戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年05月22日
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カテゴリ: 江戸めぐり
うちのお墓があるのは、蓮華寺。
こちら )。

ここねえ、時々寄って、入口にあるお地蔵様に水を掛けたりしてたんだよね。
しかし、今回調べてるうち、ここにも有名人のお墓があることが判明した。
それがこちら。

巣鴨・田沼意次の墓

老中・田沼意次公のお墓です。
この周りには、田沼家の他の方々の墓もあります。




門の中に足を踏み入れたのは初めてだったけど、
墓地には勝手に入っちゃダメと張り紙があり、寺の縁起書を100円だか
200円だかで分けてもらえるとも書いてあったので、
ちょうどお掃除をしていたお姉さんにお願いをして、小冊子を頂いた。

そこには「寺社書上」という史料による歴史と、
お寺に伝えられてきた話と2つの歴史に分けて様々な沿革が書かれていた。

「寺社書上」による寺の始まりは、元和元年(1615)。
湯島天神の前あたりに開創されたという。
それが明暦の大火で焼失し、駒込に移転。

安永9年(1780)、田沼意次から下屋敷の260坪を寄進するとの申出がなされる。
その後、意次は勝林寺の庇護者となり、勝林寺中興の開基とされる。


昭和15年、道路新設のため寺も現在の染井に移転。
昭和20年には戦災で建物は全焼、同28年に本堂を再建。


西福寺なんかも現代的な建物だったからもしかして・・・と思ったら、
やっぱりこの辺も戦災にあったんだね。
何月とは書いてないけど、東京大空襲かな。



端折ってますが、お寺に伝えられた歴史の方で、戦国ジジイの目を引いた箇所に
ついては、以下に一部転載させて頂きます。


 【天正18年(1590)江戸城に家康が入りますと、正林寺は廃されて、
  三つ谷と呼ばれた駒込の蓬莱町に移転させられました。その時接収にあたったのが
  家康四男の松平忠吉で、義兄の松平康重とともに正林寺の支配を命じられて、
  翌天正19年に移転が完了しました。この時山号を萬年山と改めました。

  慶長5年(1600)家康は、関ヶ原の合戦で勝利をおさめると戦勝を記念して
  側室お梶(太田道灌曾孫康資娘)の名を「お勝の局」と改め、お勝がかつて
  「おはち」と呼ばれ縁のあった正林寺を勝林寺としました。
  以後、萬年山勝林寺と称されるようになりました。

  元和2年(1616)家康が亡くなると、お勝の局は英勝院と号し、春日局とともに
  当寺を訪れて家康より拝領の三面大黒天像を寄贈し、改めて春日局に後事を託し、
  太田備中守下屋敷に入りました。この時の住職渭川周瀏は、後に春日局の申請を受け、
  局の開いた天沢寺の開山となりました。】
  (「萬年山 勝林寺」より)

う~ん、これが本当なら、何だかすごい歴史だ・・・
こんなすごいお寺がうちのお墓の近くにあったなんて、びっくり~。
知らないって、ホントに罪だな~


ここのお寺の前の道はものすごく細くて、正面からはとてもじゃないけど
きちんと撮影はできない。
(入口だけは)昔から馴染みのお寺でもあるから、この時は写真を撮ろうとも
思わなかったしね。

でも新しいカメラを買ったから写せるかもしれないし、
今度行った時はチャレンジしてみますね。


ささ、それでは次のお墓へ・・・
今度は本妙寺(場所は こちら )。

いや~、子供の頃から来慣れてると言っても、
墓参りが済めばそのままとげぬき地蔵の方へ行っちゃうし、
こっちの方へ来たのは初めてだあ~。


ここでのお目当ては3つほど。
親切にも墓地内に案内が出てるので、それに従って歩いて行ったら、
途中にこんなのがあった。

巣鴨・本妙寺・振袖火事供養塔


「明暦の大火供養塔(振袖火事)」と標識が立ってる。

明暦3年(1657)の大火は、ここまでの解説にも2度ほど登場してますね。
1月18日に出火し、3日にわたって江戸の町の大半を焼き尽くした大火災で、
江戸の三大大火のトップに挙げられるほどの大規模なものだったそうな。

江戸城天守、あれもこの明暦の大火で燃えちゃって、
以後再建されなかったという、大変な火事ですよ。

死者は3万~10万人。
だいぶ幅があるけど、諸説あるそうで・・・

なんでこんな大火災になったのかというと、
1つのところから出火したものが鎮静化しかかるとまた別のところから
火が出るといった具合で、計3ヶ所から出火したそうな。

そのうちの最初の火元が、ここ本妙寺といわれている。



火事の原因についてもまた諸説あるんだけど、
まず第一にお隣さんの罪をかぶったという説。

本妙寺のお隣にあった老中・阿部忠秋の屋敷が本当の火元だったが、
それがバレると立場上まずかろうって事で、幕府が本妙寺にお願いして、
火元ということにしてもらったと。

当時は、火元に対しては幕府は厳罰に処していたというのに、
火事の後も本妙寺はおとがめなし。

だから、アヤシイんじゃないの~って事らしい。



2つめが、幕府主催の放火説。

火事がおさまってみれば、江戸の町の実に6割が燃えてた。
その6割の中には、家康が入府して以来の古くてゴミゴミした住宅密集地が
すべて含まれてたという。

大火以降、江戸の町の大改造が行われた事については、
藤堂家の下屋敷のところで少し書いた通りで、実はそれをスムーズに行うために
幕府が犯行に及んだというもの。



そして3つめ。
別名「振袖火事」といわれる理由がこれにあたる。

昔の葬儀では、亡くなった人が生前一番愛用した衣類を棺に掛けたそうで、
埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人夫の浄めの酒代に
されたんだそうな。

明暦元年1月18日、恋わずらいで亡くなった17才の娘の葬儀が本妙寺で行われた。
慣例に従い、棺には娘の愛用の振袖が掛けられ、葬儀の後、振袖は酒代になった。
ここまでは普通。

ところが、その同じ振袖がその翌年、またその翌年と3年続けて同じ月の同じ日に、
同じ年齢の娘の葬儀の棺に掛けられて本妙寺に来た。

そこでこれは怪異じゃと寺ではいぶかしんで、
亡くなった3人の娘の遺族も参列の上、読経供養をして燃やしたところ、
火がついた振袖が強風で舞い上がり、本堂の屋根に燃え移ってしまった・・・

という、何ともホラーなお話。


この供養塔の前には、確か解説板とかはなかったと思うけど、
いずれにしても本妙寺と大火との関係は浅くないようなので、
それでここに供養塔を建てたのかもしれないな。


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最終更新日  2014年01月04日 21時16分20秒


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