戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年02月28日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて、浄土院から離れがたいものの、3日目の明日は西塔に寄るのは無理だし、

山麓の坂本にも行きたい場所はあるし、今日のうちに西塔をこなしておくに
こしたことはない。

ので、浄土院の塀に沿って西塔への道を歩き始める。


叡山2・東塔・浄土院100


谷を切り拓いて建てられた浄土院の小道を挟んだ向かいは
結構急な斜面。
この斜面が崩れたり、斜面の木が倒れてきたりしたら



叡山2・東塔・浄土院101


↑塀ごしに見た、(推定)侍真さんのお住まいの建物の破風。
木連格子の大きな破風は実に立派なもの。

西塔への道にも灯篭が並ぶ↓。


叡山2・西塔へ


手前の灯篭には
【川越中院六十七世仁平信海 中院開基千百五十年記念献燈】とある。
天海の喜多院と同じ星野山(せいやさん)のお仲間だった中院だな。

今は喜多院と中院は別法人であり、2人の「お大師さん」の関係もあって
一般的な観光スポットとしては喜多院の方がメジャーだけど、
もともとは中院が中心であり、円仁が創建したという由緒のあるお寺。

門跡寺院でこそないものの、格式は高いお寺でございます。


叡山2・西塔へ2



叡山2・西塔へ3


しばらく歩くと、そこが西塔(さいとう)の入口。     
奥に写ってる小屋が西塔の料金所です。


西塔の1月の閉堂時間は16時となっている。
が、私が行った時の閉堂時間はたしか15:30だったような気がする。
勘違いだったかもしれないけど、少なくとも現地では15:30までと思い込んでいたので
残り時間は少ない。

仕方ないよな、だって浄土院がすごく良かったんだもん。

西塔にもいくつかのお目当てがあるので、
できるだけこなしておこうと誓って西塔の入口へ歩いていくと、
料金所の手前に最初のお目当てがあったので右の小道を入る。
そこにあるのが、椿堂。


叡山2・西塔・椿堂



叡山2・西塔・椿堂2


 【椿堂

  昔、聖徳太子が比叡山に登られた時に使われた椿の杖を此の地にさして置かれた
  ところ、その椿が芽を出して大きく育ったという因縁から、此のお堂が椿堂と
  名づけられました。お堂の傍に、それに因んだ椿の大木があります。御本尊には
  千手観音菩薩をお祀りしています。】
  (現地解説板より)

浄土院で舞い始めた風花は、この頃には本格的な雪へと変わり始めていた。
ので、多少写りも悪いです。

お堂の入口にも、椿堂の由来を語る木札がかけられている↓。


叡山2・西塔・椿堂3

『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には、弟子を連れて叡山に登った聖徳太子が
山の一角に光る霊地を見つけたのでそこへ行き、太子の守り本尊である
如意輪観音菩薩像を安置したというエピソードがつづられている。

「聖徳太子が叡山に登ったなんて・・・」とツッコミを入れたくなる方も多いでしょうが、
伝説ですので笑っちゃいけませぬ。 


彫り物つきの蟇股も撮ったけど、ボケちゃって載せられません
お堂の脇には、小さいながらも鐘楼があった↓。


叡山2・西塔


さ~、時間もないので急がなければ。
西塔の料金所の手前には鳥居があり、その奥に箕淵(みのふち)弁才天社がある↓。


叡山2・西塔・箕淵弁才天社



叡山2・西塔・箕淵弁才天社2


こちらの弁天様の詳しいことはわからないんだけど、
比叡山三弁才天の一つであるそうな。

で、ウィキペディアには「聖光院跡」とある。
手持ちの堂宇解説の史料のどれにも聖光院のことは載っていなかったので、
あまり主だった僧院ではなかったのかもしれない。

ただ、結構広い場所に弁才天社がぽつんとあって不思議な感じだし、
お社の奥には一段高くなった場所もあるので、ただ弁才天社だけがあったというよりは
僧院があったという方がふさわしい気はする。


料金所で拝観料を払って、参道を奥へと進む。


叡山2・西塔1


左の石垣の上には、石碑があった。


叡山2・西塔・真盛上人碑



叡山2・西塔・親鸞聖人碑


この頃には本格的に雪が降っていたので、
雪が写り込んじゃってるのはご勘弁ください。

で、確かこの2つの碑は近接した場所にあった気がするんだけど、
青蓮院の慈円のもとで得度した親鸞は聖光院で修行したともいうし、
ちょっとよくわからない。
真盛(しんせい)さんの碑の方には解説が付けられていた。

 【真盛上人修学之地

  ここは、西塔南谷南上坊(後の真蔵院)跡です。伊勢大仰郷でご誕生の真盛上人
  (1443~1495)は、7歳、川口光明寺盛源律師に師事、14歳、光明寺で
  剃髪出家得度、真盛と号され、16歳、尾張密蔵院に遊学、19歳、比叡山西塔南谷
  南上坊慶秀和尚の室に入られ、山を出ず、爾来20年間ここで修学された。時あたかも、
  25歳から10年間応仁文明の大乱が起こり、41歳、上人が社会浄化のために黒谷隠棲
  へと決意されることになったのである。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

ということで、この石垣の上には南上坊、のちには真蔵院が
でーんと建っていたようです。

現在ではこの先にある堂宇まで何の建物もありませんが、
聖光院や真蔵院の建物が残っていたらさぞ壮観な参道だったでしょう。


さて、この道を奥まで進むと、西塔を紹介する写真でよく見られる光景が広がった↓。


叡山2・西塔・にない堂



叡山2・西塔・にない堂2

2枚目の写真は日光の 「史跡探勝路9」 でも載せているので、
これが何なのかすぐにわかった方もおられるかもしれませんね。

はい、日光や寛永寺の記事で何度も顔を出した「にない堂」のオリジナルが
これです。

日光輪王寺のにない堂の渡り廊下は地面に着いてるし、
寛永寺のはもう現存してませんので、2つの堂をつなぐ廊下が宙に浮いて
「担う」スタイルで現存してるのは、三山の中ではここだけ。

真ん中の廊下の床をもう少し高くして、両脇をもっと長く広げたにない堂が、
上野公園の大噴水付近にあったんです。
しかも、御三家の筆頭、尾張義直による寄進だからね。

廊下が宙に浮くにない堂の実物を初めてこの目で見て、
まずわたくしは寛永寺の華麗なにない堂を頭の中で思い描いて
しばらく「萌え~」してました。

ではまず、向かって左の常行堂から。


叡山2・西塔・常行堂



叡山2・西塔・常行堂2


 【重要文化財建造物 延暦寺常行堂 一棟

  常行堂は、桁行5間、梁間5間、一重、宝形造、栩葺(とちぶき)の建物で、
  正面に1間の向拝をつけています。隣の法華堂とは桁行4間、梁間1間、唐破風造の
  廊下でつながれ、2つの同形式の堂と廊下の姿から「にない堂」と呼ばれています。
  阿弥陀如来を本尊とする常行堂は、常行三昧を修する堂で、外観は蔀戸と板唐戸を
  用いた和洋のすぐれた建築で、文禄4年(1595)に建てられたものです。内部も
  柱を立てるところには、すべて柱を立てるという珍しい形をとっています。
  昭和30年(1955)6月に法華堂と共に国の重要文化財に指定されました。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

『山門堂舎記』には、寛平5年(893)宇多天皇の時に
円仁が行法を行ったとあるが、その一方で同じ年に静観が建立し、顕祚が荘厳したという
由来も書かれている。
が、円仁の没年は 貞観6年(864)

寛平6年(940)に不断念仏が始められ、延長5年(927)には
堂内の四面の柱に極楽浄土の絵が描かれたらしいが、久壽(1154)に焼失。
堂内の五尊の救出はならず、建物と共に火に焼かれてしまったそうな。

で、仮のお堂を建てて行法は続け、翌年新堂宇が完成。
しかしこれもまた文永8年(1271)に焼失。
その後については書かれてないけど、久壽の火災で仮のお堂を造ったぐらいだから、
現在のお堂が文禄4年(1595)に建てられるまで、
数回の焼失と再建を繰り返しているのかもしれない。


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最終更新日  2015年02月28日 23時23分04秒


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