戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年01月22日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
施薬院全宗の顕彰碑である亀塔は歴史ファンの叡山の訪問ブログでも

が、まるで兄弟のようによく似たものが寛永寺にあることを
書いている人はいない。

了翁さんと全宗の碑のそれぞれの建立時期はわからないけど、
寛永寺の周辺に叡山とよく似たものがあることを考えあわせれば、
亀塔の方が先にできてそれを模したものを寛永寺にも建立したと
考えるのが自然だろう。

日光にも寛永寺と同じ金札があった し、

楽しい作業です。

いずれもカギになるのは寛永寺。
つまり、寛永寺を知ることで日光と叡山もまた違った楽しみ方をすることが
できるという訳ですね。


さて、聖尊院堂のあるこの場所は「東谷」と呼ばれ、
かつては僧坊が多く建ち並んでいたという。
付近にはぽちぽち石積みも残り、平坦にならされた地は確かに
僧坊の跡地をうかがわせる。


叡山1・円仁廟へ14・聖尊院堂



叡山1・円仁廟へ15・聖尊院堂


ここはあくまで通過地点。



叡山1・円仁廟へ17


ふっふっ、東塔の主要な堂宇を見ずにまず墓参りだす
ここから350メートルね・・・
慈覚大師・円仁さんの墓の場所ははっきりとはわかっていなかった。
が、まあとにかくこの道を行くのは間違いないだろう。



叡山1・円仁廟へ18


で、ここから山道らしくなる↓。


叡山1・円仁廟へ19


はっきりした場所がわかっていないだけに少々心細いけど、
ところどころに残る古い石垣がわたくしの目を楽しませてくれる。


叡山1・円仁廟へ20



叡山1・円仁廟へ21


御廟道を7分ほど歩いたところで、細い道の脇に墓が現われた。
ちょっとここは怖かったので遠くから撮るにとどめた↓。


叡山1・円仁廟へ22


愛用の頼政の数珠を握りしめながら墓の間を歩く。
墓の中には「ナントカ探題」とか刻んであるものもあった。
叡山で買った『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』(比叡山延暦寺発行)によると、

 【論議の論題を選定する役を探題と呼び、その最古参探題が天台座主に上任される
  のである。】

ということなので、叡山の高僧も混ざる古いお墓らしい。
登山道の細くなった橋のような道の両脇にずらりと並ぶ墓を見て、
円仁廟を守るガーディアンみたいだな、と思った。

ガーディアン集団の場所を過ぎてしばらく歩いても、それっぽいのは出てこない。
ここまでは一本道だったけど、円仁廟への案内は聖尊院堂にあったものだけ。
なにげに結構下ってきたし、どんどん山の奥へ入っていくな・・・
このまま行ってホントに大丈夫なのかな、とかなり不安になった頃、
ようやくお目当てが見えてきた↓。


叡山1・円仁廟


聖尊院堂からここまで、ゆっくり歩いて14分。
が、途中何も案内はないのでもっと長く感じた。
とにかく、無事に着いてよかった


叡山1・円仁廟2


この鳥居は大正12年10月の建立。
御廟の前に立つ灯篭も結構新しいもののように見える。


叡山1・円仁廟3



叡山1・円仁廟4



叡山1・円仁廟5


正面で円仁さんにご挨拶してから、脇に回り込んで玉垣の中を覗いてみる。


叡山1・円仁廟6


ほお、無縫塔だ・・・
当初からこのスタイルだったのかな。 
台座や玉垣はそこそこ新しいもののように見えるけど、
無縫塔だけ色が違っているので、塔だけは引き続き古いものを置いたみたいだな。


え~、で、円仁さん。
叡山が生み出した綺羅星のごとき高僧たちの中でも、
この方はかなりビッグなお方。
あまりにビッグすぎるので、ひとまずここでは叡山の歴史に関わる部分だけ
簡単に紹介するにとどめます。
円仁さんなら他に書く機会はいくらでもあるしね。

最澄たんが密教を持ち帰るまでは 「叡山攻め(74)」 「(77)」 に、
空海たんとのからみについては 「高野山が出稼ぎに来てます(9)」
紹介しました。

空海に説教されて以降、空海から密教を摂取する道は
頓挫したような形になってしまった。

空海の帰国後、最澄はさまざまな困難に立ち向かうことになった。
空海の持ち帰った真言密教が一世を風靡したことも要因のひとつだけど、
ほかにもそれまでは内包されて表には出てこなかった問題や
最澄自身が提示したことが激しい物議をかもすなど、
入唐前とはうって変わって鳴門の渦潮の中に放り込まれたような状況になった。
ここで、これまでひたすら天台の修行に邁進してきた「最も澄む男」は
困難に立ち向かうファイターへと変身した。

泰範(たいはん)が最澄のそばにとどまっていたら、
あるいは泰範が最澄の後を継いでいたかもしれない。

弘仁3年(812)、最澄は遺言を記す。
この年、最澄は病床についており、まだ46歳なのに「老病僧」と言っているので、
すでに先行きに不安を抱えていたのかもしれない。
で、後継者として泰範を山寺総別当に、 円澄 を伝法座主に指名した。

が、泰範は結局帰ってはこなかったし、弘仁13年(822)には
義真を後継者として 義真 が初代の天台座主となった。
はい、最澄の通訳として一緒に渡海したあの義真さんです。
唐での経験が大きかったんじゃないかと思うけどね。

ただ、一旦は円澄に後事を任せてもいるし、
ほかの最澄の弟子たちの思惑もあってスムーズに法統を継いだ訳でもなかったらしい。
最澄の晩年から死後にかけて、叡山には早くも妖しい雲が漂っていた。

義真は円澄より若かったけど、円澄より先に世を去った。
義真は自分の弟子である円修に継がせたかったらしいが、
それは叶わず円修は叡山を下り、円澄が第2代座主に就任した。
円澄の死後、叡山は再び相続問題で混乱する。
ま、この頃の方たちは最澄と同じ時間を過ごしているので、
「義真派」と「円澄派」のようなゆるやかな流れができつつあった時期といえる。

円澄は生前、自分の後継者に円仁を指名していたらしいが、
色んな人の色んな考えがあり、天台座主は長いこと空位のままだった。
円仁が唐へ留学してより完成度の高い密教を持ち帰った後で
円仁が第3代の座主となった。

空海の持ち帰った真言密教は「東密」(とうみつ)と呼ばれる。
対して、最澄に始まる叡山の密教は「台密」(たいみつ)と呼ばれる。
最澄の段階ではまだ台密は不完全だったのが、
本場で勉強し直してきた円仁、それから2代あとの円珍によって
台密は完成を見た。
これでもう叡山は密教に関して引け目を感じる必要はなくなった。
この功績は大きい。

ただ、これ以降、ゆるやかな派閥はしだいに先鋭化し、
ついには大分裂を引き起こす。
それ自体は円仁さんの責任ではないけど、色んな意味で
ターニングポイントとなったとは言えるだろう。

結局のところ、最澄が後継者を円澄から義真に変えたことで
叡山に分裂の火種が生まれ、しだいにその火は大きくなり、
円仁・円珍のあとに大きく燃え広がってのちの山門(延暦寺)・寺門(三井寺)の抗争へ
発展したといえるだろう。

円仁さんはまだ火種が比較的小さかった時期を生きた訳だけど、
彼自身は温厚な人だったという。
が、その一方で宗教的政策としてはかなり大胆な変革も行っている。

円仁さんが創建、あるいは復興をしたという伝承を持つ寺は実に多い。
彼の伝承は東北にまで及ぶ。

寛永寺シリーズを書いたあたりから、
意外にも関東では天台が強かったことを知って驚いた。
関東といっても広いし時代による差もあるかもしれないけど、
特に奥武蔵から上野・下野にかけての古道に沿った地域で天台が強い印象がある。

それらの寺はおいおい紹介していくと思いますが、
最澄が関東を訪れたことも影響しているのかもしれないけど、
個人的には円仁の努力が大きいんじゃないかな、って気がする。

もし関東で天台が盛んでなかったら、イエアスは関東天台を独立させようとは
思わなかったかもしれない。
そうなると寛永寺の歴史は変わっていたかもしれないし、
場合によっては寛永寺は誕生すらしなかったかもしれない。

寛永寺の創建は円仁が活躍した時代から800年近く後のことだけど、
そう考えると歴史ってのはすごいもんだな~としみじみ思う。



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最終更新日  2015年01月22日 23時33分22秒


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