戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2012年05月12日
XML
カテゴリ: 旅日記(中国)
光珍寺でもらった資料には、こんな事も書いてあった。

 【また、歴史好きな女性にも「宇喜多親子は逆境にもへこたれず、生き抜くところが
  かっこいい」ということで人気があり、今年のバレンタインデーには
  チョコレートがお供されましたが、創建千二百六十年の歴史で初めての出来事と
  存じます。】

1260年の歴史で初めての出来事・・・

でしょうね~~!!!

たぶん、例の2人が初めてやって来た年にご住職が書いた文章なんでしょうけど、
大爆笑しちゃったよ。

秀家はともかく、なおくんは一般的に悪人のイメージが




ところで、戦災で貴重な品々は焼失しちゃったけど、
現在の光珍寺は新たな宇喜多一族の位牌の他に、

  一. 宇喜多秀家卿木像(元禄十七年 法橋民部作 浮田秀明氏より寄託)
  二. 宇喜多秀家卿書状
  三. 江戸末期の過去帳「浮田家戒名控え」
  (光珍寺の資料より)

を所蔵しているそうな。

このうち3つ目の過去帳には、能家以降宇喜多一族の
戒名と命日が記載されてるんだけど、気になったのは秀家の記述。

過去帳には



とあるそうだが、流罪となった八丈島では

   尊光院殿秀月久福大居士  明歴元年11月20日(行年84歳)

と伝えられているそうな。

一般的には、八丈島の方の戒名・命日を正式なものとしてるみたいだけどね、
光珍寺の資料には、

 【岡山でも秀家卿の供養をしていたことは確かなことと存じます。】

と文章が続く。

まあ、命日は1日しかあり得ないけど、戒名はね・・・
それぞれで供養を営んでいたのなら、もはやどちらが正しいとかいう
問題じゃなくなってくるよな。

山中幸盛なんか、ウィキペディアに5つも戒名書いてあるんだけど(笑)。



光珍寺を出て、路面電車に乗って次なるスポットへ・・・
大通りには、こんなのがあった。

道路にこん棒




桃ちゃん関連か~。
いいよなあ、お茶目で


路面電車で旭川を渡って、降りたのは小橋駅。
いまいち寺の入り口がわからなかったので、ちょいと手前で降りたのだ。

お次はここ、国清寺。(場所は こちら

岡山・国清寺


 【萬歳山国清寺は、釈迦如来を本尊とする臨済宗妙心寺派の禅寺である。この寺は、
  慶長14年(1609)池田利隆が建立し、当初は法源寺と号した。その後、池田家の
  国替えなどによって寺歴は複雑化しているが、寛永9年(1633)池田光政が
  鳥取から移封されると、彼は祖父輝政・父利隆を祀る寺として、国清寺と改称した。】
  (現地解説板より)

という事で、池田輝政とその子・利隆の菩提寺な訳ですが・・・
「岡山城」シリーズで、池田光政を白と黒に分けてたのを覚えてますか?
岡山城のところでは、白光政についてしか書かなかったけど、
ここでは黒光政が関係する。

黒っていっても、池田家のゴタゴタに連動してるだけから、
本人が腹黒いとかそーゆー意味じゃないんだけどね。

名君・池田光政の非常に人間臭い部分が、この寺と深く関係しておるのです。


この件に関する、池田家の主な家系図はこちら。

池田家家系図2

輝政には他の子供もいますが、とりあえずは上の図を参考にして下さい。

輝政の正室は、糸姫。
光政の父・利隆はこの2人の間に、長男として生まれた。

輝政はまあ有名だけど、簡単に流れを説明すると、
秀吉から羽柴姓を与えられ、豊臣家に準ずる扱いを受けてた。

豊臣秀次の事件の際には、ほとんどの妻子が殺された中、
輝政の妹だった秀次の正室は特別に助命されるなど、それは大切に扱われていた。

そんな養子のような立場ともいえる輝政を使って、
実力者・徳川家康との縁を深めようとしたのが、秀吉。

北条氏直と死別して実家に戻っていた督姫と、輝政との婚儀を仲介する。


輝政の正室・糸姫は、産後の体調が悪く実家に戻ったとされているが、
どうも利隆を生んでから相当の年数が経ってからの事らしく(笑)、
督姫を迎えるために離縁されたみたい。


いわゆる武断派に属し、秀吉亡き後の豊臣家と袂を分かった輝政は、
西国にいる秀吉子飼いの武将達の牽制役として、姫路城主に据えられた。
督姫と、それから家康と気脈を通じている自分の家臣に監視されながら。


さて、この督姫様、この方がまたすごいんです。

輝政と督姫の仲は良かったとかイマイチだったとか
色々言われてるけど、ともかく沢山子供を作りました。
こんな風に。

池田家家系図4

ここでは、男の子だけね。

カッコ内は、生まれた順番です。
3男の輝高さんは、生年とか詳しい事はわからないけど、
恐らく夭折したんでしょう。

ともかく、督姫様が嫁入りした時には、輝政にはすでに4人の男子がおりました。

継室ではあるけれど、自分の子は5番目以下・・・
しかし、我が子は可愛い。

そこで、督姫様はとんでもない力技を使いました。
どんな?
子供の順番を変えちゃったんですよ(笑)。
下の図のように。

池田家家系図6


枠の中が、督姫様の実子。
この子たちを、ごっそり上に持ってきた。

この精神的馬鹿力の姫様のおかげで、生年と順番がめちゃめちゃな
系図が出来上がりました。
ひどくない?

ホントは忠継に家督を継がせたかったって話もある。
さすがに輝政には却下されたため、兄である徳川秀忠の力を借りようとした。
しかし、徳川家では長子相続をモットーとしていたため、
これも失敗。


慶長8年(1603)、小早川秀秋の死去に伴う改易で空いた
岡山藩主(28万石)のポストに、忠継はわずか5歳で着任。
督姫様のテコ入れがあったともいわれる。

5歳で政務が執れるはずもないので、兄である利隆が執政代行として
岡山入りし、実質的な藩主として実務を行った。
この期間に、岡山城で光政が誕生。


慶長18年(1613)に輝政死去。
利隆が家督を継ぎ、やっとこさ姫路城主となる。
ただ、この時も姫路領から10万石を忠継に分与させられて、
42万石に減ってしまった。

忠継の方は10万石アップで、38万石。


そんな中で起こったと伝えられているのが、毒饅頭事件。
昭和に入ってからの調査では、この事件のウラは取れなかったらしいので、
ウソかホントかわからないが、事件の概要はこんなとこ。

  忠継を何としても姫路藩主にしたい督姫は、岡山城へ利隆を招いて毒入りの饅頭を
  勧めた。
  侍女が掌に「どく」と書いて利隆にそっと知らせたため、利隆は食べなかったが、
  それに気づいた忠継が饅頭を食べ、さらに督姫が饅頭を奪い取って自分も食べ、
  忠継と督姫は亡くなった。

饅頭の真相はわからないけど、督姫様が我が子を溺愛していたというのは
確からしい。

亀姫様といい、督姫様といい、どうも家康の実の娘ってのは
アクの強い女性が多いのお・・・

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012年05月12日 16時14分41秒
[旅日記(中国)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: