戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年01月31日
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カテゴリ: 上野と寛永寺
前回は道路から門の外側を見ただけでしたが、
今度は上野第四編(2014/1/3)にトーハクへ初詣した際の
門の内側からの写真をご紹介しましょう。
豪華絢爛な表の顔と違って、どことなく生活感も漂うようなギャップが面白いです。


まず、門の脇にはこんなものが積んである↓。


上野4・池田家黒門1



ハハハ、なんでこんなとこに積んでるんだろ。
古い瓦かな?
修築したはいいけど、捨てるに捨てられないのかな?


上野4・池田家黒門2



上野4・池田家黒門3



↑あれ、あの角材、五角形になってる。
面白いな、どういう意味があるんだろ?



上野4・池田家黒門4



↑こちらは脇戸。
写真の左端で光ってる部分は


上野4・池田家黒門5



いずれ修復もするんでしょうけど、こーゆーのってどうやって直すんだろ?
板を張り替えるしかないのかな?



これが脇の番所への入口↓。


上野4・池田家黒門8


あれこれ写真を撮ってるうち、トーハクの警備員さんみたいなおじさんが来て
この扉を開けた。

おお、ラッキー!!と思って横目で盗み見たら、
中はシンプルなフツーの小部屋という感じで、
確か畳敷き・・・いや、板敷きだったかな?


ホームセンターとかで、園芸用の土とか畑の肥料が大きな袋に入ったのを
売ってるでしょ。
あんなやつ。

何をするのかと思って見ていたら、その大袋を番所に搬入し始めた。
中をさりげなく覗くと、すでに同じような大袋がいくつも部屋に積まれている。
かつて門の警備にあたる藩士が詰めていた場所は、
どうやら現在ではちょっとした物置きになってるらしい

そのうち、トーハクの職員さんみたいな人も来て一緒に作業を始めたんだけど、
職員さんと目が合ってしまって、じろじろ見るのも悪いかと思って
また門の撮影に戻った。
が、 


ちょっとだけ部屋の中を覗かせてもらっても
いいですかあ~」


とお色気で迫って部屋の様子をもっと観察させてもらえばよかったと
後から激しく後悔した。
あんなチャンス、滅多になかったぞ


番所部分の壁はこうなっている↓。


上野4・池田家黒門9


上野4・池田家黒門10


↑あの一番下の穴の部分は、昔からああなっていたのかな?
位置的に、床下にあたりそうだよな。
番所をそなえた門を(たぶん)見たことがないので、興味津々。


今度は門をくぐって外側に出ま~す。
ただ、外から見える部分は第二編でほとんど撮っているので、
いくつか補足的に撮っただけだけど。


上野4・池田家黒門11



上野4・池田家黒門12



上野4・池田家黒門16



やっぱり、唐門は派手だなあ。


さて、因州池田家の黒門は以上です。
トーハクの内部には、黒門のすぐ近くにこんなものがありました↓。


上野4・池田家黒門脇



上野4・池田家黒門脇2


 【黒田家の江戸屋敷鬼瓦

  徳川幕府の参勤交代の制度により、江戸には諸大名の屋敷が設けられた。この鬼瓦は、
  筑前福岡藩主黒田家の屋敷(現在の千代田区霞が関、外務省の地)の建物の棟飾り
  として用いられたものである。鬼瓦といっても鬼面にはなっていない。
  複雑な雲文の鰭までを一体に造った大振りなものとなっており、屋根を重厚にする
  江戸趣味をよくあらわしている。】
  (現地解説板より)


へえ、こんなとこにこんなものがあったなんて・・・
今年は大河の影響でかんべ~人気も上がりそうだから、
旬なスポットになるかもしれんな。


んではここからトーハクの正門の方まで戻って、
いよいよ上野公園に入ります。
ふ~、まだ先は長いぜ・・・


公園入口には、こんな看板があった↓。


上野・上野公園入口



あれ、上野公園て時間制限あるんだ。
でも、ここにお住まいの方達もいるからな・・・
夜間の立ち入り禁止といっても、かつて寛永寺時代に
山同心たちが容赦なく追い立てた ようなことはしないだろうしな。
それとも、もう上野公園内にお住まいの方達はいなくなったのかな?

いや、それはともかく、これが本坊側から入った上野公園の風景↓。


上野・根本中堂跡地(噴水広場)



あらためて見てみると結構広いもので、
大噴水が遠くに見えます。

ここがかつての根本中堂のあった場所ですが、
中堂のできる以前、『寛永寺』の表紙になっている延宝期(1673-88)の絵図だと



宝永期中堂付近-2


ピンクの★が現在地で、下の方を見ていることになります。

これが、綱吉が中堂を建てた後の絵図になると


貞秀筆「東叡山之図」-2
     (『東叡山 寛永寺』表紙の貞秀筆「東叡山之図」より)


と変わります。
下の絵図だと、右上から左下の方角を見ていることになります。

ピンクの★の真下に見えてる建物は左が常行堂で尾張の徳川義直
(家康9男。尾張徳川家初代)の寄進によるもの。
本尊は阿弥陀三尊。
毎年2月15日には涅槃会が行われた。

右が法華堂で紀州の徳川頼宣(家康10男。紀州徳川家初代)の寄進。
本尊は釈迦三尊で毎年4月8日には仏生会が催された。

常行堂と法華堂は双子のように同じ造りをしており、
この2つを渡り廊下でつないで、全体を「にない堂」と呼んだ。

にない堂は叡山にある堂宇で、武蔵坊弁慶が天秤のように担いだことから
にない(荷負)堂と呼ばれるようになったと言われ、
寛永寺のにない堂は叡山のものを摸したとされる。


で、初期の頃には大体噴水の奥の方(不忍側)にあったと思われるのが、
根本中堂ができてからはずいぶん下の方に下がっている。
どうも、中堂を建てるために南側に移動させたらしいんだよね。

ので、南側から来た参詣客はにない堂の渡り廊下の下をくぐって
中堂に参拝するというコースだったらしい。

ということで、綱吉時代以降は上の写真の場所からは
どーんと根本中堂が見えていたことになります。



綱吉の死後、埋葬までの法要は寛永寺の本坊で行ったようだけど、
納棺以降の法要は根本中堂に仮の御位牌所を設けて初七日の前夜の法要が行われた。
法要を執り行う大導師は、もちろん輪王寺宮。
綱吉と昵懇の間柄だったという、 公弁法親王 です。

本坊から輿に乗って中堂の正面に回った宮は、
中堂を取り囲む廻廊にある勅額門の前で輿を降りて中へ入る。
堂内にはすでに参列者が待機しており、宮が階段を上がってくると
奉行以下はみな平伏して迎える。

法要が済んだら、宮は入った入口からは出ず、
中堂の真後ろにある出入口を通ってまっすぐ本坊へお帰りになる。

これ以降はおそらく根本中堂でほとんどの法要が行われたと思われるが、
初七日にも宮が大導師を務められ、その後の法要にも宮じきじきに参加をしている。

面白いのは、宮の根本中堂への出入り。
はっきりしたルールはわからないけど、
どうも雨天だと宮は正面ともいうべき勅額門側からは入らず、
本坊側に造られた出入口から出入りしていたようなのだ。

さすがに、初七日だとかの節目の大事な法要であれば
雨の日でも勅額門から入ったのかもしれないけど(笑)。

だからね、トーハクの正門と上野公園の間にまたがるあたりは、
雨の日には宮が小走りでトコトコと歩いたかもしれないんですよ

ええまあ、噴水広場のあたりが根本中堂跡地だということを知ってる人は多いけど、
そんな想像をする歴史ファンは相当少ないと思いますけどね。
宮萌え~する人間がいたっていいでしょう?



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最終更新日  2014年07月30日 20時47分41秒


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