戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年09月07日
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カテゴリ: 城(中国)
安芸における大内氏の拠点は、ひろよん(大内弘世)が基礎を造り、
その子・義弘の代には出来上がっていた。

義弘の次代、盛見の時には確実に竹原家が傘下に入っている。
(  「鏡山城(2)」 あたりもご覧ください)

竹原小早川家が幕府に代わる新しいバックボーンを求めたあたりの経緯については、
「高山城(17)」 で簡単に書いてますが、
大内氏と親しくなってから100年以上。

安芸国人として多少は独自の動きをすることはあっても、

たぶん一度もないんじゃないだろうか。



さて、毛利元就の姪が嫁に行った相手は、竹原小早川興景。
ウィキペディアによると興景の生まれは永正16年(1519年)、
死没は天文10年(1541)3月27日。

父・弘平の存命中に家督を譲りうけたらしいが、
なにぶん22歳の短い生涯で活躍年代が限られているので、
興景さんのあまり詳しいことはわからない。

花ムコのことがわからないのに、何を見るんだって思うでしょうが、
興景の父が弘平だってところが、少しブログに書こうかという気にさせまして。

まずは、以前にも掲載した沼田家と竹原家の当主の系図をご覧ください。


小早川当主系図




竹原家の方は多少名前にバラつきがありますが、
この図が示す通り、沼田惣領家の通し字は「平」、竹原は「景」です。
そして、弘平は歴代竹原家当主の中でただ一人、「平」の字を用いています。

ま、実は弘平さんて過去のシリーズで何度か登場してはいるんだけど、
今回はあらためて書きましょう。



応仁元年(1467年)10月2日、家督継承。
文明5年(1473)と思われる書状から、
恐らくこの頃に元服したものと思われる・・・
が、この書状、実に興味深いことが書いてある。

差出人は「全教」・・・この名前、どっかの書状で見たことあるんだけど、
誰だったか思い出せない
まあ、内容的に幕府関係者か幕府に近しいお偉いさんだと思われます。
宛先は弘平の父・弘景あてで、

「お宅の息子さんの名前ね、
大内政弘からも上申がありましたが、
相談した結果、『平』の字を差し上げることになりました。
いや~、めでたいですなあ!!」


と内容が色々ある中でこの話題をトップに持ってきている。
その数段後で、

「名前の件については、大内政弘へも
お礼を言っておいてね」


としているので、政弘が一枚噛んだことにより、
この重要な議題が落着したと見ていいのだろう。


弘平の加冠状は見当たらなかったけど、
おそらく烏帽子親は政弘で、「弘」の字は政弘から一字もらったものと
見るのが自然ではないでしょうか。

ただ、弘平のオヤジも「弘景」なので、
親子2代が同じ字をもらうのってアリかな~とは思うんだけど。
ウィキペディアでは、政弘から名前をもらったのは弘景とあり、
弘平の名前は列挙されてない。

でも、弘景は大内教弘・政弘の2代にわたって仕えたようなので、
教弘からの偏諱って可能性もあるんでない?
と思って弘景への加冠状がないか探してみたら、あった。
大内教弘の名前で。

なあんだ~、やっぱそうだったのか~。
という訳で、

小早川弘景・・・大内教弘からの偏諱
小早川弘平・・・大内政弘からの偏諱

という結論に落ち着きました。


以前、雑談 「大内さんちの通し字?」 に書いたように、
大内家には誰が見てもわかるような通し字はない。
が、わたくしが地道に数えた結果、
「弘」の字を使う人が当主・一族ともに多いことがわかった。

一般的な偏諱のルールは、一字の送り主が当主の場合、
下の字が通し字で上の一字を家臣や配下にあげるというもの。
(当主でも上に通し字が来る家も結構あるので、一慨には言えませんが)

まあ、教弘なら「教」の字をあげるところだし、
政弘なら「政」の字をあげるべき。
しかも、「弘」の字は大内家の通し字に準ずる字なんだし。

ので、これはかなりイレギュラーな偏諱になりますが、
別に大内家当主が変人ぞろいなんじゃなくて、
大内家がビッグゆえのちゃんとした理由がある。

教弘・政弘の「教」「政」の上の字は、時の将軍、
足利義教(6代)・足利義政(8代)からそれぞれ一字をもらったもの。
だから上に拝領した字を戴いてる。

こんな字、他人にあげる訳にはいかないでしょ?
(ただし、あげちゃう人もいます)


ついでに書きますと、政弘の子・義興さんは
気前よく「興」の字を周囲にあげまくってますが、
これも「大内さんちの通し字?」に書いたように、
「義」「興」の2字を足利義尚(9代)から賜ったもの。

どちらも拝領の字であれば大切だけど、「義」の字は足利将軍家の通し字だから
絶対あげられない。

義興さんの子・義隆の名前ははっきりしないけど、
「義」の字を使ってるあたり、たぶんこれも拝領したものと思われる。
だから、「隆」の字をばらまいた。


余談ですが、ウィキペディアでは大内政弘から偏諱を受けたのは
小早川弘景の他に、陶弘護・吉川弘経・毛利弘元のみ挙げてるけど、
私はここに平賀弘保も含めていいと思うんだよね。

ただ、私は「平賀家文書」は持ってないし、正確なところはわかりませんが。
あくまで個人的な憶測です。



全教の書状に話を戻しましょう。
名前の件についてまず報告した後で、次にはこんな言葉が続く。

「公方様へのお礼はちと少ないですが、
ひとまずこれで承りました。
その他の方々へのお礼もしっかりとお手配くだされ。」



ふんふん、上つ方とのお付き合いも大変だなあ。
ここではもちろん当事者である竹原家からのお礼の金品について言ってるけど、
おそらく大内家からも根回しのためになにがしかの
現金が使われたことだろう。

大事なのは、その次。

「小早川煕平の跡目については、
嘉吉元年の御裁可の通りと御内書が下されました。
いやいや、まことにめでたい!!」



嘉吉元年(1441)の御裁可とは何か?
こちらも過去のシリーズで数回書いてますが、
要するに沼田小早川則平の「悔い返し」に端を発する小早川惣領家の内紛、
および将軍・足利義教が介入してさらに問題を大きくした、
一連の相続大バトルのことです。

「鏡山城(8)」 や 「高山城(18)」 あたりもおさらい頂きたいのですが、
一言で言うと、小早川則平が出陣する前、一旦は長男・持平に譲った家督を
次男・煕平に与えることを決定し、則平は出張先で討死。

持平・煕平の兄弟間で争ってるうちに将軍・義教が介入し、
沼田惣領家をそっくり竹原家の盛景に与えるという
トンデモな裁定を下した。

そのトンデモが、嘉吉元年の御裁可(本文では「御成敗」)です。

この問題については、幕府の仲介により享徳4年(1455)には
当事者間ですでに決着が着いている。

一旦カタが着いたことを、20年近く経ってから持ち出してくるなんて、
政弘もエグイよなあ
また、それに乗る幕府もどーよ・・・


つまり、この書状が示すところは、大内政弘の強い意志が働いて
竹原家が正当な小早川惣領家を継ぐべきものと幕府に認めさせたもの、
さらに沼田惣領家が名乗ってきた「平」の字を竹原の跡継ぎに名乗らせることで
それを公に示した、と見ることができるのではないかと思います。

大内家にとって、竹原家は古くからの重要な手駒。
上の出来事でもうかがわれますが、時期による程度の差はあれ、
大内家によるバックアップは結構なものがあったといえるでしょう。

ということは、大内家が勢力を強めるに従って、
竹原家の家運も上昇する。


大内家は、ひろよんが防長の守護となって以降、
義弘の応永の乱で一旦は幕府に潰されかけるものの、
盛見の代から少しずつ盛り返して順調に右肩上がりで勢力を拡大していき、
義興さんが上洛に成功してから義隆の後半あたりまでが絶頂期。

小早川弘平の元服に関連する全教の書状からは、
政弘の代でも相当な影響力を持っていたことがうかがわれる。
ま、カネの力もあるかもしれないけど(笑)。


さて、大内家絶頂期のスタートとなった大内義興さんの上洛戦には
弘平もお供した。

足利義尹が奇跡の将軍職復帰を果たした後の
永正8年((1511)8月16日、やはり足利義教の御教書を持ち出して
沼田小早川興平(6歳)の家督を弘平に継がせる御教書を
義尹あらため足利義稙の名前で出している。

ま、この日付を見るにホントはこんな御教書を出してる場合じゃなかったと
思うんだけど、たぶんここも義興さんの思惑が働いてるんだろうな。

一見、全教の書状の時と同じように見えるけども、
状況は全然違う。

なんたって義興さんは義稙復帰のMVPであり、
その後も引き続き強大な軍事力で義稙政権を支えて
実質的な国内のトップの地位にある。

だから、政弘の時よりもより実効性があった。
一方の沼田惣領家にとっては、ここが2度めの大ピンチ。


・・・が、弘平はそれに従わず、逆に一族の融和を図った。
ここで弘平が惣領の座についてたら、あるいは小早川家は
宮氏のようにもっと早く弱体化したかもしれない。


実子のいなかった弘平が取った融和策は、沼田家当主の興平の弟・福鶴丸を
弘平の養子に迎えて竹原家を継がせる。
もし弘平に子ができたなら、福鶴丸には所領をあてがうというものだった。

さらには沼田・竹原の宿老が親しく交わり、
惣領である興平がおかしな事を言い出したら、
両家の宿老で興平に意見しようという内容。
これが永正10年(1513)4月20日のこと。

ただし、沼田家当主である興平自身もまだ幼い。
両家の確約ともいえる永正10年の養子縁組以前の永正9年3月には、
安芸で108年ぶりに締結された国人衆の一揆契約 に
弘平が署名している。

この一揆契約状に小早川興平の名前がないことから、何かしらの思惑があって
沼田家が参加しなかったと見ることもできるけど、
ここまでの背景を考え合わせると、弘平が幼い興平を補佐する立場にあり、
一揆には弘平が代行して署名したと考える方が自然ではないかと思われる。


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最終更新日  2013年09月07日 23時32分10秒


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