずに行われる実態は既に家族的な組織ではなくなっていたということでしょう。 もし会社のEAPを利用されている方がいるなら、自分の会社の契約しているEAPのサービスは果たして良心的なのかどうか疑問を持ってみるのも自衛上必要なことですし、近場で済ませないで自分にとって本当に適切なカウンセリングを受けられるように工夫することも大事なことだと思われます。 どこかの国の商品が劣悪でお金を儲けることしか考えていない、と思われていたのが気がつけば自分たちの国の足元には既に火がついていたという状況があるようです。ことは今の社会が営利中心主義に偏ったところに根があるように思われてなりませんが、その話は機会があったときに。
2010.05.04

最近問い合わせのある認知行動療法について簡単に述べてみたいと思います。カウンセリングとは相談者の課題を解決するために行われる心理学的手法に基づいた相談のことを言いますが、そのカウンセリングに用いられる手法は色んなものが有りまして、その中の一つとして認知行動療法というものがあるのです。うつ病の改善に効果が高いと言われていてもっぱらうつ病用のカウンセリング手法だと思われがちですが、人格障害や統合失調所への適応などその適応を広げています。さて、では具体的に認知行動療法はどのように勧めていくのかと言いますと名称に『認知』とありますが、個人がどのように物事を認識しているか、それがどのように変わったら課題となっていることが解決されるのか、という風に考えるのです。私達は自分の外側に発生する物事によって悩まされると思っていることが多いように思いますが、実際には同じ出来事であっても個人個人によってその受け取り方が異なります。例えば道ですれ違った異性が自分と目が会った視線を外して通り過ぎたとします。起こった出来事はそれだけであるにもかかわらず、人によっては『あの人は自分のことが嫌いで目をそらしたのだ』と思うかもしれません。しかし人によっては『あの人は私と視線が合ったので照れて慌てたのだ』と考えるかもしれません。このように個人の認識はそれぞれですが、果たしてどれが正しいのか、と考えると必ず正しい認識というのはありえるのでしょうか。本人にとっては正しいと信じられていたとしても。この物事の受け取り方があまり適当ではないことがカウンセリングに来る方の場合圧倒的に多いわけです。ではどのようにしたら楽になれるのでしょうか。それは物事の考え方の自分の癖を知り、より適切に物事を考えられるようになれば自分を落ち込ませている考え方から自由になることができると考えます。そのためには自分が辛くなる状況を特定し、そのときの流れを追いながらどのようなコミュニケーションをし、その中でどのように考え、感じたのか、ということを点検していく中から自分を不自由にしている考え方を見つけていくのです。 今年の4月より保険点数が算定されることになり、病院での利用も健康保険で受けられる形は整いました。しかし実際には医師が30分以上の時間をかけて行うことが条件になっており、医師は認知行動療法を行うよりも普通に患者を診察した方が医療経済的には合理的なので健康保険の利用で実際に受けることは現段階では難しいかもしれません。
2010.04.20

先月の下旬のことですが、福岡まで研修に行ってまいりました。 航空券の値段のこともあり、研修の前日には博多にいましたので重い荷物ぶら下げながら観光に行くことに。 写真はそのときにお参りした大宰府です。中々広くて雰囲気のある神社です。近くには有名な国立博物館もあるのですが流石に二つとも見て回るほどの時間もとれず、博物館は次回のお楽しみとっておくことにしまして、初めて訪れる神社の雰囲気を満喫いたしました。 外国からの観光客も沢山訪れており、海外の旅行ガイドにも乗っているのであるろうことが容易に想像されます。 御祭神は遣唐使を廃止したことで有名な菅原道真公です。道真公は大宰府へは左遷されて流されたがために、彼の死後都に落雷があったのが公の怨霊のためとされていたようですが、流石にこの辺りでは怨霊道真の影は微塵もなく、ひたすら学問の神として鎮座増しましておわしました。 せっかくですので私も自分の学問の成就をお祈りしつつ、翌日の研修に備えたのでありました。
2010.04.01
本日某県のSCが一箇所終了になりました。自宅の花瓶には2校分から頂いた花束が押し込まれているので今までの頂いた切花の中でももっとも壮観な印象です。せっかくなのでオフィスに飾らせていただきました。最終日に限って相談してくる先生が複数いたり、どんな風に連携して良いのか分からなくて、とおっしゃる先生がいたり・・正直もう少し早い時期に相談してくれても良いのにと思ったりもしましたが、同時に別なことも思いました。相談室を極力生徒指導等から排除しようとしている学年主任や全く関心を示さない先生などもいたりして、それが余計に分かるだけに通り一遍の宣伝した後は相談室から教職員への働きかけをこっちからも半ば呆れて半ば諦めてほったらかしにしてましたが、もう少しやりようによっては今よりはマシなものになったのかもしれないと最終日にして思いました。もっとも後悔は全くなくて、なぜならば私は営業の仕事しに来た人ではないし、そういう仕事が性格的に全く向いておらず、やりたくもないのでこういう専門的であるいみ偏った仕事を愛している訳で、結果論でもう少しなんとかなっただろうけれども当時の私にはどうしようもないな、と思うからで有ります。システムに組み込まれておらず人治主義的な現場の有り様にまかせっきりにしてしまう現在のシステムの問題はSCの最大の欠陥だろうと思っています。とは言え次回への反省にはなりましたね、やはり。あさってから新年度、私の好きな季節にもなります。いつもどんなことが起こるかと一年で一番楽しみな時期でもあります。気分も新たにrestartといきたいと思います。
2010.03.30

今月は学会に参加するために初めて名古屋を訪れました。あまり地方を訪れることが無かったのですが、学会等に参加するようになり、プライベートで行ったところよりも研修、学会などで地方都市に行くことが増えました。 地方都市を巡って思ったことは、県庁所在地でも夜が早く夜行バスの出発時間まで片付いている場所がない、当然あるだろうと思っているお店などが無くて現地調達しようと思っていたものが簡単に手に入らないなどのことが起こります。 しかし流石に名古屋は大都市でこれらの不自由は全く感じませんでした。 バスの時間まで余裕がありましたので観光をかねて名古屋城へ。上はその写真です。当時タイミング良く、名古屋城宵祭りをやっているところでした。 中に入ってみて おや? と思ったのですが、このお城は大東亜戦争の際、空襲にあって炎上してしまったとのことで鉄筋建築のお城です。中は博物館になっていますが内装を初め作りは当時の面影も無く近代建築なのですね。残念なことです。 学会の方は、実は豚インフルで一度中止となったものがEMDR20周年の年に中止ではあまりに寂しいとのことで事務局が頑張って開催となったものです。残念ながら海外から講師を招いての研修はありません。 発表の内容自体は大変興味深いものの、テーマの割には発表時間が30分しか割り当てられていないなど、余裕の無い中をやりくりしたであろうことが伺われました。とは言え大変貴重なことを皆さんから学ばせていただきました。今後の臨床に役立てたいと思います。 来年は神戸だそうですので次回の学会も楽しみにしております。
2009.08.14
某スーパーの地下にあるとある食品売り場での出来事。コンビにやレジの販売員の皆さんを見ていて思うことですが、言葉のかけ方が人を相手にした話し方ではなく、自動的機械的に繰り返されているだけなんだろうな、と思うことがあります。たまに一人一人にちゃんと話しかけている店員さんに接客してもらったとき、その新鮮さに軽い驚きを感じたことがあるのは私だけでは無いのではないでしょうか。このような感想を持つことはしばしばありました。しかしこのときスーパーであった店員さんはニコニコ満面の笑顔でテキパキと応対しています。でも何か違和感があったのですが、直ぐにその理由に気がつきました。このスーパーではポイントカードやレジ袋を利用しないとスタンプを押したりと色々なサービスがレジで受けられるのですが、このときにスーパーが接客の際に店員に課している接客に関わる台詞を一人一人に丁寧に言おうと思うと以上にボリュームのある台詞にならざるを得ないのです。それを丁寧に言おうとしているのでその姿がやたら浮いて見えました。表情良く丁寧に仕事をこなそうとしており、テキパキと動くのですが、軽躁状態という言葉がアタマをよぎりました。本人はもしかすると凄く充実感を感じながら仕事をしているのかもしれません。これはこれで私には機械的に映ったのでした。社会が複雑になるにつれ、生産活動に従事することが生活の実感から遠ざかっていくように思われます。俗に言う社会の歯車という奴でしょうか。仕組みが複雑になるにつれて人間が機械化していくような気もします。もっともここでの機械的であるかどうかということは結局作業に従事している本人が決めることなのではないかとは思っています。私から見ると上記の店員さんは機械的に見えたのですが、その作業をするに当たって本人がやり甲斐を感じて活動しているならばそれはやはり人間的な営みなのだろうと思います。
2009.05.30

今日の話題はグロテスクとは思わないのですが苦手な人は居るでしょうから、気をつけて下さい。もっとも下の写真が直ぐに目に入ってしまうこととは思いますが。 これは先日適応指導教室の窓のサッシの端っこで子どもが見つけました。コウモリです。アブラコウモリでしょうか。 皆善意の人たちなのですがコウモリが冬眠することは知らず、口々に「死んでるみたい」「お墓作ってあげなくちゃ」というので保護してやらないと殺されてしまうと思い、春まで安全な場所に移すことにしました。これはその直前の写真です。 最もこれも野生動物の一つなので本来勝手に触ってはいけないものではあるのですが・・ しかしコウモリの冬眠は見た感じ生きてるか死んでいるかなんて区別は付けられないのでもしかしたら冬眠に失敗して死んでいるのかもしれないんですけれど。実際冬眠中に死んでしまう個体は時々居るみたいです。とりあえず暫くは要観察です。 今までに生き物は沢山助けてきたのですが、誰一人恩返しに来てくれたものはいませんでした。彼もきっとこないでしょうね。 まあ、それでも助け続けるわけですけれど。 今度助けるなら鶴にしますか・・ 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.03.07
もしかしたらこんなことが起こってませんか?と思うことがあったので、ここで少し述べさせてもらえたらと思います。 私は仕事柄学校というものと関わることがあり、現場からの相談を受けることがあります。 当然内容は生徒のことで相談、ということになるのですが、先生の生徒への対応を見ているとご自身にも随分と気がつかなくてはいけないところがありそうだな、と感じることがあります。 小学校低学年の授業を、ある事情があって校長先生と見学したときのことでした。先生の物言いってよくよく聞いていると結構きついこと言ってるのですが、そのことに本人は気がついてないし、同席されていた校長先生も全く気がついていない様子。 昔は問題が無かったのに、などと高学年頃に生徒が育った頃に先生の口からそう聞かされることがあります。しかしそこでどんなことが起こっていそうなのか。こんな仮説が思い浮かびました。 上にも書いたように、担任の先生の態度が懲罰的、看守的、監視的態度で臨ことは少なくないように思いました。そのような姿勢子ども達に関わっていても、低学年を対象とした授業運営では子供が小さいためにそれで通っているのでしょうが、さすがに子ども達も10歳くらいになると先生の態度に反感を覚えるようになる子も居るのだろうと思います。その中の元気のある子は何らかの行動にでることがあるかもしれません。 ところが先生は低学年の頃から同じ方法で関わってきたので何で今頃になって学級運営に支障が生じてきたのか?それは生徒に問題があるからだ、と一方的に子供に原因があるというように思い込む場合もありそうな気がしています。 教師としては今まで同じやり方をしてきたのだから今頃反抗されるのはそうとしか思えないのではないでしょうか。 しかし子どもにしてみればそのくらいの年頃になって、今まで言われてきたことの理解やそれを主張する能力の獲得、自己意識の成長など思春期の始まりの時期に相当するのですから考えてみれば当然のような気がします。 親や教師のこまごまとした説教や声掛けの中に子どもをチクリチクリと刺す棘がたくさん含まれているのをちょっとした機会に立ち会うだけで気がつくことが少なくありません。 私はこのことについてどんなことができるのか、未だに名案は浮かびませんがそれでも折に触れて考えていることです。 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.02.27
先日仕事先の一つである中学校を放課後ふらふらとうろついていると、体育館の脇にある通路にしゃがむ無愛想な中学生4人。 鎌を片手に草刈をしている。 後に分かることだが彼らは校則に違反したがために部活に出ることを許されず、草刈を命じられたということらしい。 ふーん と思いつつもぼけらっと刈られてゆく草を眺めていた。すると生えているは生えているは、通路を挟んで体育館の反対側にあるプールの下に結構茂っている様子。 こんな光の届かないところによくもまあ、と思って見ているとなんと 観葉植物のアジアンタム ではありませんか。 以前自宅で育てていたのですが、管理が悪く枯らせてしまった悪しき思い出が甦ります。水を切らすと直ぐに枯れてしまうのですが、そのときは保水性の良い素焼きの大きな鉢に植えていたせいか、比較的良く頑張ってくれていました。それに甘えて枯らしてしまったわけですが。 小さな葉がたくさんついたワラビ科の植物で夏はとても涼しげな印象を与えてくれる貴重な植物です。きっと好きな人も多いでしょう。 アジアンタムとは水をはじく葉という意味があるらしく、確かにそんな感じがします。シダの仲間なので薄暗い環境でもしっかり育っていたというわけです。 私は咄嗟に一株元気の良さそうなのを見分けると生徒から鎌を借りて株を分けました。恐らくあの後他のアジアンタムは根こそぎにされてしまったのでしょうね。 胞子で増える植物なので直ぐにたくさん生えてくると思いますが。 多分何かの拍子で学校で育てていたアジアンタムの胞子があの環境に定着したのでしょう。この寒い季節に結構茂っていました。たくましいものです。 今その一株は自宅の鉢に鎮座ましまして鮮やかな緑を誇ってたたずんでおります。
2009.02.20
カウンセリングオフィスでクライアントと会っていると無料で相談できる行政の息がかかった機関で会うクライアントとは違うな、と思わせることがあります。 何より自腹を切ってまでカウンセリングを受けようと思う人はカウンセリングに取り組む姿勢が違うので自分の課題であるのだから当然のことのように聞こえるかもしれませんが、そのかかわり方は前向きで主体的です。 では無料で相談できる所とはどういうところなのかというと、税金で賄われており、金銭を払うことがないのでカウンセラーの言うことが何がしかの努力を必要とすることだったり、少し都合が悪いことだったりすると簡単に意識の外に締め出されてしまうことが稀ではないようです。 上には金銭の例を上げていますが、このほかに決まった場所で決まった時間にあうことなど、クライアントとカウンセラーによる相談を外側から支えるこれらの条件を構造ということがあります。 これらが守られることでカウンセリングが外側から支えられるという条件です。無料相談が可能な場所はこのほかにも時間にルーズな場合もありますし、キャンセルしても全く支障が無かったりします。ましてや無料です。 また、無料相談所では人に話を聴いてもらうだけでも落ち着いて楽になるものですが、抱えている課題はそれだけでは解決しないようなものが珍しくありませんし、課題に直面するのが怖くて嫌なんだけれど、一時的に楽になりたい、という人の偽解決に奉仕してしまう姿も良く見かける場面です。このようになってくると何のための相談なのか、税金を使って何をしているのか、という話にもなりかねません。 課題としてクライアントの相談内容が重い場合についてはこの構造では非常に扱いづらいものがあります。 心理的なカウンセリングの社会的認知が高まりつつあり、それに伴って行政を筆頭にした無料相談機関が少しずつ増えてきている観がありますが、この問題については解消されようがないように思います。 無料で相談できる場所が増えるに従って私の所のような有料の相談機関はやっていけなくなるのではないかとの感想を頂くことがありますが、以上のような理由からそのような懸念は全くないように思っております。 ただし利用者側がそのことに気がつくのには暫くかかるものと思われますが。。。 無料であることはクライアントにとっては非常に良いものであるように思われるかもしれません。しかしそこには実に様々な問題がくっついていることを多くの人は知りません。もちろん無料であっても主体的に関わって課題を乗り越えた人も何人も知っています。 しかしお金を払ってまでも相談しようと決意した人は自分の課題を正面から見据えることを決意した人たちです。覚悟のできている状態と言えるでしょう。 無料で相談できる場所ではこの覚悟の伴わない人を多く見受けられるということになりましょうか。 どちらに相談されるのもクライアントの自由です。しかし自分がどれ程課題に関わる決意をしているのか、この文章を読んだ事をきっかけに振り返るきっかけになればと思います。 今回無料相談所に訪れるクライアント側に焦点を当ててどのような状態が起こりえるのかについて考察してみましたが、これとは別に相談機関側の問題もあるものです。そこのところはまた複雑になるのでここでは触れません。 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.02.14
また、ずっと通常級に通わせ続け、思春期になったときに自分と同じ興味を分かち合う友達が周囲に誰も見つけられない、という場合があります。クラスメイトは善意ある人々だと思いますが、興味や関心、考え方に共感を得て友達を選ぶ年代になると付き合い方の濃度が変わってこざるを得ません。そんな中で強く孤独感を募らせている人たちがいます。 知的障害者が利用できる制度として療育手帳や障害年金の取得も考えることができますが、これも手帳を取得すると障害者扱いされる、などの理由から積極的に回避される方も居ます。手帳を取ろうが取るまいが実態は変わりはしないのですが。まったく健常者のように過ごさせたおかげで場合によっては親が死亡してから日常生活以上のことができない本人の面倒を見守る身内もおらずに全く支援が受けられず孤立無援になってしまうことが在り得ます。路上生活者の中に占める精神障害者や知的障害者の割合の高さは全く理由の無いことではありません。 特別支援教育についても本来子どもの発達に相応しい教育環境や学習内容、指導方法を用意して行われるべきものだと思うのですが、前回書いたように現在の子どもの所属する場所は保護者の判断に任せられているため、子どもの障害を軽く見積もって本来の実態より軽いクラスへ入れようとする親が珍しくありません。その結果本来の指導の対象となる以上の困難な生徒がそれより軽い子を対象としたクラスや学校に参加することになり、予定されていた適切な教育環境を台無しにしているように思われる現状があるように思います。これなどは親心が災いして結局子どもの本来の適切な居場所を壊してしまうことに通じているようにも思います。 障害児の親の中に限ったことではなく、親の中には子どもを通して自分の自尊心を満たそうとしていると思われる方がいます。それが子どもの将来にとってどんな意味を持つことなのか充分に吟味された方が良いのではないか、と繰り返される同型の出来事を見聞きする度に思わざるを得ません。 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.02.06
学生の頃、知的障害者や自閉症の子ども達のボランティアに割りと積極的に参加していた。そのため彼らの特徴については良く知っているつもりになっていたのだけれど、最近教育の領域で仕事をするようになってからまだまだ知らないことがあることに気づかされました。 それはどんなことかというと、ボランティアで関わる方々はボランティアが必要な程の障害がある方であり、ボランティアを必要としていないけれども生活の中で様々な支障のある人たちが居ることに目を向けていなかったということです。 現在は教育の現場との関わりが深いので特に良く目に付くのですが、クラスに落ち着いて参加していられるし、集団行動にも参加できている。だけれどもどんなに真面目に授業を受けていても理解ができず、大変な負担を抱え込んで、それが不登校の引き金になっていると思われるケースが大変多くあります。 しかしこういう子は知的な問題がない、もしくはあっても軽いと非専門家である教員の判断で通常級で対応しようと頑張ることも多く、その善意が余計に適切な対応を遅らせるという悲しい事例が時折見られるようです。本来であれば適切な環境を速やかに用意して然るべきと思うのですが。 また、子どもの障害を否認する親や、障害のあることは理解はしていても何とか普通のクラスへ通わせようとする親も多く居ます。日本の特別支援教育の現状としては子供の知的水準で分けるのではなく、最終的な権限は保護者の意向にかかっているために子どもの実態よりも親の様々な思惑が優先されて教室への不適応を招く場合や、それが先ほどの担任との相乗効果をもたらすことも在り得ます。 そして不登校になった子どもの苦痛に気づかずに全く同じ環境へと子どもを押し出そうとするに至っては悲劇的な様相を呈しているように思えてなりません。そして専門家が介入するなどしてやっとどんなことが起きているのかが明らかになることもあります。次回に続きます。 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.02.03
本日二日間の催眠ワークショップに参加して参りました。 内容は上級とのことで既に催眠誘導などを行ったりはせず、誘導が完了している状態で何を行うかに応えるかなり高度な内容が盛り込まれていました。 催眠状態とは日常的な意識からは変性した意識の状態とここでは理解しておくとして、催眠誘導とはその状態に移っていくためのものです。ですから催眠状態とはそれだけでは治療的には作用しません。そこで何をするかが問われるのです。ですからある人が催眠療法という療法は存在しないというコメントをされた方がいますが、これは全くもってその通りだと思います。要は催眠状態下で何を行うか、ということですから。 そこで行われる技術というのは必ずしも催眠状態ではなくとも利用可能なものも沢山あります。このような内容について教えられることというのは催眠のワークショップか数多くありますが、その多くが催眠の掛け方を指導しておしまいというようなものがある中、優れて専門性の高いものでした。 というわけで催眠ワークショップなのに催眠誘導した演習はたったの2回。 このように催眠はかかっただけではリラックス効果程度にしか効果の無いもの。また、かかった後に何をするか、というための技法が沢山開発されているということはもともとカウンセリングの素養がないのに催眠誘導だけを習っても意味はないということです。 そして催眠療法は睡眠学習とは違います。寝ていてお手軽に・・はありえません。これを期待される方が比較的多くいらっしゃるように思います。 このような誤解が蔓延しているので敢えて催眠療法の看板を出さないことにしていますが、もし本当に適用の方が居た場合、そのときは提案させていただくこともありますので宜しくお願いいたします。 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.01.25
たった今長文を書いたのにも関わらず「公開する」を押したにも関わらず、全部消し飛んでしまいました・・・・ そのうち同じ内容を再びアップしたいと思いますが・・・ このブログは・・・
2009.01.24
明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。 昨年末から気管支炎を患って年末年始にかけて臥せっておりました。若干更新にも影響してしまったように思います。 さて、少し昔の不登校児童などについて書かれた心理学の本などを読んでいると親の関わり方について批判的に特徴を記述したものが見受けられますが、現在ではそのような視点でケースを見ることは戒められています。確かに子どもに問題のあるケースで直ぐに親に問題があるという捉え方は一面的であると思いますし、カウンセラーが指針とするには硬直しすぎているように思います。また、親がこのような視点からカウンセラーからアプローチされることによって更に傷つく体験をしたということもあったであろうことが容易に推察できます。しかしながら、なぜこういうことが言われ始めたのかというと、実際にそういうケースが多々目に付いたことは事実であるだろうと思いますし、確かに保護者に多くの問題があると言わざるを得ないケースは珍しくありません。 親をスケープゴートにすることのあった過去の反省には充分留意しなくてはなりませんが、実際にそのような視点で関わらなくてはならないケースも多いのは未だに事実だと思います。 近年古き良き常識が世間からどんどんと廃れ始めているような印象を持っているのは私ばかりではないと思います。個人的には日本が農業中心社会から工業中心に移行したのに伴って人口の流出した地域と集中した都市とのアンバランスさなどを背景に左翼活動の影響などもあり、その結果として伝統が大きく損なわれたように思います。 その廃れつつある伝統の中には子育てのシステムやノウハウも含まれていたのではないでしょうか。 現在では個人の幸福の追求が無条件に良いことのように思われていますが、個人の権利を必要以上に重視している現代の環境ではそれは容易に自己中心的なものの考え方につながるものではないでしょうか。世間様に対して迷惑をかけない、人様の役に立つという指針が子育ての方針から抜け落ちたら、後に残るのは短絡的な個人主義ではないでしょうか。それは取りも直さず個人の快不快の原則に則った行動の規範を意識せずとも子どもに伝えることになるでしょう。そうして子供が自分の快不快に則った反応を親の働きかけに対して行ったときに、親の視点から見て子どもが言うことを聴かない、などとなってはいないでしょうか。 もちろんここに取り上げた例はかなりマクロな話をしているのであって個々の事例が全てこれで説明ができるというものではありません。ただし、大なり小なり上記で説明した事柄が何かしら関わっているのでは無いかとは強く思っています。 このようなケースでは保護者に自覚が乏しくて働きかけるにも徒労感を感じることもしばしです。 問題を抱えている本人だけが何とかしなくてはならない対象だという認識は比較的強くあるように思いますし、保護者も普通はそう考えているように思います。そのシチュエーションで親にも考えてもらうというのは下手をすると関係を損ないかねません。 しかし考えて欲しいのです。それほど保護者の子どもに与える影響は大きいのですから。 佐々木カウンセリングオフィスHP
2009.01.06
前回の続きですが、どれだけの人が前回に引き続いて今回を読んでくれているのかは定かではないですね。でも、続けないと尻切れトンボになってしまうので。。 牛乳を温めるタライでレトルトのカレーを温めるのがどうしていかんのか? それはもしクラス中の人が同じ事をしようとするとどうなるか?と問いかけてみると分かります。全員ができないことを本来はすべき事ではない。もしするならば何がしかのルールが事前に必要になるが、今回はそれがない。 ということだと思います。 先日対応困難な保護者についての講演会をして来ました。この中でも話をしたのですが、自分がすることの周りに対しての影響を考えずに誰にも迷惑をかけていないから、と言ってしてしまう人たちが居ます。しかしそれは本当にしても構わないことなのか? さて、ここで先日の勉強会にやっと話を進めますが、このときと似たような現象があったわけなのです。みんな真面目にノートを取っていたのですが、一名ノートパソコンを持ち込んでカタカタカタカタとやっていました。最終日の4日目にお気に入りの最前列をとり逃してしまい、その人の前に座ることになりましたが、カタカタカタカタやかましかったです。しかも会場のコンセントから電源を取っていました。確かにノートPCの内臓バッテリーでは時間中に切れてしまうでしょうけれど。 こういう考え方は古いでしょうか?私は大切にしていきたいと思っています。
2008.12.15
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