戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年01月07日
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カテゴリ: 城(中国)
ひろよんの嫡子・義弘は今川了俊の娘を娶ったといわれている。
そして九州にも従軍し、南朝の追討に大きく貢献した。

なので、了俊が大内氏の安芸での勢力温存を認めたのは、
義弘の縁や実績が支えたものであったかもしれない。


前回の記事で大内氏が安芸国衙領の押領問題の解決に携わっていたことを
書いたけど、康暦2年(1380)の御教書によると、ひろよんも
国衙領の押領組に入っていたんだそうな

で、その実態というのは、「芸州大将」に率いられた武力集団を
バックにしたものだった可能性があるという。

この武力集団はある程度常駐軍の体をなしていたんじゃないかとの
推測がなされている。



さて、義弘が堺で討死したことは 「山口編(7)」 に、
盛見が家督を継いで幕府との関係修復に努めたことは 「山口編(15)」
それぞれ簡単に書きましたので忘れた方や読んでない方は
そちらもあわせてご覧ください。

で、話はひろよんから子の代へと移ります。
まだまだ話長そうだぞ~、おい・・・


ひろよんの長男・義弘の時代には、すでに東西条は大内家の支配地と

これは、東西条の寺に対する義弘の処置から窺われる。

大内氏が東西条をゲットした経緯については、『臥雲日件録』という
相国寺の僧・瑞渓(ずいけい)周鳳の日記にこんな風に書かれている。


応仁3年6月8日、昭蔵主から聞いた話

  昔鹿苑院殿(足利義満)が花見をしようと、伏見から木幡まで行ったところ、
  にわかに雲が出て、あいにくの雨になってしまった。
  鹿苑院殿は大内某(義弘)を召して、

 「雨なんだけど」

 と下問されたところ、大内某はすぐさま和歌を詠じた。

 「雨しはし雲にかすらん木幡山 
            伏見の花を行てみん程」

と、みるみる雨が上がり空は晴れわたった。
  感動した鹿苑院殿は、

 「ねえねえ、何か欲しいものある?」

と大内某に問いかけた。そして問われた大内某も

 「んじゃ、東西条を

と遠慮なく答えたんだそうな。


毎度のことながら、超現代語訳戦国ジジイ風ですのであしからず

いくら足利家とゆかりの深い相国寺の僧の話であろうと、
これが書かれた時より80年くらい前の出来事だからね~。
信憑性についてはなんとも言えないものがありますが、
少なくとも応永元年(1394)には義弘は東西条を自由にできる立場にあった。

結構、東西条って安芸の中心部あたりだからね。
ひろよんからスタートしてわずか2代目にしてこのエリアに
進出するってのは、なかなか・・・


義弘が討死したのが応永6年(1399)。
その跡目をめぐって兄弟間で血の争いが繰り広げられ、
勝者となった義弘の弟・盛見が家督を認められたのが応永8年(1401)。

応永10年(1403)頃には、安芸での勢力も少しずつ回復していたという。
ただし、周防・長門の守護は認められたものの、
盛見に安芸守護の任は与えられなかった。




安芸の国人衆といえば、有名なのが「一揆」。
一揆っつっても、百姓一揆とかのデモ系の一揆じゃないですよ。

近隣の国人達が連携して上からの圧力に対抗しようとした共同体のことで、
いわば安芸国内に勝手にプチ共和国を作っちゃったようなもんかな。

これはなかなかの威力を発揮したようで、現に応永11年9月23日付で
33人もの国人衆で結成された一揆の時には、
応永10年(1403)に安芸守護として下向した山名巨部(おそらく満氏)と
3年にわたって対峙して、結局守護のリコールを成立させたという
パワーを持つものだった。


この一揆の背後に盛見の暗躍があったかまではわからないけど、
幕府はこの一揆のパワーに手を焼き、結果として安芸には
守護の権威が定着するまでには至らなかった。

絶対的な権力が存在しないままの安芸において、
大内氏は着々と勢力を固めてゆく。

そして応永32年(1425)、東西条内の内海村を竹原小早川弘景に
預けた書状が残ることから、この時点で盛見が東西条を有していたことが
確実視されている。

「三原編」でも何度か書いたように、竹原家は沼田本家に比べて、
大内氏と親しい期間が長いんでね。


永享3年(1431)盛見が筑前で討死したあとの跡目争いにおいても、
盛見の遺領として東西条が顔を出す。

以降も、鏡山城より北東に本拠を持つ平賀氏に一部所領を預けたり、
国人に加冠して諱を与えるなど、東西条を拠点として周辺の国人衆に対する
影響力を強めていった。




安芸支配にあたっては、大内氏は東西条代官を置いた。
史料に最も早く現れるのが、「大内氏壁書」の中の
長録4年(1460)11月25日付「養子御法事」で、
陶・内藤・杉ら大内家重臣9名による連名に混じって「安芸国東西条御代官」とある。

鏡山城の築城年代ははっきりしておらず、
長録3年(1459)、大内氏が東西条を直轄領に組み入れ、
翌4年に史料に東西条代官が顔を出すことから、この頃を築城時期と見る向きがある。

・・・が、少なくとも60年前には東西条での支配権を確立してた訳だし、
どこかに拠点は置いたはずなのだ。

西条盆地の真ん中に位置し、ロケーションの良い鏡山をおいて
他のどこに拠点を築くというのだろう。

まあ、鏡山城を廃城とした後、大内氏は東西条の拠点を2度ほど
お引っ越しさせるし、近くには小高い古墳(←城や砦なんかに転用されたりする)
なんかもあるにはあるので、
鏡山以外に拠点を置くなんてあり得ない!!とまでは言えないけど。

ただ、そもそも大内氏が東西条の経営を開始したのが室町前期の話だから、
もし鏡山に築城しなかったとしたら、他の可能性としては
後に引っ越すことになる槌山とかの峻険な山よりは、
平城(てか、居館)もアリなのかもしれない。

平地に置いた居館跡なんてものは見つかってないけど。




東西条代官として知られる者は数名いる。
いちおう名前を挙げておくと、仁保盛安・安富行房・神代兼郷・
蔵田右京進・蔵田房信・弘中隆兼。

この他にもいるかとは思うんだけど、わかっていない。

で、上の中では蔵田氏が2代続くものの、その他はみんな姓が違う。
つまり、世襲ではなかった。


代官の職務としては、今に残る書状などから類推するに、
「西条衆」と呼ばれる周辺の大内家傘下の国人の統率、
愁訴の取次ぎ、本国からの指令の伝達、配下の所領安堵の推挙など、
実に様々・・・
そういえば、隆景ちゃんの竹原家相続の際にも仲介の任にあたっていたそうな。

「代官」の名の通り、なんだかあまり強権を発揮したって感じじゃない。


大内氏の領国経営は、古くからの分国には守護代を置いていて、
周防は陶氏、長門は内藤氏、豊前は杉氏・・・といった具合に
守護代の地位が固定化されていった。

固定化されるということは、必然的に守護代と国人衆との個別の結びつきが
強くなるということ。

逆に、固定化されない東西条代官は、
任地で独自の勢力を作り上げることがなかった・・・
というか、できなかった。

この辺については、また後で少し書くかもしれませんので、
ちょっと覚えていてくれると嬉しいな。



ふう・・・歴史の話を書くのは、疲れます(←軟弱者)。

気分転換にそろそろコースの紹介に入ろうかと思いますが(笑)、
最後に寛正2年(1461)6月29日付「大内家掟書」に見える
安芸での大内氏の領土をちょっとご紹介。


 【従山口於御分国中行程日数事

  東西条七日、請文十九日
  呉島五日、請文十五日
  能美島四日、請文十三日
  日高島七日、請文十九日
  蒲刈島六日、請文十七日】


この掟書は、それぞれの分国に対し訴状などの期限を定めたもので、
安芸は上の5つが書かれてます。

寛正2年といえば、画聖・雪舟が最初に山口を訪れた頃で、
応仁の乱のちょっと前。

東西条を除いては、みんな沿岸部・・・つーか、島?
安芸内陸部の拠点としては唯一となるのが東西条。
つまりは、大内氏の東の最前線にあたる訳です。

大内氏の進出を快く思わない周辺の国人との摩擦、
それから中央での権力争いを反映した小競り合い、
さらには応仁の乱を経て突入した下剋上の時代を迎え、
東西条の拠点である鏡山城は幾度かの戦いを余儀なくされていきます。

鏡山城の戦いの歴史については、また後ほど・・・


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最終更新日  2013年09月28日 19時08分32秒


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