戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年11月05日
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カテゴリ: 城(中国)
長い三原城の歴史の中には、様々な出来事がありました。
今回は、ウワサを含め、三原城で起こったことについて
新聞記事風にいくつかご紹介しましょう。

新聞記事というより、週刊誌風な感がなきにしもあらずだけど・・・



≪華燭の典、あでやかに≫ -----文禄3年(1594)11月13日

太閤・豊臣秀吉殿下の一族で養子の金吾将軍(豊臣秀俊卿、のち秀秋と改名)が
 小早川隆景公との養子縁組のため、三原へ到着された。
 養子縁組と同時に婚儀も行われ、華やかな行事が11日間にわたって繰り広げられた。



 丹波亀山城城主・秀俊卿は太閤殿下によって整えられた華麗な行列で三原入りした。
 馬乗りは150騎、つき従う中間もすべて正装。


 手槍・薙刀がそれぞれ20丁。さらには唐織物の絹を身に付けた馬10頭、
 犬3匹、鷹10羽も行列に華を添えた。

 養家となる小早川家では、本家の毛利家からも当主・輝元公をはじめとする
 一族郎党・その家臣が一堂に集まり、出迎えの人数は実に5千人を越えた。


 3日後の16日には、安芸吉田の郡山城から供衆2,000人、人夫1,500人を
 従えて、秀俊卿の花嫁が三原城に到着。
 翌17日の早朝4時から婚礼が執り行われた。
 花嫁は、毛利家当主・輝元公の義理の姪にあたり、毛利元就公のひ孫でもあるが、
 このほど輝元公の養女となって婚礼の日を迎えた。


 毛利一族では、新しい小早川家の跡継ぎをこぞってもてなした。


 11月21日の能興行では、三原に集まった毛利・吉川・小早川の三家の方々が
 一堂に会し、盛大な興行となった。
 一番目の演目「難波」では、輝元公自ら小鼓を打ち、続く二番目には
 秀俊卿が小姓衆とともに舞って、5,500人ものギャラリーから拍手喝采を浴びた。


 秀俊卿の三原滞在は、11日に及んだ。

 毛利家の主要メンバーの諸氏が船で同行。途中糸崎で送別の宴を開き、
 さらに尾道まで見送って、一連の祝賀行事は幕を閉じた。






≪血染めのオープニングイベント≫ ---元亀元年(1570)4月

 三原城完成を祝って開かれた祝宴で、痛ましい斬殺事件が発生した。城下の人々は
 小早川の繁栄は長くはあるまいとしきりに噂している。



 被害者は、古志清左衛門豊長さん(年齢不詳、備後本郷城主。のちの研究では、
 諱は「豊長」ではなく「元綱」とされる)。
 古志さんは、身の丈六尺三寸、大力にして驍勇無双といわれた豪の者。毛利麾下で
 数々の武功を立て、ある戦いでは味方の不利を見てとった古志さんが槍を持って
 大音声をあげ、瞬時に敵数人を突き倒したというほどの武勇の持ち主だった。

 それほどの古志さんが、一体なぜ祝宴の席で殺されたのだろうか。

 宴たけなわとなり、酔って寝込んでしまった古志さんの首を、小早川家の家臣が
 あっさり打ち落とした。胴から切り離された首は、目を見開いたまま血を噴いて
 転がり、また首のない胴は刀を抜いて立ち上がり、数歩歩いた後に倒れたとの事である。

 古志さんに続き、供衆もことごとく斬殺されたが、その中で井上大炊介という家臣が
 脱出に成功。井上大炊介は急ぎ備後本郷城へ戻り、15歳になる古志さんの嫡男へ
 事の顛末を知らせた。

 驚いた古志さんの嫡男はすぐさま三原城へ出向き、古志さんの亡骸をもらい受けて
 城下の寺へ埋葬した。父を弔うために、墓前で念仏を唱えていたところを、
 小早川家からの追手が殺害した。


 当紙では、この事件の真相に迫るべく、三原城主・小早川隆景公に
 単独インタビューを試みた。公によると、

 「だって、古志君が謀反するって
  有地元盛君から聞いたけぇさ」


 との事だったが、一般には謀反の噂は讒言であると囁かれている。
 智謀に優れると評判の公が、噂を簡単に信じたのであろうか。

 当紙では、別の説も入手したのでご紹介しよう。
 公の実家である毛利家では同時期、国人の国替えを行っており、
 国人の取り潰しなどにかなり手荒い手段を取っている。

 そうした動きが自らの身辺にも及んだ古志さんが、中央へ通報しようとしたところを
 逆に「古志つぶし」の格好の材料として毛利家に利用され、上述のような
 痛ましい事件を引き起こしたという。

 なお、古志さんが殺害されたのは、三原城ではなく
 吉田郡山城だったとの説もある。






≪悲壮!備中国人衆の誓い≫ ----天正10年(1582)正月下旬

織田軍の中国方面総司令官・羽柴秀吉氏による本格的な備中攻めを前に、
 対織田との最前線となる「境目七城」の守将らが三原城に集結し、全力で戦う覚悟を
 表明した。


 この日集まったのは、著名な清水宗治氏(備中高松城主)をはじめとする、
 備中の城主たち。
 まず小早川隆景公が口火を切った。


「織田信長の命で、初夏頃にゃぁ羽柴のサルが
 うちを攻めてくるっちゅう噂をしきりに耳にする。

 こうゆう時期じゃけぇ、織田家へ通じるんもえかろう。
 古来よりそうした例はおゆぅあることじゃ。

うちじゃぁ別に、寝返ったけぇゆぅて
 ネチネチ恨むつもりもないから、
 そうした考えのある者は急いで織田軍に通じて、
 自家の栄達を図るとえかろう。」

 ※おゆぅ・・・たくさん 


 これに対し、集まった諸将らは

「なんちうことを言われるのか!
 そがあなフニャフニャな奴に大事な境目の守備を任せようと
 仰せじゃろうか。我らは決してそのような事は考えておらん。
 100%の忠義を尽くし、この命を捨てても城を守るんじゃ!!」



 隆景公はいたく感動し、さらに軍議を重ねたうえで諸将らを饗応でもてなした。
 また、それぞれに剣を下賜してモチベーションを上げるのに努めた。
 そして、清水宗治氏は最後に、ただこの一戦にかけ、かなわない時には城を枕に
 討死するとの決意を表明した。


 備中・備後の国人衆は三原城に人質を出していたので、巷では

 「人質取られてちゃ~、
  そうゆうしかありゃぁせんよな~」


 との口さがない評価がされる事もあるが、読者諸氏はどうお考えだろうか。




以上、小早川時代の三原城における出来事をピックアップして
戦国ジジイがお届けしました。

三原城全体の歴史の中では、他にも月姫様の御輿入れだとか
様々なニュースがあったでしょうが、なにぶん、
小早川隆景をこよなく愛する戦国ジジイなもので、
時代の幅が狭いのはどうかご容赦くだされ


<記者補記>

2番目の記事の古志氏の件については、
近年の研究では古志豊長が訴えようとした相手は、秀吉らしい。

そうなると、少なくとも天正年間に入ってからの出来事と思われますが、
ここでは元亀元年としていますので、ご了承の上お読みください。


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最終更新日  2012年11月05日 21時25分22秒


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