戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月17日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
 【臨済宗佛通寺派大本山佛通寺 三原市史跡・名勝

  佛通寺は、応永4年(1397)沼田(ぬた)庄の地頭小早川春平が愚中周及
  (ぐちゅうしゅうきゅう、佛徳大通禅師)を迎えて開いた臨済宗の大寺である。
  盛時には山中に88ヵ寺を擁し、末寺は九州から中部地方に及ぶ12ヵ国に
  約3000ヵ寺があったという。

  寺は春平の子則平のとき寺容を変え、近世には広島藩主福島氏・浅野氏の外護を
  うけた。一時、天龍寺の所属となるが、明治38年(1905)分離独立し、
  佛通寺派大本山となる。創建当時の含暉(がんき)院地蔵堂・開山堂などにより
  往時がしのばれ、境内の規模や堂宇跡の配置など貴重な文化遺産が数多くある。】



駐車場から一旦、仏通寺川に沿って少し下る。


三原・佛通寺12



人はいなくて静かだし、この石垣だし、
も~うたまりません・・・(笑)。


少し下りた所にあるのが、永徳院。


三原・佛通寺15(永徳院)



紅葉の時期は、見事だろうな。
ここには雪舟さんの作と伝えられる庭があるっていうので
来てみたんだけど、石段の下にばっちりロープが張られてるので、
どうやら公開されてないみたい。

建物ぐらい見たかったけど、まあしょうがないよな。





三原・佛通寺13



佛通寺を開いた愚中周及(1323-1409)は、美濃の人。
伊勢の藤原氏の血を引く生まれだという。

5歳の時、普門品(ふもんぼん。法華経第25品「観世音菩薩普門品」の略)
を地元の和尚が読むのにくっついて読む。


観音菩薩にじっと礼拝し祈念したところ、難を逃れた。

という、神童とも呼べるようなエピソードが庫裏で買った『佛通寺物語』に
綴られている。

13歳の時、父親が家に招いた徳の高い僧が愚中少年の人相を見て、
「この子は将来、高僧になるだろう」と言ったので、
出家する気マンマンで両親にそう告げたところ、あっさり却下。

憤慨した愚中少年は、ハンストを決行。
さらに、睡眠まで絶つという抗議行動に出た。
これにはさすがの両親も閉口し、天寧寺・夢窓国師の元で禅の修行をしている
愚中少年の叔父の縁を頼って、可愛い息子を京へ送りだした。


晴れて京へやって来た愚中少年。
ところが、夢窓国師は弟子入りを簡単には許さない。
泣いて懇願したりしてるうち、「骨格が面白いな、お前」といって気に入られ、
周及という名を与えられて念願の仏門デビューを果たす。

骨相が良かっただけでなく、背も高かったというので
「高沙弥(こうしゃみ)」というあだ名まであったそうな。


18歳の時、当時日本第一の禅道場とされていた建仁寺に入る。
そこで長老にとある質問をしてみたが、どうにも釈然としない。

「日本一でもダメなのか・・・
こうなったら、やっぱ本場・中国だよな」


と決意する。
偉い人は、やっぱりどっか違うね(笑)。

ちょうどその頃、夢窓国師が天龍寺をオープンさせたので、
新しいお寺に必要なお経の買い出しに元までお使いを出すという話が
持ちあがっていた。

足利直義が元に向けて発したこの天龍寺船に周及も便乗。
18歳にして、博多から大陸へ向けて旅立つ。
少年よ、大志を抱け。


荒波を乗り越えて憧れの元・明州へ着いたものの、明の太守は

「海賊船は、入国お断りあるネ」

と言って、頑として上陸させてくれない。

年が明けてもまだ船の中。
そのうち、水も尽きてきた。

そこで周及は、同乗していた他の僧と雨乞いの祈祷を行った。
と、にわかに大雨が降り、みんな命拾いをした。

この不思議を聞いた明の太守はコロリと態度を変え、
貿易もOK、周及も上陸することができた。

・・・と、この雨乞いの話も『佛通寺物語』に書かれているんだけど、
同じく庫裏で買った『大本山佛通寺誌』はちょっと違う。

 【12月に明州(浙江省寧波)に到着したが上陸を許されず翌康永元年になっても
  商人の貿易のみを許したので、一商人に托して小舟により夜陰に密行し
  禅門に入り、元至正3年21歳で金山の即休和尚に師事することができた。】


アハハハ、やっぱこっちでしょ~!
すごいパワーだ。
けど、大志を抱いてはるばる海を渡ったのに、
すごすごと帰ってくるようなヘタレじゃ、やはり後世に名は残せないよな。


ともかく、周及は元で禅の第一人者といわれている即休契了(しつきゅうけいりょう)
に弟子入りした。
そうして修行に励むこと7年、体調を崩した即休和尚がある日言うには、

「今度の病はどうにもいけない・・・
お前はワシが生きてる間に帰るがよい」


「あ、そうですか。それじゃお世話になりました~」

・・・なんて周及が帰るはずもない。

ところが、即休和尚はまた数日後に周及を呼んで帰国を促す。
そして思い返されたのが、「10年経ったら必ず帰るから」という、母との約束。

ここで帰国を決意した周及に対し、即休和尚は「且つ喜び、且つ悲しむ」
としつつ愛弟子を故国へと送り返した。

別れに際して即休和尚が周及に与えた偈は、周及を龍に例え、また虎に例え
今後の活躍を期待するものだったが、さらにこんなことも諭した。

  汝帰郷国 不要出世 須是山林樹下得座披衣 専一做静地
  工夫長養聖胎他時異日 向孤峰頂上発揮吾道去在

【お前はなあ、日本へ帰ったならば何も禅宗坊主として出世をすることは
 いらないぞよ。どうか、都を遠く離れた山林樹下に腰を据えてのう、
 ぽつぽつ地方の志ある人に法を説くがよかろう。静地の工夫をなすことが
 一番大切じゃ。

 焦らずに、500年、600年の先に眼をつけて、聖胎を長養してくれよ。
 そしてお前、独特の見識をもって、大いに、この即休の道を発揮してくれよ。】
 (「佛通寺物語」より)



即休和尚はさらに印可書も与えた。
印可書ってのは、師が弟子に対して与える証明書で、
まあ卒業証書みたいなイメージ?

この即休和尚真筆の印可書は、驚いたことに現在も残っておるそうです。

「佛通寺物語」が発行されたのは即休和尚の600年忌にあたる
昭和26年。
その2年前に、おもむろに佛通寺に印可書が持ち込まれたそうで、
その時の所有者が、五島慶太氏・・・
はい、 「酔心」 をめぐって、横山大観と愉快なバトルをした、あの方です(笑)。


こうして周及は元至正10年(1350)の年末に帰国の途に着く。
愛弟子を送りだした即休和尚は、安心したのか翌年の1月19日に他界。


さて、恩師の死を知らずに再び船中の人となった周及だったが、
帰りは暴風雨に襲われて、祈りによって北野天神を呼び出し、
またもや嵐を鎮めて無事帰国した。

こうしたエピソードを持つためか、海難除けの霊験におすがりしようと、
開山忌には多くの人が参詣に訪れたという。


博多から赤間ヶ関を通って美濃へ帰った周及。
かつての師・夢窓国師から招かれて天龍寺に入るが、
ここで初めて即休和尚の訃報に接する。
また同じ年の9月には夢窓国師が遷化。
周及は3年の喪に服したという。


「臨済将軍曹洞土民」という言葉の通り、臨済宗は公権力への接近を図ったが、
周及は師のアドバイスに従ってか、以後は摂津・丹波・丹後・播磨・紀伊などを
巡って教えを説いていた。

そして応永4年(1397)九州へ行こうと(一説には、九州旅行の帰り)
沼田の地を通りかかったところ、高名な周及に会いたいとアミを張っていた
小早川春平によって捕獲・・・いえ、招かれ、佛通寺の開創と相成ったと
いうことだそうです。
この時、周及75歳。

恩師・即休和尚を勧請開山とし、即休の諡号・佛通禅師から名を取って
佛通寺とした。



周及が最も気に入った山水絶佳の地を選んで建てられたという佛通寺。
永徳院の前に広がる風景は、かつて周及が若き日を過ごした
中国の景勝を思わせる。



三原・佛通寺16


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最終更新日  2012年10月17日 21時06分59秒
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