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「電話、出ないの」
「はい」
エレベーターで8階まで運ばれながら、管理人は不安な顔で確認する。
「携帯も?」
「ずっと」
「………妙な感じだと思ったんだよね」
唸るように呟いて眉を寄せる。
「さっきふらふら戻ってきたら、なかなか入らないで何度も何度も外見てて」
前もおかしなことがあった人だよね。
「いい男ってのはいろいろあるからねえ」
ちらちらと美並の顔を好奇心半分に伺いながら、エレベーターから降りて802まで一緒に来てくれる。
「どうする、ベル、鳴らしてみる?」
美並の真剣さに冗談や何かじゃないと思ったのと、万が一、の覚悟を決めたせいもあるのだろう、ゆさっと体を振って尋ねてくれた。
「お願いします」
頼んだのは別の万が一、を考えたせいだ。
万が一、真崎が美並のことを拒もうと決めたのなら、美並が呼び出しても応じてくれないかもしれない。それならそれでいい、無事さえ確かめられればいい。だが、声だけでは確信できない、姿も見ておきたい。
もし、これがプライベートの最後なら、なおさら。
切り捨てられる覚悟で、踏み込む。
ずきりとしながら唇を引き締め、管理人がチャイムを鳴らすのを見守った。
「真崎さ~ん、夜分すみません、管理人、大野です」
インターフォンからの返答はない。
「真崎さ~ん」
「もし、返答だけでも、出て来てもらえるように頼んでもらえますか」
「え」
「一応、です」
「あ、ああ、一応ね。確認しとくってことね」
大野はつられたように頷いた。
もう一度、厳しい顔でチャイムを鳴らし、呼び掛ける。
「……また出てったのかな」
「ここは駐車場に裏口ありますね」
「ああ、でも、車なかったみたいだしねえ」
思い出させると管理人は眉を寄せた。
「自転車も使ってるところは見なかったしな」
困るよ、それは。
不安そうに呟いて、もう一度インターフォンに手を伸ばした矢先、
『……はい』
「あ、すいません、管理人の大野です」
『……はい?』
「ちょっと出て来てもらえますか」
『……すぐに出られないんですが』
「…すぐに出られないって」
大野が美並を振り返る。
どうする、拒まれるかもしれない、押したことで決定的に嫌われるかもしれない、牟田相子のように。
一か八かの賭になる、けど。
嫌われるぐらい、なんだ。
死なせるぐらいなら、憎まれても疎ましがられても、ああ、そのために培ってきた強さだろうに。
ぐい、と頭を上げた。
「伊吹が来てるって言ってもらえますか?」
「……あの、伊吹、さんが来てるんですけど」
『……え…?』
がしゃっ、と何かを放り投げたような音が響いた。続いて激しい物音が中で響いて、唐突にドアが開かれる。
「うわっ!」
「みなみ…っ!」
「っ!」
びしゃんっ。
飛び出してきた真崎は、全身びしょ濡れ腰タオル一枚、しかもそのままぎゅっとしがみついて抱きついてきて、美並も大野も凍りつく。そればかりか。
「みなみっみなみっみなみっ」
悲鳴のような声で連呼し始め、大野が慌てて体を引いた。
「………えーと」
「みなみっみなみっ」
ぎゅううううううっ。
濡れてる。苦しい。冷たい。熱い。
「あ~」
これは少なくとも拒まれてはいない、と思う。
ほっとしてそっと真崎の体を抱き返すと、ひんやりと冷えた弾力が戻ってきた。寒いはずなのに感じていないのだろう、ひたすらにしがみついてくる力は強まる一方だ。
「みなみっみなみっみなみっ」
「……あの~」
壊れたCDプレーヤーのようにエンドレスに呼び続ける真崎に、おそるおそる声をかけてきた大野を美並は振り返った。死んでないらしいがかなりおかしい、と、安堵と困惑を浮かべて引きつっている相手に苦笑する。
「お騒がせ………しました」
「あ~はい」
「みなみっみなみっ」
「大丈夫、そうですね?」
「後は私が見ます」
「そう、ですねえ」
じゃあ、そういうことで。
「御迷惑おかけしました」
「あ、いやいや~」
何もなかったならいいんですよ、ええ、まあ、何もなかったなら、はい。
大野が怯えた顔でそろそろと向きを変え、やがて急ぎ足に廊下を去っていくのを見送り、美並は顔を戻して囁いた。
「京介?」
「みなみみなっ…」
「中に、入れて?」
「っ」
びくり、と身体を震わせた相手がどう捉えたのか、急いで上げてきた顔が薄赤くなってくるのでもわかろうというもの、けれど、その眼が痛々しいほど真っ赤になっていて胸が痛くなった。
「みなみ……っん」
キスをして、染まった頬にも唇を滑らせて、静かにゆっくりと耳元に囁く。
「従いなさい」
「は…い」
大きく目を見開いた京介が、ほぅ、と甘い息を吐いた。
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