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死刑について思うこと


まずは、更新遅れててすみません。
なぜか夜の寝つきが悪くなったうちのちび(息子・2歳)。
おかげで夜子どもが寝た後のお楽しみだったネットタイムが
まんまと消えてしまいましたぁ。
一度11時過ぎにやっと寝かしつけても、2時ごろ起きてきて、
なぜかリビングのカウチに横になってテレビをつけるちび。
どうしたっていうんだろう。

な~んて言い訳からはじめちゃいましたが。
本題は、イリノイ州知事の決断のこと。
ネタも古いが許してください。



私は、基本的には死刑には反対派なんです。
だから、全面的に州知事支持派。
でもやっぱり、と言うべきなんだろうね。
世論は賛否両論です。
先週、こっちじゃ~女性に大人気の番組、「オプラ・ウィンフリーショウ」と言う番組があるんですが。
その番組で、二日連続でその話題を特集していました。

一日目は、減刑された死刑囚に殺されたとされる被害者の家族の声。
「裏切られた気持ち」
「被害者の気持ちを考えたらそんなこと(減刑)など出来ないはずだ」
「冤罪である事件があったという事実はもちろんあるべき事ではないが、
冤罪ではなく死刑を科せられた犯人もいるわけだから、
ケース・バイ・ケースで判断するべきではないのか。」
など、やはり、家族を冷酷に殺されてしまった方々にとっては、
なかなか受け入れにくい決断であるようです。

2日目は、イリノイ州知事本人と、冤罪で死刑を言い渡され、
12年も監獄に入っていた人やその弁護士など。
州知事の主張は、
「そこに冤罪で死刑を科せられた人がいると言う事実がある。
ということは、これまでに何人が無実の罪で死んでいった事だろう?
誰が、そのような間違いはなかったと言えるだろうか。
ケース・バイ・ケースと言うけれども、
それぞれの事件はケース・バイ・ケースで裁判にかけられ、
それでも冤罪が出たではないか。
もしかしたら、減刑しなかったケースが冤罪であることも考えられる。
人間なのだから、間違いは起こる。
どんなに沢山の極悪犯を生かしておくよりも、
一人の無実の人間を誤って殺してしまうほうが、罪はずっと深い。」

全く同感です。
もともと、刑罰と言うのは、見せしめ、戒めと言う意味合いが大きかった。
とくに、死刑はその最たるものですよね。
「悪いことすると、こんな風になるよー。だから止めたほうがいいよー。」
と言うことで、犯罪が起こるのを抑制する役割。
悲しいことに、刑罰はそのような役目ではあまりもう働いていない様に思えてしまうような状況。



特に無残な殺され方をした被害者やその家族の気持ちを考えたり、
そんな冷酷な犯罪を犯しておきながら反省の色もないような奴もいる事を考えると、
死刑もやむ終えないのかと思うこともある。
「基本的に反対」って書いた理由はそこにあるんだけれども。

もし、被害者の家族が、犯人を報復として殺してしまったら、
罰は軽いだろうけれど、その家族は罪を犯したのには変わりない。
死刑と言うのは現在、そのような報復行為と同じ役割になっていると思う。
国がいいといえば報復してもいいのか?
死に値する行為、値しない行為を振り分けるのは、
どこが境界線なのか?
それを決める人間たち(アメリカでは陪審員)が、
冤罪事件のように過ちを多々起こすことを考えるとき、
死刑が正しいことだとどうしていえるのか?

特にアメリカでは、いい弁護士を大枚はたいて雇えば、
有罪も無罪になることがあるのは誰もが知っていること。

だったらなおさら。



死刑を終身刑にすることによって、かかるコストを考えろ、
それは税金の無駄遣いだと言う人もいる。
一理ある。
でも、そこは、
「そういう犯罪が起こってしまうような社会にしてしまったことの一端を、みんなが負っている」
という連帯責任で、という考えじゃ駄目なのかな?


人の命は、いくら相手が犯罪者であったとしても、
他の人間の手によって殺められるべきでは無いと思う。
そこに、無実の人間が絡む可能性があるなら、なおさら。



「オプラ」に出ていた被害者の家族のなかの、たった一人ではあったけれども、
その人が言った、
「人の命を奪うということは、人間の役目ではなく、
その人が死ぬべきかどうかと言うのは、
もっと大きな力(神)が決めることであるので、
殺された家族のことを考えるとつらいけれども、
州知事の判断を支持する。」
と言う言葉が、忘れられません。


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