SCLACHのホームページ

SCLACHのホームページ

PR

×

Calendar

Favorite Blog

このブログで、阪神… 元・タイガースブロガーさん
初音ミク@歌-初音ミ… 小道散策さん

Comments

あゆ@ 面倒な迷惑メール。いちいち腹立つ。 えと私も同様のメールが送られてきました…
ペット総合サイト @ アクセス記録ソフト 無料 楽天 アクセス記録ソフト! http:/…
ペット総合サイト @ アクセス記録ソフト 無料 楽天 アクセス記録ソフト! http:/…
佐野@ Re:さらばレッドスター・・・(12/11) いやぁやっぱ佐野やろ!浅井もいいけど佐…
ソラ4262 @ バシバシ絡んでちょーだぃ! まなっていいます、よろしゅヾ(*'▽'*)ノ …

Profile

あしゅらめん怒り

あしゅらめん怒り

Keyword Search

▼キーワード検索

2008.07.17
XML
カテゴリ: 阪神
なんかこうなるとさみしいですな・・・

これからは阪神の久保田がトルネードを引き継ぎしますさかい見っとってください・・・今日めっちゃ打たれてはりましたけど(-_-;)

参考までに・・・



野茂英雄



プロ入り以前
小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、トルネード投法であった。名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格(当時、セレクションを受けた野球部の監督は『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と言って野茂に目をかけなかった)、甲子園とは縁の無い公立高校に進む。

成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。

日本プロ野球時代
1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団(阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックス、近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、年俸1000万円。契約時、投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。



結局この年、新人ながら最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と主要四冠を独占。ベストナイン、新人王、沢村賞、そしてMVPに選ばれ、プロ野球界に「旋風」を巻き起こした。パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。現在までに権藤博、堀内恒夫、上原浩治が新人王と沢村賞、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂のみである(ただし、木田に関しては1988年まで沢村賞の受賞対象がセ・リーグ限定だったためという事情がある)。

1990年~1993年の4年間、最多勝利と最多奪三振のタイトルを独占。新人年から4年連続最多勝利は勿論、4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は野茂のみである。立花龍司トレーニングコーチとの「太く長く」を目指したトレーニングも功を奏した。

プロ5年目の1994年、西武との開幕戦で8回までノーヒットノーランに抑えた(4回までに11奪三振を記録)が敗戦。この年は右肩痛のため年間通じて目立った活躍が出来なかった。


メジャーリーグ時代

1995年、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。5月2日にジャイアンツ戦で先発投手としてキャンドルスティック・パークのマウンドに立ち、村上雅則以来31年ぶり、2人目のメジャーリーガーとなった。日本人メジャーリーガーの先鞭をつけ、パイオニアとしての功績をたたえられている。オールスターでは、先発で出場した。13勝6敗、236奪三振の成績で新人王、奪三振王のタイトルを獲得する。日米両国で新人王を受賞したのは現在野茂ただ1人である。

1996年9月17日の対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成。1998年4月28日に、日本人メジャー1号本塁打を記録。しかし、シーズン途中でニューヨーク・メッツにトレードされた。1999年、開幕直前にメッツから解雇され、シカゴ・カブスとマイナー契約。さらに、カブスからミルウォーキー・ブルワーズにトレード。2000年、ブルワーズからデトロイト・タイガースにトレード。日本人初の開幕投手になり勝利した。

2001年、タイガースからボストン・レッドソックスにトレード。4月4日の対ボルチモア・オリオールズ戦で1996年に次ぐ2度目のノーヒットノーランを達成。両リーグでのノーヒットノーランはノーラン・ライアン以来メジャー史上4人目。2002年、レッドソックスからロサンゼルス・ドジャースに復帰。2004年、11月初めにフリーエージェントを申請。


オーナー
2003年、日本の社会人野球チームが次々に廃部となっており、野球を志す若者に対し少しでも受け皿になれればと、野茂の所属した新日鐵堺チームがあった大阪府堺市で社会人野球のクラブチーム「NOMO ベースボールクラブ」を設立し、オーナーに就任。
2004年に社会人野球の全国統括組織「日本野球連盟」に加盟。
2005年には結成2年目で都市対抗野球に初出場、全日本クラブ選手権ではクラブチーム日本一に輝いた。


野球に関して
驚異の奪三振率から「ドクターK」の異名を持つ。
高校2年生で達成した完全試合の投球内容は内野ゴロ13、内野フライ2、外野フライ2、三振10、104球。「打たせて取る」投球だった。
名門野球部に進んでいたら、フォーム矯正によりトルネード投法をやめさせられた可能性があるため、今の野茂はなかったと言われる。
プロ初奪三振は初登板・初先発の1990年4月10日対西武戦(藤井寺)。1回表、4番・清原和博から。1番・辻発彦が四球、2番・平野謙のバント処理を誤り一・二塁、3番・秋山幸二も四球で無死満塁の大ピンチだった。

1994年の西武戦で個人1試合16与四球の日本新記録を樹立するも3失点完投勝利を挙げている。投球数は189球で野茂のスタミナとエースとしての信頼を物語っている。
近鉄時代に、同期入団の石井浩郎や、金村義明以外の野手とは基本的に仲が良くなかったと言われる。フォームが通常とは違うため守備側もタイミングが取りづらいこと、コントロールが悪く球数が多いために守っている時間が長く、四球を連発する野茂に野手が反感を持っていたためだとされる。
ドジャース入団1年目に大リーグの伝統「新人への洗礼」を受けている。チームメイトが新人歓迎の意味でちょっとした悪戯を仕掛けるものだが、野茂も夏場ロッカーにしまったスーツを毛皮の服にすり替えられたり(結局その格好で移動の飛行機に乗った)、シカゴにある南北戦争の英雄リー将軍の銅像の馬の急所に、先輩選手に誘われチームカラーの青のペンキを塗りに行き、後日警察に検挙されそうになったり(実はこれもチームメイトが仕組んだ)、少々手荒い、しかし温かい歓迎を受けた。野茂は後に「あれでチームの一員になったと実感した」と語っている。
古巣近鉄がヤクルトと対戦した2001年の日本シリーズ第5戦の中継でゲストとして出演したが、たびたび配球を読み当てるなど的確な発言で「さすが野茂」と見る者を唸らせた。実況に「野茂さんから見てローズ選手や中村紀洋選手の2001年版いてまえ打線の印象はどうですか?」と聞かれ、「僕がいた時はブライアントや石井さん、鈴木さん、金村さんがいましたけど、あの時と、まぁメンバーはもう全然変わってますけど、構成も似てますし、近鉄は変わってないですね」と笑ってコメントした。
メジャーリーグで最初のノーヒットノーラン(ロッキーズ戦)では試合前の雨のせいでマウンドがぬかるんだため、試合の途中からランナーがいなくてもセットポジションで投げ、制球安定につながった。
クアーズ・フィールドにてノーヒットノーランを達成したことがあるのは、現在野茂1人である。高地で空気が薄く、投手のスタミナの消耗が早く、ボールが飛びやすい球場のため(現在はボールを飛ばないようにしている)、難易度はかなり高い記録であり不可能を可能にしたノーヒッターといわれこの球場でのノーヒッターは今後二度と出ないだろうといわれている。
2度目のノーヒットノーランは2001年4月、オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズでの対オリオールズ戦で達成した。20世紀、21世紀と世紀を跨いで記録したのはメジャーの歴史で野茂とランディ・ジョンソンだけ(ランディ・ジョンソンの場合は完全試合)である。
 ちなみに、21世紀最初のノーヒッターである。

近鉄退団に関して

ドラフト後、野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げた。仰木彬監督はあっさり了承し、調整方法も野茂に任せることにした。これにより野茂は仰木を信頼するようになった。反面、後任の鈴木啓示監督はフォームや調整法など様々なことに関して一方的に野茂に干渉するようになった。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求し、また野茂は立花コーチとのマンツーマンの指導形態で、遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し、野茂が「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと、「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と根性論を押し通した。一度、鈴木の要求する走りこみと、立花コーチの指導するメニューと、その運動量を科学的に比較する検証が行われたことがあったが、立花コーチのメニューのほうが多かった、という結果が出たということもある。そういったこともあって、結果として野茂は鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団の大きな理由になった。
監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「今のフォームではいずれ通用しなくなる。そのときに私に頭を下げてこられるかどうかだ」と述べ、完全に野茂のフォームを否定していた。しかし、これらの発言から、鈴木は野茂の飛躍によって指導者としての評価を著しく下げてしまう結果となった。
野茂は仰木監督時代からフロントには様々な不満があったことを語っている。
野茂が先発する日に自分で車を運転して藤井寺球場に行き、駐車場に車を止めた。すると球団関係者が近付いて来て、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求された。
契約更改の席で、フロントから「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた(観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため)。
野茂をはじめとする近鉄投手陣は立花龍司トレーニングコーチに絶大な信頼を寄せていた。しかし近鉄フロントは一方的に立花コーチを解雇したため、近鉄投手陣はフロントに反感を持った(これに怒った一人が吉井理人で、トレードに出される理由になったとされる)。
1994年オフ、複数年契約と代理人制度(代理人は団野村)を近鉄に要求。近鉄側は、野茂が肩を故障してシーズン後半に登板できなかったのを理由に拒否して契約がこじれたが、球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べて、あくまでこれら一連の野茂の要求を「年俸吊り上げのためのもの」、「わがまま」と捉え、「次の更改ではサインするでしょう」などと楽観視していた。野茂は「お金の問題じゃないんです」と、再三マスコミに訴えていたが、この一連の動きに対しては、マスコミも近鉄の意見に同調していて、野茂は孤立していた感があった。
結局、近鉄フロントは、野茂が近鉄でプレーする気がないのなら、野茂を移籍に出したり自由契約にするのではなく任意引退扱い(近鉄を自由契約にならない限り、他の日本の球団でプレーすることは不可能)にしようとした。これが最大の理由となって、野茂は渡米する決意をした。
近鉄球団は1994年オフの契約更改の場で野茂を「君はもう近鉄の顔ではない。」と言い放ったが、翌年ストライキ明けでファン離れの進んでいたメジャーリーグのファンを呼び戻す救世主となった経緯を見ても、近鉄球団への野茂が投げかけた言葉は慧眼であったといえよう。時を経て2004年に近鉄球団は消滅した。







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008.07.17 23:28:54
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: