戦国ジジイ・りりのブログ

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2014年10月02日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、今度は延暦4年の政界の動きです。

中央政界と最澄が同時に動き出す年なもんだから、
またもやページがまたがっちゃて申し訳ありまへん。
「叡山攻め(43)」 の年表と見比べながらお読みください。

この年は大事件が勃発しました。
それが、9月23日の藤原種継暗殺事件。

藤原氏系図

式家では百川はすでにこの世の人ではなく、皇后の父・良継も
宝亀8年(777)に死んでおり、種継が式家をしょって立つ立場にありました。


種継だったとされます。
遷都に先立って種継は造長岡宮使にも任命され、ウィキペディアには
【事実上の遷都の責任者であった】とある。

伊勢の斎王となった娘の朝原内親王の見送りのため、
8月終わりに平城京へ出かけた桓武の留守居を務めていた種継だったが、
たいまつをともして夜の工事現場の見回りをしていたというから、
遷都したとはいえまだ突貫工事が続けられていたらしい。

その「夜のおつとめ」の最中、何者かに矢で射られてしまった。
即死ではなかったものの、夜が明けて桓武が長岡に戻る頃には種継は死んでいた。

捜索はすぐに開始され、あっけなく犯人は捕まって皆罪を認めた。
首謀者のうちの1人が大伴継人。
「叡山攻め(42)」 で紹介した最澄の度縁を見てみてください。

殺されたのは藤原種継、殺したのは大伴継人・・・
どちらも最澄の度縁に署名してる人物です。

種継暗殺は最澄が叡山に入ったあとの出来事だから、
最澄がこの事件を知ったかはわかりませんが、

これだけの事件だから、おそらく人づてに事件のあらましについて聞いたでしょう。

自分の度縁に署名した2人の要人が殺人事件の被害者と加害者になったなんて、
最澄はどう思っただろう・・・

捕まった実行犯と首謀者の主だった者はソッコー殺されてますが、
まだここまではいいです。
ホントに彼らが罪を認めたのかはわからないけど、「正史」では認めたと書かれているので、
とりあえずヨシとします。

プランを練ったとされた大伴家持は事件の時点ですでに故人ですが、
まだ埋葬される前だったようで、無事に都に埋葬されたのかは不明です。
家持の子はこの事件で流罪となっているので、あるいは遺骨も子にともなって
流されたかもしれない。

問題はその後です。

『日本紀略』では皇太子・早良親王も了承済だったとし、
早良親王を天皇とする計画だったとあります。

『水鏡』には違うことが書かれてます。すなわち、



  「佐伯氏が宰相になったことなんて今までありませんよ!!」と訴えたので
  今毛人は宰相を解任された。

  早良親王はこれに怒り、種継を引き渡すよう桓武に求めたが却下され、さらに
  早良親王は政治から遠ざけられるようになった。恨みに思った早良親王は、
  種継を狙うチャンスをうかがっていた・・・


『水鏡』が書かれたのは鎌倉の初期とかなり後の時代であり、
一般的に記事の信憑性については低いとされているものの、
他の文献には書かれていないこともあり、興味深い内容ではある、
とこれは『国史大系』の解説だったかな。

早良親王がこの事件に本当に関与していたのかはわかりません。
が、この後の流れから一般的には彼は無実だったろうとされています。


前々回の年表の9月28日の記述は『日本紀略』によるもので、
それによると9月28日に幽閉されて自ら食を断ったとありますが、
『水鏡』では少し違っています。

  カクテ其年十月ニ東宮ヲ乙訓寺に押籠奉。供御ヲ止奉リ給ヘリシニ。
  十八ヶ日マデ其御命絶ヘ給ザリシニ。淡路国ヘ流シ奉リ給キ。

過去のシリーズでの料理関係の記事を覚えている方もおられるかもしれませんが、
「供御」(くご)とは皇族など身分の高い人のお食事のこと。

ネットで「供御」を検索すると、どれも

 【主として天皇・皇后・皇族などの飲食物をいう語。のちには将軍の飲食物に
  ついてもいう。】
  (weblio辞書より)

となっていて、「供御」がただの飲食物を指すものだったら
「供御ヲ止奉リ」は自分で食を断ったとも思える。

が、わたくしは料理関係は大内義興さんセッティングの御成から入っていて、
饗応に出された膳の中に「供御」が入っているので( 「山口編(13)」 )、
「貴人へ出すお食事」というイメージが強い。

ここでの供御が「貴人へ出すお食事」の意であれば、
早良親王は自ら望んでハンストしたのではなく、餓死させられた可能性だってある。
原文も「止給ヘリ」じゃなく「止奉リ給ヘリ」だしな・・・
飲まず食わずなのに18日まではしぶとく生きていたので、淡路へ流したとも読めるよな。

まあ、一般的には無実を訴えてハンストしてそのまま死んでしまった、
と解釈されてます。
『日本紀略』の記事を採用すれば、流罪で済んだものが
想定外のおおごとに発展してしまったとも言えますね。
どちらにせよ、遺骸は無情にも淡路へと送られ、そこで埋葬されたようです。


この一連の流れをご存じの方も多いでしょうが、
実は正史である『続日本紀』にはろくすっぽ書かれてないのをご存じでしたか?

前々回の年表はそれまでの記事よりも1色増えてますが、
青字が『続日本紀』の記述、赤字はおもに『日本紀略』からの引用です。
種継事件のあらましとその後のてんまつがずっぽり抜けてるのがわかるでしょう?

かろうじて10月8日に先帝たちに皇太子を廃した報告があるくらいで、
なぜそうなったのか『続日本紀』だけ読むと皆目わかりません。
いや、元々はちゃんと書かれていたらしいんですよ。

 【政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。天皇の心痛となった
  早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん
  記載されたものが後に削除された。削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇に
  よって再び消されて今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。】
  (ウィキペディア「続日本紀」の項より)


11月の終わりには桓武は自分の子の安殿親王を皇太子に据えている。
オヤジに従って弟を皇太子としたものの、親心で自分の子に継がせたくなった、
というのが世間の見方です。

それから、種継暗殺事件に関わったとされる人々は遷都反対派だったとも言われ、
大伴氏の多くと同族である佐伯氏などが処罰され、結果的に反対勢力を効率良く
除くことができた。

そして処分が一段落した11月10日、桓武は交野(かたの)で重要な儀式を行う。
「郊祀」(こうし)と呼ばれるこれは、

 【古代中国の王朝で皇帝が天をまつる祭祀をいうが、そのとき昊天(こうてん)上帝
 (天帝)にその王朝の初代の行程を配祀するのが慣例であった。ところで桓武が昊天上帝に
  配祀したのが、父の光仁天皇であったことは、皇統が天武系から天智系に変わったことを、
  中国の王朝交替になぞらえて、意識していたことを示している。(中略)

  そして桓武は自分が皇位につき正当性の核心を、王朝の始祖、光仁から皇位を譲り受けた
  ことに求めている。桓武の即位の宣命は(中略)天皇(光仁)が、天智天皇の定めた
  法にしたがって皇位を賜り仕え奉れ、と命じたというのが、皇位継承の最大の根拠と
  されている。】
  (『大系日本の歴史3』吉田孝/小学館より)

だそうで、つまり

奈良~平安系図


40代天武天皇から48代称徳天皇までの天武系の天皇たちをガン無視して
天智⇒光仁⇒桓武の流れを正統としたものなんだと。

郊祀については井沢氏の『逆説の日本史』で知っていたので
それを引用して紹介するつもりではあったけど、実際自分で『続日本紀』を読んでみると
「以前から祈ってきたことの礼として」という気になる言葉があった。

桓武は何の願かけをしていたのだろう?
可能性としてはいくつか浮かぶ。

まず、井上内親王・他戸親王・氷上川継などの天武系のライバルを
除くことができたこと。
薭田親王の死も私はアヤシイと思ってるけどね。

天武系を排除し、天武系の都である平城京から長岡京に遷都できたこと。

直近では、反対派勢力を一掃し、安殿親王を皇太子にできたこと。
早良親王の死は初めから予定されてたのか、あるいはオマケでついてきたものかは
わからない。
が、仏教界に大きな影響力を持つ早良親王を(生死に関わらず)除くことで、
政治への寺院の介入をより抑えることもできる。

松本清張は『名札のない荷物』の中で興味深いことを書いている。

 【桓武天皇は皇女の伊勢行きを見送るために、わざわざ平城京へ赴いた。
  問題はその後である。

  遷都後の政務(決済案件)が滞ることも顧みず、一ヵ月間も鷹狩りに興じるなど新都を留守に
  した。あらゆる困難を排して去ったはずの平城京に留まる理由など見当たらない。
  まるで何かを待っているかのような態度である。「何かが起きるはず・・・」、
  桓武は何を期待していたのだろうか?

  長岡京への遷都提唱者でもあった藤原種継は、平城京勢力からは強く恨まれている。
  まさしく攻撃の対象になってもおかしくはない状況にある。桓武が不在中であれば尚更、
  そうした危険は増すに違いない。大伴氏や佐伯氏らが早良親王を担いで決行に及び、
  種継が殺られるのであれば言うことはない。仮にその逆であるならば、種継を裁判にかけて
  有無を言わせず斬刑に処する。

  どちらにしても、自分が長岡京に居る限り事は起こらないし、自らのアリバイ作りも
  必要だ。】

であれば種継はいけにえにされたようなもんだけど、
桓武の思惑の他にフジワラムシの利害関係も絡んでいた可能性もある。
藤原一族はいつだって一枚岩という訳じゃない。

ウィキペディアにはこんな記述もある。

 【(朝原)内親王のこの下向は、発遣の儀に桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸したり、
  大和国国境まで天皇と百官が見送るという異例のものであった。】
  (カッコ内は戦国ジジイが追加)

父の光仁天皇が生きていた時代から、桓武の動向にはアヤシすぎることが
沢山あるんですよ。

だから、『続日本紀』から早良親王の記事が削除されたのも、
やましいところがあったからだと思わずにはいられないのだ。



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最終更新日  2014年10月02日 23時04分31秒


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