戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年01月25日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
亀山八幡宮を後にして、赤間神宮へと急ぐ。
今日のメインはこれからなのに、
見るところがありすぎて亀山八幡宮でゆっくりしちゃったからな~。
もう、歴史のありすぎるところはこれだから・・・


お目当てが見えてきたところで、春帆楼にさしかかる。
ここも一般的な観光スポットだけど、今回私は寄る予定ではない。

ので通り過ぎようとしてから、写真だけ撮るつもりだったのを思い出して
入っていった。
なんの写真か?


春帆楼というのは、日清戦争の講和会議が開かれたところなんですね~。
「下関条約」って、教科書で習うよね。
その会議で使用された調度品や資料を展示しているのが、
日清講和記念館。

下関条約に調印したのは、総理大臣・伊藤博文と外相・陸奥宗光。
陸奥陽之介(宗光)は「カミソリ大臣」なんてあだ名もあるけど、
若い頃は龍馬さんにかわいがられてた人なんですよ。

てことで陸奥君には親近感があるので、記念館の外にある、
これを撮りに来たのだ。


日清講和記念館・陸奥君の像


左が伊藤君、右が陸奥君。


龍馬ファンの姉にも、写メを送ってと。

何気に記念館を見上げたら、ここの軒丸瓦はこんなのだった。


PAP_0028


写真じゃちょっと見づらいかな・・・
「日清講和ナントカ」ってあるんだよね。


先に赤間神宮へと向かう。
後でこの道を通る予定なのだ。




記念館のすぐお隣が 赤間神宮 。
本日のメインでござる。



赤間神宮遠景



ここの写真はあちこちのガイドブックにも載ってるけど、
やはり実物は美しい。
赤間神宮は、赤間の海に亡くなられた安徳天皇を祀る神社です。

壇ノ浦の合戦の終盤、祖母である二位の尼(平時子/清盛さんの妻)に抱かれ、
入水したという場面は有名ですね。

 【今を去る800年の昔、源平最後の合戦に安徳天皇は御歳僅か八才をもって
  平家一門と共に壇之浦に崩じ給ふや、赤間関紅石山麓阿弥陀寺境内に奉葬し、
  建久二年、朝廷は長門国に勅して御陵上に御影堂を建立せしめ給い、
  建礼門院御乳母の女、少将の局をして奉侍の上、勅願寺として永く
  天皇の御冥福を祈らしめ給う、朝廷の尊崇きわめて篤く文人墨客の参拝
  亦枚挙にいとまなし。

  明治維新に至るや阿弥陀寺を廃し、御影堂を改めて天皇社と称せられ、
  明治8年10月7日勅命をもって官幣中社に列し、地名に依り社号を赤間宮と定め給い、
  社殿を造営せしめらる。

  昭和15年8月1日天皇陛下には勅使を差し遣わされ
  官幣大社に御列格宮号を改めて赤間神宮と宣下あらせられ、
  社殿又改造し輪奐の美整いしが、惜しむべし大東亜大戦の空襲を被り、
  神殿以下悉く焼失加ふるに未曾有の敗戦に依り、復興造営は困難を極めしも、
  本殿祝詞殿以下御復興に邁進、苦節苦難20年にして完工、
  昭和40年4月御祭神780年大祭を迎え関門の風光に和する社殿の壮麗は
  昔日に倍し実に陸の龍宮と称えらるるに至れり】
  (「赤間神宮略記」より。漢数字は戦国ジジイが変換)



時子さんが本当に「波の下にも都がございます」と言ったかはわからないけど、
安徳天皇の御遺骸は小門(おど)の瀬戸で漁師の網にかかって
引き上げられている。

※小戸の瀬戸じゃなく御裳川(みもすそ川)で上がったとか、
そもそも他所へ逃げおおせたとか色んな説がありますが、
ひとまずは観光サイトなどで最も多く語られる説で話を進めます。


まずは一旦安置された場所が 御旅所(おたびしょ) 。
そこから紅石山にある阿弥陀寺というお寺に埋葬された。


阿弥陀寺の創建は貞観元年(859)、大安寺の行教和尚が
浄土宗のお寺を開いたものといわれている。
同時に、鎮守社として豊前の宇佐八幡宮から神霊を勧請して、
鎮守八幡宮もあわせて建てられた。

亀山八幡宮と同じく、相当古いお寺だね。


後鳥羽天皇の勅願により、1191年阿弥陀寺に「御影堂」を建立。
阿弥陀寺には、平家の都であった福原(現・神戸市兵庫区)から、安徳帝の十一面観音像、
建礼門院の持仏の弥陀三尊、清盛の持仏の弥陀三尊、重盛の持仏の釈迦像
などを奉還して、本尊として祀ったと伝えられている。


赤間神宮所蔵の、「紙本墨書赤間神宮文書」にはこの古い時代の
阿弥陀寺全図の絵があるんだけど、レイアウトが今とは全く違う。

戦災で焼失する前の境内は、写真を見る限りではおおむね現在と同じようだけど、
これとも全く違う。

絵図の当時は、
 【今の御陵も維新を迎えるまでの天皇殿は、
  配慮して東向きに、都を望ませ給う位置に建てられていたこと
、
  この安徳天皇尊像を囲んで平家一門の画像と、源平船合戦図の描かれた天皇殿を
  中心にして、東側に本堂(阿弥陀堂)、西側に方丈(庫裡)があり(後略)】
  (「赤間神宮」より)
となってる。


まあ、そもそも当時は寺だしね。
神社と寺で配置が違うのは当然のことでしょうね。
ちなみに、江戸時代までは安徳天皇は仏式で祀られていたそうですよ。


この阿弥陀寺については、1301年、類焼を防ぐ目的で
付近の民家に立ち退きを命じる文書が残されていて(「紙本墨書赤間神宮文書」)、
当時の町と寺の賑わいがうかがわれる。

それが神仏分離で阿弥陀寺は廃され、
多くの安徳天皇陵の伝承地の中から正式に阿弥陀寺陵として治定され、
おおむね現在のスタイルが出来上がった。

長州藩はご存じの通り、維新の際にはかなり過激でしたのでね、
神仏分離令が出た際には、相当、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたみたいだと
去年の夏に山口市に行った時に知ったんだけど、この折に阿弥陀寺が
どのような過程をたどったのかまでは調べられなかった。

まあ、結果的に寺は廃絶となっちゃったんだけどね。
時の住持は、還俗したそうですよ。
阿弥陀寺が建っていた場所には、現在は春帆楼がある。


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最終更新日  2013年05月26日 23時29分06秒
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