戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年05月08日
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カテゴリ: 城(中国)
思いがけない負傷にメゲそうになったけど、
このために 腕輪念珠 も買ったし、向かいの山には又四郎様がおられる。
大丈夫、大丈夫(なはず)。

気を取り直して、続行。


矢竹が茂る場所の手前には、石組みが残ってる↓。


東西条・高山城27・北の丸西奥石垣



これの反対側にも↓。


東西条・高山城29・北の丸西奥石垣




ここは恐らく通路のようになっていたんだろう。

矢竹群の脇は道ができていて、さらに奥へ行かれるようになっていた↓。


東西条・高山城30・北の丸西の最奥部へ



木がジャマで奥の場所からの展望はイマイチ↓。
沼田川が新高山城の北側を回り込んでる辺りだろうな。


東西条・高山城32・北の丸西奥手前から北側


それにしてもこの刈り残してある矢竹群、
ホントにびっしり生えててすごいわ・・・↓。


東西条・高山城33・北の丸西奥・矢竹びっしり~




搦手の登山口にあるという「道造りの記」は、
実際は看板の裏に書いてあったものらしいんだけど、

書いてあったからだった。
それによると、

 【全山矢竹に覆われていたので、鎌とのこぎりを持ち、道造りに励み、
  以来100回を越す登山路開発に汗し、平成10年巡回路4キロを整備した。】

とあるんだそうな。



たぶん、こんな感じでびっしり全山に生えてたんだろうな~。

整備ったって、1度刈れば済むってもんじゃないしね。
継続的に管理が必要だもんね。

これは相当大変な作業だったと思うよ。
感謝の念に堪えませんわ。
入山料取ってもいいんじゃないか?って私なんかは思っちゃうんだけど。

まあ、こういう刈り残し部分をこの山で見たのはここが初めてだったので、

「なんでここだけ残す?
いわくでもあるのか、気になるじゃないか・・・」


って正直思ったけどね(笑)。


んで、矢竹群の奥まで来るとさらに下段があるのが見えた(写真の右奥)↓。


東西条・高山城34・北の丸西の最奥部



ちょっと頼りない道だけど、ここも奥へ行かれるようになってる↓。


東西条・高山城35・北の丸西の最奥部のさらに先へ



奥はちょっと荒れてて、小さな郭だった↓。
ここが北の丸の最西部。


東西条・高山城37・北の丸のほんとの西の最奥部



そして、ここまで来ると


東西条・高山城38・北の丸のほんとの西の最奥部から新高山



ああ、新高山だ!
新高山城が見えるう~!!


うわあ、ここから見えるなんて思わなかったな~。
・・・てか、ここ、どこ?


搦手口にある看板の図が見にくいのは、
登山口から正面に古高山を見たようにぐるりと向きを回転させてるからで、
登山口に立ってる場合はイメージがつかめていいんだけど、
山中に入ってしまうとこの描き方は非常によろしくない。

ここのは地形図とかも持ってきていなかったので、
なんでここから新高山城が見えるのかがさっぱりわからなかった。


ということで、毎度おなじみ、手描き感いっぱいの
わたくしの愛らしい地図の登場です


高山城ルート図-4



初めにお断りしておきますが、各郭の大きさとか形は無視してます。
郭の位置とルートの概略だけ説明するための図なので、あらかじめご了承ください。
黄色の郭群が北稜、ピンクが南稜です。

高山城の南、本郷駅周辺の町から古高山を見上げた時には
南稜が見えてるということになります。
そして、沼田川の左側には新高山城がある。

北の丸は南稜の最北部にある西の丸より北に出っ張ってるから、
遮るものがなく新高山が見えたって訳だな。

逆に、おとといの新高山城詰の丸の展望台からも
この場所が見えてたんだろう↓。


高山城遠景-2



新高山城を目にしたので、唐突に ミッション を思い出した(←また忘れてた)。
うう、なんとか答えを持ち帰らねば・・・




高山城の築城年代は、はっきりわかっていない。

搦手口の解説には、全国で5本の指に入る屈指の規模を持つとあるものの、
それだけの城を築くにあたって、庶家に指示を出した文書などは一切残っていない。
もちろん、初めから現在残っている全ての郭を整備した訳じゃないでしょうけどね。

本郷村の「国郡志書出帳」には、土肥實平が築城と書かれているものの、
三原・ 成就寺 所蔵の「小早川正平画像」の賛に茂平築城と書かれているんだそうな。
一般的に言われる「茂平が高山城を築城」というのは、
おそらくここから来ていると思われる。

が、茂平の築城って年代的にどうなんだろうという気はする。


ただ、竹王丸との相論から、茂平が半世紀近くにわたって
惣領の座にあったことがうかがわれる。

歴代小早川当主の中で強権を発揮したのは、
何と言っても沼田に土着してからのパイオニア・茂平、
それから小早川の名を広く知らしめた隆景が2大巨頭で、
隆景以前の小早川で充実期を築いた春平・則平あたりがそれに続く。

ので、地元民との摩擦なども一番大変な時期ではあったものの、
茂平なら山上に初期の城を築くのは可能な気がする。


けど、荘園制のところで書いたように、
地頭の所有する土地って茂平の頃は結構限られてたと思うんだけどな・・・
領家の土地に城を建てることにはならないか?

って素朴な疑問が湧いたんだけど、 竹原の荘官との相論 では
山と川での収穫物を分けあうみたいな話になってるから、
山林の所有者がきっちり決められてる現代と違って、
開墾されてない山は公共物扱いだったのかもな~って思った。



ところで、古高山は「妻高山」という別名の他、
「五代山」という呼び名も持つらしい。
これも「国郡志書出帳」からで、

 【五代三郎雅平新高山を築て本城之要害とする由、故に古高山を五代山という】

とあるんだけど、五代目が新高山に要害を築いたんなら、
新高山を五代山と呼ぶべきじゃないのか?
とツッコミを入れたくなる

これが本当なら、すでに雅平の時代には古高山には城があって、
しかも向かいの新高山に早くも砦が置かれていたということになる。




応仁の乱あたりの時期になってくると、
「高山城」の名は文書にばんばん出てくる。

せめて今川了俊がちょっとでも書いていてくれたらよかったんだけど、
前々回書いたように「道ゆきぶり」には政治・軍事向きの話は一切書かれていない。

なにしろ、沼田に3ヶ月以上滞在していながら、
小早川のコの字も出てこないんだから、高山城の話なんか出るワケがない。
でも、了俊が来た時には恐らく山上に初期頃の城はあったと思われる。

というのも、応永5年(1398)10月8日以前には
「高山城」と呼ばれるものが存在していたことがわかっているのだ。
搦手口の解説板 に、「1400年頃大火に遭う」とあったのがそれ。


この火事の詳細についてはわかっていない。
が、火事のことを教えてくれてるのが時の当主・小早川春平から
菩提寺の巨真山寺(現在の米山寺)にあてた書状で、
茂平が藤原公経さんに許可をもらって干拓事業を始め、
不断念仏堂の資金にあてた説明から始まって、

「数通の寄進状とか規式とか置文とかあったけど、
高山城が火事に遭った時に全部燃えちゃったからさ~。
だから、この書状を後世への証書として、
将軍家とウチのご先祖様への供養に励んでよね」


・・・と言っているのだ。
だから、結構な規模で火災があったんじゃないかってことだと思う。



応永は足利義満の時代。
このくらいまで時代が下れば、本格的山城の構築もだいぶイケる。
派手な火事を機に、初期の山城から本格的な山城へと
大々的にリフォームしたかもしれない。

偉容を誇る山容に、大規模な城。
この後の時代から「高山城」という言葉が沢山出てくるのも、
リニューアルオープンと関係してる可能性もあるよな。

ちなみに、義満は小早川さんちに良くしてくれて、
応永12年(1405)には沼田荘の年貢を150貫文で請け負うことを条件に、
沼田荘の領家職を認めてくれました。

本来の沼田荘の年貢は400貫文だっていうんだから、
値切った?

これが春平の子の則平の時代で、単なる地頭職ではなく、
晴れて沼田荘の一円支配を認められて、小早川氏中盤の充実期を迎えます。


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最終更新日  2013年05月11日 15時15分57秒


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