戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月26日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
一の坂川沿いには、いくつか句碑もあった・・・たぶん。



山口・一の坂川沿いの歌碑


 【「大内盛見詠草」 蛍

  とふほたる をもひのみこそ しるへとや
    み草かくれに よるはもゆらむ

  真っ暗な闇を恐がりもせず飛ぶ蛍は、自らの思いだけを道しるべがわりに飛ぶと言う。
  自分は、み草の陰に隠れて一晩中飛ばない蛍のようであり、そのうち、夜は燃え尽き、
  朝が来てしまう。小さな虫に負けないように、先行きの読めない困難な時代を


  国宝・瑠璃光寺(当時は香積寺)五重塔を建立したことで知られる大内氏26代・
  盛見公は、小さな蛍から大きな励ましを得ておられたのだと分かる。】
  (現地解説板より)


おお、盛見の歌だよ~。こんなところに!


盛見はね、一般的にマイナーな大内氏の中でも、
さらにマイナーな部類に入ると思うけど、大内氏の歴史の中でも
重要な役割を果たしてる人なんですよ。

まあ、真田家でいうなら、信幸(信之)兄さんみたいなカンジ。
これで大体想像、つく?



盛見の兄・義弘については 「山口編(7)」 でかいつまんで書きましたが、
義弘は幕府軍と戦って、討死を遂げた。


幸い大内家そのものがぶっ潰されることはなかったけど、
処罰として大内家所領のうち豊前・石見・和泉・紀伊の没収、さらに
弘茂が足利義満に臣従することを条件に、弘茂の家督相続と防長2国を
安堵するという処置が下された。

盛見は堺には同行せず、義弘に言いつけられて本国を守っていたが、

ここに弘茂と盛見の兄弟間で家督争いが起こった。

結局弘茂は盛見に敗れ、弘茂の後釜として擁立されたもう一人の弟も
盛見に討たれちゃったので、仕方なく幕府は盛見の家督相続を認めるに至った。


室町時代の守護は、京にあって将軍の側に仕えるのが原則だったので、
盛見も上洛して幕政に参加し、家督相続時点では防長2国の守護だったのが、
豊後・筑前の守護を回復するまでになった。

豊前一宮の宇佐神宮を再興した際には、文化保護的側面だけじゃなく、
工事に現地の豊前国人を動員することで豊前国内の掌握を図ったりもした。

また、禅への関心が高く、長い在京期間中には京都五山の僧と交流して
文化人としても名を遺している。

その他にも、一切経の輸入など貿易も積極的に行なったりと、
マルチな活躍をした。

そんな人だったので、筑前で盛見が討死した際には、
室町時代の皇族の日記である『看聞御記』に「名将討死」と記されたほど。

真田家を残した信幸兄さんも大変だったと思うけど、盛見も大変だったんだよ~。
その大変さが、このちょっと暗めの歌ににじみ出てる気がする・・・




宿の近くの商店街まで歩いて、スーパーで食糧を調達。
スーパーに貼られていたポスターには、こんな絵が描かれていた。


越後と山口の友情



「山口の元気はケンシンから」と題した検診のススメのポスターなんだけど・・・
このマスコットキャラって、あのケンシンだよね(笑)。友情出演?

おっと、そーいえば今日は越後では謙信公祭が開かれてる日だ。
去年の謙信公役は上越市長がやったけど、今年はまたガックン(ガクト)が
返り咲いたんだよね

山口は今日は蒸し暑かったけど、あちらの天気はどうだったんだろう。
ヅラかぶって甲冑着込んでじゃ、さぞ暑かろう。
ああ謙信様、ガックンが熱中症になりませんように・・・



3日目<2011/8/22(月)くもり一時豪雨のち晴れ>


今朝は薄日が差してる。
そして、蒸し暑い。

今日はイベントに参加するので、それまでの時間でお目当てを
サカサカと見なくちゃ

まずは歩いて菜香亭まで。
一の坂川には、こんな鳥がいた。


一の坂川にて



なんだろう、これ?
大きな鳥なんて、うちの方じゃ見ないからわからないな・・・


今日は昨日の続きから。
最初は菜香亭の隣にある神社へ(場所は こちら )。


山口・野田神社・豊栄神社


山口・野田神社・豊栄神社3


山口・野田神社・豊栄神社2


ここは神社が2つ仲良く並んでます。
まずは手前にある、野田神社から。


山口・野田神社2


 【野田神社

  御祭神は毛利敬親および毛利元徳です。
  敬親は毛利藩13代の当主で幕末維新の時に藩士を指揮して近代国家の成立に努力し、
  明治4年に山口で亡くなりました。
  元徳は敬親の養子で幕末維新の時には父敬親を補佐し、明治29年に亡くなりました。

  社宝として、重要文化財の太刀(銘助友)のほか毛利家伝来の能衣装、甲冑など
  貴重なものがたくさんあります。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)  


野田神社の地には、豊栄(とよさか)神社があった。

敬親が亡くなった2年後の明治6年、有志が敬親を祀る社を
豊栄神社の境内に建てた。
当初は、敬親の諡号「忠正」から忠正神社としていたが、
翌7年に野田神社に改称。

元徳の方はやっぱり死の2年後(明治31年)、野田神社の境内に
摂社として「芳宜園神社」に祀られたが、昭和11年になって本殿に合祀された。


上の写真もそうですが、当然の事ながらここにも
「一文字三つ星」があふれてる。
ちょっとこの写真じゃ、わかりづらいかな・・・


山口・野田神社3



拝殿には広く回廊が巡らされていて、その奥に本殿。
拝殿から先へは入れない。


山口・野田神社5


山口・野田神社6

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最終更新日  2012年07月26日 21時33分28秒
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