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世界が揺れている。数時間前の幸福で満ち足りた感覚が、薄汚いどす黒い何ものかに踏み荒らされていく気がした。
京介は初めて恵子という女性を理解した気がした。
恵子には現実などと言うものはない。
自分にとって気持ちよくて楽しいものだけが彼女に認識できる全てで、それ以外の不都合な出来事は悉く恵子の受け入れられる形に変形されてしまう。
真実、恵子は自分が裏切り続ける夫の支配下に喘ぎ、義弟と儚く切ない愛情を交わしつつ生きてきて、夫が起こした陰惨な事件を皮切りにようやく新しい人生に歩み出せるのだと信じてやってきたのだ。
京介と再婚し、大輔も子ども達もなかったことにして、ようやく幸福を掴めると考えているのだ。
こんな女性が、京介が伊吹と結ばれて幸せな暮らしをすることを、納得できるのか。
もし納得しないなら。
もし伊吹を京介にはふさわしくないと排除しようとしたら。
「恵子さん」
「っ」
京介は恵子の手を払い、逆に自分で相手の手首を握った。
「何…? ……京ちゃん?」
一瞬嬉しそうに笑いかけた恵子が、強まる力に顔を強張らせる。
「二度と近づかないで」
「え、だって」
「繰り返すよ。二度と、僕達に近づかないでくださいね」
「…い、たい…わ」
「出ないと、僕はあなたに酷いことをしなくちゃならなくなる」
「…」
恵子が京介を振り仰ぎ、ごくりと唾を飲んだ。白くなった顔色で唇をすぼめる。
「京ちゃん…私…」
「僕はあなたが嫌いだ」
「……謝るわ…時々ひどいことをしたかも知れないけど、でも…」
覗き込む黒い瞳に、過去のいろいろなことを全く覚えていないわけではないとわかって、なお吐き気がした。
「私だっていろいろあったのよ?」
儚げに涙を溜めながら微笑む。
「許して…そして…やり直しましょう? 私達」
この人は。
この人は、人の気持ちとか心とかをなんだと思っているのか。
疲労感が這い上がる。
いや、そもそも、この人の世界には『誰か』は存在しているんだろうか。
自分と自分を求めて愛する崇拝者しかいないのではないか。
世界はそのどちらかに分けられ、それ以外は存在しないのではないか。
ならば、関わることすら、食い尽くされる餌となるに等しい。
ざわざわと皮膚が粟立つ。
離れよう、自分のためだけでなく、自分に関わる人々を守るためにも。
京介は息を吸った。握り込める細い手首を離す。
静かな声で言い渡す。
「今までも愛したこともないし、この先も求めることなんて有り得ない」
覚えておいてください、今度こそ。
「顔も見たくない」
突き放した恵子を振り向かず、京介はマンションに入って行った。
「ただいま、伊吹さんっ」
恵子が呼び鈴を鳴らしたのなら、伊吹はとっくに起きているはず。
慌てて部屋に戻って、三和土に伊吹の靴があるのにほっとし、続いて呼びかけても動きがないのに部屋で拗ねているのかと荷物を持ったまま寝室に飛び込んで、京介は呆気に取られた。
「眠ってる…?」
買い物に時間をとったし、恵子とのくだらないやり取りでなお時間をとって、今は7時を回っている。なのに、伊吹は京介が出かけた時のまま、くまにすり寄ることさえせずに、ベッドで眠り続けている。
「伊吹さん?」
不安になって覗き込み、穏やかな呼吸が続いているのに、一旦は冷蔵庫に買ってきたものを入れ、枕元の隅に小箱を片付け、それでも伊吹が目覚めないのに不安が募った。
「疲れてる? ううん、そんなレベルじゃないよね、これ」
思わず起こしてもいいやと腕を差し入れ抱き上げてみる。
「伊吹さん? 美並?」
腕に委ねられた体はぴくりとも動かない。
「美並? 朝だよ、起きて」
耳元で声をかけても、まだ起きない。
「美並って……んーっ」
いっそもういいや、と唇を重ねて、かなり長い間吸ってみたけれど、それでも静かな吐息が鼻から続くだけ、伊吹は目覚めない。
「ちょっと、これ、おかしい、よ」
逆に京介の方が息が保たなくなって喘いで口を離し、大きなドラムのように鳴り始めた心臓に歯を食いしばりながら携帯を取り出す。
「救急車、いや、この状態じゃ呼べないか」
呼吸は穏やかだ。血色も悪くない。ただ目覚めなくて、つまりは眠っているだけにしか見えなくて、でも、こんな状態は見たことがない。
「ちょっと早いけど……ごめん、明くん!」
ひょっとしたらと思った勘は当たっていた。
『もしもし、おはよう、どうしたの、京介』
「おはよう、ごめんね、朝から。伊吹さんが朝から起きなくて」
『え? いつから?』
「夕べは早く寝たんだけど、揺さぶっても声かけてもキスしても起きないんだ!」
『あー、ああ』
「救急車を呼ぼうと思ったんだけど、呼吸はちゃんとしてるし、体はあったかいし」
『ああ、まあ、何となくわかった』
ちょっと落ち着け。
明が促す。
「大丈夫なの、これ、伊吹さん」
『たぶん、今京介が抱えてんだよね?』
「うん」
『大丈夫だよ、たぶん。眠ってるんだ』
「いや、それはわかるけど、こんなに」
『…大丈夫だよ、きっと京介の側だから、深く、すごく深く眠ってんの』
「え…?」
携帯の向こうから届く柔らかい声に京介は瞬きする。
『こっちでも1、2回あったよ。一区切りついて、安心して、何もかも心配しなくていい場所で、思いっきり深く眠っちゃうんだ。下手すると1日眠ってると思う』
もし、様子がおかしくなったら、また連絡して。
「うん…わかった。ありがとう。ごめんね」
『いいよ。京介がそこまで慌ててくれるようなやつだから、姉ちゃんも安心して眠っちゃってんだろ』
人騒がせな姉貴でごめんな。
逆に明に謝られて通話は切れた。
「眠ってるって…伊吹さん」
溜め息をついて、京介は伊吹を抱え直し、再びベッドに横たえる。
「…そんなこと、僕知らなかった…」
これからもまた、まだまだ知らない伊吹に出会うんだろう。
楽しみなような、不安なような。
京介は、もう一度溜め息をつき、まだ目覚めない伊吹を見つめた。
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